すいません、百合エロ同人誌を異世界に落としてしまったのですが
「国民の皆さん、お集まり頂きありがとうございます! 私、エレナ=クライン=フォーンゲルから伝えなければならぬことがあり、お集まり頂きました!」
城のルーフバルコニーから民衆を見下ろし声を上げているのは、ふわりとした白いドレスを纏った若い女性。風に揺れる金のロングヘアと青い瞳の美しさは、双眼鏡越しでもよくわかる。
まさしく人間離れした美しさだが、それもさりありなん。
「我がエルフの国、ニーヴェアに危機が迫りつつあるのです! それも急を要すると判断せざるを得ないほどの!」
声を張るエレナという姫も、その宣言に広場でざわめく民衆たちも耳は横長に張り出していた。一様に若く、美男美女ばかりの彼らは不安げな表情で姫の言葉を待っている。
「思ったよりも大事じゃないかこれ……」
それを眺める俺がボヤくと、背後から腕を回して抱きついた体勢のフェリが無感情な声で答えた。
「まだ大したことはないでしょう、マスター。国と言っても国民は数百程度の小国、それも森の中の話です。放って置いても問題はありません」
「俺はそういうわけにいかないんだよ……それと、絶対に腕の力を緩めないでくれよ。フリじゃないからな?」
何しろ俺がいるのは地上30メートルの空中。下を見れば放射線上の路地が走っており、落ちれば床に叩きつけたトマトになるだろう。命綱は見た目ただの少女のフェリの細腕というのが不安だが、神から出向したガイドというのを信じるしかあるまい。
「その根拠とは、他でもないこの奇妙な書です!」
「……ッ!」
肉眼でエレナ姫が何かを掲げたことを確認し、俺は再び双眼鏡を向ける。
こんな危険を犯してまでこうしている理由は一つしか無い。
「既に噂に聞いたものもいるでしょう! 星を散りばめ氷のように滑らかな表紙、中で描かれる人の姿は我らのものとはかけ離れ、未知の言語で記された文章の数々! これは、私達の及ばぬところにある神が作り出したものに違いありません!」
エレナは緊迫感に包まれた表情で叫び、民衆たちは掲げられた書のあまりに異様な装丁に慄いていた。
「お、おお……! 何という輝き……!」
サイズで言えばB5、厚みはフリーペーパー程度の右綴じオフセット本。太陽が反射しキラキラと七色の光を放つホログラム加工された表紙。
「あんな人物画など、見たこともないわ!」
そこには、エレナ姫に似たエルフと肌の黒いエルフが一糸まとわぬ姿で手を絡み合わせ、潤んだ瞳で見つめ合っている。
「なんだあの文字……! 古代の神々が使っていたものなのか!?」
書かれた文字は『白黒百合交わって』とあり、表紙の端にはR18の表記。
それは、特定層には見覚えがある形態の本であり、そして俺にもとても見覚えがある本だった。
「……すごく恥ずかしいんだけど。俺の同人誌が魔本扱いって」
「良いじゃないですか。『異世界転移した俺が神絵師になって壁に配置された件』とかで本が出せますよ」
「ポジティブにも程がある」
どうしてこうなった、と頭を抱える俺はここまでの経緯を思い出していく。
自室で配達業者からダンボールを受け取った俺は、鼻歌なんぞを歌いつつその重量を味わっていた。大学生の時から始めた同人活動だが、この時の高揚感は中々言葉に出来ない感情だ。
それが初めてのオリジナル物で、記念的なものとして部数を抑えた分、装丁を豪華にしたから尚の事でもあった。
それに浮かれてダンボールを頭の上に掲げてしまい、そのせいで玄関マットごと足を滑らせるとはその瞬間まで思ってもいなかった。
幼いころ鉄棒に頭から落下したような痛みが走り、視界が暗転し――目を開けると、そこは青々とした草が茂る草原で、
「おや、目を覚めましたか」
眠たそうな目をした菫色の髪の少女がこちらを覗き込んでいた。彼女の腰に提げたポーチに何かを仕舞うと、じっとこちらを見つめる。
「……ドーモ」
何を言うべきかわからなかったので、とりあえず挨拶をしてみると少女はぺこりと一礼し、
「ドーモ、マスターさん。ガイドのフェリシータです、フェリとお呼びください」
そう答えた。
うむ、最初のコミニュケーションは成功したようだ。やはり挨拶は大事だった。
では、次は現状把握だ。目を覚ましたら草原なんて夢でもなければありえないが、どうにも吹く風も薫る草花も夢にしては出来すぎている。
「フェリさん、ガイドって言ったけど何を案内するんだい? それと、俺のことをマスターって言ってたけど、どういう意味?」
「それを説明するには、三行で済ませる短縮版と睡眠導入に最適な講義版がありますが、どちらが良いですか」
「……後者、って言ったらやってくれ……ないね」
フェリは口にしただけで露骨に嫌そうな顔をしたので、素直に前者で頼む。
それでいいと言うように彼女は頷くと、抑揚の無い声で短く告げる。
「ここは異世界で、貴方は魂だけここに来てしまい、大人しくしていればすぐに帰れます」
「……もう少し詳細にお願いします」
またしても嫌そうな顔をする彼女に両手を合わせて頼み込むと、渋々という雰囲気を隠すこと無く説明してくれた。
曰く、この世界は俺が居た世界とは座標が異なる地点に位置している異世界。そして、死にかけた人間や強いショックを受けた人間は、肉体から魂が一時的にはみ出してしまい、さらに極稀にだが別世界まで飛んでいってしまうことがある。
「そういう困ったちゃんを保護し、元の世界に戻すのが我々ガイドの仕事です。マスターと呼ぶのは、その方が喜ばれるという調査結果からです」
ドヤァと立てた親指で自身を指すフェリ。いや、表情は変わってないのでそんな気がするだけなのだが。
ともかく、彼女は神様的な存在からそういう命令を受けており、今回は俺がその対象だったということだ。そして、気になる体の安否だが、
「浮かれていたところを気絶しただけのようですね。半日もすれば送り返す準備が整うので、心配はいりません」
フェリはポーチから取り出したタブレットのようなものを眺めながら言う。それにホッとしたところで、思わず笑ってしまう。
いくらリアルに感じたところで、やはりこれは夢なのだろう。それなのにマジになってしまったとは、おかしな話である。だが、どうせ夢なら覚めるまで楽しむのも悪くない。
「フェリ、ガイドってことはこの世界を案内とかもできる?」
「可能です。モノを持ち帰ったりは出来ませんが」
「それでもいいから、何処か案内してくれないか? せっかくだし色々見て回りたいんだ。何かネタになるかもしれないし」
「ネタですか。それは同人誌の?」
「よくわかったな……まあ、そんなところ」
そこまで答えたところで、俺はふと疑問に思ったことを訊ねる。
「持ち帰れないって言ったけど、逆に持ち込むことは出来るのか? 服は部屋着のままだし、財布も入ってるけど」
「その通りです。そうして持ち込まれたものが、この世界の文化に影響を与えたり与えなかったりするのです。先程も、エルフの一人がダンボールを抱えていました」
「……えっ。あの、そのダンボールって俺の傍に落ちてたりした?」
とても嫌な予感が頭によぎり、冷や汗が勝手に滲み出してくる。
頼むから何を言ってるかわからない、と首を傾げてくれという俺の願いも虚しく、フェリは再度ドヤ顔で答える。
「ええ、アレはマスターの同人誌が入ったダンボールに間違いありませんね」
「何でそこまでわかってるのに止めなかったの!?」
「ガイドは現地人に関しては不干渉が原則ですので。それに、即売会で売って読まれるのも、異世界人に読まれるのも何の違いも無いのでは?」
「違うのだ!」
それは違うと否定せずにはいられなかった。
そもそも即売会で購入する人は同好の士ということが明らかであるが、異世界人となればその可能性は絶無。精々変な本扱いが関の山であり、それは同人及びオタクカルチャーに興味ない一般人のリアクションと同じ。わざわざ踏み込んで来ておいて一方的に下に見る輩になど見せてなるものか!
「随分と私怨に満ちていますが、その心配は無さそうですよ。今追跡してみましたが、ここからほど近いエルフの小国ニーヴェアで丁重に扱われているようです」
肩で息をする俺に、フェリはタブレットの画面を見せてくる。右上の『LIVE』と表示されているその場面は、絢爛な調度品が置かれた城の一室のようだ。
4人の男性と一人の女性に囲まれたテーブルの中心に、同人誌が一冊置かれていた。彼らの表情はとても険しく、何か言い争っているようだ。
「人……じゃない? エルフみたいな耳してるな」
「声が小さいですね、音量を上げましょう」
フェリがそう言って、音量調整バーを右にズラしていくと、
『これは、隣国のダークエルフが攻め込んでるくるという予言に他なりません!』
『そうです! 神が我らに知慧を授けてくださったのです!』
『これまでも街に対する破壊工作が行われていました! その現場には決まってダークエルフの目撃情報があったのですよ!』
『この魔本の存在は既に国民の間でも噂になっております! 機を逃せば隙を生み出しかねません! 姫様、ご決断を!』
そんな剣呑な叫び声が響いた。
「……えーと」
その意味がとっさには理解できず、意味のない声をもらしているとさらに声が続く。
「……致し方ありません。ピピス大臣、戦闘の準備をしてください。ただし、悪戯に彼女らを刺激しないよう秘密裏にお願いします」
「はっ!」
苦々しい決意の言葉に、ピピス大臣と呼ばれた小太りの男は一礼すると部屋から去っていき、周囲のものもそれに続いていく。
残ったのは、姫様と呼ばれた金髪の女性だけだ。彼女は、深い溜息をつくと同人誌をペラペラとめくっていき、再び溜息をつく。
「神よ……何故あなたはかように残酷なのですか……」
その溜息をつく横顔は、俺が表紙に描いたエルフとそっくり――と言わないまでも面影を感じられる程度には似ていた。
とはいえ、憂いを帯びた横顔の美しさと可憐さは俺の画力では敵うべくもない。ううむ、まだまだ精進が足りないな。
「いや、そうではなく。開戦とか物騒な言葉が聞こえたけど、どうなってんだ?」
「おそらく、同人誌の出来事を自分たちに当てはめているんでしょう。アレにはエルフと対立するダークエルフとの争いが描かれていましたから、『そうなる』もしくは『すべき』だと考えていると思われます」
「はぁ!? どうやってそんな勘違いが出来るんだよ! 台詞読んでたらそんな勘違い――」
「■■■■■■」
「はっ?」
突然、なんとも言い難い声を発したフェリ。何の声、とも例えられないそれに俺が戸惑っていると、彼女は肩をすくめて言う。
「『お馬鹿さん』とエルフたちの言葉で言ったんです。さて、ここまで言えばわかりますよね」
「……日本語は読めないのか」
「正解です。ちなみに私とさっきの映像は気を利かせて自動翻訳されてまいした。感謝してください」
「……ありがとう、なんて言ってる場合じゃない。早くなんとかしないと……俺の同人誌でエルフがヤバイなんて洒落にもならん」
もう夢だとかそうじゃないとも言ってられない。夢なら目を覚まして笑えば終わりだが、違ったなら俺のせいで戦争だ。それはいくら何でも後味が悪すぎる。
それに、もしこのままこの世界から立ち去って同人誌がこの世界に残り続けるとしたら――それは、俺がいたたまれない。学者や研究者たちがただの百合エロ同人誌を真面目に研究するかと思うと、転げ回って走り去ってしまいたくなる。
「フェリ、力を貸してくれないか? 俺一人じゃどうやっても無理だし、お前以外には頼れないんだ」
ここでの頼みの綱は、フェリしかない。会ったばかりの少女にエロ同人誌を取り戻す手伝いをさせるのは心苦しいが、背に腹は代えられない。
彼女は渋るかと思ったが、意外なことにあっさりと頷いてくれた。
「仕方ありませんね。私もお供しましょう、マスター。貴方の面倒をみるのは私の役割ですから」
「助かる。エルフの村はどっちだ?」
「ここから北へ一日歩けば着きますよ。マーク済みの場所なので、ファストトラベルで行きましょう」
フェリがタブレットの画面を数回タッチすると、周囲の景色が歪んでいく。それに驚く間もなく、
「飛びます」
その言葉を合図に、視界が暗転した。
「……改めてなんて日だ」
気絶から目を覚ましたら異世界で、同人誌は魔本として扱われ、体一つで宙に浮かぶ。何故こんなことになっているのだろうか。
「死ぬにはいい日があるなら、こんな日もありますよ」
「それはどうかな……それと、耳元で囁くのは精神の平穏によろしくないからやめてくれ」
「しょうがないじゃないですか、このドラム缶は本来は一人用なんですから」
私は悪くない、と見えなくてもフェリがふんぞり返っているのがよくわかる。俺は溜息をついて、覗き穴から周囲を窺う。
何故こんなことになっているのかといえば、今だってそうだ。何しろ俺たちは、如何にもファンタジーな城でドラム缶を被って移動しているのだから。
エレナ姫が演説をしている間は、警護も彼女に掛かりきりで内部の警備は薄くなるはず。その隙に残る四十九冊を回収してしまうというのが作戦だった。
そのためのアイテムとして、フェリが用意してくれたのはドラム缶だった。いや、何を言っているのかと思うが俺だってそう思った。けど、どう見てもそれはドラム缶であり、ドラム缶としか言いようがなかったのだ。
「このドラム缶は、見たものの認識を歪め自然なものと感じさせてしまうのです。伊達じゃないんですよ」
ドラム缶である必要性は何だよ、とはツッコまなかった。歩いてるところを見られても『なんだ歩くドラム缶か』と言われたときは、流石にツッコミたくなったが。
ともかく、そのお陰で警備に追われることもなく、すぐ隣で聞き耳を立てることすら出来たのだ。それによると、魔本が収められていた箱は地下室に運ばれたらしい。
「ここか……」
微妙に重いドラム缶を被りながら移動すること十数分。地下への階段を下ったところに、金属で補強された重厚なドアがあった。フェリがドラム缶をポーチにしまっている間にドアノブを捻ってみるが、鍵がかかっている。
「お任せを」
そう言ってフェリはポーチから取り出したUSBケーブルらしきものをタブレットに挿し、反対側をドアに向かって挿そうとし――当然USBポートがあるわけないドアに軽い音を立てて弾かれる。
「上下逆でした」
「両用じゃないのか……」
上下を返すと、今度は音もなくドアに突き刺さる。その状態でフェリが画面を弄ると、錠が外れた音がタブレットから鳴った。
音を立てないよう慎重にドアを開ける。部屋には壁に掛けられた武器、宝箱に混じって場違いなダンボールが置かれていた。
「あった!」
逸る気持ちを抑えながら、俺はダンボールへと駆け寄り中身を確認する。中には数十冊の同人誌が確かに積まれていた。
それに安堵したところで、ダンボールから同人誌を取り出し部数を確かめる。悠長かもしれないが、わざわざ鍵がかけられたここへ降りては来ないだろうし大丈夫だろう。
「1,2、3……」
「5、7、9」
「……小学生並みの嫌がらせはやめろ」
そんな妨害を受けつつも俺はカウントを重ねていく。エレナ姫が持ってた分を除いて四十九冊あればいいのだが……。
「マスター、四十八冊ありましたか?」
手が止まった俺に訊ねる彼女に、首を横に振る。
「いや、四十七冊しかない。落とした……わけはないよな」
残るものに汚れや傷はないし、そんなトラブルがあったとは考えづらい。誰かが人為的に持ち出したとみるのが正しいだろう。
けど、一体誰が何のために……。
「マスター、ダンボールの底に何かあります」
「ん、何だ?」
俺は一旦考えるのを中断し、フェリが差し出した物を受け取る。それに思わず顔をしかめてしまった。
「これ中盤以降のページじゃないか。うわぁ、一冊無駄にしやがって……」
「……ふむ、なるほど」
「……一人で勝手に納得しないで、説明が欲しい」
「仕方ありませんね」
そう言いつつもフェリは得意げで上機嫌だった。先生ぶれるのが嬉しいんだろうか。
「マスターの同人誌ですが、中盤までの流れは、エルフとダークエルフが反発し争うという内容です」
「それがどうした?」
「ですが、それ以降の流れはお互いの気持を告白し、ベッドで天然由来のローションまみれになってのねっちょぐっちょ。それを不都合に思う者がいるのでしょう」
「……その通りだけど面と向かって言われるとこう、なぁ? いや、それはいいや。不都合に思う者か」
ということは、現在の状況――エルフとダークエルフが争う状況を好ましい者がいるということになる。だからこそ、不都合なページを破って一緒に隠したのだろう。
それが誰かはわからないが、少なくともこのページの存在を明かせば状況は変わる。魔本が争いを描いているから争うと言うなら、逆もしかりのはずだ。
「それが良いでしょう。その手段は追々考えるとして、今は脱出を――」
フェリがそこまで言ったところで、ドアの外から足音が複数聞こえきた。俺とフェリはドアの傍で息を潜めるが、足音はこちらに向かうことなく遠ざかっていく。
城の中で足音を響かせるということは、それを気にする余裕もない相当の事態が起こっているようだ。
「城壁の外で何かあったみたいです。モニターに出します」
フェリが差し出したタブレットの画面には、簡素な防壁の前で横一列になって盾と剣を構えるエルフ。それに相対するダークエルフの一団が映し出されていた。
その一団から長い銀髪を翻し長身の女性が一歩前に出る。鎧の間から垣間見える手足太ももの小麦色の肌に目が向きそうになるが、今の俺にはその顔しか映らなかった。
「こっちもそっくりだったのか……」
エレナ姫らが同人誌を魔本だと勘違いしたのは、これも一因だったのだ。そりゃあ、エルフとダークエルフ両方がそっくりなら信じるのも無理はあるまい。
『そのような物々しい一団が、我が国に何の用か!』
エルフの隊長格らしき一人が緊張を押し殺した声で叫ぶ。
それに対してダークエルフの女性は、鼻で笑って答える。
『しれたこと。ダークエルフの長であるノエル=エクリプス自らが、指揮を執るためよ。貴様らとて、その準備の真っ最中であったのだろう』
『何を根拠にそのようなことを……!』
『しらばっくれるか! コレを知らぬとは言わせぬぞ!』
吠えるノエルは、部下から受け取ったものを天に掲げてみせる。それにエルフたちは顔を青ざめさせ、
「うわぁ……なんかごめんなさい……」
美人がドヤ顔でエロ同人誌を掲げるという図に俺は顔を覆っていた。
当人たちは大真面目だし、俺が原因の一端なのだから笑っちゃいけいないのだが、笑うなというのは無理がある。画面から目線をずらし、深呼吸をして落ち着いたところで物騒な言葉が聞こえてきた。
『字は読めぬが、この魔本の内容は誰の目にも明らかだ! 卑怯なエルフが我らダークエルフを攻め滅ぼすという確かな予言! 故にこうして戦闘準備をするだろうということもわかっていた! だからこうして先手を打ちにきたのだ!』
『卑怯だと!? 我らが領域の自然を傷つけておいて良くもぬけぬけと!』
『我らが国民を薄汚い罠で傷つけながら良くも言える! 恥を知れ!』
やはり、彼女たちも同人誌を魔本だと信じ込んでいるようだ。両者の空気は一瞬即発で、いつ何が起こってもおかしくない――どころか既に刃を交えだしている。
「どうします? これを現場に持っていっても信じてもらえると限りません。というか、巻き添えになる可能性が高いです」
フェリが示した画面では、ノエルが放った電撃が次々とエルフたちを気絶させていた。こんなところに飛び込めば、エルフの仲間とみなされるのがオチだろう。
「どうする……有無を言わせず戦闘を止めさせて、これが魔本なんかじゃないと証明するには……」
「あ、私は直接現地人を傷つけることは禁止されているので悪しからず。武器も無いのでご了承ください」
「あったとしても暴力は勘弁……」
いや、待て。そう、暴力だ。それは必ずしも物理的なものばかりを指す言葉ではない。精神にも暴力的なショックを与えることは出来る――!
「フェリ、マイク代わりになるものはあるか!?」
「ありますが……それがどうしました?」
「同人誌を一冊ずつ床に置いてくれ!」
不思議そうな彼女に説明する暇も惜しい。指示だけを飛ばし、俺は壁に掛けられた武器から刀身の短いナイフを見つけ、手に取る。
「そんなナイフでは立ち向かえませんよ?」
「わかってる、だからこうするんだ!」
そう叫び、俺は同人誌の背表紙傍にナイフを突き立て――歯を食いしばって一気に切り裂いた。
ノエル達ダークエルフは、城壁の警備を蹴散らし城前の広場に留まっていた。周囲にはエルフが輪のように囲んでいたが、彼女らはそれに一切目をやること無く、城入り口だけを睨んでいる。
「……来たか」
その硬く閉ざされた門が開き、警護に守られたエレナ姫とピピス大臣が姿を現す。彼女が一歩近づいていくごとに、周囲の緊張が高まるのが肌でわかった。
ノエルの数歩前で立ち止まったエレナ姫は、悲痛な表情で言う。
「ノエル、どうしてこんなことに……」
「どうして、だと? 貴様もわかっているだろうに何を今更。我らの未来を予言した魔本があり、それによると我らは敗北する。ならば、民のためにすべきことは決まっている」
「ええ、姫であるエレナはそれをわかっているつもりです。だから、こうして準備もしておりました」
「ならば」
「ですが……!」
手を硬く握りしめ、肩を震わせるエレナ姫は振り絞るような声をこぼす。
「貴方と幼少期を共に過ごしたエレナは、そんなことは望みません……! 貴方は、違うのですか!」
「っ……何を、戯言を。そんな問答に何の意味がある! そうだとして、何故我らが民を傷つけるようなことをした!」
「それは……わかりません……ですが、犯人が捕まってない以上我ら以外の第三者という可能性も……」
「そんな御託を民は求めていないのだ! 言いたいことはそれだけなら、ここで――」
かつての思い出の残像を振り払うようにノエルの右腕が振るわれ、帯電した掌がエレナ姫に突きつけられる。家の窓から事態を見守っていた住民が悲鳴を上げ、それに反応して警護のものが剣を抜き、ダークエルフ達も武器を構える。
張り詰めた糸は、ほんの少し触れるだけで切れてしまうだろう。
だが、やるなら今しかない。俺は、大きく息を吸って、生涯で一番の大声を出すつもりで叫ぶ。
「待てィ!」
「な、なに!?」
「なんだこの声は!?」
フェリのメガホンで増幅された声に驚いた鳥が飛び立ち、両エルフは尖った耳を抑えてその場に蹲る。そして、そこに舞い散るものがあった。
それは、白と黒で描かれた約1500枚の紙。まるで花吹雪のように空を覆うそれを、エルフたちは呆然と見上げていた。
「おい、城の屋根に誰かいるぞ!」
一人のエルフが、屋根に立つ俺とフェリに気が付き指差すと、全員の視線が集まった。剣を構えていたエルフもダークエルフも、謎の人物に気を取られ、互いに敵への意識が外れていた。
とりあえず、ここまでは成功だ。後は、どれだけハッタリと屁理屈を重ねられるかの勝負――!
「聞け! 汝らが魔本と呼ぶそれは、神が描いたものでも無ければ未来を描いたものでもない! それを描いたのは、別世界から迷い込んだただの人間――即ち私だ!」
「何だあいつ……!? 人間がアレを……!?」
「人間にそんな事ができるわけ……」
「そして、エレナ姫が読んだそれには、決定的なものが足りていない!」
立て続けに起こった意味不明な出来事に眼下の民衆たちはざわめき、説明を求める声を上げていた。その様子をタブレットを構えたフェリが画面に収めていく。
「足りないものの答えは、汝らの直ぐ側にある! それこそが、汝らが魔本と呼ぶ書物の失われた――いや、意図的に抹消された一節だ!」
そう告げたことで、さらに広場はざわめきに包まれ、エルフたちは足元に広がる同人誌のページを拾い上げていく。そして、ざわめきの声を飲み込むように悲鳴じみた叫びが響き渡った。
「な、え、はぁ!?」
「エレナ様とノエルが裸で……!?」
「ヌルヌルしながら絡み合ってる!?」
「続きは!? 続きは何処にあるの!?」
動揺から混乱へと一気に広場の状況は変化する。描かれているものの意味がわからない者、仲間と協力してページを集めだす者、不敬だとぐしゃぐしゃに握りつぶす者、それにマジギレして殴りかかる者……。混沌というのが相応しい有様だ。
覚悟も予想も済ませていたが、これを俺が引き起こしたのだと思うと、罪悪感やら後に引けない覚悟が降り混ざった複雑な気分になる。
「やってることは怪文書をバラ撒くのとそう変わりないですよね」
「言うな……」
例えそうだとしても、10万円近く使ったものをバラ撒いているのだ。そこに掛けた金額が違う、思いが違う、熱意が違う!
……赤字は覚悟していたとは言えそっくりそのまま赤になると考えれば、こうやって無理にテンションを上げねばやってられないのだ。
ともかく、状況は動いた。次は――。
「な、何なのだこれは!? ふざけているのか貴様は!?」
そうだ、それでいい、それがベスト!
期待通りノエルは顔を真赤にしてこちらに怒鳴りつけてきた。こんなバカげたものがあって良い訳がないと。
彼女が怒りに身を任せて魔法で攻撃してこないかビビりつつ、俺は逆に聞き返す。
「こんなものはあり得ないと?」
「そうだ! 私とエレナがこ、こんなことをするわけがないだろう!」
「だったら、今のこの状況そのものがあり得ないとことになるな!」
「それはどういうことかお答え頂きたくあります!」
エレナ姫は、凛とした声を上げつつも、地面に散らばったページをかき集めドレスの中に隠すという中々器用なことをする。自分と幼馴染の痴態を見せまいとしているのか、はたまたむっつりなのか。
それも気になるところだが、こちらの狙い通りに乗ってくれたのだ。俺は身振り手振りを交え、煽るようにメガホンをあちこちに向けて叫ぶ。
「お答えしましょう、異世界の姫よ! それは単純な帰結だ! その後半部分を『あり得ない』と否定するのに、どうして前半部分は正しいと言えるのだ!」
「……ッ!」
その言葉に、真っ先にあり得ないと否定したノエルが目を見開く。
「その物語はフィクションであり、実際の人物団体事件とは一切関係が無い! そこから都合の良い部分だけを切り取るなら、子どもの寝言すら口実となり得るだろう! 汝らは、それがわからないほど間抜けでも馬鹿ではないはずだ!」
「だとしても! エルフの手によって我らの民が傷つけられたという事実に変わりない! その魔本はきっかけだ! 遅かれ早かれこのような時は訪れた!」
ノエルは、認められないと尚も叫ぶ。それは、振り上げた怒りを今更下げることが出来ないという立場ゆえの理由もあるのだろう。
ならば、その怒りの原因を断つしかあるまい。
俺は、タブレットを民衆たちに向けていたフェリに目配せする。彼女は無言で親指を立てた。それに頷き返し、出来るだけ静かで冷厳な声を作って告げる。
「さっきも言ったが、後半頁は何者かによって隠されていた。つまり、エルフとダークエルフが争う状況を望むものがいるということになる」
「なんですって……!」
「では、全て仕組まれていたことだというのか!」
「ああ、そうだ。そして、それを見分ける方法がある」
ざわつきかけた民衆は、その言葉に静まり固唾をのんで俺の言葉を待っていた。
俺は、たっぷりと焦らすように彼ら、彼女らを見渡し、はっきりと断言するように言い放つ。
「その本の三十頁目には、ある魔法が掛けてある。その頁に触れると、鎖骨の辺りに星型のアザが浮き出る」
「何だと……?」
「魔法が……?」
俺の言葉に、エレナ姫とノエルは怪訝そうに周囲の人の様子を窺う。頁を拾っていたエルフ達は、手にした頁を不思議そうに見やったり、訝しげな表情で襟元を捲っていた。
それを眺めていたエレナ姫が、ためらいがちに俺へと問いかける。
「あの……この頁からは何の力も感じられません。本当に魔法が掛けられているのですか?」
「何……貴様、嘘をついたのか!?」
「ああ、嘘だ。だが――マヌケは見つかったようだな!」
俺は、民衆の中の一人をはっきりと指差す。
都合よく本を切り取り、さらにエルフとダークエルフを争わせる工作を行っていた人物とは、
「ピピス……大臣……貴方が」
エレナ姫は、口を手で覆ったまま後ずさり、ノエルはその前に割って入る。
嫌疑を向けられたピピスは、周囲からの視線に肩をすくめて答える。
「何を根拠にそんなことを? 証拠でも」
「ある」
「なっ――」
ピピスがなにか言うよりも早く、俺は重ねるように言葉を続けていく。
「まず、あんたは真っ先にアザが浮き出ていないか確認した。何故だ?」
「何を言って……これだけの頁があれば、触ったと思うのはおかしくないでしょう」
「そうだな。では、どうしてそれが三十頁だとわかった? 手に取った頁が有るなら、ひとまず頁数を確認しようとするはずだ。それか、とりあえずという感じでアザを確かめるだろう。だが、あんたはどちらでもなかった」
「頁には目もくれず、すぐにアザを確かめたな」
ノエルの言葉に、ざわめきの声がもれる。思わぬ援護に感謝しつつ、さらに俺は続ける。
「ああ、そうだ。そうした理由は一つ。その本の総頁数が知っているが故に、触ったと確信していた。即ち、不都合な頁を破り捨てた時だ!」
「馬鹿な、言い掛かりだ!」
顔を紅潮させ叫ぶピピス。だが、その顔には焦りの汗が浮かび始めている。
「そう言えば、魔本を最初に持ってきたのはピピス大臣でしたが……他の魔本を見ておりません。『危険なものの可能性があるため、私が責任を持って封じる』と……」
そこにエレナ姫の追撃が加わり顔色を変える。それは、他の者は触れる機会が無かったということだ。そうする理由は、説明するまでもない。
「おそらく、ノエル嬢の本も意図的に流出させたものでしょう。無論、都合の良い部分のみを」
「それと、頁がバラ撒かれた時、貴方だけは『どうしてこれがここにある!?』という顔をしていましたね。望みとあれば、その時の映像を投影しても構いませんが」
メガホンに割って入ったフェリの言葉がトドメとなり、顔面蒼白となったピピスはその場にへたりこんで愕然とした表情で俺を見上げる。それは、認めたも同然の反応だった。
「なるほど……そういうことだったのか」
ノエルが、目が笑っていない笑顔でピピスの肩を叩く。そして、振り向いた彼の顎に向けて、
「このっ……下衆が!」
「ヒィイイイイイ!?」
地から天へと鋭く振り抜かれた一撃によってピピスの体は冗談のように宙を舞い、悲鳴をあげることさえ出来ず地面へと落下した。泡を吹いて肢体を投げ出す彼に、ノエルは吐き捨てるように言う。
「エレナと私をくだらん謀に利用した報い、この程度では済まさんぞ。覚悟しておけ」
「ノエル……」
「……何も言うな。罪があるとすれば、それは私も同じだ」
自分の不甲斐なさに目を伏せるエレナ姫の肩をノエルは優しく抱きとめる。エレナ姫は、小さく体を震わせて強く抱きしめ返した。怒りなど何処にもない光景に、人々は確かめるように互いの顔を見合わせる。
「かくして、邪悪は挫かれすれ違っていた二人はここに交わった! 物語は無事に大団円を迎えたのだ!」
最後の言葉を伝えると、一瞬の沈黙後に湧き上がる歓声が広場中に響き渡った。大きな火とならず争いが終わったことに歓喜する彼らを尻目に、俺はその場に崩れるように座り込む。背中は緊張と安堵の汗でべったりと濡れていた。
しばし呆けていると、不意に肩が叩かれる。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、目的を果たしたのなら帰りましょう。マスターには帰る場所があるのですから」
「そうだな……頼む。それと、ここまで付き合ってくれてありがとう」
「当然のことをしたまでです」
フェリがタブレットを操作している間、俺は広場に散らばった頁を見ていた。一冊の本だったそれらは、切り裂かれ頁順もバラバラになって地面に落ちている。靴に踏まれ汚れ、或いは破れていく頁に、知らず唇を噛んでいた。
正しいことをした、と胸を張ることは出来る。自分と誰かが楽しむために創ったものが、争いの種になって終わるよりもずっとマシだということもわかっている。
それでも、悔しかった。自分の作品を見せること無く終わることも、読者からの反応を受け取れないことも、積み上げた時間が不本意な形で無かったことなるのも、それを自分にはどうすることも出来ないことも――悔しかった。
「転移準備、完了しました。カウント開始します」
フェリの静かな声に顔を上げる。3、2、1と抑揚の無い声で続ける彼女の顔をぼうっと眺め、
「ゼロです」
一瞬だけ、彼女が悪戯っぽく笑ったように見えた瞬間、視界は暗転した。
目の前に見えたのは、見慣れた天井だった。
俺は、冷たいフローリングの床から飛び起き辺りを見渡す。草原などではない、狭い玄関。その先にはワンルームへと続く短い廊下。
「帰ってきた……?」
いや、そもそもあれは現実だったのか?
浮かんだ疑念は、しかし僅かな時間で否定される。頭を打つ原因となった同人誌入りのダンボールは、何処にも見当たらなかった。
それを認めると、笑いたいような、泣きたいようなぐちゃぐちゃの感情になった。友人に馬鹿話として笑って語れる一方で、一人の時ふと思い出すと泣いてしまいたくなる――そんな感情だ。
しばらく座り込んだまま俯いていたが、
「誰でも出来る経験じゃなかったし、悪いことばかりじゃないさ……ん?」
自分に言い聞かせるように呟いて立ち上がる。すると、細長い封筒のようなものが床に落ちた。見覚えのないそれを拾い上げ、中身を確かめると、
「んっ!?」
くたびれた万札の束が現れ、思わず変な声をあげてしまう。その金額は、無くした同人誌を倍刷っても十分な額だ。
覚えのない大金に混乱していると、一番下に三つ折りにされた手紙があることに気がつく。動揺を落ち着かせつつ、それを広げるとプリントアウトされた規則正しい文字が目に入った。
『お疲れ様です、マスター。これを読んでいるということは、無事に帰還できたという前提で話を進めさせて頂きます』
「フェリか……? いつの間に……」
『あちらからこちらへ物は持ち込めない、というルールですが、あちらから持ち込まれた物に関しては例外です。そのお金は、過去に持ち込まれたものというわけですね。そして、それは個人的なお礼です』
「お礼……」
『ですが、それはエルフとダークエルフの争いを治めたことへではありません。私達ガイドとしては、迷子を無事に帰す以上の役割はありませんので、エルフたちがどうなろうと管轄外です。あの争いが破滅へ続くのか、それとも創造へ繋がるものだったのかは判断出来ませんから。あっ、けど行動を否定するものではありませんよ。一般的な倫理としてはそれで正しいのですから』
では、何に対するお礼だというのか。
『さて……何と言えば良いのでしょうか。貴方を送り返す道中での時間は一瞬でもあり永遠でもあるので、時間はいくらでもあったのですが、上手い言葉が見つかりませんでした。なので、小学生並みの感想ですが伝えさせてください』
手紙の最後に書かれていたのは、
『とても良い作品でした。次回作に期待します』
短い感想と『最初の読者より』という署名。俺は、ただ無言でそれを何度も眺め、読み返し――そして、大きく息を吐く。
「そうか……」
だから、彼女は『本は48冊あるのか』と訊ねたのだ。本の内容に詳しかったのも、そのせいだ。手伝ってくれたのは、夢中になっている間に本を持ち去られた罪滅ぼしか、それともファンとしての心理なのか。
「そうか……」
もう一度、同じ言葉を呟く。しかし、今度は納得ではなく嬉しくて自然と出てきたものだった。
一人とは言え、己の創作を楽しんでくれて、それを伝えてくれたのだ。投げ捨てたものの価値と釣り合いは取れなくとも、『良かった』と思えるなら――それでいい。
「次回作か……どうやって届ければいいのかな」
まあ、それは後で考えればいい。今考えるのは、次回を楽しみに待つ読者のために手を進めることだ。
抑えきれない高揚感に身を任せ、俺は急ぎ机へと向かった。
「……で、寝落ちしたと思ったらどうしてここに?」
「どうやらあのショックで世界間を行き来しやすい体質になったようです」
「ええ……」
「ところで、進捗どうですか?」
「……進捗まだです」