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悪魔の囁きと発端 キャロル16歳

 前のめりになった体を支える腕が震える。叫ぼうとした声は、口の中を支配する空気の塊が掻き消していく。

 

「あまり叫ぼうとか考えない方が良い。正しい魔法の使い方じゃないから、傷つくかもしれない」


 首筋に落ちた声は、聞き取り難くぞっとするぐらい冷たい。言葉を無視して声を出そうとすると傷みが走って、唇から血が零れるのが分かった。


「言っただろう? 困らせなければ酷くしないから、大人しくするといい。女性には優しくありたい」


 そう言って、男の手が私の頭を撫でる。細く長い指の感触がこの部屋の持ち主と似ていて、その手が自分を押さえつける事がとても嫌だった。


「ここは、アングラード子息の従者の部屋でいいかな? まずは首をふって答えてごらん」


 迷ってから首を縦に振る。何処かで聞いたことがある声だが、聞き取りにくさもあって誰だか思い当たらない。今は時間を稼ぎつつ様子を見る方が良いだろう。


「素直なのはいいね。じゃあ、君をここで殺したら、騒ぎになってあの子は追い出されるかな?」


 首を振ると、口の中の空気の圧力が少し弱まった。私の答えを聞きたいのだと理解して声を上げる。


「……捕まります。騎士団に、追われ……ます」


 掠れてしまったが、声は何とか出た。多分、ジルが使う風属性の遠くの音を拾う魔法の応用だ。


「冷静なのは、命を伸ばす」


 また、髪に触れる。触られる度にその指の感触がジルの偽物のように思えて嫌だった。

 ジルは何処に行ったのだろう。いつも側にいてくれるのに、今日は私を置いてあの場所へ行ってしまったのか。


「貴方は、誰?」


「君も誰だろう? 夜中に部屋に来るなんて恋人? それとも盗人?」


 相手は私を女性だと理解していて、誰だかは分かっていない。なら、反攻の機会はある。闇の中なら、闇の魔力が私の見方をしてくれる。

 でも、口の中の魔法が邪魔だ。音を拾う魔法の応用なら大怪我にはならないだろうが、できれば消してから動きたい。


「……一緒に、……働いて、ます。明日の、仕事の件で」


 私が魔法を使える側じゃないと思い続けてもらう為に使用人の振りをする。


「そう。君も勿体ないと思わないか? あれだけの力があって従者に甘んじるなんて。子息のお守りをする人間じゃない。だから、ここから出してあげようと思うんだ」


「無駄です」


「説得して連れて行くつもりだったけれど、無理なら仕方ない。出て行かざる得ない状況を作ってあげよう」


 腕を捩じり上げる力が強くなる。痛みに漏れる呻き声は魔法に掻き消された。

 

「ご希望、通り……ジルの所為で……屋敷に不審者が、入った、と伝えます」


「悪くはないね。でも、狸は優秀な従者を手放さず、許してしまうかもしれない。徹底的にする方が私は安心だ。でも、殺したら物取りと間違えられる。君は伝言役だから安心していよ。魔法でボロボロに傷つけられるのと、この場で腕を折られるの。どちらがいいかな?」


「……恨まれますよ」


 言ってから、笑みが零れた。私が傷ついたらジルはきっと怒るから、連れに来た目的は永遠に果たせなくなる。

 

「加減するか、より滅茶苦茶にするか迷うところだね。あの子には使える価値があるから、どうしても欲しいんだ」


 我が家の警備は決して甘くない。ここまできた男は相当優秀なのか、そこまでジルを必要としいるのか。


「捕まりますよ?」


「隠れるのは得意だ。今日は狸は不在で、奥方は別邸だ。警備はいるが私なら倒せる。注意すべきは子息一人だけど、使用人の住居なら顔を合わせる危険性は少ないだろ?」

 

 ねぇ、と囁いて腕に更に力がこもると骨が軋む。口の中か腕一本か、選ぶなら口の中だ。


 捩じり上げられた腕の指先に意識を集中して素早く術式を書く。口の中の魔法が消えるのと同時に私の背後で、相殺する魔法が放たれたのが分かった。

 支えていた手の力を抜いて、肩から床に落ちると同時に体を反転させる。勢い余った男の手が私の手を離す。起き上がりざまに書いた次の術式に魔力を乗せると、室内の闇が動き出して男の足や腕を這って絡めとる。倒すよりも捕まえて聞きたい事があった。


「もう一度聞きます。貴方は誰?」


 ジルのベッドに上がって、壁を背にして男との間合いを取る。

 闇に四肢を捉えられた男はマントを羽織っていて、俯いた顔の半分もマントで覆われていた。暗闇の中でなくても顔を確認する事は難しそうだ。


「闇魔法……ご子息か。なら、あの子の言ってた家族だね。それにしても、とんだ狸だ。ご子息がご令嬢なんて驚いたよ」


「……」


 夜着の姿で仕方ないとはいえ、女であると知られた事に唇を噛む。でも、情報が漏れる事と、抑え込む方法を考えるのは後回しだ。今は男を捕えて離さないことに集中する。


「困ったな。身動きが取れない」


「当然です。闇夜の中では闇属性は最強です。今、貴方の四肢は私の闇が完全に捕えています」


 男が首を傾げるとマントの端で僅かに髪が揺れた。僅かな動きが、下町でジルと入れ替わるように路地裏から出てきた琥珀の髪の誰かと重なる。


「黒街の側の路地で貴方を見ました。ジルを知っているんですね?」


 楽し気に男が笑い声を漏らす。囚われている筈なのに余裕のある男の態度に悪寒が走る。


「身動きが取れないのは体じゃない。君がいるからジルが動けない。でも君を殺せばあの子は許さない。困ったな。機会は今日だけだったのに、選択肢がなくなってしまった」


 捕えて有利なのは私なのに、この場で選択権を持つかの様に男が発言する。

 背中に冷たい壁が当たった。いつの間に、逃げるように私が後ずさっていた。


「家族って便利な言葉だと思わないかい?ご子息、いやご令嬢? 君はジルを愛している?」


「わ、わたしは、ジルが好きです」


 慌てて返した言葉に、愉快そうに男が声を上げる。


「ああ。残酷だ。互いの想いが家族としてなら、愛していると迷わず答えるだろう? 愛していると答えられない君とあの子は家族じゃない。愛している以外の答えを返す君は、ジルの想いを知って逃げるんだね」


 狡さを見透かすような言葉に狼狽し、月日が育てた家族としての気持ちを否定する言葉に憤る。


「違います。家族です! 誰よりも近くて、ずっと一緒で大好きで、家族としてちゃんと愛してます!」


 男の言葉に胸が搔き乱されて叫ぶように答える。


 ジルの想いを知ってる。知っていて気づかぬ振りをしている。それはジルの為で私の為。


 ジルが私に向ける愛を、私はあの人に向ける。私は同じ愛をジルには返せない。でも、ジルの事を家族として想うのも、愛と言える自信はあった。


「家族なんて、血が繋がらなければ愛情に仮面を被せる為だけの言い訳だ。互いに嘘をついている。ジルが君に嘘をつくのは愛しているから、でも君が嘘をつくのは何故だろう? どこの馬の骨とも分からぬ庶民だから? 当然だね。思われる事すら貴族の君には不快だろう? でも、ジルの存在は便利で捨てがたい」


 悪魔のように冷たく低い声が、煽るような言葉を重ねて私の心を抉っていく。

 

  庶民だから、想いを返さないわけじゃない。便利だから、側に居て欲しいわけじゃない。


 世界で一番、私を大切にしてくれるジル。いなければ息が詰まるぐらい必要な人。だから絶対に離れないで欲しい。側に居て欲しい。


「違います! 違います! 本当にジルに側に居て欲しいんです。便利じゃなくて家族だから! いないと困るんです」


「なら、どうして愛してあげない? ほら、君が返してあげればそれで済む。当たり前の人の在り方だろう? それができないなら、狡いね君は。人の心を弄んでるんだよ。でも仕方ないよね。君にとってジルは、ただの持ち物でしかない」


「弄んでなんかない! 好きだけど。愛しているけど。……じゃない!」


 叫び返した言葉に思わず手で口を覆う。それは自分が意識したくない事、考えたくない事だった。


「ああ。そうか、君が可哀そうだ。ご令嬢の心の負担になる事をするジルは酷い。抱いてはいけない気持ちを抱くなんて従者として失格だ。折角、君が家族として大事に思ってあげているのに、その心を上回る愛を求めるなんてバカだね」


 この男は一体何なんだろう。人の心を抉る様に、壊すように言葉を重ねる。冷たく淡々とした声音と間合いが私から冷静さも余裕も奪っていく。


「違う。ジルは悪くない」


「そうかな? 君は別の誰かが好きだから、けっして返せないのだろう? それは負担だよ。ほら、ちゃんと分別を教えてあげたらいい。身分をわきまえろと、ジルの愛は負担だと、他の男を愛していると、家族なんてまやかしだとね」


「違う!! それ以上、私とジルの事を語らないで!! 全部、全部! 貴方の言葉は私とジルには当てはまらない」


 ジルと私を悪魔の言葉で貶めないで欲しい。ずっと一緒で、誰より安心する『家族』と呼ぶ気持ちを知らないくせに。


 だけど、私はアレックス王子に向けた想いを愛と呼んでから、それを同じ愛と言う言葉で呼んでいない。


「君は分からないのかな? 男と女は触れるものだ。君はどうせ誰かのものになるのだろう? ねぇ。奪われる君を、家族と呼んでジルに目の前で見せつけるのかな? 酷い仕打ちだね!」


「やめて!!」


 私の感情に応じるように、魔力が男の手足を這い上がる。その首筋まで闇で包むと、男が苦し気にうめき声をあげた。だげど、その呻きが哄笑に変わる。


「ああ。これなら、いつか堕ちる。愛はこの世界で最も残酷なんだよ。あの子も私と同じ運命だ。血は争えないね」


 不快な笑い声への困惑が隙になって、男に僅かな自由を与えた。捕えられた戒めの中で男の指が術式を書く。

 強い風の塊が私を襲う。男を捕えた術式を残したまま、掻き消す為に新たな術式を書いた。欲張った判断で、本来なら負ける筈のない力が負ける。

 風の塊が私の腹部を捉え、衝撃で頭の中が真っ白になった。


「ごきげんよう。ご子息。いや、ご令嬢。お会いできて光栄だったよ」


 強い風が室内を滅茶苦茶に搔き乱した次の瞬間、私の目の前から男の姿は消えていた。


 立っているのが辛くてベッドに座り込みながら、敷地内の闇の魔力の動きに意識を集中する。知らぬ魔力が屋敷の庭を駆け抜けるのが分かる。警備の者を綺麗に避けてれているのは、風の魔法で音を拾い集めているからかもしれない。

 知らぬ力に向かうように良く知る魔力が駆けるのを感じて、慌てて伝達魔法を発動する。


「ジル! 行かないで! 私は無事です!」


 知らぬ魔力とよく知る魔力がぶつかって相殺される。ぶつかったのは一度。知らぬ魔力が塀を越えて屋敷から遠ざかる。そして知る魔力がこちらにまっすぐ駆けてくる。

 息を吐いて、目を落とした私の手は震えていた。


 二度と現れないで。悪魔のような言葉で私の大切なものを壊さないで欲しい。


 足音がして、ドアが開くと室内に明かりが漸く灯る。 


「ノエル様、ご無事ですか?」


 明かりがついた室内は想像よりも滅茶苦茶だった。その中をジルが、荷物を厭わずに進んでくる。

 ジルは私が好きじゃない遊び慣れた男の姿をしていた。出掛けていた場所はきっと黒街だ。

 私の側に来て口の端に手を伸ばす。長い指が唇を拭って、オリーブ色の瞳が曇る。


「ここに血が付いております。どこか怪我をされているのですか?」


 優しい指先の感触と私を心配する眼差しに、漸く緊張が解け始める。


「怪我は口の中を少し切ったのと、打ち身程度です。でも、ジルの部屋が大変なことに……」


「私の部屋など構いません。少し触れますね」


 そう言って跪くと、私の腹部に手を当てる。

 見下ろした琥珀の髪はいつもと違う。降りた前髪の向うで涼しい目元が緩むと、ジルが安堵のため息を漏らす。


「大きな怪我にはなっていませんね。他に痛むとこなどは?」


 家族はまやかし、ジルは持ち物。あの男は私とジルの事をそう言った。

 心配そうに私を労わるジルに向かって、薬指を唇の前に立てる。ジルが私に甘えを許してくれる時の真似だ。


「大丈夫です。ジル、小さい頃みたいに抱っこ……して、ください。怖かったんです」


 腕を伸ばせば、長い腕が私をそっと抱きしめてくれる。肩に顔を埋めると、陽だまりの香りがした。


 あの男の言葉が私を子供に戻りたいと願わせた。久しぶりの分別のない甘えを、ジルはこうして許してくれる。


 ジルの腕は私を優しく包む。アレックス王子は苦しくなるぐらい力強く抱いてくれる。全然違う。

 

「怖い思いをされましたか? お側を離れて申し訳ありません」


 落ち着いた声が囁いて、細く長い指が髪の毛を優しく撫でる。あの男と似た手の感触なのに、この手は撫でるたびに私を優しく癒していく。


 お母様とお父様と同じ私の魔法の手。ほら一緒だ。


「大丈夫です。ジルの部屋に来たらマントの男が入ってきて、争いになりました」


「どうして、私の部屋に? 伝達魔法でお呼び頂ければ、直ぐに戻りましたのに」


 ディエリからの情報で不安になった事はまだ話せない。だから、子供の嘘をつく。ジルなら絶対に信じてくれる懐かしい嘘。


「怖い夢をみて。ジルを探しに……」


「ああ、夏初めに泣きながら目を覚まされたと、マリーゼが申しておりましたね。戻って気持ちが不安定になったのかもしれません。暫く夜中も様子を見に伺いましょう」


 小さい頃はよく怖い夢を見ていた。大抵は前世の最期の瞬間で、目覚めて泣けばジルは駆けつけてくれた。悪夢が続けば夜中に何度も様子を見に来て、泣き出す前に私を起こしてくれた。

 安心させるようにジルの手が背中を優しく叩く。


 この手に救われた事が幾つあるだろう。

 この先に、この手を求めたくなる日が幾つあるだろう。


 アレックス王子が聖女と一緒に戻ったら、私はきっとジルの胸で泣く。


「はい。見に来てください。ジルが夜来てくれたら安心します」


 これで暫くジルは夜間の外出を控えてくれる。

 安心して見上げれば、ジルが微笑んでくれていた。その笑顔が見せる明るい瞳の色が、また私を甘やかして許してくれる。

 もっと安心したくてしがみつけば、空いた手が私の頭に回って優しく髪を梳く様に撫でた。


「今日のノエル様は、小さい子供みたいですね」


 ジルが苦笑いするのがわかった。その言葉にただ頷く。

 初めて会った時は、物静かで背も私より全然高く、ずっとずっと大人に見えた。

 私が大きくなった分、ジルも同じくらい大きくなる訳じゃない。小さい頃は胸に顔を埋めていたのに、大きくなった今は肩に凭れて頬が触れ合うほどに近い。


「私はジルの前ではずっと子供でいたいです」


 ジルが笑って、その吐息が私の耳を擽った。私を抱える腕は力強く、胸は広くて逞しい。

 心を子供に戻したのに、触れ合う体は大人なのだと気づく。

 でも、目を閉じて気づかないふりをする。


「小さい頃からここが私の逃げ場所なんです。怖いときとか、悲しいときとか、困った時はジルの腕の中にいたんです。私はこれからもここに逃げたいんです。ダメですか、ジル?」


 あの男の哄笑が私の頭で響く。変わらぬ事、知らぬ振りを続ける事を選ぶのは、あの男の言葉の通り利用しているのだろうか。


 守る様にジルの腕が私の肩を抱いて、強く抱きしめる。アレックス王子と違う。でも、男の人の腕。私はジルから見ても、もう子供じゃない。でも、子供でいたい。


「……貴方がお望みでしたら、いつまでも子供でいらっしゃって下さい。私は貴方の望むままに致します。だから、お側に居させてください」

 

 ジルも変わらない事を求めてくれていると思ったのは、間違えなのか?


 残酷だね。男と女は触れるものだ。男の冷たい声が頭から離れない。


 ジルが僅かに頭を傾けると、頬が僅かに私の頬に振れた。ジルの肌は冷たい。陶器のようだから、頬を合わせるといつも心が落ち着く。

 

 でも、今はその冷たさがあの男の冷たい言葉を思い出させる。

 家族としてなら、愛していると迷わず答えるだろう? 答えられない君とあの子は家族じゃない。


「ジル、大好きです。大好き。家族だから、愛してます」


 以前ジルが私の頬に家族としてキスをした。私もまた顔を僅かにずらして、その頬に口づける。何かを返さなくてはと思った。


 呪いの様に男の哄笑が私の頭に響き続ける。


 髪を梳く手が止まって、ジルか一際強く私を抱いた。それから、ゆっくりと身を離す。


 愛し気に見つめる眼差しは知らない色だった。熱を隠して変わらず見つめる家族の色でもなく、時折私に見せる熱のある瞳の色でもない。

 琥珀の髪の下で揺れる眼差しは、胸が痛くなる程、切なくて苦しい色で、瞬きをする事すらその瞳が奪う。


「私は貴方を愛しております」


 そう言ってから、ジルが穏やかにいつもの笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。


「貴方が望む限り、家族として……」


 悪魔の囁きに踊らされるように、自分を甘やかして求めた言葉。

 私は未来でただ一度、悔やむ。向き合わずに、ジルに無理をさせた事、甘え過ぎていた事を。

 

 ジルが立ち上がると、長い腕が私の背中と膝の下に滑り込んで、あっという間に横抱きに抱える。


「今日は本当に小さい子供みたいですから、久しぶりに抱えてお部屋までお連れ致しましょう。夜も更けておりますし、今日はお疲れでしょう? 続きのお話は歩きながらに致しましょうね」


 もうすぐ十七になるのに、これはかなり恥ずかしい。だけど、立ち上がるのも辛いぐらい疲れきっていた。


「大きな子供は、重くないですか?」


「小さい頃からずっと抱えていますからね。久しぶりで懐かしいぐらいです」


 ジルの腕の中は心地よい。歩調も歩く度の振動も懐かしくて、疲れた体にはとても良い揺り籠みたいだ。


 部屋の外に出ると、空気が変わった。嵐みたいに混乱した心が、新鮮な空気と柔らかい揺り籠のリズムに元に戻るのを感じる。


 何故、あんなに心が乱れてしまったのだろう。取り返せない言葉を思い出してジルを伺う。横顔がいつもと変わらない表情である事に安堵する。


「今のノエル様はお茶を入れて戻る前に、眠ってしまいそうですね。喉は渇いていませんか?」


「渇いてます。お茶を待てる気がしません」


「なら、冷たいもので宜しければ、厨房に寄って持って参りましょうか?」


 その言葉に頷くと、ジルが厨房の前で止まって器用にその扉を開ける。


「一番甘い果実水が良いです」


「寝る前にそれはお勧め致しません。気持ちが落ち着く花茶がございますので、そちらで我慢して下さいね」


 私を抱えたまま、手慣れた様子で冷室からお茶のボトルを取り出す。何故か胸が一瞬だけ跳ねる。今のジルは花街の遊びなれた人の風情があって、動作の一つも違って見える。


「ジル、ボトルは私が持ちましょうか?」


「では、グラスだけお願い致します」


 食器棚に行くとジルの腕の中から、自分で手を伸ばしてグラスを二つ取る。

 昔、今みたいに厨房でジルに抱えられてお菓子を探した事があった。少しだけ楽しい気分になってジルを見上げると、悪戯っぽい微笑みが返ってきた。思わずグラスを抱えて俯く。

 やっぱり、いつもと違う撫でつけずに遊ばせた髪型と、やや乱れた大人の色香を感じさせる服装は苦手だ。


「ジル、やっぱりその格好は嫌です」


「以前とは一応変えていて、前よりは良いかと思うのですが……」


 抱えられたままジルをくまなく確認する。確かに多少は控えめになっている。だけど、この格好のジルはやっぱり何処か目のやり場に困る艶めかしさがある。


「分かりました。今度は服を私が選びます! ジルにはもっと似合う服があると思います!」


 私の言葉にやや困ったようにジルが苦笑すると、背中を支えた手が優しく腕を叩く。


「漸く調子が戻ってまいりましたね。さて、先ほどの件ですが旦那様への報告は私から入れさせて頂いても宜しいですか?」


「ちゃんとジルが知ってる事を話してくれるならいいです。とっても怖かったんですよ? ジルがいないのも心配でした。ちゃんと教えてくれないのはダメです」


 頬を膨らませた私に、ジルが揶揄うような眼差しを落とす。


「急に子供になられた理由はそれでございますね。怖い思いも心配もさせて、申し訳ございません。一時でもお側を離れる選択をしたのは、やはり間違いでした」


「ジルに外に目を向けて欲しいと言ったのは私です。それは変わっていないから、気にしないで下さい」


 私の部屋に戻ると、ゆっくりとジルが私をベッドに降ろした。手にしたグラスを渡せば、すぐに冷たい花茶を入れてくれる。冷たいお茶に口を付けると、甘く優しい花の香りが口に広がる。


「ノエル様と殿下がお出掛けになった日、私を南西地区の花街でご覧になったのは覚えておりますか?」


 忘れるわけがない。しどけなく赤のドレスを乱した女性を壁に押し付けて、何かを囁くように耳元に顔を埋めたジルは私にとって衝撃的だった。


「やっぱりジルだったんですね! 忘れられない光景です! 品行方正なジルなのに、あんな……」


「品行方正ですか? ふふっ、そうですね。従者の私は品行方正でございますね」


 ジルが含むような笑い声を漏らす。花街のお兄さん風の姿で言われると、何とも言えない色香が漂って思わず目が泳ぐ。


「名は伏せますが、昼から戦前準備部隊の仲間と一緒でした。彼は黒街に関した資材の任務を担当していて、あの女性は資材のある場所と繋がりがあったんです。店を変える途中にあの花街で偶然見かけて、仕事熱心な友は私を巻き込んで任務を開始しました」


「むぅ。お友達の任務ですよね? 何故ジルが女性と、その女性と、その、その路地裏で……」


 ジルがくすくすと楽し気に笑うので、思わず音を立てて飲んでいたグラスをベッドサイドに置く。年頃の子には言いにくい事はたくさんあるのだ。


「品行方正な私には、花街育ちの手練手管がございます。女性を口説き落とすのは、とても上手なんですよ」


 唇に指を立ててさらりと言われた一言に、思わず赤面する。うっとりとした表情を浮かべた女性、手練手管の追求はやめておく。


「友は女性の攻略が苦手でしたから、彼女の相手に苦戦しておりました。私も元隊員ですから、資材の知識はありますし交渉も出来ます。その場でモーリス様と旦那様の双方にご許可を頂いて、一日限りの仕事の予定でございました」


「予定と言う事は、一日では終わらなかったんですよね? 」


 ディエリにジルの動きが気になって、黒街への出入りを確認させた事は黙っておく。


「お気づきでしたか? 女性を送る所まで漕ぎつけたのですが、資材の主には会えませんでした。女性が気に入っていたのは友ではなく、私でしたので……。私にも旦那様にも思う所もあって、ノエル様には秘密でお手伝いが続いておりました」


「思うところ?」


「ええ。大人の事情、政治の事情、男の事情でございますので、今回も秘密にさせて下さい。お手伝いの内容については旦那様とモーリス様でお話になられています。戦前準備部隊では奥深いところまでは入れませんから、報告可能な資材の収穫はありませんでした。末端の後方の更に後方にある部門ですから、成果がない事が多いのが救いです」


 そう言って、ジルが笑う。今のジルの発言とディエリの発言には小さな矛盾がある。


 父上に報告している仕事は深いところまで潜っていない。戦前準備隊は奥深くに潜らず、資材を得ていない。でも、ジルは深いところまで潜っている。そして、ジルが探していたのは資材じゃないジルベールだ。


「では、今日アングラード邸に侵入した男は何者ですか? 父上が不在とはいえ、警備もいる我が家に忍び込むなんて、余程の腕と覚悟が必要です」


 ジルの言葉は欠片を失ったパズルだ。私に教えてくれる事と、私に教えてくれない事。

 失った欠片がなくても絵図になっている。でも、失った欠片にはそこにしかない秘密がある。


 空になったグラスに手を伸ばすと、すぐにグラスに半分だけ花茶をジルが淹れてくれる。それからボトルを置くとジルが丁寧に今日は騎士の礼をとる。

 

「ご迷惑をお掛けし申し訳ございません。手伝いの中で、黒街の人物に目を付けられ、仲間になるよう迫られました。身分も偽っておりましたし、すぐに接触を断ったので、ここまで追ってくるとは思っておりませんでした」


「どうやってジルの事を見つけたんでしょう?」


「風の魔法は音や気配を探る事に優れており、応用すれば人探しも可能です。私の所在を見つけて、こちらに侵入したのでしょう。ここからは、横になってお話ししましょう」


 そう言ってジルが私からグラスを取り上げて、ケットを持ち上げる。ベッドに体を横たえれば、いつも通り肩までケットを掛けて、久しぶりに子供を寝かしつけるように髪を撫でる。


「マントの男は手練れでしたね。隠してもジルが少し魔力を使えば、実力を推し量れそうです。従者に甘んじるのは勿体ないと言っていました。ここから出すべきだと」


 庭で一度、ジルとマントの男は接触している。強い魔力のぶつかり合いがあった。マントの男はジルに何を囁いたのか。私の心を抉ったようにジルの何かを抉ったのか。


「その様な事をノエル様に言ったのですね。他にも、何か言っておりましたか?」


「ジルをここから追い出したいから、腕一本折るか、魔法でボロボロになるか選択させられそうになりました。お断りだったので対抗しましたよ」


 頭を撫でる手が、頑張った事を褒める様に撫でるのが少し早くなった。その感触にケットにくるまって思わず目を細める。


「ご無事で良かったです。それで、男は逃げ出したのですか?」


「はい。逃げました。でも、マントの男に私が女の子だって分かってしまいました」


「旦那様に合わせて報告しておきます。もう、大丈夫ですか?」


 その言葉に頷く。少しずつ瞼は重くなってきた。

 ジルが隠したパズルのピース。あの男はジルと私が互いを家族だと言っているのを知っていた。それはジルと私しか知らない事。そして、あの男はジルを時折『あの子』と呼んだ。ジルと同じ琥珀の髪。ジルに似た細くて長い指。


「ジルの処分は父上に軽くなるように、私がちゃんとお願いしますね。おやすみなさい」


「はい。おやすみなさいませ、ノエル様」


 部屋の明かりが消えて、ジルが部屋を出ていく。

 ジルは父を知らないと前に言った。でも、あの人はジルの『本当の家族』で父親の可能性が高い。そして私の事を話すような接触を持っている。

 でも、今のジルは私を選んでくれた。だから、私はまだジルの秘密を聞かなくても信じられた。



 ディエリの言葉通り、バスティア公爵家私兵による大掛かりな取り締まりがあった。

 取り押さえられたのは、ワンデリアからバスティア領をぬけてオーリック領に向かう隣国ヴァイツとの貿易商団。

 私兵による取り締まりとしては異例の規模と内容で、移動中の商団だけじゃなく、王都にある拠点にまで及んだ。

 

 この騒ぎで、ディエリは再び学園から姿を消す。


 貿易商談から見つかったのは、武装した兵だった。兵と言っても、殆どは金銭で雇われた庶民で、数名反旗派の貴族が含まれていた。

 何かの疑いがあるのか、バスティア公爵家がオーリックの国境の警備を、補佐という名で委譲された。

 これにより、西方の守りの要としてバスティア公爵家が中央の表舞台に返り咲く。


 この件の始末で忙しい父上とは朝すれ違った時に、ディエリから貰った黒街の出入りのリストを渡した。


「あの若造は何なんだ! 直前にあんな大事をしれっと連絡してきて、お任せ下さいだと。周到さに呆れる」


 珍しい程、嫌な顔をして父上が膨れていた。

 公爵として見事な手腕を発揮している様子のディエリには、一度だけ伝達魔法を送る。


「まずは、お祝いを。私兵は大切に。多分、次の嵐も近いです」


 一か月の月日がたった学園内を賑わす情報の中心は二つ。アレックス王子に婚約者がいるという噂と、月日が経ってもバスティア公爵が取り押さえた商団についてだ。

 商団の情報が長く取りだたされる背景には情報の錯綜がある。正しい情報より、出所不明の情報ばかりが頻繁に出回っていた。


 学園が終わって馬車に乗り込むと王城を目指す。

 今日は母上から差し入れを預かって、国政管理室の情報収集だ。先に伝達魔法で連絡を入れると、本当に忙しい時は門前払いされる恐れも稀にある。だから連絡なしの訪問を選択していた。

 どうしても、知りたい事があった。



次回から漸くキャロル17歳に入ります。

少しペースが戻ったので、不定期でも週二回に戻すのが目標です。



< 小さな設定 >

 警備の使用人は夜間にぐるぐる敷地を回ります。ちゃんと魔法も使えます。優秀です。


今日の小話は、本編と殆ど絡みません。本当に裏の設定のお話です。

短編小説を書くつもりで楽しく書かせて頂きました。

 

< 小話 >


――知る人のない遠すぎる過去の物語

 

 馬車の外で、高い剣戟の音が鳴り響く。独特の間隔で響く音が音楽の様に美しいのは、それが戦いの為の剣戟ではなく人を魅せる剣舞だからだ。


 海を渡って嫁いだのは艶やかな意匠に美しい音楽と踊りを持つ小さな国。名をファルシャーンと言う。

 独自の文化を持つその国の技芸は、何処の国でも華やかな美しさが受け入れられた。


「ねぇ、母様。母様のお国はまだ遠い?」


 膝の上で我が子が父親譲りのオリーブの瞳で私を見上げる。私と同じ色の柔らかい金の髪をゆっくりと撫でると幸せそうに目を細める。

 この子と僅かな供を連れて国を捨ててから、もう一年が経とうとしていた。子供は父親の顔をきっと覚えていないだろう。


「とても遠い。世界の反対側、ずっと果てに母の国はあるの。カミールは旅が辛い?」


 私の問いかけに子供は動きを止めて考え込む。外で剣戟の音が止むと、高い歓声が上がった。

 その歓声に動かされる様にカミールが首をふる。


「大丈夫。旅は楽しいよ。僕、ナーシルみたいになりたい」


 その言葉に少しだけ笑って、再び子供の頭を撫でる。


 十数年前に人に魔法という力を与える泉が、幾つかの国に現れた。私の故郷は世界でも最も大きな泉のある国で、小国ファルシャーンは泉のない国だった。

 魔法の力は素晴らしく、泉のない国は泉のある国との婚姻を望むようになった。小さかった国が婚姻を元に繋がり、泉を中心にいくつかの国が争うことなく統合していった。

 ファルシャーンは統合を拒否して、遠い国から僅かな泉の水と魔法の知識を持参金にした姫を貰う道を選んだ。


――お前と子を生せば、初めから魔法が使える子が手に入るという噂がある。確かめるために結婚させられた。互いに愛はなくとも務めと思って欲しい。


 ファルシャーンの王子に出会って最初に言われた言葉だ。泉の水がなければ魔法は使えぬと説明した。

 でも、その為の妻であり、子を生すべきという国の認識は変わらないと言われた。


 会った事も、文も交わした事のない王子。婚姻の目的は国の存続を左右する魔法であり愛はない。

 時折、夜にだけ訪れて、無言で床を共にする。

 うつろな日々を埋めたのは、早くになす事ができた子カミールの存在と――。


「アガット様、宜しいですか?」


 幌の向うから低い声に呼ばれて、昔の記憶から引き戻される。

 返事をすれば、鍛えた上半身を金の装飾で晒した逞しい男が姿を見せた。赤銅の髪から落ちる汗が剣戟が、彼がものだと言う事を教える。


「ナーシル! 今日も上手に踊れた?」


 膝から顔を上げて、カミールが汗ばむナーシル腕に飛び込む。カミールを抱き上げると、鋭い眼差しが綻んだ。


「今日も上手くいきました」


「僕も、もうすぐ覚えられる?」


 カミールの言葉に困ったようにナーシルが笑う。その困惑の意味を思うと胸が痛くなる。


 カミールが学ばなければいけない事は違う。本当ならば王になる為の事を学ばなくてはいけない。

 そして、ナーシルの剣も剣舞の為にあるのではない。ファルシャーンの王宮で三本の指に入る騎士であり、私の夫である王子の近衛だったのだ。


 ナーシルがカミールの頭を撫でながら、私に向き直る。 


「今日のうちに荷を整えて、次の街に向かおうと思います」


「わかりました。祖国からは相変わらず返事がないので、今宵また連絡をしてみます」


 そう答えて、顔を伏せてため息を落とす。

 何度も伝達魔法を使って祖国には連絡している。けれど、返信は一度もない。


 カミールを降ろしてナーシルが跪く。私の服の裾を手に取って、そっと口づける。


「アガット様。貴方が気に病むことはありません。これは、我が主である王子の命でございます。貴方は胸を張って旅をなされば、その御心に沿う事になります」


 一礼してから立ち上がると、ナーシルが出発の為の準備に向かった。

 私たちの今の宮殿は幌馬車二台だ。


 一年と数か月前、ファルシャーンは泉を持つ大国の侵略を受けた。激しい侵攻から半月、成すすべもなく燃え盛る王都の景色は国の終わりを突きつけた。

 宮殿のバルコニーでカミールを抱いて震えながら、燃える街並みを見下ろした私を迎えに来たのはナーシルだった。


――王子より命を受けました。祖国にカミール様を連れて逃げ延びよとの事です。


 返事をするより先にカミールを抱いた私をナーシルは抱えて、僅かな味方と共に王宮を出た。

 旅人に姿を変えて、戦火を避ける様にファルシャーンを出る。大回りになるけれども、船も何もない私達は陸路を使って祖国を目指した。


 いつ終わるか分からない不安定な旅。かつて王宮に務めた者達が、その身につけた技芸を披露して日銭を得る暮らし。異国の王太子妃と漸く喋れるようになった王子にそれ程の価値はあるのだろうか。


「母様、悲しい?」


 私の頭を幼いカミールが抱きしめる。小さな胸に顔を預けてからその背を優しく撫でる。


「ううん。悲しくないから大丈夫よ。少しだけ考え事をしていたの」


「ナーシル、呼ぶ? ナーシルがね。母様が困っていたら呼んでって言ってた」


「大丈夫。ナーシルも皆も準備が忙しいし、母はこうしてカミールといればすぐに元気になる」


 ナーシル。彼に、私は何度も救われてきた。

 

 ファルシャーンに王子の妃にと望まれて来た私には、故郷の供すら与えられなかった。送る船に乗ってきた者達も、ファルシャーン王宮に預けられてすぐに帰ってしまった。

 言葉に大きな差はなかったけれど、何かにつけて違う風習や決まりに戸惑った。何をしていいかも分からず、豪奢な部屋で一人過ごすしかない日々。

 そんな暮らしに、ナーシルが現れたのは嫁いで、一か月を過ぎた頃だった。


――魔法を私に教えてください。


 泉の水を飲み、魔力印を胸に刻んだファルシャーンの騎士の一人だったナーシル。私の夫である王子の近衛であった彼が、魔法の習得の最初の一人として選ばれたのだ。


 私に跪いて見上げたナーシルの眼差しは鋭くてとても怖かった。なのに、私は彼から目を逸らせなかった。


 ナーシルに魔法を教える様になってから、私の生活は変わった。毎日訪れるナーシルに午前中は付きっ切りで魔法を教える。必要な事だけの会話に、互いの事が含まれるのには時間はかからなかった。


 ナーセルと打ち解け始めて笑顔が増えると、次第に周りの者との関係にも変化が見え始めた。

 付き女中やナーセル以外の近衛。庭師。宮廷の踊り子や楽師。私の生活に人と笑顔が増える。


 何処にいても、ナーセルを見つけられるようになって、遠くにいても微笑み合うようになった頃。出会った時に瞳を逸らせなかった本当の理由を私は考える様になった。

 一人だった寂しさから救われる為、抱いてはいけない想いに初めから捕えられていた為。焼けるような胸の痛みは後者であることを告げていた。



 昼過ぎに街を出た幌馬車は、次の街に向かう街道の途中で夜を迎えた。

 そんな時は木陰に馬車を泊めて、野営になる。私とカーミルだけは、私たちの小さな宮殿である馬車の荷台で眠る。


 夜中に目を覚ませば、周囲は静寂に包まれていた。今日は興行の後すぐに出発しているから皆疲れているのだろう。

 隣で休むカミールの頬をそっと撫でて、身動き一つない事を確認して馬車を降りる。


 馬車から離れて、広い草原に立つ。月の明るい夜なのに街を離れた夜空は無数の星が輝く。

 故郷で誰かが言っていた、亡くなった人は星になる。

 今日、街で聞いたファルシャーンのその後の噂を思い出して、すでに亡い人を思って星空に祈りを捧げる。


 私は一体どうしたらいい? 貴方の分まで望んでもいいの?


 祈りに答えは返って来ない。

 諦めて手首を一度捻ると、魔力が作り出した祖国で一番早い真っ白な美しい鳥に向かって語りかける。


「第四王女だったアガットです。私の声が届いておりますか? 異国に出した娘の事はもうお忘れですか? どうかご助力ください。国を出て次期ファルシャーン王になる息子と共に僅かな者と落ち延びました。頼れる場は他にございません。マールブランシュ国王、いいえ、お父様。何も望まなかった娘の最期の願いでございます。助けて下さい」


 美しい鳥の名をハルシアという。

 祖国で王族にのみ許される鳥。どんなに遠く離れていても十日あれば、その鳥は父であるマールブランシュ国王に届くはずだった。でも、月に一度送り続けた助けを求める言葉に未だ返事はない。


 国を出た時から予感はあった。世界の反対側の小さな国に、僅かな泉の水だけを手に送り出された私は、故郷の王国にとっていらない娘だった。

 諍いの絶えないあの国で、侍女上がりの妾の娘である私の存在は利用価値もなく、悪戯に火種になるだけだ。助けを求めたのに返事がないのは、帰還を拒絶している証だった。

  

「この旅は、きっと誰にも報いる事が出来ない……誰にも何も返せない」

 

 空に向けてハルシアを放つ。夜空の星になる様に空に吸い込まれるようにハルシアが消えると涙があふれた。


 私と逃げてくれた者たちは、戦火の中で最後まで私の側に残ってくれたファルシャーンでの数少ない私の味方だ。優しい彼らに苦しい旅をいつまで続けさせればいいのか。終着地が旅を終わらせてくれる可能性はは低い。


「アガット様」


 掛けられた声に振り向くと、ナーシルが立っていた。慌てて涙を拭って笑おうとしたのに、それは上手くいかなかった。拭っても拭っても新しい涙が零れてしまう。


「ナーシル。父上に、マールブランシュ国王に伝言を送ったわ。きっと今度こそ連絡が来る。貴方達に辛い思いをさせて、ごめんなさい」


 影が差して顔を上げるとナーシルの手が私の頬の手前で止まる。

 ファルシャーンでは既婚の女性にみだりに触れる事は許されない。

 鋭い眼差しが僅かに細くなって私を見下ろす。触れる事なく止まった手の熱が、せめて夜気を焼いて私の頬に届いたらいいと思う。


「皆、マールブランシュ王国の救援などなくとも、残された唯一の王であるカミール様と、その母であるアガット様がご無事ならいいと思っております。異国の姫であった貴方がファルシャーンの全てを背負って、苦しむ必要はありません。貴方はよく頑張ってこられた」

 

 優しい言葉に泣きながら笑う。

 ナーシルが頬の前で止めた手を握りしめて俯く。


「そのような顔を見せないで下さい。貴方を見ていると、超えてはいけない一線を越えてしまいそうになる」


 芽生えた思いが一方通行ではない事に気づいたのは何時だろう。

 王子が私の閨を訪れる晩、王子の肩の向こうで貴方が俯くようになった。そして、その翌日だけは魔法を習いに訪れなくなった。


「ナーシルも聞きましたか? 先の街で、ファルシャーンの王子が妻子と共に自害したと噂が流れておりました。離隅の全てが魔法により焼け落ちて、共にいた妻子の遺体も何一つ残らなかったそうです」


 私の言葉にナーシルが顔を上げて、唇を噛む。

 噂に上がった王子は私の夫であり、ナーシルが守り続けた人だ。


「最後にお会いした時、王子はアガット様とカミール様を連れて逃げ延びよ、必要ならマールブランシュ王国を頼れと命じました。そして、去り際に私にしか出来ぬ事があるから、任せると言われた」


 あの方らしいと笑みが零れた。不器用だが、別の愛を知る人だった。


 ファルシャーンは妾を作る事を許さない。王子には私を娶る前から愛している人がいたが、私がこの国に嫁いだ事で王子は愛する人を永遠に失った。

 二度と手に入らぬ愛した人の為に、あの方は閨を重ねても私と唇を重ねる事は一度もしなかった。

 私と王子の間に愛はなく。当たり前の夫婦の会話もない。でも、互いに嫌ってはいなかった。


――別の人生を選べる事があれば、次は互いに幸せになりたいものだな

 

 明け方にあの方が私に呟いた言葉。国の為と体を重ねても、お互い別の人を心に想っていた。それを許し尊重していた私たちは、愛する痛みの一番の理解者だった。


「あの方は、私とカミールの存在を共に死した事にして、最後に隠して下さったようです。生きる事を自由に選ぶ道を残してくださったのだと思います」


 私とカミールのファルシャーンの王家の者としての存在は、王子が命と共に消してくれた。何もかも燃やし尽くす程の魔法はどれ程大変だっただろうか。


 王家の生き残りとして追われて生きる事を選ぶのか、国の滅亡を受け入れて新しい出発をするのかは、私の手に託されたのだと思う。

 

 頬に向かって伸ばされたナーシルの手から逃れるように一歩後ずさる。


「皆がカミールを守るのは、国の再興を求めているからです。マールブランシュについても返事がなかった時は、旅の徒労を皆に詫び、ファルシャーンの滅亡を宣言します。国も民もない私たちは、後ろ盾がなければ出来る事はもうありません。でも、それまでは皆の期待を負って最後の王族としての役目を果たしたいと思います」


 決して触れる事を許されなかったナーシルの手が再び落ちて、きつく目を閉じた。心を決めたように、鋭い瞳を開くと跪く。いつものように私の服の裾に、そっと口づける。


「ナーシル。ファルシャーン最後の騎士として、私が最後の役目を終えるマールブランシュ王国までは仕えて下さいますか?」


「もちろんです。私は生涯をかけて、貴方とカミール様のお側にいます」


 見上げた空には満点の星が輝く。

 あの星とあの星は重なる様に輝く。あの方は星になって愛しい人と出会えただろうか。

 

 

 ファルシャーン壊滅から六年。

 マールブランシュ王国の広場は珍しい音楽と踊りを見せる旅芸人を見る人でに賑わいを見せていた。

 逞しい男が魅せる剣戟に、美しい女性たちが魅せる舞、小さな少年が奏でる音楽。

 大きな歓声が上がって、一時の夢の舞台が終わる。


「この国で、興行はいつまである?」


 興行が終わって楽器を抱えた少年に、観客の一人が声をかける。


「マールブランシュ王国での興行は今日で終わりなんです。次はヴァイツ、イリタシス、フランチェル。僕たちは旅芸人ですから、風の向くまま、気の向くままに!」


 オリーブ色の瞳に金の髪の少年がそう言って、両親と思わしき二人の元に駆け寄る。

 父親は剣戟を見せていた逞しい男で、母親は美しい金の髪に紺碧の瞳を持ったこの国の女に見えた。

 男が少年を優しく片手で抱きあげて、空いた手で女の肩を愛しげに抱く。仲の良い幸せそうな家族に思わず顔が綻ぶ。


「また、来いよー。楽しみにしてるぞー」


「また、いつかお会いしましょう!」


 男に抱かれた少年が、晴れやかな笑顔で手を振った。

 

  

 一つの国が地図から消えて、この世界を巡る者が生まれた。

 初めは一つだったと言われる旅芸人の一座も時がたって数が増えた。


 最古の一座は、色鮮やかな衣装を身に着け、舞と音楽で身を立てる者達と言われている。

 その失われた技芸と発祥の時期から、玉座に付く事のなかったファルシャーン最後の王の血を引く噂があるが、その事実を確かめる術も必要もこの世界の何処にもない。


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