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陥落と想いの形 キャロル17歳

 執事のヴァーノンが書状を差し出す。


 館の外から冷めない歓声が聞こえている。目の前には、ジルもじいじもヴァーノンもいるのがちゃんと見えている。でも、指は冷たく凍りついて、自分のものと思えなかった。


 アレックス王子は私にとって光で、羅針盤だった。無くては周りが見えなくて、進むべき方向を失う。

 失われたと思った瞬間から、私の体はここにあるのに、意識は暗い大海原で一人途方にくれた。


 何処に行けばいいのか、何をすればいいのか。


 動き出す事ができない私の背に、ジルの手が触れる。


「失われたと決まった訳ではありません。ご無事の可能性は、まだございます」


 小さな希望が一粒落ちて、胸にゆっくりと波紋を広げていく。

 失うと決まったわけじゃない。その言葉に体の中を、再び血が巡り始める。


 感覚が戻った手で書状に手を伸ばす。

 ここで今、やるべき事、しなければいけない事がある。一番必要な事を、執事のヴァーノンに指示する。


「ジルを連れて先に屋敷に戻ってください。抱えの医師を呼んで、すぐに治療をお願いします。ジル、今日は休んでください」


「私は大丈夫でございます。お側で支えさせて下さい」


 私の指示に異を唱えたジルを振り返って、安心させるように微笑む。


「ジルがいると心強いけれど、ダメです。手当を受けて、今日はゆっくりしてください。外に出る時は必ずジルを伴います。私にジルが必要だから、今は休んで欲しいんです」


 尚も口を開こうとしたジルの言葉を遮る様に、ヴァーノンが口を開く。


「ジャケットも着れない体たらくで、何を言ってるのです。主のお側に居たいなら、さっさと治療なさい。そして、従者の服にきちんと身を包みなさい」


 苦笑いで差し出されたヴァーノンの肩に、ジルが頷いて体を預ける。


「ジルの事を頼みます、ヴァーノン。それから、友人のご令嬢が当主の部屋で休んでいます。意識を失って、何時目を覚ますかわかりません。時折、様子を見に来て、目を覚ましたら私に連絡をください」


「畏まりました。では、先に失礼させて頂きます」


 隠し通路に去る二人の背を見送って、騎士団からの書状を開く。

 最初に製作者として、副室長さんの名を見つけた。返事がなかった理由は、王城陥落に伴い王都に戻った所為かもしれない。なら、私の伝達魔法はワンデリアから王都に向かう空にまだある。


「ふむ。これは王都の貴族に向けた書簡か」


 呟いたじいじに頷いて、私も文章を読んでいく。

 

 事態の発生は、私が最後の要に辿り着いた時間に近い。私達が魔物の群れと戦っていた頃、王都では民が広場から去り、王族が城を去り、ラヴェルの楽団も役目を終えて城から去った。アレックス王子と普段より少ない騎士を残し、城は予定通り全ての城門を固く閉ざす。


 ワンデリアは遠い。堅牢な城門は閉じている。民を導けた安堵に包まれた城内には、きっと危険を感じる者は誰もいなかった。いつもと少し違う空気の中、行事の片づけが進む。


 そこで、何が起きたのか。

 城は結界が張られていて、少ないと言っても精鋭の近衛もいた。


 城門閉鎖から半刻、王城は陥落した。真相には、触れられていない。ただ、探しても見つからなかったジルベール・ラヴェルが主犯とされていた。


 奪還に向かう精鋭騎士の編成は、既に終わっているらしい。情報を集め、遂行の機を今は狙っていると書かれている。

 収束の報まで、諸侯は悪戯に民を煽らぬように、邸内で過ごすよう命令が下されていた。


「内容が薄いな。噂先行の混乱を嫌って、公表を急いだのであろう。精鋭の編成は多分、釘を刺すためのはったりだな」


 じいじが顎を撫でながら呟いて、眉を顰める。

 ジルベールの存在が絡むなら、不確かな情報は一番危険だ。

 王都には元反旗派の貴族もたくさんいる。噂に尾ひれ背ひれがつけば、謀反に同調する者も必ず現れる。力をちらつかせた編成済みの一言は、浮足立つ者を一時は踏み留まらせる効果があった。


 だが、門を閉ざした城にジルベールはどうやって入ったのか。誰かが手引きしているなら、それは誰なのか。


「城が狙われたのは予想外でした。魔物の王に近いワンデリアに痕跡があったので、誰もがそこに……」


 黒幕の可能性に気づいて、書状を掴む指に力が籠る。僅かに歪んだ書状に目を落としながら、どうしてと戸惑いの言葉を何度も反芻する。


 最初の摘発の後、厳しい王都の捜索からジルベールは手掛かり一つ残さずに姿を隠した。

 その後、魔物の動きが活発なワンデリア三領に捜索の手が伸びる。王都からワンデリアに向かった証拠はなかったが、魔物の王に唆された彼がその土地に繋がる可能性は高いと判断された。


 悪役令嬢キャロルの没落後の行方を知っていたから、オーリック領、ベッケル領のどちらかが黒幕と私も思っていた。


 何の手掛かりもないまま、今年に入って武装兵の検挙が起きた。そこで、書類偽装というジルベールが得意とした不正の痕跡が見つかる。

 オーリック辺境伯と、宰相の子息でベッケル領を管理するファビオ。痕跡は二人から見つかった。腑に落ちない感触の中、国政管理室は両者を徹底的に調べた。でも、調査の結果は両者ともに白。

 

「じいじ。ワンデリア領の貴族で、オーリック辺境伯だけはゲートを持たないんですよね?」


「オーリックの私兵は騎士に近い。国内の貴族で最も強い武力を持つ故に、ゲートは持たせていない」


 ジルベールの悪意はワンデリアに確かにあったのに、存在はどこにもない。本当の争いは王都で、ワンデリアの両者は生贄。


 ワンデリアでジルベールを探していた時、彼は王都にいた。でも、初めに王都を探していた時は、彼はワンデリアにいた。

 二つの場所で悪意を育てるなら、移動が必要になる。街道を往復すれば、誰かの目に止まらないなんて不可能だ。

 でも、ジルベールはやって避けた。痕跡を残さずに行える方法は一つ。我が家と同じ、王都とワンデリアをつなぐゲート持つ事。条件を満たした上で、国の殆どの情報を持ち、王都に不可侵の拠点を持てる人物が一人いる。


「ノエルよ、何か思い当たる事があるのか?」


 その言葉に頷く。彼の権利を侵せる者は王以外にいない。臣下の最上位の人の名を上げる。


「ベッケル宰相。彼が手引をしたと思います。でも、その名を上げれば、影響は必至。国政管理室は知ってても、書状では名を伏せるでしょう」


 更に私の考えを手短に説明すると、綺麗に剃った頭を撫でてじいじが考え込む。


「確かにゲートを使えば、一瞬で行き来できる。宰相ならばジルベールの身柄を隠す事もずっと容易い」


「気になるのは、ベッケル公爵家のゲートにジルベールが登録出来たかです」


 私の疑問にじいじが考える事もなく、答えを口にする。

 ワンデリアでの印象が強く見落としていたが、国政管理室長とアングラード当主の経験がじいじにもある。


「ゲートの登録は、民事院と術管院が行う。まず、誰であるかを証明する為に、民事院の貴族登録の血判が必要になる。血判に残る血から個人を特定する術式を作り、術管院がゲートの術式を書き換える作業を立ち合いの上で行う」


「その二つの院を通さなければ無理ですか?」


「基本はそうなる。結界を管理する術管院でも、ゲート術式は数名しか扱えない。だが、ベッケルは術管院の院長を経て宰相になっている。彼はゲート術式を知っているだろう。そして、宰相の職は民事院に貴族の情報を求める機会は多い。血判の入手も簡単だ。多分、ノエルの推測は当たっている」

 

 真相を確信した瞬間、体が震えた。

 アレックス王子の側で笑いながらベッケル宰相が、後ろ手に剣を抜く姿が頭を過ぎる。

 喉を競り上がる悲鳴を、頭を強く振って蓋をする。


 指先の震えを無理矢理抑えて、再び書状に目を落とす。違う文体で書き足された続きの文章は、我が家だけに宛られた父上の行方についてだった。


 父上はギスランと同行騎士と供に、帰途についた直後から連絡が取れていない。

 既に消息不明から三日が経つ。水面下で行方を探してるが、足取りは一切掴めていないらしい。

 唇を噛んで読み続けると、副室長さんが謝罪の言葉を書き残していた。


――ごめんね。ここには言えない事がたくさんある。でも、室長は絶対帰ってくる。心配しないように。


 ベテランさんが、行事で私に言った言葉と同じだった。

 皆が父上を信じてる。大丈夫だと明言する。誰かを信じる事は凄い。私も父上を信じたい。でも、本当に身近な人には、それがとても難しい。

 不安と怖さの方が大きくて、信じるよりも絶望しそうになる。


 父上、今はどうしてますか。アレックス王子、今はどうしてますか。

 ‎傷ついてないですか。苦しんでないですか。‎無事なのですか。


 目を閉じて大きく息をする。乱れかけた心を無理に落ち着かせて、次はカミュ様の書状を開く。


 明日、朝一番に離宮に来て欲しいと書かれていた。

 文章には迷うように、筆を止めた形跡が幾つもあった。何を書くべきか、何処まで書いてよいのか。書くのを迷う事が、たくさんあったのだと思う。

 

 全てを読み終えて、書状を片付けていく。私の指先を見つめながら、じいじが思い出した様に口を開く。


‎「王都に戻ったら、私兵隊を動かせる用意をしておいた方が良い」


 王都にも分隊程度の私兵隊を持っている。ワンデリアの様なはっきりとした目的はなく、自警の為のだけの隊だ。


「謀反の時に私兵を動かすのは、あらぬ疑いを持たれませんか? 書状にも大人しくと書かれてます」


「攻城戦の騎士の編成は問題ない。だが、いづれ騒ぎ出す貴族を抑える兵は足りなくなる。信頼がおける臣下の私兵を、裏で使う手段をとる筈だ。準備しておきなさい」


 我がアングラード侯爵家、ヴァセラン侯爵家、ボルロー伯爵家、シュレッサー伯爵家、バルト伯爵家、ゴーベル伯爵家の六家がすぐに思い浮かんだ。

 

「わかりました。戻ったら対応します。ワンデリアとルナをお願いします。ルナが起きたら、必ず待つように言ってください」


 じいじに頭を下げる。目を覚ましたら、自分がワンデリアにいる事にルナは焦ると思う。

 正規ルートのゲート登録が出来ない事はもう分かっている。馬車の移動も、街道警備が強化されて厳しくなるのが予想できた。

 ルナの移動は、ユーグの知識が頼みの綱になる。


 じいじが何とも言えない表情で空を仰ぐ。


「あの面妖な娘か……。あんなモノは初めて見た。はっきり言って、今だに信じられん。信じられないモノを、受け入れない者は多い。娘の力は、機と相手を見て話すようにな。でないと、悪意に足元を救われる。私なら誤魔化して、決して話さない」


 じいじの言葉に頷く。それは正しい判断だ。

 ルナが抱えていた秘密は勿論、私が抱える秘密も、誰にでも受け入れて貰える事ではない。


「はい。出来る限り話さないと思います。自分が信じられない事が、人に信じてもらえるとは思えないです。じゃあ、王都に戻ります」


 じいじが私を抱き寄せて、幼子にするように頭を撫でる。おばあ様の側を離れている事はダメだけど、今は居てくれて良かったと思う。一人だったら苦しくなる気持ちを、きっと持て余してしていた。じいじの胸に顔を預けて抱きしめ返す。


「じいじ、有難うございます。ここに居てくれて、心強いです」


「キャロル。いや……今は、ノエルと呼ぶべきだな。しっかりやりなさい。ノエルならできる」


 じいじの声も話し方も、目を閉じると父上によく似ていた。急に堪えきれなくなって、一度強くしがみついてから離れる。


「がんばります……」


 小さく言ってから隠し通路に駆け込む。階段を降りて、ワンデリアのゲートから王都の屋敷に移動する。


 慣れ親しんだ屋敷の空気に触れた途端、目の前が歪んだ。人影がない事が、私を安堵させ、孤独にもさせる。抑えようと強く目を閉じても、瞼の裏で涙が溢れる。


 自分の隠し部屋に逃げるように飛び込むと、溺れるように喉が空気を求めて嗚咽が漏れた。


「うぅ…く、……父上……」


 堪えなきゃいけないと口を手で覆って、ドアに凭れる。寄りかかった瞬間、膝から力が抜けていた。崩れた膝は、自分のものじゃない様に小刻みに震えている。

 知らない恐怖に自分がおかしくなってしまいそうで、抑えるように片手で膝を抱く。でも、抑えても抑えても、震えは止まらなかった。

 

「どうして……。無事、です……か。私、どうしたら……、いいんです?」


 泣く暇があったらやらなきゃいけない事がある。分かっているのに、一度堰を切ってしまった感情は収まらない。


 後悔しないように。


 ギスランに言われた言葉を思い出すと、胸が潰れそうになって空いた手で肩を抱く。


「父上……教えてもらってない、です。……事が、たくさんある……んです。……父上。お父様……会いたい……です、お父様」


 キャロルの時間の甘いお父様ばかり浮かんで、ノエルとしての時間を悔やむ。

 抱き上げた腕も、甘やかすような頬のキスもいつから止めてしまったのだろうか。男の子になった所為で、他の令嬢たちよりずっと早く私は父の腕から抜け出した。


 ‎もっと、娘として甘えたかった。もう一度、天使と甘く呼んでくれる言葉が聞きたかった。


 頬を流れた涙が唇に触れて、苦しいから固く蓋をした筈の愛しい人を思い出す。感情が流れて、もう止まらなくなる。


「アレックス……殿下……。泣いて……るの……に……。触れない……の」


 何度も金色のまつげを伏せて、アレックス王子は私の涙を唇で掬ってくれた。涙より温かい唇が、落ちるより先に頬の涙を受ける。悲しくても、辛くても、唇が触れる一瞬、私の心は慰められた。

 今、涙が掬われることがない事が辛くて、悲しくて、寂しい。


 あの唇は何度も愛してると言ってくれた。その愛を何かの為に我慢する事を、どうして当たり前と思っていたのか。

 未来があるからと、今を我慢した事を悔やむ。未来なんて、何処で失うか分からない。

 

「嫌、です……。もう、触れてもらえない……嫌です。そんなの……嫌。……す……き。すき……なのに」


 抱きしめらる事も、唇を重ねる事も足りない。愛しいと囁いて貰う事も、愛してると伝える事も足りない。何もかもが足りないと思うほど、‎アレックス王子を欲しいと思う自分を知る。

 

「いや……です!いやです……いやです!いや!」


 声が枯れるほど、何度も叫ぶ。

 これが、馬鹿な事だと分かってる。こんな事は無駄だと知ってる。でも、‎心の中を空にしなければ、涙が枯れない気がした。そして、立つこともできないと思った。


 息を吸うたびに好きと繰り返して、息を吐くたびに足りなかった事を呟く。悔いをのこした自分を責めて、最後には愛しいと叫び続けた。


 吐き出し続けた声に、浅くなった息で宙を仰ぐ。

 愛しい人の唇が涙を掬わないから、悲しみが頬を伝って顎を撫でる。

 そして、一粒、何かを教える様に胸元に落ちた。スカーフを緩めて、細い銀のチェーンを引き出す。

 視線を落とすと、白いアネモネ石の花が見えた。

 ‎

 貴方がくれた‎意味は「永遠の愛」


 さっきまでとは違う涙が、また頬を濡らす。


「ごめんなさい……」


 真っ直ぐな紺碧の瞳は、いつも前を見ていた。誰よりも曇りがなくて、その瞳が見つける答えなら何でも信じられる気がした。


 ‎初めてノエルになった時、こうあろうと私が胸に描いたのはアレックス王子の姿だ。あの時にはもうアレックス王子は、私の光で羅針盤だった。


 ネックレスを握りしめて、大きく息を吸う。


「愛してます。貴方は、いつも導いてくれる」


 目を閉じて再び、心にアレックス王子を描く。

 アレックス王子だったら、ここで泣かない。悔やんでも、次に進もうとする。


 きっとアレックス王子ならこう言っただろう。目を開けて、まっすぐ前を見つめて涙を拭う。


「約束は力になる。立ち止まってはいけない。悲しみも力に変えて、叶える為に私が迎えに行く」

 

 震えが止まった足で、しっかり立ち上がる。

 紺碧の瞳と同じ未来を、私の紫の瞳も捕える。光は消えてない。消えたと思うにはまだ早い。



 隠し通路を本邸に向かって駆け出す。

 ‎母上は普段はシャロルがいる別邸にいるけど、今日は対応の為に本邸にいる筈だ。書状に書かれていない事を、使者から聞いているかもしれない。


 隠し通路を抜けると、父上の書斎には母上とマリーゼがいた。夜が近づいてきた窓を背に、マリーゼが心配そうに眉を下げる。

 散々泣いた私は、とても情けない顔になっているだろう。


「ノエル、その情けない顔はなんです! 貴方は当主代行です。挫けては示しがつきません! マリーゼ、冷たいお水とタオルを持ってきなさい」


 母上の言葉に一礼して、マリーゼが部屋を飛び出していく。


「母上、申し訳ありません。もう、泣きません」


 その言葉に母上が強い眼差しで頷く。儚い容姿の母上は、今日は背筋を伸ばして凛とした空気を纏っていた。


「やらなくてはいけない事はたくさんあります。貴方が戻るのが遅いので、私兵隊に待機命令を私から出しました。準備の遅くれは命とりです。編成など細かい指示があるなら、先に行いなさい」


 母上に促されて、伝達魔法で隊長に細かい指示を伝える。ツーガルが、夕焼けの消えた空に飛び去るのを見送って、腫れた瞼で母上に向き直る。


「ヴァーノンが届けてくれた書状は読みました。使者は、何か言ってませんでしたか?」


「口頭で教えて頂いた事がございます。忘れないように、紙に書き留めておきました」


 父上の机に駆け寄って、母上が一枚の紙を差し出す。目を落とすと、乱筆より酷い糸くずのような線が書かれていた。


「母上、読めません」


 母上が少し頬を赤くして、口を尖らす。この場に父上がいたら、蕩けるような顔で抱きしめただろう。


「急いでいたから乱筆になったのです。読んであげますわね。ノエル、書き留める準備は?」


「不要です。覚えます」


「レオナールと同じね。貴方は私よりも、レオナールに本当によく似てる」


 母上が嬉しそうに小さく笑うと、マリーゼが桶とタオルを持って戻ってきた。桶に向かって母上が術式を書く。水が半分、雪に変わる。

 椅子に座った私の顔をマリーゼが痛ましそうに覗き込む。それから、気遣うように優しく、冷えたタオルを瞼に当ててくれた。熱をもった瞼に感じる心地よさに、小さく吐息を吐く。


「腫れが半分になるまでは、ちゃんと冷やしなさい。これでは、明日も腫れたままになってしまうわ」


 母上は今日も変わらず美しい。

 どうして、変わらずにいられるのだろうか。いつもより堂々として、張り切ってるようにさえ感じる。

 悲しくなかったのか。苦しくなかったのか。

 母上は見た目よりもずっと強い。理解はできても、今は少し寂しい。


 タオルを顔に押し付けたまま、口を開く。


「母上、使者はなんと言ってましたか?」


「カミュ様の従者の方が来て、呼ばれる理由を話して下さりました。他家への口外は禁止です。王位継承者であるカミュ様に、カミュ様の秘宝と人質の交換の申し入れがあったそうです」


 タオルから思わず顔を上げる。

 秘宝と人質の解放。謁見室でもベッケル宰相は、アレックス王子とカミュ様に秘宝の所持を確認していた。肌身離さず身に着けて、城にいるように念も推していた。初めから、魔物の王を倒す可能性がある秘宝を狙っていたのだろうか。


「解放される人質は、どういった方か分かってますか? アレックス王子は含まれるのでしょうか?」


「それは教えて頂けなかった。ただ、怪我を負った騎士や下働きの者を優先したいそうです。戦前準備部隊は一応騎士ですから、対象から外れるでしょうね……」


 研究棟の中庭で、片付け専任と笑っていた伯父様と戦前準備部隊の人達を思う。強くないと聞いている。ジルベール達には、扱いやすい人質になってしまうかもしれない。

 無事でいて欲しいと心から思う。伯父様は大好きだし、隊員の人の楽し気な雰囲気は好ましかった。

 何よりも、ジルから一つでも何かを奪わないで欲しい。


 でも、この取引はとても難しい。


「近衛、警備に来ていた騎士、戦前準備部隊、下働きの者達。国を救う力がある秘宝と天秤に掛けたら、応じる選択は……」


 しないでしょう、と言おうとして止める。

 

「母上。私は何故呼ばれたのですか?」


「交換の場に同席させるように、要求があったと仰ってました」


 希望の欠片を掴んで、口元を微かに上げる。


 アレックス王子は無事だ。


 王冠の継承者であるアレックス王子の秘宝は、魔力が高過ぎて誰も染め替える事が出来ない。使えるのはアレックス王子だけになる。

 秘宝は城と共に取り返せる可能性が残る。でも、アレックス王子を失えば、秘宝の使い手は完全に失われる。


 要求があって私を呼ぶのなら、国は交換の要求を受けるつもりだ。

 国が交換する価値を見出す人質は、アレックス王子しかない。


 でも、アレックス王子を奪えば、秘宝の一つが使えなくなる事をベッケル宰相も理解している。一つより二つを求める。片方だけの秘宝も、使わせたくないと言う事なのか。


「ノエル? どうかしたのですか?」


 母上が小さく首を傾げて尋ねる。マリーゼが渡してくれた新しいタオルで、腫れた瞼を再び抑える。瞼の熱を奪う冷たさが、頭の中も冷やす。

 

「母上。王家の方が貴族に降嫁する事はありますか?」


 母上が僅かに困惑した表情を浮かべる。

 真相は誰も知らない。でも、傍流の王族は有力な貴族の元に、身分を隠して降嫁する噂は学園で聞いた事があった。


「私が侯爵夫人だから知る情報です。他言はいけませんよ。侯爵以上の家柄に稀にございます。アングラード侯爵家も何度か傍流の王族の姫を賜っておりますわ」


 国政管理室の人達は、かつて秘宝を染め変えて王位を簒奪した傍流の者がいたと言っていた。

 王城を奪った彼らが王位を望む簒奪者なら、アレックス王子ではなくてカミュ様の秘宝を望む。

 誰がカミュ様の秘宝を染め変えるのか。


「ファビオ様の魔力量はどの位でしょう?」


 人差し指で目元を叩きながら、母上が考え込む。


「公爵の直系ですから上位クラスは確実でしょう。ねぇ、ノエル。降嫁とか、ファビオ様の話は何処に繋がるのかしら? 母にはさっぱりわかりませんわ」


 遠すぎる傍流による秘宝の染め変え。荒唐無稽な王位簒奪の望みは、私の想像でしかない。説明するか迷っていると、母上が私のタオルを取り上げて瞼を撫でる。


「少し腫れが引きましたわね。迷う程難しい話なら、説明はいりません。貴方の考えを私は信じます。ノエルが指名されたのは、国政管理室長であるレオナールに対する意趣返の可能性があるそうです。ノエル、貴方はどうしたい?」


 母上が美しい髪を揺らして、憂いを湛えた瞳で私を覗き込む。

 私とジルベールに個人的な接点はない。父上に対する逆恨みの可能性は高いだろう。でも、答えは決まっていた。


「母上、私は行きます。人質の中にアレックス殿下が含まれる可能性があるんです。私は大切な人を助けに行きたいです」


 女神のような柔らかな笑顔で母上が微笑む。

 母上は、いつだってどんな決断でも止める事はしない。笑顔で私の背を押してくれる。


「わかりました。貴方が望む通りになさい。でも、負ける事は許しませんよ」


 離宮に向かう時の注意点など、他にも幾つか聞き取った事を教えてもらう。糸くずのような乱筆の文字を、淀みなく母上が読める事が不思議だった。



 長い一日が終わって、ベットの上に倒れ込む。


 食事の時に執事のヴァーノンにルナとジルとワンデリアの様子を聞いた。ルナは、まだ目を覚ます様子はないそうだ。

 ジルは抱えの医師から回復魔法での治療も受ける事ができた。傷は残っているが、塞ぐ事はできたという。すぐにでも従者服を着て飛び出しそうだったので、無理矢理薬で寝かしたとヴァーノンは笑って教えてくれた。

 ワンデリアは、じいじが中心になって五日後に向けて準備を進めている。任せてしまって大丈夫だろう。


 仰向けになると、天蓋に浮かぶ赤い風鞠が見えた。紐に手を伸ばして引く。近くまで引き寄せてから手を離す。するすると音を立てて上がっていく紐を掴む。

 離す。掴む。離す。掴む。離す。掴む。

 伸ばせば掴めることに安堵するのに、一人でいると胸が騒ぐ。

 今すぐ助けに行きたい。少しでも早く会いたい。


 どうして、母上は変わらずにいられるのだろう。

 

 ベットから起き上がると、部屋を抜けて書斎に向かう。隠し通路を開けて、真っすぐに別邸を目指す。

 夜も更けているから母上はシャロルと寝ている可能性が高かった。それでも、今は無性に母上と話がしたい。


 別邸の父上の書斎から廊下に出ると、既に邸内は明かりが落ちていた。

 肩を落として戻ろうとすると、僅かな風を感じた。魔力のながれを意識する。父上と母上の寝室のバルコニーに母上の魔力があった。


「母上?」


 ドアをノックしてからゆっくりと開ける。月明かりが落ちるバルコニーから、驚いた表情で母上が私を振り返った。


「まだ、休んでなかったの?」


 微笑んで言った母上に、駆け寄って抱き着く。柔らかな感触と甘い香りは小さな頃から変わらない。


「お母様。少しだけキャロルに戻らせて。どうして笑っていられるの? 眠ろうと思っても、眠れないの。すぐにでも飛び出していきたい焦りと、どうしているのかが心配で、目を閉じても頭の中が一杯になってしまうの」


 お母様の綺麗な手が、優しく私の髪を撫でる。見上げた顔は、少しだけ目の下が赤かった。


「私もレオナールの事は心配よ。一人でいると少しだけ泣いてしまう。でも、レオナールは必ず私の所に帰ってくる」


「信じているから? 私だってアレックス王子の事を信じてる」


 同じように信じて何故違うのか。納得がいかなくて見上げた私の頬を、お母様が優しく包む。


「剣を教えた時に、約束をさせた事を覚えている?」


「剣と知恵と強い心ですね」


 頷いたお母様が、私の指を一本ずつ確かめる様に触れていく。


「剣と知恵。キャロルはちゃんと身に付けたと母は思います。剣は早く、誰にも負けない。知恵は深く、ずっと先が見えている。でも、心だけは今も成長の途中よ。若いうちに全て完璧にはなれないわ」


 胸に手を当てると、絶えず鳴る胸の音が聞こえた。

 心が成長中。そう聞いた後だと、どうにかしようと一生懸命な様に聞こえる。


「大人じゃないから私は弱い? これから強くなれるの?」


 お母様を見上げて、僅かに首を傾げる。

 成長の途中なら、弱い今の自分を少しだけ許せる気がする。


「ええ。これから強くなるわ。それに強さは人それぞれなの。信じる心、立ち向かう心、諦めない心、愛する心、怒る心でもいい。自分が強くいられる心は、経験の中で見つけるものよ。若い貴方は探している途中でもいいの」


「お母様は、いつ、どんな心を見つけましたか?」


 唇の前に人差し指を立てて、お母様が悪戯するように微笑む。


「ふふっ。レオナールを愛してる。彼だけが特別で、それ以外は同じ。私はレオナールがいなくなったら、最初に申し込んだ方と再婚するって言ってあるの」


「何ですか、それは!」


 斜め上の言葉に二の句が継げない。お父様の女神様が、見た事もないぐらい魅惑的な微笑みを深める。


「これが私の愛しい人の守り方。私の強い心は、誰よりも特別に愛されている自信。あの人は私の言葉に、絶対に嫌だと言った。私を渡さない為に、必ず帰ってくるわ。今も早く帰ろうと頑張っている……」


 綺麗な花弁の様な唇が大きく息を吸い込んで、お母様がバルコニーの外に向かって声を響かせる。


「レオナール、寂しいの。早く帰ってきて!」


 広い敷地の静寂に母上の声が吸い込まれる。冗談みたいな行動だけど、叫んだお母様の顔はとても真剣で美しかった。


「月の光を見るとレオナールは私を思い出す。きっと月の光を感じてる。届いたかしら?」


 一粒だけお母様の頬を涙が滑り落ちた。

 お母様の髪に触れる時、お父様は神聖なものに触れる様に恭しい手つきで長い髪を掬う。それから、幸せそうに笑って優しく口づける。

 娘の私は胸を高鳴らせて覗き見ながら、愛されるお母様と愛するお父様の姿に憧れた。


 シャツと鼓動の間にある白い石の花の感触に、私も一度目を閉じる。

 アレックス王子は私の何を愛しているだろうか。綺麗と髪に口づけを落としてくれた。可愛いと瞳を覗き込んでくれた。甘いと唇を攫ってくれた。


 お母様の様な絶対の自信はない。でも、少しだけ強い心が形を作り始めている。


「お母様。私も叫びたいです! でも、アレックス殿下が一番好きなのは、私の頬だと思うのです! いつでもどこでも最初に触れて、柔らかいと笑います。例えるモノもありませんが、叫んで届くでしょうか?」


 お母様が場所を譲る様に一歩下がる。バルコニーの淵に立つと、自分の頬に触れて大きく息を吸う。

 

「必ず、お迎えに上がります! だから、もう一度触れて下さい!」


――届きましたか? きっと届かない。でも、私は貴方の為に、今少しだけ強くなれました。


 叫んで赤くなった頬のまま、笑ってお母様にもう一度抱き着く。


「ちょっとだけ強くなりました。お母様、ありがとう」


「ええ。では、もう休みなさい、キャロル」


 母上とバルコニーの戸を閉めて邸内に入る。書斎の前で手を振って、隠し通路を開けて別邸に戻った。



 本邸に戻ると、部屋の前でジルが私を探していた。不安そうな顔に、慌てて声をかける。


「ジル」


 静かな夜更けの邸内に私の声が響く。私を見つけてジルが笑う。


「ノエル様。いらっしゃって良かった……」


 同じいつもの笑顔が儚く消えてしまいそうに見えた。慌てて駆け寄り袖を引く。


「ジル、体は大丈夫なのですか?」


「ありがとうございます。回復術や薬のお蔭です。戦うにはニ、三日余裕が欲しい所ですが、従者の仕事に問題はありません」


 ジルはジャケットを羽織っていなかった。シャツだけの服装で本邸に来るのはとても珍しい。まだ何かが触れると、背中はきっと痛むのだろう。


「無理をしないで下さい。別邸の母上の所に行ってたんです。何かあったのですか?」


 辛い体で寝静まる時間に私を訪ねるなんて、余程の大事だと思う。見上げた私に、ジルが儚げな雰囲気を消して微笑む。


「今日は色々あったので、また悪い夢に魘されていないか見に来ただけなんです。明かりをつけたまま、お姿がなく心配しました」


 ジルは私に甘い。自分の体より、私が繰り返し見る悪夢を優先する。困った優しさと、何も起きていない事に微笑む。

 ジルが驚いた様にオリーブ色の目を見開いた。不思議に思って首を捻る。


「私、驚くような事をしましたか?」


「いいえ……。目元も赤く、瞼も少し腫れているので、もっと落ち込んでいると思っていました」


 その言葉に大きく頷いてから、自室のドアを静かに開ける。

 隠し部屋で一人で泣いた私が、ジルも知ってる弱い私。心は成長する。一日でたくさんの事に気づいて知った。今の私はずっと強い。


 静寂に包まれた廊下から自室に戻ると、少しだけ声を大きくする。アレックス王子の様に前を向く決意を教えたら、ジルに褒めて欲しかった。


「最初は凄く悲しくて、辛くて、どうしていいか分からなかったんです。立つ事も出来ないぐらい心が乱れて、たくさん泣いたら顔が腫れて母上にも怒られました。でも、もう大丈夫なんです。アレックス殿下みたいに前を向いて、とにかく進もうと思います。私が必ず助けるって決めました」


 眩しそうにジルが私を見つめてから、ゆっくりと瞳を閉じる。安堵の為なのか小さなため息が、ジルの唇から落ちた。


「そうですか。では、休まないとなりませんね。その前に、暖かい花茶を入れてまいりましょうか?」


「流石に今日のジルには働かせられません!」


「私もお茶が飲みたいので、自分の分も淹れます。如何でしょうか?」


 本当か分からないけど、ついでならと申し出に頷く。

 決意を褒めてもらえなかったのは少し残念だけど、ジルの入れた美味しいお茶はとても嬉しい。喉も乾いているし、今日の事はたくさん話がしたかった。

 ジルがお茶の為に退室すると、ベットに倒れ込んで待つ。


 長い一日だった。一年の最初の日。年境の行事。大崩落。魔物の王。思い返している内に、急速に眠気が襲ってきた。


 大きな声で叫んだ喉は渇いてる。ジルが私の為にお茶を運ぶなら待っていなきゃと思う。でも、瞼は鉛の様に重くなる。

 体は本当に休息を求めていた。


 閉じた瞼の向うで、茶器を置く音がした。起きなきゃと思うのに、体は眠くて思うようにならない。


 体の下でケットを動かす感覚がして、少しだけ私の体が宙に浮く。良く知った香りと手の感触に、怪我をしたジルに世話をさせていると夢の境で気付く。

 ごめんなさいと思いながら、それを心地よいと思う。


 覚めない私を暖かいケットが優しく包む。冷たい指先が労わる様に眦を撫でた。


「泣いた跡はあの時と同じ程なのに、殿下は貴方に前を向かせる事が出来る」


 あの時が何時かはわからない。でも、耳に届いた褒める言葉に夢で微笑む。アレックス王子は私の羅針盤で光。今までは側に居る時だけだったけど、今は離れていてもそうだと感じて私は進める。


 冷たいジルの手が私の前髪を優しく撫でる。小さい頃から私を守ってきた人の手は、冷たくてとても心地がよかった。

 辛い一日も、この手が私を寝かしつけてくれるなら、悪夢を見ずに済むだろう。


 ジルの手が止まって、額に触れると前髪をそっと上げる。


「私と殿下は違う……。同じ愛を抱えても私は……」


 お日様の匂いが近づいて、額に冷たい感触が落ちた。冷たくて薄い感触は、一度だけ知っている唇と同じだった。


 はっきりと覚醒した意識の中で、私は目を閉じ続ける。

 従者の線を越えた行為。瞳を開けたら家族の線も超えた感情を、きっと見つけてしまう。


 額に触れた唇がゆっくりと離れた。


「零れるよりも、羨んでしまう事が苦しい」


 酷く苦し気な声だった。

 ジルの幸せを願うと言って、ジルを不幸にするのが私と自覚する。それでも、譲れないと知ってしまった。だけど、手放したくないとまだ思う。


 茶器のこすれる音がして、ジルが部屋を出ていく気配がした。

 ドアが閉じた音が聞こえても、私は目を開かない。このまま眠りに落ちて、全てを夢だと思って、また曖昧に明日を迎えてしまいたかった。


すみません。ちょっと忙しくて、続きが大幅に遅れてます。

残りは数話なのに、更新が遅れがちですみません。



< 小さな設定 >

今出てる文官の部署はこんな感じでしょうか?

 術管院  学園や城に張られた大規模な結界、術式の管理を行います

 民事院  貴族や庶民など戸籍の管理をします

 数計院  予算の管理の専門家です。

 式典院  行事や来賓のもてなしなどを担当します

 国政管理室 少数ですが、国政のプロです。


 他にもいろいろぼんやりとした部署の設定はあります。とり、こんな感じです。


 以下、ベッケルさんが堕ちるきっかけです。↓は本編ではさらりと触れるだけになると思います。


< 小話 > 


――朽ちる大樹 (ベッケル)


 大きく手を打ち鳴らすと、この国の頂点に立つ男が立ち上がった。

 紺碧の瞳が居並ぶ文官を、力強い眼差しで見渡す。


「よくぞここまで道筋を立てた。私は自分の治世の中で、惜しいと感じる事を一つでも減らしたい。望む事の全てが正しいとは自惚れぬ。だが、惜しいと感じる事に手を伸ばす事は、決して間違っていない」


 各部署の優秀な文官たちの目に、燃えるような熱意が浮かび始める。王の言葉を聞きながら、居並ぶ者達の顔を観察する私にその熱はない。


 才とは一体何なのだろうか。

 言葉一つで人を熱狂させる力、不可能と言われた事に切り込む力、新しい何かを作り上げる力。


 ここに立つ者の多くは、何かの才を持ち自信に満ち溢れていた。


「より力ある者を身分に関わらず引き上げる。それは反発も大きいだろう。だが、この国をよりよくする為に必ず必要な事だ。私は君たちの力を信じ求める。遺憾なく力を発揮せよ」


 この場に立った全ての文官が、深く王に一礼した。一拍遅れて礼をした私の瞳と、紫の瞳が交わる。

 

 施策を最も牽引しながら、あの男は王の言葉に酔うことなく冷静にこの場を見ていた。王に右腕と望まれた傑物アングラード侯爵の目に、熱意なく周囲を窺う私はどう映ったのだろうか。


 大きな進展があった若手の施策会議が終わると、王が直々に私を手招いて呼んだ。


「ベッケルよ。現行の制度の中で最上位の君が、私に付いてきてくれている事に感謝する」


「ベッケル公爵家は、陛下の考えと共にございます。驕りは国を傾けるでしょう。常に善きものを求めるのは、素晴らしい事です」


 虚飾の言葉に、王家の証である青い瞳が柔らかい弧を描く。まっすぐで曇りがない眼差しに引き込まれて息を飲む。

 今、胸に湧き上がったのは確かに尊崇だった。でも、心の奥底で何かが淀みを濃くする。

 

 一礼して退席すると、逃げるように人気のないバルコニーにでた。何処までも続く空の下で大きく息を吸って、私だけが異質である世界から解放される。


 素晴らしい王と素晴らしい施策。眩しくて共にある自分を確かに誇らしいと感じる。なのに、一つ進むたびに私は取り残されていく気持ちになる。


 伝達魔法を発動して、細く美しい鳥を呼ぶ。年に数回しか顔を合わせない息子に、勧奨の言葉を贈る。


「ファビオ、元気にしているか? 今この国は大きな岐路に立っている。正しい才は求められ評価される。受難の地を支えるお前は、以前よりずっと才を深めた。王都に来て文官になってみないか?」


 お前はもっとできる。新しい仕組なら、きっと高い評価を得られる。これまでは運がなかっただけなんだ。

  

 必死で重ねる言葉は虚しい。

 熟成の時期の公爵子息が、王都の文官ではなく自領の領主でいる。それが息子の評価の全てで、もはや覆すのが難しい事は最高位の役職に就く己が一番よく分かっていた。



 西の空に向かう鳥を見送って、バルコニーの扉に手を掛ける。私の耳に廊下で立ち話をする文官の声が耳に入った。


「流石、アングラード侯爵だ。見事にまとめて来たな。最初はどんなものかと思ったが、うちの上司も見事に丸め込まれた。きっと上手く行くぞ」


「ああ。僕たち若手文官は、爵位で越えられない壁をずっと感じてた。もうすぐ、上位貴族を超えられなかった時代は終わる」


 鼻息荒い言葉に、揶揄うような笑い声が上がる。


「おいおい。お前の口ぶりだと、上に上がるつもりみたいに聞こえるぞ?」


「上がるさ。のらりくらりと胡坐をかく奴より必ず上に行く。傑物と呼ばれるアングラード侯爵が宰相になった時には、数計院で一目置かれるような文官になってやる。お前はそこで止まるのか?」


「まさか! 数計院に負けるつもりはない。頭の固い民事院も、必ず優秀な者が台頭するようになる。私も名を連ねるぞ」


 希望に満ちた笑い声を響かせて、息子よりもずっと若くて才ある文官たちが歩み去っていく。

 爵位の壁から時代は、才の壁に移り変わるのだろう。そう思うと膝が震えた。武者震いなら、どんなに良かっただろう。私が感じるのは、忍び寄る未来に対する恐怖と怒りだった。


 人の気配がない事を確認して、ゆっくりとバルコニーのドアを開ける。重い足を引きずって、廊下を進んでいく。


「あと数年で私も退官か……」


 溜息と共に独り言ちる。 その時は、この国の中央からベッケルの直系は消えてしまうだろう。

 アングラード侯爵家、ヴァセラン侯爵家は、優秀であるが故に嫉妬も大きく、公爵への取り立ては据え置かれてきた。今度こそ彼らは公爵に名を連ねる。現当主は陛下の片腕として名高く、その息子たちも後継者である王子の評価が高い。


 現侯爵のベッケルとバスティアはどうなるのか。

 既に盆暗当主が治めるバスティア公爵家は、中央から名を消していた。数年前の御前試合で、アングラード、ヴァセランの子息は父親の名声に叶う見事な勝利を収めたのに、バスティアの子息は負けた。


 落ちるならバスティアが先だ。うちじゃない。私情と欲に塗れた男に比べれば、私は現役の宰相として良くやっている。でも、それもあと数年だけの話だ。


 御前試合で、アングラード子息の活躍を褒めたたえる声の後に続いた賛辞を思い出す。


――あのバスティア公爵の子とは思えぬほど、子息の才能は素晴らしい


 現公爵をこき下ろした後、誰もが次代の公爵を高く評価した。

 次代のベッケルの名は誰の口にも上らない。


 新しい施策の流れが本流になれば、息子の代でベッケルは公爵から落ちる事もありえる。

 でも、王の施策に反対する事はできない。従順である事を評価されて私は宰相になった。従順じゃない私は中央に不要だ。バランス感覚に優れた副宰相のボルローが私に代わるのは、簡単でだれも反対しない。


 才がある事、才がない事。未来に希望が見えている者、見えていない者。前者ばかりのこの光ある場所で、私だけが闇を見る。


 中央棟の階段の踊り場に一人の男が佇んでいた。私を仰ぎ見て如才ない笑顔を浮かべる。


「ごきげんよう。ベッケル宰相」


「やあ、ジルベール・ラヴェル。今は、ラヴェル伯爵と呼ぶべきか……」


 このラヴェル伯爵の長男は、かつて偽造書類を乱発して廃嫡された。数年前に突如王都に戻ってきて、先ごろ冤罪を証明して伯爵に返り咲いた。


「ええ。ついに伯爵の名を手に入れました。正統性というのは必ず認められる。そう思われませんか?」


 その言葉に首を竦めて、曖昧に対応する。彼の冤罪の証明には怪しげな部分が多いと聞いている。それでも、跳ねのけた彼は才に恵まれた者の一人だろう。


「正統性ではなく、君の才に私には見える。真相は知らぬ。だが、正統性も、名が持つ地位も、これからは関係なくなる。恵まれた力はこの国の為に大事に使うとよい」


 一礼したジルベールの横を、精一杯離れて過ぎようとする。彼は反旗派の一人で、疑惑の多い人物だ。あまり近づくべきではない。


 目の前でジルベールが私の行く手を阻む。楽し気な口元とは裏腹の暗い眼差しに、慌てて顔を伏せる。


「不公平な社会の不公平な正統性。正しい評価と埋もれる才能。ベッケル宰相様、王の施策はまやかしだと思いませんか? この国に王になれる人間は本当に、王族にしかいないのでしょうか?」


 その言葉に胸が揺すられる。かつて陛下の教育の為に立ち入った居住区で見た一枚の絵を、私は忘れる事ができずにいる。


「何を当たり前のことを……。その発言は不敬になる。言葉には気を付けよ、ラヴェル伯爵」


「当たり前? 力を秘めたまま埋もれた者を、惜しいと思っているだけです。いつも一部の者だけが世界を決める。才は一部の誰かの目に映る評価でしかない。王家の血を僅かに引き、高い魔力を持っていても、一握りの血筋に名を連ねなければ王とは認められない」


 祖父の弟は珍しい黒の瞳を持っていた。高い教養と人を惹き付ける魅力で、ベッケルの歴史の中でも俊才の人だった。幼い私に剣を教えて教師を務めた人は、地方の文官で生涯を終えた。


 何代も前に、我が家に降嫁してきた傍流の王家の女性がいる。その血が誰の流れを受けているか、一枚の絵画を見て私は知った。


「……」


「宰相様は、同じであるのに、同じでないのはおかしいと思いませんか? 運なのか、境遇なのか、地位なのか。誰かを見て羨む事を諦めてしまってませんか?」


 息子の瞳を思い出す。グレーの瞳は覗けば、奥底に小さく黒が揺らぐ。愛想のなさが嫌われて、文官として選ばれることはなかったが、魔力は学年でも一番高い上位だった。


 黒い髪で黒い瞳。傍流であるには関わらず、注目を浴びた一人の王位継承者を私は知っている。彼のような色濃さはないが、彼と同じ可能性を息子に見る私は馬鹿なのだろうか。


「ラヴェル伯爵。地位には地位に見合う責任が伴う。誰もが生きていれば同じというのは、君の意見でしかない。私はこの国の最上位の臣下として、それを間近に知っている。不敬と断罪されたくなければ去りなさい」


 ジルベールが私に向かって、道化の様な大げさな礼をとる。


「寛大な対処に感謝いたします。私は反旗派と言われておりますが、正確には中立派です。ただ、惜しいと悔やむ世界をきらっているだけ。今後、言葉には気を付けましょう」


 ジルベールの横をすり抜けて階段を一歩一歩降りていく。

 息子の瞳を見た時、珍しい色を神の贈り物だと思った。

 今は、素晴らしい血を引いている事も知ってしまった。

 何時だって、息子は少しだけ損をしていただけだ。傑物と呼ばれる目立つ者達の陰で、彼の本当の才は追いやられてしまっただけ。


 ベッケルの名を守ろうとする私は、ベッケルの名を卑下している。ファビオにつく名が違ったのなら、瞳の奥に僅かに黒を持つ息子は、彼らと同じ位置に立ったかもしれない。

 

 だから、金の髪に紺碧の瞳を持つ陛下の評価に、暗い嫉妬を淀ませてきた。


「ベッケル宰相様。恥ずかしながら我が家は私と弟が争っており、天使の歌声と有名なラヴェルの楽団は私の手元にはございません。ですが、私も一つ楽団を作りました。気が向きましたら、是非お声掛け下さいませ。素晴らしい演奏を聞きながら、未来を語りたく存じます」


 底冷えするような男の声が、甘美な誘惑に聞こえた。でも、振り返ったら戻れない奈落が待っているような予感がはっきりとあった。

 背を向けたまま、ゆっくりと階段を下りきる。まっすぐ進むべき足が止まる。


 朽ちていくだけの大樹が、再び花を咲かす。それに何が必要なのか。

 

―――――


このあとベッケルさんはジルベールを招いてしまいます。

ちなみに上はあくまでもベッケルさんの視点です。真実と異なる部分が含まれます。


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