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人ならざる者と一波の終わり キャロル17歳

最大限減らしましたが、流血描写が少しあります。

 小さな石が乾いた音を立てて、魔物の唸りが渦巻く渓谷を転がり落ちていく。魔物の王の気配に気圧されてか、ジルが一掃した後の崖を上がってくる魔物はない。


「ジル、撤退の状況はどうですか?」


 漸く出せた声は酷く震えていた。

 撤退も自分で確認したいけれど、顔を動かす事すらできない。魔物の王から目を逸らせば、一瞬で全てが終わる恐怖が心を支配していた。


「あと少しでございます、まだ僅かに見える範囲に兵が残っております」


 その言葉に頷く。まだ大丈夫だ。魔物の王との距離にも、まだ余裕はある。


 どうしたらいいのか。どうすればいいのか。

 

 一歩、一歩、魔物の王が近づく度に、私の中の恐怖が増幅する。赤い瞳には、私の恐怖を知る様な愉悦の色が増えていく。


 魔物の王の靄に飲まれた衝撃。吐いた血だまりの色。軋むような体の悲鳴。それから、横たわったジルの白い顔。

 過去の恐怖が頭を過ぎり、額を汗が滑り落ちた。恐怖心が煽られて、叫び出したくなる。


 ジルが私の腕を引いて、庇うように前に出る。少しであっても男の視線が途切れると、心の緊張が和らいだ。


「また、その男か。邪魔をするな。我が楽しみたいのは転じる子だ」


 抑えた声音に怒りをちらつかせて、魔物の王が言う。


「また、と申されましても退くわけには参りません」


 闇の魔力がうねる気配を感じると同時に、風の魔力が動いてジルが術式に魔力を乗せた。魔法と魔法がぶつかり合う衝撃に目を閉じる。

 

「前回、潰れた魔法を弾いたか……時折、人は面白い。だから、我が人に必要だ」


 魔物の王の声が響く中、ジルが回復薬を口に含んで噛む。さっきも回復薬を飲んでいた。続けて放った上級魔法は三つ目でいずれも、ジルが使う中で強力な部類だ。魔力の残りは確実に減っている。


 振り返った背後には、兵の姿は目視できない。気配はまだ近くにあるが、あと少し頑張れば逃す事ができそうだった。私も回復薬を口に含んで、すべき事と出来る事をもう一度考える。小さく腕を回して、副室長さんに魔物の王が現れたと伝達魔法を飛ばす。


 この勝負には勝ち目はない。私が出来る事は、兵を無事に撤退させる事とアレックス王子の為に情報を集める事だけだ。

 

「ジル、下がって下さい」


「お断りいたします。私の背から出ないでください」


 前に出ようとした私を抑える様に、ジルが後ろに手を回す。その腕に揺れる証に目を落とす。きっとジルは私を置いては逃げてくれない。最後の最後まで、私の側に居るのだろう。私に出来る事以外にすべき事が増える。


「魔物の王は私と話したがってます。私も話したい事があるんです。時間を稼ぐために必要な事です。前に出る私を、側でずっと守って下さい。必ず一緒に逃げましょう」


「……必ずと、お約束いたします」


 ジルの手が下りて、僅かに背が動く。

 再び魔物の王の視線が私を捉えた。今度はちゃんと見つめ返して、直ぐに術式が書けるように指先に魔力を乗せる。

 怖いという気持ちは変わらないけれど、すべき事がはっきりした今なら、私はどこまでも抗える。


 楽し気だった魔物の王の瞳が曇った。不服そうに下げた唇が、また呪いの様な冷たい声をあげる。


「我は、抗う者の目は嫌いだ。彼奴の希望を消した存在が、どうしてその目ができる」


 転じる子と私を呼んで、希望を消したと魔物の王は言う。そして、彼奴と呼ぶ誰かに酷く執着する。

 魔物の王は何を知っていて、何を求めて大崩落を繰り返すのか。


「魔物の王よ。絶望を見たい彼奴とは誰なのです?」


 魔物の王の瞳に、僅かに憎悪の炎が灯った。

 敵意の対象を問うのは尚早だったかと、後悔の念が浮かぶ。でも、彼奴がはっきりしなければ魔物の王の言葉は決して解けない。後に引かない決意を込めて、ユーグが教えてくれた可能性を口にする。


「貴方が何度も対峙した光の女神は、その力を泉に変えて消えました。でも、彼女は欠片として残った。今、人として生きて抗う彼女が絶望を見せたい彼奴ですね?」


 歩むのを止めた魔物の王が、絶望した暗い眼差しでゆっくりと術式を書く。


「ジル、結界を!」


 守る為の術式を書く。結界の術式は書くのに少し時間が掛かるけど、受ける事に関しては有利だ。ゆっくり魔物の王が術式を書く今なら間に合う。


 私とジルが二つの結界を展開すると同時に、人ならざる者の大きな力がぶつかる。

 一拍の間の後、硝子が割れるような音が響いてジルの結界が割れる。そして、私の結界も硝子のように砕け散る。

 魔力の残滓が飛び散る中で、再びジルが強力な魔法を放つ。重ねる様に私も最も強い魔法を放つ。

 二つの結界を破った一つの魔法と、二つの全力の魔法。漸く魔物の王の魔法が、動きを止める。大きな破裂音が響いて、跳ね返る衝撃と共に双方の魔法が弾ける。


 全力じゃない一つの魔法を止める為に、私とジルがそれぞれの最高の魔法を二度ずつ駆使した。何度も撃ち込まれれば、簡単に魔力は尽きる。そして、全力の一撃は二人だけでは決して防げないだろう。


 魔物の王が怒声を上げる。


「神である事を捨てる過ちを選び。今度は人となって我を永遠に捨てるというのか?」


 悠久の時を生きる二人の人ならざる者。魔物の王と光の女神。絶望を見せたい相手に、浮かべた感情は喪失感だった。憎悪だけでは説明できない魔物の王の不安定な感情に繋ぐ言葉を迷う。

 

「貴方は、光の女神の今を知らないんですか?」


「知らぬ! 我を嫌って、何度も何度も歪みに閉じ込めてきた。それでも、唯一永遠に供にあるから、許してやった……。苦しめばいい、嘆けばいい。捨てた者に壊されて、悲しみに顔を歪めて、人になった事を悔やんで叫ばせてやろう」


 喪失感を感じる相手に向ける真黒な憎悪。私の理解できない暗い感情の流れに困惑する。

 私を見上げた暗い眼差しに、背筋が凍り付く。天を仰いだ魔物の王が、狂ったように哄笑を上げ始めた。

 耳を塞ぎたくなるような不快な笑い声が、渓谷に響き渡る。


 魔物の王の笑い声は、決して覗いてはいけない人の心の底にある何かを揺らす。

 侵されそうな心に耐えきれず叫ぶ。

 

「貴方の感情が喪失感なら、悲しいや寂しいや恋しいのではないのですか! 捨てられたと感じるのは、居て欲しいと思うからです! 何故、そんな風に真黒な感情をぶつけるのですか!」


 魔物の王の笑い声が止まった。納得のいかない子供のような憮然とした顔で私を見上げて、また渓谷をゆっくり登りだす。


「転じる子。お前は良く喋る。喋る者は好ましい。そして、お前の言葉は彼奴の言葉とよく似ている。白くて、美しくて、甘い。そして、転じる子の道化。お前の瞳も面白い」


 歌う様に言葉を重ねながら、魔物の王が上機嫌になっていく。激しい感情の変化に怯える私の肩を、ジルがそっと抱き寄せる。


 赤い魔物の瞳が柔らかい弧を描く。小さな子供が満足した心からの笑顔と同じに見えて戸惑う。


「転じる子、その道化。お前達の欲望を叶えてやろう。何が壊したい? 何を奪って欲しい? 誰が憎い? 我儘で利己的で、多くの者が目を逸らし、心の底に隠している欲望。それこそが、最大の快楽を生める。我がそれを手に入れる道を教えてやろう」


 無垢な笑顔で魔物の王が高らかに言い放つ。魔物の王はこうやって、人を唆して支配してきたのだろう。憎悪や嫉妬や羨望。暗い感情は誰にでもある。多くの人はその感情を負と知っていて抑える。でも、圧倒的な力に囁かれれば、望みを口にし欲望のまま道を踏み出す者も生まれる。あの男も魔物の王の言葉に乗ってしまった。

 

「ジルベール・ラヴェルは貴方にどうやって出会って、何を望んだのですか?」


 父上の代わりに、この世界の悪役になった男の名前を口にする。


「あぁ。渓谷に死のうとやってきた憐れな男か。類まれな才を持ちながら、身分違いの愛に零落した。全てを失って流転し、再び信じた者に騙され、愛する者を最後に殺した。悪意の全てを詰め込んで、絶望した者の欲望は執着と憎悪だった」


 ジルベールの二十年以上の空白を語る言葉は、曖昧なのに凄惨だった。私とジルを含み笑いを漏らしながら魔物の王が見つめる。


「お前達も、この国の終幕の役者の一人であったな。嘆きが見たい。絶望が見たい。どうせなら壊れた後が欲しい。願いは、全ての後にしよう。憐れな男が、忘れる者達の国を壊す絵図を書いた。全てはもう手の中にある。閉じ込める者の切り札は失われる」


 その言葉に息を飲む。大崩落の発生は魔物の王の発現で確定する。でも、人と人の争いに確定の決め手はない。魔物の王の言葉は、人と人の争いがまだこれからと仄めかす。


「ジル、副室長に魔物の王の言葉を連絡したいです。何とか隙を……ジル?」


 返事がない事を訝しんで二度名を呼ぶと、慌てたようにジルが答えを返した。


「申し訳ありません。一瞬、考え事をしておりました。直ぐに連絡は必要ですね」


「大丈夫ですか?」


「ええ。大丈夫でございます」

 

 頷いて、腰の剣がいつでも抜ける様に手を伸ばす。

 魔物の王は、服の刺繍まで見取れる距離まで近づいて来ていた。

 終幕の舞台の役者と呼ばれた私たちが、ここで殺される可能性は下がった。でも、今すぐに解放はしてもらえないだろう。

 逃げれば追いつかれる。傷を負わせて撤退させるか。魔物の王が飽きるまで待つか。


 私よりもっと暗い闇の魔力が動く。魔物の王が、この時点で最悪の選択肢を告げる。


「だが、憐れな男は転じる子を厄介だと言っていた。お前は思いの外良く動いて、計画の邪魔ばかりする。少し壊れてもらった方が良いだろう」


 術式を書こうとした魔物の王の前に飛び込んで、ジルがその指先を剣で切り上げる。魔物の王が僅かに体を引いて避けると、指先の魔力が途絶えて術式が消えた。

 追うように二撃目をジルが払う。腰から抜きかけた湾曲した刃で魔物の王が受け止めて、唇を歪める。


「本当に道化だ。勝てぬのに飛び込んで。得られぬのに命を尽くすか」


 ジルが息を吐く様に笑って、魔物の王の剣を押して飛び退る。


「誰にも分かって頂かなくて結構です」


 踏み出すと同時に剣先が伸びて、魔物の王の鼻先を掠める。

 攻撃は息を呑む程早く柔軟で、鍛錬では見せない力量は騎士の中でもトップレベルに通じる程だった。


「ノエル様! お逃げ下さい!!」


 叫ぶと同時に空いた手でジルが中級魔法を放つ。無謀な剣での戦いの意味を悟って、唇を噛む。

 新しい魔法だから、消費量を予測しきれてなかった。ジルが使ったのは、いづれも私より強力で大規模だった。ジルの魔力は、底を尽きかけてる。


 流れる様に剣を振るって、ジルが魔物の王から術式を書く隙を奪う。でも、魔物の王の顔に焦りはない。

 

「無理をしないと、一緒に逃げると約束しました!」


 叫ぶと同時に上級魔法の術式を書く。魔物の王を黒い闇の渦が襲う。勝機と呼べるかわからない小さな可能性に地面を蹴る。

 ジルの剣戟を片手で受けた魔物の王が、空いた手で私の魔法を封じる為の術式を書く。魔物の王の魔法と私の魔法がぶつかって弾けた。魔法の影から姿を現した私に、魔物の王が目を見開く。


「――っく、転じる子!」


「負けません!」


 避けきれない距離で、二本の剣を続けて払う。はっきりとした手応えが一度、空を切った感覚が一度。

 最初の剣が魔物の王の褐色の腕を捉えて、黒い靄が立ち上った。魔物の王が大きく顔を歪める。仰け反るように避けられた二撃目は、刃が掠めた赤い髪を散らす。

 着地した私を背に庇うようにジルが出て、たたらを踏んだ魔物の王の首筋を狙う。

 間合いも速度も十分。一瞬、私は確かに勝ったと確信した。相手が人ならざるものである事を忘れて。

 

 大地を揺るがすような咆哮を魔物の王が上げる。人には決してできない領域で、魔物の王の剣がジルの剣を受け止めた。


 私の剣が傷つけた腕の傷から、黒い靄が上がり続ける。荒い息をしながら、魔物の王が獰猛な眼差しを私達に向ける。


「転じる子、煩いお前の二本の腕は、必ず壊してやろう」


 形勢を一変させたのは技量じゃない圧倒的な身体能力の差だった。瞬きの間に、ジルの剣が押し返されて、砂煙を上げて体ごと吹き飛ばされる。


「ジル!」


 駆け寄って腕を引くと、お腹を押さえてジルが小さなうめき声を上げる。絶望に震える手で、ジルの手をとった私の背後に、怒りを纏う黒い影が差した。

 恐怖に座り込みそうになって、顔が歪む。泣きたいんじゃなくて、どうにもならない事に胸が苦しくなる。


 振り返ろうとした私を、ジルが庇うように抱きしめる。守るように胸に抱いて、ジルが魔物の王に背を向けた。ジルの肩越しに、獲物を嬲る獣の表情を浮かべた魔物の王と目が合う。


「道化よ、守るか。ならば、転じる子よ。痛みより辛いものを見るといい」


 目の前で私を抱きしめて庇う人が、私の代わりにその背に一方的な蹂躙を受けて傷ついていく。


「嫌! ジル、約束です! もう離して!」


 ジルの手が私が飛び出さない様に、強く抱きしめ続ける。


「ダメです! 無理しないって言いました! ジル! お願い!」


 私の頭を押さえて、ジルの手が視界に移る血の色を隠すように肩に埋めさせる。真黒な視界の中で、ジルの抑えた呻きと魔物の哄笑が重なる。


「ジル……。お願い……もう」


「必ず……お守りします。それ、が……私の、約束です」


 ジルを押し返そうと腕には、必死に力を籠めている。でも、本当に嫌なら発動する筈の誓約は動かなかった。

 この腕を出れば、魔物の王は私を壊す。本能が優しい人の腕の中が、私の最期の砦と理解していた。

 

「ごめん……なさい。ジル。ごめんなさい。守られてばかり……。怖くて、腕をはねのけれないなんて……」


 魔物の王が望み通りの展開に歓喜の声を上げる。


「転じる子よ。道化と自分の命を秤にかけるのは、怖いか、悲しいか? 恐ろしいか、絶望するか? 責めさいなむ呵責に苦しめ」


 全てがその通りで、体がおかしくなったように震える。私の髪に頬ずるようにジルが首を振る。


「耳を、貸しては……なり、ません……。大丈夫。致命傷じゃ……ない。私は、殺され……ません。守らせてくだ……っ」


 ジルの体から力が抜けた。声にならない悲鳴を上げる。

 尚も守るように私を抱き続ける腕を抜けて、胸の中からジルの頬に手を伸ばす。浅い呼吸の音に、今は意識を失っているだけだと知って安堵する。


 顔をあげて魔物の王をみると、満足げに私に微笑みかけてきた。魔物の王は、残酷な事になんの迷いもなく突き進める。


 一緒に逃げる。それだけは守りたくて、今度はジルを私が抱きしめる。手の平に触れた生温かい血の感触に、頭の中が真っ白になった。


「どう……して? どうして? 貴方が、どうしてこの世界にいるの? 貴方なんて、いなければよかったのに!」


 感じたことのない強い怒りを魔物の王に向ける。喜色を消した魔物の王が、冷たい眼差しで私を見下ろす。


「誰を罵っても呪っても、我はこの世界の為に生まれた。光の女神が必要だったように、共に生まれた我もこの世界に必要だった筈だ! 我が人の欲を動かして、人が欲望の為に強くなる。そうして、進んだ歴史がある。なのにお前たちはいつでも、我を忘れて罵る!」


 魔物の王が嘆く声を上げて、地団太を踏む。

 私が生きる時間の中で、他者を顧みない一方的な欲を良いと思った事はない。でも、この世界には光の女神がいて、魔物の王がいる。魔物の王が叫んだ通りに、欲が動かした歴史が今を作ったのだろうか。


 私の周りで戦う人たちの顔が浮かぶ。最善を尽くすと言った人達。未来の誰かを救うと誓う友。一人でも救いたいと笑った愛しい人。私の周りはいつも大切なものを守る為に、全力を尽くしてきた。

 

「私は貴方の意味を認めたくない! 欲が動かす歴史なんて、絶対に誰かが傷つく。私達はいつだって、誰も傷つけずに済むように頑張ってきた!」


「我をいらぬと言うのか! お前の姿は、我のお陰なのに!」


 以前にも私を救ったと口にした。そして、誰も知らない筈の私の前世の事も言い当てた。でも、私の記憶に魔物の王の姿はない。


「私は貴方を知らない」


 魔物の王が私の顔に、顔を近づける。ジルを抱きしめて、その目を覗き返す。血の瞳が、また子供の様な優越の色を湛えて楽し気に歪む。


「漂うお前を拾った。お前は我の世界で、一瞬だけ楽しいものだった。彼奴の希望など、叶えない。でも、お前は生かしてやろうと思った。塗り替えて捻じ曲げて今のお前がいる」


 私の顔に魔物の王が手を伸ばした瞬間、足元で闇の魔力が動いた。魔物の王が飛び退いて避ける。

 その魔力は、魔物の王の力でも私の力でもない。別の誰かの闇の魔力が、魔物の王の足元だけを追って捕える。

 忌々しげに魔物の王が打ち払う。だけど、生きた枷のように魔力は蠢いて、魔物の王の足元から決して離れない。


「父上……? お父様!」


 崖を見上げて叫ぶ。そこで、私達を見下ろしたのは、父上ではなく坊主頭に紫の瞳のじいじだった。


 術式を書こうとした魔物の王の指先を、再び闇の魔力が動いて捕える。闇魔法はアングラード侯爵家に多い属性で、紫の瞳はアングラード侯爵家の直系に多い。


 じいじが初老とは思えない身のこなしで、崖を飛びおりてジルの肩に腕を回す。


「キャロル、上にあがるぞ」

 

 頷いて反対からジルを支えて崖を駆け上がる。後ろで魔物の王が怨嗟の言葉を吐いた。

 その言葉にじいじが舌を出す。


「息子みたいな大規模で大雑把なのは性に合わない。局所での精密な魔力の制御が私の十八番だ。魔物の王であっても、私が本気で制御している局地の魔力からは、簡単に抜け出させぬ」


 背に感じる闇の魔力は、小さな場所を濃密に精密に捉える。蠢いて緩まぬ枷が、壊しても壊しても何度も纏わりついて魔物の王の動きを封じていた。

 

 ジルを連れてじいじと崖を上がった所に、もう一人意外な人物がいた。柔らかそうなピンクの髪を風に揺らして、愛らしい笑顔を私に向かって浮かべる。


「ルナ……」


「ノエル様。これをお渡しておきます。お約束通り、微力ながら力を振わせて頂きます」

 

 ルナが私の手に折りたたんだ紙を握らせた。それから崖際に立って、長い術式を書き始める。

 魔物の王が驚愕の表情を浮かべて、じいじの魔力を強い力で強引に振り払った。ルナに向かって、求める様に手を伸ばす。


 あの日と同じように、目を開けられない程の強い光が空を覆った。僅かに開けた視界にルナの体から、小さなリュウドラが抜け出して空を駆けあがるのが見えた。


 現実感のない光景に頭の片隅で、クロードも同じ光景を見ているだろうかと考える。


 光の中心に辿り着いた伝説の生き物が、咆哮を上げる。瞬間、空を満たしていた光が、滝のように渓谷の中に落ちて全てを白で満たす。

 空から眩い光が消えて、巨大な地下渓谷を凪いだ湖のように白い光が満たした。


 ルナの体がぐらりと揺れて、ジルをじいじに託して駆け寄る。受け止めたルナは目を閉じて意識を失っていた。 



 大きな荷馬車に揺られて、ワンデリアの当主の館を目指す。

 あの後、副室長さんに、人と人の争いが終わっていない可能性がある事だけは連絡した。ルナの事はまだ告げていない。返事が来ない理由がはっきりしない今、全ての事態に警戒が必要だった。


 背をつけない様に座るジルに声を掛ける。


「ジル、横になって良いですよ?」


 私の言葉に、まだ真っ白な顔に苦笑いを浮かべて首を傾げる。


「横になる方が、今は遠慮したいです」


 ジルは馬車がつく前に目を覚ました。

 泣く私の頬を撫でて、以前の様に体の中を壊された訳じゃないから、すぐに治ると笑ってくれた。でも。背中の傷はとても酷い。

 ジルの肩を叩いて、背中に毛布を敷き詰める。


「ちょっとは楽ですか?」


「はい。とっても楽でございます」

 

「まぁ、数と範囲は酷いが傷は致命傷にならない浅さだ。嬲るのが目的だったんだろう。そら、ジル回復薬を沢山飲んでおけ、治りが早まる」


 ジルに向かってじいじが回復薬をいくつも投げる。受け取ってジルが頭を下げる。


「ありがとうございます。大旦那様」


「うむ。早く回復して、キャロルの側に付いてもらいたいからな。だが、次は倒れるなよ」


 そう言って、口の端を上げた顔は父上によく似ていた。

 九歳の時から村代表でオレガの息子ツゥールだと思っていた人は、アングラード侯爵家前当主で私の祖父であるオディロン・アングラードだった。

 その顔をじっと見つめる。私と目が合うとオディロンおじい様照れたように笑う。でも、笑顔に騙されてはいけない。


「おじい様――」


「じいじ、のままで良いぞ。幼子は祖父をそう呼んで甘えるものだ」


 そう言って得意げに笑う。

 思い返せば気づくことは、幾つもあった。頭と名前の一致にじいじという呼称に飛びついたが、本来はそんな提案はしない。オレガの瞳の色とも顔立ちも違う。服装もあの村の者にしては妙に粋だった。

 そういえば、じいじに会った後のクレイが、アングラードにはたくさん面白い狸がいると言ってた。あれは絶対、じいじを含めての発言だ。


「お父様もじいじの事を、途中から知ってらしたのですよね?」


「ああ。一度クレイに見られているからな。でも、表面上は何も言ってこないから知らぬ振りだ」


 父上はじいじとは余り良好な親子関係とは言えなかった。

 キャロルとノエル。二つの私の存在に対してじいじの出方が分からずに、父上は極力接触を避ける事にしたのだろう。

 

「では、じいじは何故、ツゥールのふりをしていたのですか?」


 出会ったのは私がキャロルだった頃で、私が女の子か男の子かを親族にすら伝えていなかった時期だ。探りを入れに来た可能性は大いにある。


「孫娘との穏やかな余生の為に」


 じいじが真面目な顔で言いきって、私を手招く。近寄ると膝の上に乗せて、私に頬ずりする。


「レオナールは、孫が生まれても連絡してこない。聞けば、公前だとつれない返事だ。引退後の領地巡りの途中で一計を案じた。キャロルが姿を見せる領地で領民の振りをして触れ合ってしまえとな。その後は、知らぬふりのままレオナールと綱の引き合いになってしまってな」


 キャロルに戻したい祖父と、ノエルでいたい私を尊重する父上。あの父に、この祖父あり。接触を持たないまま、水面下で二人は意見を対立させていた。だから、終わらせる時期について、父上の歯切れが悪かったのだ。


 にこにこと私と同じ色の瞳を細めるじいじに、身分を貸したツゥールの事を問いかける。


「では、本物のオレガの息子ツゥールは、何処に行ったのですか?」


「あれは、探求者をやっている。シュレッサーの当主の癖の強い字の書状を持って、素材探求者石担当らしい。時々ワンデリアの研究所に戻るようだが、基本的には国中を転々としてるよ。好きな事を仕事にして幸せそうだ」


 意外な所属先に驚く。今度ユーグに問い合わせてみよう。


 一つ頷いて、じいじの頬を両手で抑えて覗き込む。一番気になって、許せない事を口にする。


「じいじ。ずっとワンデリアにいらっしゃいましたね。おばあ様はどうしたんですか?」


 目が激しく泳いでいるけど、逃がすつもりはない。じいじの顔をしっかり固定したまま、少しだけ怒りを込めた眼差しを向ける。


「キャロルの存在に精霊の子を仄めかして、お父様がおばあ様に伝えたのはご存知ですよね?」


 おばあ様が馬車の中で告げてくれた葛藤を、じいじはどれ程理解しているのだろうか。それに、おばあ様は自分の事を飾り物の夫人と言った。

 ワンデリアで共に過ごしたじいじは好きだ。でも、おばあ様を悲しませるじいじは嫌いだ。


 じいじが諦めた様に、小さなため息を吐く。力ない声でぽつりぽつりと呟きだす。


「知っていたが、バルバラの力にはなれない。私は役に立たない形だけの夫なんだ。いつも私が選ぶ答えは、彼女を満足させない。一番苦しい時ですら、家族を守る為の選択がバルバラを傷つけた」


 人生は小さな秘密と掛け違えがたくさんがある。私を取り囲んだ小さな秘密のピースに、答えが出たなら正しい場所に導かなきゃいけない。


「じいじは、おばあ様の事がお好きですか?」


 首を傾げて問うと、じいじが口を空けたり閉じたりと忙しなく言葉を選ぶ。


 さっきのじいじの言葉は、ちゃんとおばあ様の事を想っていた。でも、じいじの最善が、おばあ様の最善じゃない。おばあ様はじいじの行動を、決まりを破った事を隠す為と口にした。でも、じいじは家族を守る為の選択と言って、おばあ様を傷つけた事を悔やんでる。 


 おばあ様と父上が言葉を交わして互いの本音を知った様に、おばあ様とじいじにも本音を伝えあって欲しい。

 おじい様が僅かに頬を染めて、口を開く。


「私は……る。できるなら……に、ワンデリアで……。苦労を掛けたから、せめて残りは……」


 所々小さくなる言葉は耳を近づけて、しっかり聞き取った。じいじの首に抱き着く。


「じいじ、大好きです。今すぐ、おばあ様に伝達魔法でその言葉を伝えて下さい。大崩落が始まって、おばあ様も不安で寂しいです。どうぞありのままを伝えてあげて下さい」


 全てが終わったら、じいじとおばあ様もゲートを使えるようにしてもらおう。これからは、シャロルと私にもいつでも会える。

 長い冬に閉ざされていたアングラード家に、本当の春が漸くやってくる。


 じいじが私を降ろして、馬車の後ろに伝達魔法を送る為に消えた。きっと真っ赤な顔で、囁くように言葉を紡ぐのだろう。


 ジルの隣に移動して座る。

 馬車の荷台に横たわるルナは、眠る様に穏やかな息で目を閉じていた。

 じいじとルナは要に着く直前の道で会ったそうだ。領民かと思ってじいじが退避を指示したところ、私の名を出して中規模崩落で一緒だったことをルナが告げた。おかしいとは思う部分はあったが、要はすぐそこだった為にじいじはそのままルナを連れてきた。


 既に一度読んだルナの手紙を取り出して、もう一度開く。


『 殿下、カミュ様、クロード様、ノエル様、ユーグ様、ドニ


 誰かがお手紙を開いて下さっていると言う事は、私は無事に一つだけ皆さんのお役に立てたのでしょう。

 私が使った術式は、私が人でなかった頃の最後の力を振り絞ったものです。

 渓谷内の魔物の半分は消失し、一時的に魔物の王を封じ込め、僅かに力を削ぐことができる筈です。

 術が解けるのは五日後。それまでに、準備を勧めて下さい。


 そして、最後に一つお願いがございます。

 厳しい日程ですが、五日後までに私を王都へ運んでください。

 意識を失いますが、体に別状はありません。

 最後までたくさんの秘密と我儘を抱える事をお許しください。

 皆さんと会えて良かった。でも、私自身として、もっと前に触れ合ってみたかった。

 ルナ・サラザン』


 ルナの望みを叶える為には、すぐにでも発たなければ間に合わないだろう。でも、今動くことは出来ない。


「ジル、ゲートを使う方法なんですけど詳しく知っていますか?」


「どうかなさったのですか?」


「五日後までにルナを王都に届けたいのです。でも、副室長さんからも騎士団からも何の連絡もなくて、とても嫌な予感がします。ワンデリアを馬車で駆け抜ける事も、ルナの事を知らせるのも、事態がはっきりしてからがいいです。でも、それでは間に合いません」


 ジルが薄い唇を撫でて考え込む。ジルも私もゲートが使えるけれど、私達自身で大きな手続きをした覚えがない。当主の役割なのかもしれないが、記したものを見た事はない。


「ユーグ様に連絡を取ってみては如何でしょうか? あの方でしたら情報をお持ちでしょう。王都にいても、返事は必ず間に合います。ワンデリアにいたら、直接来てしまう可能性もございますが」


 苦笑いを浮かべたジルの言葉に頷いて、手首を回して伝達魔法を発動する。


「ユーグ。今どちらにいますか? 私は無事です。教えて欲しい事があります。ゲートに新しい人を登録する方法を知りたいです。簡単で最速の方法を教えてください」


 ツーガルが空を駆けだすのを見送って、ジルを見上げる。

 私の為に再び傷を負った人。命を懸けて私を守ってくれる人。あと何度、私はジルに無理をさせてしまうのだろう。ジルが向ける想いに決して返す事はしないのに、愛情ばかりを貰い続ける。

 

 私を見降ろしてジルが優しく笑う。今は優しい従者の眼差し。時々その目にアレックス王子と同じ熱が浮かぶ。

 知っている事を告げて、返せないと言ったら、酷い怪我を私の為に負う事はなくなるだろうか。でも、私の元を去ってしまうだろうか。


 家族と恋人。

 ジルが好き。アレックス王子が好き。

 ジルの側に居ると安心する。いつでも私は小さなキャロルに戻って甘えられる。

 アレックス王子の側に居ると触れたいと思う。触れられると溶けそうな心地に包まれる。


「ジル。ありがとう。でも、ジルの約束は嫌いです。いつでも私を置いていきます。ジルに幸せになって欲しいのに、ジルは私の為に自分が消えてしまいそうな選択を選ぶ」


「……私の幸せは貴方の幸せですから」 


 ジルが膝の上でゆっくりと手を握りしめる。その手が掴む一つだけの幸せは私だけの幸せ。愛を幸せと呼ぶなら、私の愛の行き先を知るジルは、自分の幸せが零れた事を知っている。


 人のざわめきが大きくなり始める。席を立って荷台の幌を上げると、まだ伝達魔法と向き合うじいじがいた。


「じいじ! もう、送りましたか? ダメですよ!」


 私に怒られた時の父上と同じような顔になって、じいじがため息をつく。ツゥーガルに唇を寄せて誰にも聞こえない声で囁くとツゥーガル空を駆ける。

 それが合図のように前方で大きな歓声が上がった。


「ほれ、姿勢を正せ。当主代行として民の声に応えるのも仕事だ」


 じいじの服の袖を急いで掴む。

 馬でワンデリアを駆け抜けた時は、歓声にこたえる事は大事な仕事で必要な事だった。でも、今はとても気恥ずかしい。


「じいじ、前当主も応えるべきだと思います」


 じいじが笑って、側に立ってくれる。馬車の後ろに立つ私たちを見つめる兵と領民に、一時の勝利を宣言し、まだ続く戦いを鼓舞する言葉を掛ける。


 大好きな場所に笑顔と歓声が大きくこだまして、ワンデリア大崩落の一波の攻防が幕を閉じた。



 領主の館に入ると、ルナを当主の寝室で休ませるように指示をする。そのまま屋敷に戻る為にジルを伴って、じいじと今後の対応を相談しながら当主の間に向かう。


 当主の間には連絡役を頼んだ執事のヴァーノンが来ていた。強く唇を噛んで一礼する手には、二通の書状を携えていた。


「大旦那様、ノエル様。ご報告を申し上げます。ラ・ファイエット大公家、騎士団より書状を預かっております。何者かの手に王城が陥落いたしました。詳細を確認中とのことですが、中にいた者全てが囚われの身となっております」


「アレックス殿下もですか?」


 耳に響く声は自分のものじゃない程、遠くから聞こえた。


「はい。ご無事かどうかの確認は、まだ取れておりません。それから、レオナール様と同行された方たちの所在も、ワンデリア内で分からなくなったと連絡がございました」


 魔物の王の言葉を思い出す。


 忘れる者達の国を壊す絵図を書いた。全てはもう手の中にある。閉じ込める者の切り札は失われる。


 閉じ込める者の切り札、それがアレックス王子の事であるような予感に目を閉じる。私の道の先にあった明かりが消えた。

 今、自分が何処に立っているのか。何処に行けばいいのか。何をすればいいのか。何もかもがわからなくなりそうだった。

十一月には半日遅れましたが、無事に週二更新です。

久しぶりに、一気書きの時間がとれてました。

一気に書くのが一番楽しいくて、ストレス解消になります。


※ごめんなさい。金曜日に時間が取れませんでした。ほぼ書き終わてますが、誤字のチェックと微調整が間に合いません。月曜か火曜日に更新します。


< 小さな設定 >

本物のツゥールさんからジルはジュエリーケースを買いました。

ワンデリア産業の真の発案者です。


一章の早い段階からずーっと用意してました。このお話で一番ライトな小ネタです。

日の目を見えれて良かったです。


本物ツゥールさん → 屑石アクセサリーの最初の発案者・探求者

じいじ(偽ツゥール) → アングラード前公爵 

職人さん以外の村人は入れ替わりの共犯者です。

やたらとじいじがノエルを抱っこするのも、孫ラブの所為です。

ちなみにじいじは頭を剃ってます。ツゥールの外見の特徴をレオナールがノエルに聞いた時の為の準備です。親子の小さな仁義なき戦いです。



< 小話 >


――ある男の残念なすれ違い 


 何が悪かったのだろうか。

 私の最善の選択はいつも何かを懸け違えていた。


 この国でも屈指の侯爵の家に生まれ、能力も高く評価された。望めば大概のものは叶って、順風満帆と周囲から羨望を受け続けた。

 美しい妻に、優秀な一人息子、この国の有能な文官。私を飾った華々しい言葉。


「だが、今は一人旅か……」


 街道を馬でゆっくりと歩きながら馬上で独り言ちる。遠くで小さな村の教会の鐘の音が聞こえて、若き日の妻の事を想う。


 社交界でも評判の伯爵令嬢だった。気の強い眼差しに怜悧な美貌。でも、細い体で少し澄ました顔には、手を伸ばせば簡単に崩れてしまうような危うさがあった。

 一目で恋におちて欲しいと思った。


「君なら侯爵夫人に相応しい」


 目を閉じてあの日、妻になる前の伯爵令嬢に告げた言葉を呟く。


 結婚を申し込んで、一日を共にした私は彼女の美貌と教養に心から酔っていた。自分の生涯の伴侶にこれ以上の女性はいないと確信してその言葉を告げた。

 でも、伯爵令嬢は表情を変えずに頷いただけだった。

 あの時、何故笑ってくれなかったのだろうか。もっと時間を掛けれて心を解きほぐして結ばれるべきだったのか。

 侯爵家からの申し出に断る家はなく。縁談は波風もなくまとまって、伯爵令嬢は侯爵夫人になった。


 人並の夫婦としての生活はあった。でも、思い描いたような生活はなかった。

 愛していたのに何故なのか。


 街道を進むと、道の端で露店を開く男がいた。人の少ない街道で露店を開くとは、商売気がなさすぎる。一体どんな品を売るのか興味がを持って近づく。


「あっ、当主様」


「おっ、ツゥール」


 近寄って互いの顔に声を上げる。薄い頭頂部に茶色い目の痩せぎすの男は、私がおさめた領地の小さな村の村長の息子だった。変わり者の男は石を愛していつもどこかを放浪している。


「ご当主様お一人ですか? 従者なしなんですか?」


「ああ。あれにも随分、苦労を掛けた。私が引退なら、あれも引退だ。どうやら娘夫婦に子が出来たらしい。時折私の所に挨拶に来るが、私の従者をしていた時には考えられないような甘い顔をしておる」


「あー。孫って、凄い可愛いといいますね」


 ツゥールの言葉に頷いて、馬を降りて売り物に目を落とす。

 並ぶのは石を使ったアクセサリーだ。そのうち一つに領地特産の懐かしい石を見つけて手に取る。


「屑石か。面白い細工をしたな」


「そうなんです。案外削りやすくて加工向きなんです。売れ筋ですよ。庶民だけじゃなくて騎士が買っていった事もあるんです!」

 

 手に取っていろいろな角度から観察する。職人には及ばないが、花ビラを模して掘ったジュエリーケースは悪くない出来栄えだ。

 

 宝飾の細工を見る目には自信があった。ずっと一生懸命選んできたからだ。


 美しい妻を得た頃、私は文官の若手のトップと言われる国政管理室の書記官の地位に着いた。

 誰もが羨んだ私の生活の裏側は、阿保みたいに忙しい職場の所為で家に帰る事も出来ず、何をしているかを妻に告げる事も許されない毎日だった。

 寂しい思いをさせていたからか、妻は私にいつまでたっても余所余所しかった。

 もっと寛いだ顔を見たい。もっと甘えるようなしぐさを見たい。

 そう思っているのに、帰れば何かを語るより、むさぼる様に私は眠りに落ちてしまう。


 せめて身を飾る贅沢をさせてあげたい。宝石やドレスを毎月1日に妻に送る事にした。

 1日にしたのはたまたま最初に送ったのが1日だからだ。始まりの日なら絶対に忘れない。

 文官仲間には、特別な日にすればいいのにと笑われた。だが、続けることに価値があるのだ。永遠の愛を妻に捧げる気持ちで私はいた。


 贈り物を社交界に必ずつけて妻は出席してくれていた。理想の夫婦という賞賛の言葉が増えた。

 だが、普段の屋敷でこそ本当は身に付けて欲しかった。


「日頃からつけろ。もっと飾っていい」


 何度も勧めたが、ついぞ見る事は叶わなかった。

 そういえば、贈り物の礼は言っても、妻は笑った事もない。国で一番のものを心を込めて選んでいたのだが、好みが合わなかったのだろうか。


 腕を組んで考え込んだ私をツゥールが呼んで、我に返る。

 

「当主様、買って下さい。旅費がないんです。食事代もありません。すっからかんです」


 相変わらずの行き当たりばったりな奔放さに呆れる。

 

「一つ買おう。過去の品とは違うが、我が領地の新しい可能性だ。妻に送るには向かないが、何かの折に一緒に贈るなら面白いだろう。趣向を変えたら、あれも微笑むかもしれん」


 あの習慣は今も続いている。

 一人になった今、改めて思う。私の愛は結局、無意味だったのだろうか。

 

 少ない夫婦の時間の中で、早くはなかったが私は子を二人授かった。

 一人は、剣は得意ではなかったが抜群の勘と知恵と魔力に恵まれた。もう一人は剣の才と知恵に恵まれたが視野が狭かった。この子は魔力の量を知る前にこの世を去ってしまった。

 

 子供は不思議の塊だ。言葉も発想も異次元。見ているだけで新鮮で、家にいる時は観察するのが私の趣味になった。小さい頃は見られることを喜んだ子供は、大人になったらとても嫌がるようになってしまった。


「観察するのは楽しいのだがなぁ」


 呟いた言葉にツゥールが頷く。


「当主様も観察は好きですか?」


「ああ。何が出来て何が出来ないか。知っておけば、次に見た時に何ができるようになったか分かる。変化を見るのは楽しくて、胸が弾む」


 誰でも愛しい者を見るのは好きだろう。

 私がアングラード侯爵家の当主だから、我が子を観察をする訳ではない。子が愛しくて、愛しくて、見ているのが幸せだから見てしまう。


 寝返り。はいはい。あんよ。絵本の朗読。社交のマナー。学校の課題。女性のリード。文官のイロハ。

 赤子が幼児に、少年が青年に、最後は可愛げなしの跡取りになった。


 どうして息子は私を遠ざけたのだろうか。


 やはり、私と息子。私と妻の間に大きな溝ができたのは、あの子を失った所為なのか。


 明るい子だった。無茶や我儘をいう事も多いが、天真爛漫な笑顔と好奇心が愛らしかった。

 でも、好奇心が息子を失わせた。


 公になる前の子が決まりを破った末に、出てはいけない町中で殺された。

 叫びたいほどの苦しさの中で、とてつもない悪意が我が家を襲おうとしている気配にきづいた。


 あの頃も妻には、簡単に崩れてしまう危うさがあった。それが、子を失って酷くなる。

 きっとバルバラは剥き出しの悪意には耐えられない。


 そして、上の子は社交界で大きな注目を浴びている最中だった。伸びていく大きな可能性の芽。

 だが、嫉妬に悪意が混ざれば燃え盛る。レオナールを潰させるわけにはいかない。


 守る為に私に出来る事は、公になる前の愛しい子の存在を完全に消す事だった。

 関わったすべてを消す。それはとても難しい。でも、大切な者の為になら時にどんな無茶もこなせる。考える限りの手を寝る間も惜しんで打った。

 3年、5年、10年、15年、長い年月秘密はいつもくすぶり続ける。守り切る為に打ち続けた手は、いつも綱渡りで、話せない事が増えて、口を閉じる事が増えた。


 握られた弱みを消す為に、弱みを握る。でも握られた弱みは完全には消えない。私に着く傷はどんどん増えていく。

 国政管理室室長。そこまで辿り着いたが、これ以上を望むのは絶望的だった。

 最も睨みが効くその地位を退けば、私を引きずり降ろそうとする火は簡単につく。家族を守る為に打った手の所為で、あちらこちらに私に関わる火の粉は撒き散らかされていた。


 上りたかったかと聞かれたら、上りたかったと思う。文官の仕事は嫌いじゃない。もっと好きなように、純粋な文官の仕事がしてみたかった。


 目の前の自由な男を見る。羨ましいと思う。どこまでも自由に行けば良い。


「ツゥール、いくつ買ったら旅費に余裕が出る?」


「買って下さるんですか! 旅費を貸して下さってもいいですけど?」


「だめだ。正当な報酬以外は認めない。好きな事をする為に手は抜くな。ほら、売りたいものを選べ。この後、お前の村に行くから、近況と一緒に皆に配ってやる」


 ツゥールが抜け目なく品物を選んで袋に入れていく。


 自由と正しい評価。それは、とても大事な事だ。

 秘密に縛られ続けた文官時代。同じ境遇は絶対に息子には残したくなかった。

 早い引退と引き換えに大きな博打をうつ。幾つかの家を一緒に追い落とし、まいた火の粉をすべて消した。

 長かった家族を守る為の戦いが終わって、私は当主を息子に譲った。


 今、自由になった私の手には何もない。

 妻は私との間には距離があった。息子は私を疎み。失った子はこの国にいない子になっていた。


「当主様、どうぞ」


「いくらだ」


 ツゥールが指を立てて金額を示す。やや高い気がするが、まぁいい。もう私を囲む敵はいない。抜け目なく綱渡りする必要もない。金を出しながら、一つ訂正する。


「私はもう当主じゃない。今はレオナールが当主だ」


「あぁ、坊ちゃんですね! そう言えば、面白い事を始めてますよ」


「面白い事?」


 ツゥールが語る村の大改革の計画に胸が弾む。

 とても面白い。やはり息子は正当に評価されるべき人材だ。初めて自分のやってきたことに快哉を叫べる気がした。


「それにしても、ツゥールもちゃんと村に帰っているのだな」


 私の言葉に胸元のポケットから1枚の紙を取り出して誇らしげに見せる。

 『素材探求者石担当に任ずる イアサント・シュレッサー』

 癖の強い汚い字は探求者をまとめるシュレッサー伯爵の文字に間違いない。


「ふふっ、石を愛し続けて遂に私も探求者です。シュレッサーの研究所に戻るついでに、村にも前より寄るんですよ」


「ほぅ。好きな事を仕事にする良い人生だな。精一杯励め。私には出来なかった事だ」


 一目見た時から愛した妻バルバラ、才に溢れた自慢の息子、失われた愛しい息子。

 大事な者を守ったのに、愛しい彼らの為の時間は余りにも短かった。思わず肩を落とした私をツゥールが励ます。


「前当主様! 大丈夫です。今は余生を満喫する時代です。今からか貴方様の第二の人生です! 引退されてから随分と明るく丸くなられた! 以前は殆ど喋らないし、強面で近寄り難かったのに、今はとても話しやすいです!」


「そ、そうか……。うむ、何か見つけて老後こそ好きなものを追ってすごそう!」


 ツゥールと別れてワンデリアの崖の村に向かう。

 私はそこで私の第二の人生に好きで好きで、追うべきものと出会う。


 村に逗留した晩、月夜の散歩に出た。ある筈のない、人の気配に闇に溶け込んで近づいた。

 

 滑らかな白い石でできた山肌は月明かりに照らされて美しく輝く。夜の闇と影を抱いた地下渓谷は漆黒の闇。ワンデリアの美しい白と黒の世界の中で、息子が天使を抱いていた。

 

 月を零したような髪の天使が、息子の首に抱き着く。

 思わず乗り出して、隠れていた魔力が動く。息子に付き従った琥珀の髪の男が訝しげに振り返る。慌てて闇に隠れてやり過ごす。


 こっそり見た天使は、面白いぐらいカールした銀の髪を肩で揺らして輝く様な笑顔を浮かべる。愛らしい赤い小さな唇に、我が家特有の私と同じ紫の瞳。柔らかそうなほっぺに秀でた鼻筋。


 思わずバカ息子と心の中で罵る。

 レオナールと私は決して仲が良くない。だからと言って、あんな可愛い天使がいる事を教えないなんて!

 孫について問う手紙を出しても、返事は公になってないから言わないだった。

 待っていてはあの天使と、第二の人生を過ごす事はできないだろう。


 天使と出会う為の計画を練ろう。レオナールに邪魔されない様にこっそりとやる。


 天使の可愛い鈴のなるような声が、暗闇に響いた。


「今年のプレゼントはおじい様には内緒ですが、お父様が一番素敵でした。お父様、世界で一番大好きです」


 天使がレオナールの頬に口づけを落とす。

 羨ましくて地団駄を踏みそうになると、また琥珀の男が私の方を振り返った。


 ぐっと耐えて、去っていく天使の様な孫娘を見つめる。

 絶対に私もあれを望む! 可愛い孫娘を抱っこしたい! 可愛い孫にぎゅうっとされたい! じいじなどと可愛く呼ばれたい!


 私の第二の人生の幕が今開いた。



―――――


じいじこと前当主はとても勘違いされた人です。


「君なら侯爵夫人に相応しい」 → バルバラは自分ではなく侯爵夫人として望まれたと勘違いします。一目ぼれとか、自分に心酔してたなんて全然知りません。


一日に送られるプレゼント → 定期購入と一緒です。何の記念日でもなく毎月決まった日に届く高級品。侯爵夫人としての体裁を保つために送られていると思ってます。まさか時間をかけて選んでるなんて知りません。



子供観察 → 小さい頃は良かったんですが、物心ついた辺りには完全に査定されてると思ってます。レオナールがひねくれた性格に見事に育ちました。


 好きで好きで仕方なく家族の為に戦っていたのに、大事な事を言わなずに掛け違えた人です。

 リオネルがなくなった後は、特に失言を抑えるために家でも外でも口数が減ります。それが余計に家庭内の行き違いを増幅させます。

 外では非常に優秀な文官でした。家族の為にありとあらゆる事を駆使してきた為、非常に敵の多い人でもありました。

 第二の人生からは随分と自分のしたい事に自由になれました。


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