#2 ファースト・コーナー #梅雨の事情
ノイジー・エナジー #2 ファースト・コーナー
#梅雨の事情
アタシは配達伝票をプリントアウトすると、印字された配達先の住所を確認した。壁一面に貼られた配達区域の大きな地図で配達ルートを調べながら、ピザが焼けるのを待っていた。
ふと振り返ると、会計カウンターの向こうの大きな窓ガラスに、時折ツーッと水滴が流れる。窓の外の景色は日没前なのに何となく暗い。目の前の駐車場は車が通る度にヘッドライトの光を店内に反射させる。換気扇からは雨樋をチョロチョロと絶え間なく流れる水音が聞こえる。
アタシの被っているヘルメットからもポタポタと水が滴り落ちている。レインコートを着ているとはいえ、滴り落ちた水滴が首筋に入って来るのは気持ち悪い。ここ数日、毎日濡れて乾く間もないレインコートは変な匂いがする。長靴の中もなんだか冷たい。
こんな日に配達のシフトなんて最悪だ。って言うか、この前のツーリング以降、神奈川県は梅雨入りしてしまったらしい。そう言えばそんな季節もありましたね。何も考えずに今月は配達のシフトを増やしたアタシがバカだったみたい。
「お待たせ!1205番のミックスピザLサイズ一枚、デラックスLサイズ一枚、ベジタブルLサイズ一枚、出来上がりました!」
相変わらず手際の良い吉野先輩が常人の三倍と噂のスピードでピザを作っている。最近はピザの彗星とか呼ばれているらしい。おっといけない。1205番はアタシの伝票だ。三段重ねのピザ入りの箱を受け取ると、伝票と照合して配達用バッグに詰め込む。
「晴海、行きまーす!」
アタシは気合いを入れてドアを開けると、水の音に充ちた世界に飛び出した。弱い雨に打たれながら、雫の流れる配達用三輪スクーターのトランクにピザを入れ、しっとりとしたシートに跨るとセルボタンを押す。
キュキュキュキュ…プルルンッ!トットットットッ…。
さっき切ったばかりのエンジンは、抵抗するそぶりも無く動き出し、すぐにリズミカルな排気音を奏で始めた。アタシはスクーターを駐輪場から出して、配達先に向かって走り出した。
幸いにもフロントスクリーンと屋根の付いたスクーターは、走り出してしまえば強い風さえ無ければ快適だ。前から向かって来る雨粒は、フロントスクリーンとワイパーでカットされてしまう。スクリーンから続く屋根は上から落ちてくる水滴を受け止めてくれる。
交差点に差し掛かった。信号が黄色から赤に変わる。ここを左折するアタシはウインカーを出して停止した。弱い雨がスクリーンの無い側面から降り込んでくる。そう、側面が開け放たれたこのスクーターは横からの雨への対抗手段が無いのだ。なので配達メンバーはレインコートを着用している。
信号が青に変わる。アタシはゆっくりと慎重に交差点を左折した。交差点には雨に濡れた停止線、横断歩道、マンホールなど、滑りやすいモノが溢れている。何度か危ない目にあって、流石にアタシも学習したんだ。
住宅地の中に入って行くと、配達先の住所に着いた。戸建てで広い庭がある。門のところにインターホンがあった。残念なことに屋根は無い。アタシはピザをトランクから出すとインターホンを押した。しばらく待っていたが、反応が無い。もう一度インターホンを押したら、アタシのヘルメットから雨水が首筋に入ってきた。ひゃ~っ!勘弁してぇ!
三度目の呼び出しで、やっと玄関のドアが開いた。こっちに来いと手招きをしている。アタシは門を開けて庭を突っ切って玄関まで、雨の中を小走りしていった。玄関では渋い顔をしたオバサンがアタシを睨んでいた。
「遅かったわね。ちょっと遅れたんじゃないの?」
アンタが出てくるのが遅かったんじゃないの?と、思いつつもピザを渡し、伝票を出して笑顔を貼りつかせて言う。
「お時間通りの到着になりますが、次回ご利用いただけますクーポンをお付けいたしますので、ご容赦下さい。代金ですが×千×百円になります。」
オバサンは仕方ないねぇ、とか言いながらクーポンを確認してお財布から一万円を取り出した。大丈夫!対応可能です。アタシがおつりをキッチリ渡すとオバサンは少し残念そうな顔をした。へへんだ!
「お熱いのでお気を付けてお召し上がりください。ありがとうございました!」
このやり取りをしている間、アタシは屋根の無い玄関先で雨に打たれていた。
休憩時間に控え室で吉野先輩と一緒になった。配達でぐっしょりになったレインコートから脱出し、濡れたところをタオルで拭いた。冷房が効いた控え室はちょっと冷える。
「いやぁ、晴海が張り切って配達してくれるからありがたいわ。」
いつものロイヤルミルクティを飲みながら、吉野先輩が言う。
「今月は私の配達シフトは晴海が全部引き受けてくれたからね。」
そう!バイト頑張ってお金貯めてサーキットにカムバックするんだ。スーツ買って、ライセンス取って、チーム作って…壮大な計画だ。
うぅ、でもこんなに雨が降るなんて知ってたら引き受けなかったよ。
「なんで雨の日は配達が多いんですかね?」
「え?当たり前じゃん!雨の中買い物に出かけるのが億劫になった奥様が、今日は特別ね、とか家族に言いながら注文してくるんだよ。」
あぁ、アタシも雨の中買い物なんて行きたくないもんなぁ。
ホレ、と言って、吉野先輩はアタシの好きな微糖缶コーヒーを寄越した。お、珍しい。少しは罪悪感か感謝かを感じているのかもしれない。
「で?どうなの?佐藤さん情報は?」
あぁ、そっちの情報料か。
そう、奥多摩ツーリングのタンデムで急接近した御厨先輩と夏子は、なんだか怪しいのだ。内緒話をしているし、メッセージもやり取りしているようだ。内容はアタシにも秘密にしていて教えてくれない。
「今度ちょっと夏子の家にお邪魔して聞いてきます。」
吉野先輩は時計を見ると立ち上がった。
「よろしくねぇ。…さて、私は休憩終わり。晴海も頑張ってね。」
外を見るともう日は沈んで暗くなっている。あと二時間くらいで上がれる。もうひと頑張りしますか。アタシは濡れたレインコートを思い出して気が滅入ったけど、えいって気合いを入れて立ち上がった。
その日最終配達は最悪だった。日が沈んで暗くなったところに、いわゆるゲリラ豪雨で、折角のスクーターの屋根も大して役に立たなかった。ライトも暗くてなにも見えない。配達先のオジサンは可哀想にね、大変だね、とか言ってくれたけど、アタマからバケツをかぶってしまったようにずぶ濡れだ。レインコートの襟元からもひっきりなしに水が入ってくる。長靴の中もびちゃびちゃだ。しかも裏通りの信号に赤信号で引っかかってしまった。ああ、もう最悪。
激しい雨の中、アタシよりも不幸な連中はいないかと、辺りを見回してみると…。いた!いたよ!トラックにバイクを積んでるバイク屋さんだ。交差点から入った細い道の奥にトラックが止まっている。そしてレインコートを着た人がふたりいて、その荷台にバイクを積み込んでいる。トラックの荷台には『バイクの買取・バイクの玉子様』とペイントしてあった。語呂合わせの電話番号も書いてあった。こんな日にバイクの引き取りなんて、ツイて無いな。
「可哀想に。」
アタシは他人の不幸に少し満足して、青信号を見逃すところだった。
プルルッ!
慌ててアクセルを開けると走り出す。荷台の人がこっちを見たような気がした。振り返ると、レインコートのフードがはだけて金色の髪の毛が見えた。ヤンキーの人かな?なんだか雨も弱くなってきた。アタシも少しは運が向いて来たかな?
#夏子の部屋
相変わらずの梅雨空だけど、夏子は教習所に通い始めた。雨の中で教習なんて考えられない。
「え?ちえりも雨のサーキットで走ったことあるじゃん。」
そう、レース中に雨になったことはある。でもやっぱ走らなくて済むならば雨の中で走りたくはない。濡れるし、滑るし、視界悪いしね。
「で?バイク何にするの?」
この間の鬼のような雨の配達を思い出しかけたので無理矢理話題を変えた。
今日、アタシはたまたまバイトが無いので、学校帰りに夏子の家にお邪魔している。夏子と御厨先輩の関係も追求したいけど、どっちかというと夏子のバイク選びに付き合ったり、夏に向けたアパレル選びを一緒にしたかった。夏子のパソコンで通販サイトも見られるけど、雑誌も見たいので本屋に寄って女の子向けバイク雑誌を買ってきた。ついでにと夏子が化学関連の雑誌を買ったのには驚いた。
「今月は『燃焼と爆発』特集なんだよ!天崎先生が教えてくれたの。」
嬉しそうに言う夏子の笑顔は恋する乙女のソレなのだけど、恋の対象が爆発なのか先生なのかはアタシにもよくわからない。
そうしてアタシは夏子のベッドにもたれて雑誌を眺め、夏子はベッドに転がりながら、タブレットPCでバイク選びのサイトを見ていた。
「う~ん…。中古のカワサキってのは決まってるんだけどね。」
夏子のお父さんは熱烈なカワサキ党で、今はDAEGに乗ってるらしい。夏子のバイクもカワサキならお金を出してくれるらしいが、他のメーカーは駄目だそうだ。偏屈だよね。
「Ninja、Balius、Estrella、などなど…。どれも好きなんだけどなぁ。」
走りがメインならNinjaを推すんだけど、夏子はきっとツーリングの方が好きなんじゃないかな?トコトコ行くなら味のあるバイクもイイよね。
「ねぇ、Estrellaにしたら?渋くてかっこいいよ?」
夏子は悩ましげにブツブツと呟く。
「そうなんだよねぇ。だけど長距離とか高速とか考えるとカウルがあった方が楽なんだよねぇ…。」
こうして好きなバイクを選んでいる時間はとても楽しい!このバイクかっこいいとか、でもこっちのバイクはエンジンが好みとか、そこに燃費がとかお値段がとか経済的事情が絡んで、なかなか決まらない。
「ねぇ夏子、今度バイク屋さんにも行ってみようよ。実物見るとまた考え変わるよ?」
そうなのだ、特に中古車の場合、カタログを見てコレと決めて行っても、好きな色が無かったり、状態が良くなかったりは当たり前だ。逆に候補にも入れていなかったバイクが物凄く魅力的に見えたりもする。
「…うん。今度お父さんに連れて行ってもらうんだけど、ちえりも来る?」
う~む…。夏子のお父さんてカワサキ一筋だから、NSRなんてやめてKRにしろとか言い出しそうなんだよねぇ。そんな金はないっちゅうねん!
「…いや、アタシはイイよ。じゃあさ、次はアパレル!今年の夏は何を着ようか?」
ひとしきりバイクやウェアの話をした後、アタシは御厨先輩のことに話題を振った。
「え?御厨先輩?」
夏子はびっくりしたようだ。
「そうだよ。夏子何か隠してない?内緒話ってなんだったの?」
夏子は笑って誤魔化そうとするが、眉の辺りが困っている。
「い、いや別に、何も無いよ?…そ、それよりさ。ちえりは御厨先輩のこと…その、どう思ってるの?」
う、夏子の逆襲だ。
「あ、アタシは、いい人だと思うよ?最初は怪しい人から助けてもらったし…。」
文化祭の後夜祭では、寒そうなアタシと吉野先輩に上着を貸してくれたし、試験前は勉強を教えてくれたし、背も高いし、イケメンだし、近くに来るとドキドキするし、好きになってもおかしくないよね?
「…ちえり?…ちえり?ぼーっとして、どうしたの?顔が赤いよ?熱ない?」
いや、まさか御厨先輩の想像をしたくらいでこんなになるとは!ヤバい!ホントに好きなのかな?
「ねぇ、今日は帰った方が良くない?雨の中で配達してたんでしょ?」
うん、まぁそのせいだな。
「もうすぐ、期末試験だし、体調管理も大事だよ。」
え?もう?急に目の前が暗くなった気がした。
「また、勉強会しないとね?」
「そうだよ、アタシまた御厨先輩に教えてもらおう!」
「…ちえり、あのさ…。」
夏子が少し真面目な顔をした。
「御厨先輩はやめた方がいい。ちえりは諦めた方がいいと思う。」
アタシは固まったまま、夏子の目を見ていた。