8.大賢者ワーズパイト
木枯らしが吹き抜けていく。
幻霧の森の中心に広がる草原にも、冬が訪れていた。
「セリス~、これが解らないんだけど」
窓際で魔導書を読みふけっていた龍平が、ハーブティを運んできたセリスに声をかける。
吹き込んでくるが風が、かなり冷たくなってきていた。
そんなときには熱いハーブティが、何よりもありがたい。
「……ん」
龍平から差し出された魔導書とハーブティを交換し、セリスは文字を追った。
ひとしきり読んだ後、書架から別の本を引き抜き、疑問への回答が書かれたページを開いて龍平に渡す。
そろそろ窓を開け放っていると寒い。
まだ窓ガラスなどないこの時代、この世界において、開け放たれた窓は最高の明り取りだ。
だが、真冬に窓を開け放っていては、家の中で凍死しかねない。
照明の魔法はあるが、松根油などの油を燃料とするランプを基準に開発されているためか、現代日本人の龍平基準ではかなり暗い。
冬の間本が読めないのは耐え難いと、龍平は明るい照明魔法の開発を心に誓っていた。
「……ありがと。……ん、だいたい解った」
当面の疑問が解決した龍平は、魔導書をテーブルに伏せる。
そして、ハーブティをひと口飲み下し、大きく背伸びをした。
この世界の魔法は、すべてが四属性に分類されている。
龍平も日本で耳にしたことのある、地水火風だ。
そして、非常に残念なことに、セリス曰く、龍平は膨大な魔力量を持っているようだが、圧倒的に四属性に対する適正がないらしい。
これまでの研究では、魔法の術者は生まれながらにして体内に四属性の魔力を持つとされていた。
その割合の多寡で、魔法との相性が決まる。
つまり、行使できる魔法が決まると考えられている。
火属性が多ければ、相対的に水属性は減り、風属性が多ければ、土属性が減るという相関関係も見いだされていた。
相対する相性のほかに、火と風の並立や水と土の並立も知られている。
そして、火と土、水と風の相性は良くないと信じられていた。
また、四属性をまんべんなく行使する万能の者もいるが、相性が悪いとされる属性同士が打ち消し合うのか、威力の高い魔法は使いこなせないとされていた。
しかし、例えば風と水なら空気の流れと雷雲増強で、雷撃の効果を高められないか。
火と土なら純粋な火力に土から効果的な可燃物を抽出して合わせることで、テルミット反応のように火の効果をさらに高められるのではないか。
そう龍平は考えていた。
だが、四属性との相性が壊滅的な龍平に、その実証はできない。
セリスに実演を頼んでみたが、やはり相性の悪い属性同士をうまく合わせることができなかった。
その原因は、魔法の成り立ちそのものが関係しているようだった。
この世界の魔法は、まず最初に術者のイメージから始まる。
どのような現象を起こしたいかによって、それに必要な属性を選択し、そこからイメージを膨らませていく。
化学も物理も関係なかった。
こうあってほしいから始まり、いつしか固定観念となり、相性という常識に皆が縛られていった。
結局のところ、相性の悪さの原因はイメージだった。
雷撃の大魔法の中には、風で雷雲を集めて稲妻の効果を上げる方法があると聞く。
晴天の際には使えないらしい。
龍平は水属性で雷雲を作った方が、魔力のコスト対効果も高いのではないかと思っていた。
だが、稲妻の魔法は火属性に分類されていた。
高温高圧の電撃で、敵を焼くと考えられている。
落雷に遭った樹木が引き裂かれ、燃え落ちたことから、そのイメージが固定された。
したがって、せっかくの高温を冷やしてしまう水属性は雷撃には害悪と決めつけられてしまった。
高電圧による感電を狙うのであれば、かえって敵の身体が濡れていた方が良いのではないか。
土属性も合わせて伝導性の高い金属でも体表に張り付けてしまえば、もっといえば金属で急所に導いてやれば、さらに効果が上がるのではないか。
そんな疑問が次々と湧いていた。
それにしても、なぜ自分には四属性が使えないのか。
もしかしたら、体内魔力には属性などなく、相性は個人の資質によるものなのか。
いや、それでは過去の事例で体内魔力の属性が証明されていたことが、まったくの見当違いになってしまう。
異世界人というイレギュラーのせいなのか。
龍平の疑問は尽きなかった。
――ワーズパイト様の理論がすべて完璧なわけではないと思う。私はリューヘーの理論にも充分価値を見いだしている――
セリスから念話が届いた。
龍平の理論に満足しているのか、腕を組み、胸を反らして頷いていた。
――だから、リューヘーはふたつの理論を統合して、新しい理論を作ればいい。そのために、私はワーズパイト様が築き上げた理論のすべてをリューヘーに伝える――
鼻息も荒く、セリスは宣言した。
――この館に残されたワーズパイト様の蔵書は、すべてリューヘーに譲り渡す。解らないことがあれば、何でも聞いてほしい。私の魔力量と適正からワーズパイト様ほど魔法は使えないけど、実証実験の手伝いくらいは充分可能――
冷静沈着を絵に描いたようなセリスが、珍しく興奮していた。
思えばセリスがこの館から離れないのは、家憑き妖精の特性もさることながら、敬愛する大賢者ワースパイトの思い出と功績を守るためでもあった。
大賢者ワーズパイト。
大陸の歴史書や魔導書を紐解けば、必ずその名を見ることができる大碩学だ。
一〇〇〇年に近い時を生き抜き、大陸の歴史をつぶさに書き留め、現在の魔法を完成させた知の泰斗。
もちろん肉体の老いから逃れることはできなかったが、常に新しい肉体へと転生を繰り返すことで、恐ろしいまでの知識を体系付けて世に遺していた。
その大賢者が世のしがらみから逃れ、この幻霧の森に居を構えたのが、今から約一五〇年前。
超常の結界を、力技でこじ開けてきた。
偶然なのか必然なのか、彼が居を構えた場所は幻霧の森でも特に濃い魔力溜まりだった。
大賢者の魔力と長い間に溜め込まれた自然魔力が融合し、家憑き妖精が生まれてきた。
それから五〇年の歳月を費やし、二人三脚ですべての知識を書き残していった。
そして今から約一〇〇年前、最後の肉体が限界を迎えたとき、セリスにすべてを託して満足げに世を去っていった。
それからの一〇〇年、セリスは大賢者を継ぐ者がここへたどり着くことを、ひたすら待ち続けていた。
しかし、世のひとびとは大賢者が世界に遺した著書を読み解くことに満足し、新たなる知を求めようとはしなかった。
いつしかセリスは大賢者を継ぐ者がいないことに気づき、彼の転生体が還ってくることを待ちわびるようになっていた。
大賢者への妄執が美しかった妖精を妖鬼に変え、滅びの寸前まで追いつめていった。
そんなときに現れた龍平を助けたのは、妖精の気まぐれによるところが大きい。
怪我が治れば幻霧の森の外へと連れだし、それで終わりにするはずだった。
それが人ならぬ身に恋を打ち明けられ、その情に絆され、大賢者同様の家族として側に置くうち、龍平が秘めた知性に気づいた。
これが運命かとセリスは思う。
龍平にすべてを託すと、セリスは決めた。
――リューヘーの知識は素晴らしい。そして、この短期間で異世界の言語を読み解けるようになった、その理解力も素晴らしい。どこでそれを身につけたの? 見たところ、あなたはまだ若い。失礼を承知で言えば、この世界の魔法高科学院のような高等教育を受けたようには見えない――
セリスにはそれが疑問だった。
若者のにしては、知識が多く理解力も高い。
その反面、知識偏重で、まだ教養が浅かった。
「まあ、一応義務教育は終わってるし、高校も行き始めたところだったから。国語、数学、理科に社会、一応英語は、まあ、何とか。理科も生物と化学はいいけど、物理は苦手だなぁ。社会の日本史、世界史はいいとして、地理は覚えることが多すぎてしんどい」
義務教育程度の知識と理解力を手放しにほめられて面映ゆく感じ、少しだけ苦い表情で龍平は答えた。
ワーズパイトの蔵書を読み解くにつれ、せめて高校で勉強してから来たかった。
小中高と、いつも教師が言っていた。
いつかお前たちは社会に出た後、あの時もっと勉強しておけばよかったと思う、と。
学校の勉強を強いるための言葉だと、龍平はずっと思っていた。
だが、こんなに早くその真実に気付かされるとは、思ってもいなかった。
今さらながらに教師のいうことが身に染み、日本にいたときとは打って変わって学問書を読んでいる。
もっとも、異世界ファンタジーを感じられる魔道書であるということも、龍平の勉学熱の原動力になっていた。
語学に関しては、セリスの協力が大きい。
龍平は豊富な羊皮紙とインクをふんだんに使い、日常の会話の中で何度もセリスに聞き直しては、身近な物から辞書を作っていった。
セリスの魔力によってか、移転のせいかは知らないが、言葉は通じた。
そのため、異世界の文字を単語として書いたとき、異世界の言葉で発音せず、日本語の別文字として覚えたことが功を奏した。
新たな漢字を覚えるのと同じ感覚で、もしくはappleをアップル=リンゴと訳するのではなく、その字面を林檎として読むかのように、短期間のうちに異世界の文章をマスターしていた。
この世界の文法が、日本語やドイツ語に似ていたことも、大きな利点だったかもしれない。
――義務教育とは? 高校とは魔法高科学院のような機関? 魔法がないとは聞いたが、そんなに多くの学問を修めるの? だとするなら、リューヘーはとんでもないエリート? その割にはいろいろと抜けている?――
この世界の住人にしてみれば、当然の疑問をセリスは口にした。
高等教育は、貴族や豪商といったごく一部の特権階級のためにのみ存在している。
庶民がいくら望んだところで、手の届くものではない。
もちろん、この世界のアルファベットを読むことなら、手習い程度でも充分可能だ。
簡単な足し算引き算も、指を使ったり棒を書いて足したり消したりでなんとかなる。
だが、あまりに当たり前にやっていたためセリスも見過ごしていたが、文章の読み書きや四則演算を使いこなすなど高等教育を受けてこそだった。
ましてや、龍平が操るひらがなカタカナ漢字交じりの文章や、三桁の暗算、そしていつ使うか解らないが因数分解や図形問題など、魔法にも等しかった。
「いやいや、俺はエリートなんかじゃないって。ごく普通の高校生」
――いや、文章が書けて、それだけ計算ができて、なおかつ早い。これをエリートと言わずなんと言おうか――
龍平の否定を照れ隠しと取ったのか、セリスがかぶせるようにまくし立てた。
意思の疎通を可能とする者たちの言語がひとつしかないこの世界において、それ以外の言語があるということが驚きだ。
そして、自身が操る語学をわざわざ学ぶことにも驚かされたが、確かに龍平が使う文字はあまりにも多様すぎて、学ばなければ習得は無理そうだった。
それだけではない。
自然の理を細分化させた学問。
自国と他国の歴史に世界の地理に政治。
加減乗除以上に複雑な計算を操る学問。
それは多少の得て不得手はあろうと、できて当然の基本中の基本だという。
それ以外に体育、技術家庭、音楽、図工といった科目の説明に、セリスは興奮しっぱなしだった。
学問を追及し、誰も届かない頂へと達した大賢者と過ごした年月は、この家憑き妖精を知的好奇心の塊へと育て上げていた。
「俺の世界、特に俺の国じゃ、これくらい誰でもできるんだ。まず、六歳から一五歳までの子供を持つ親は、子供を学校に行かせる義務がある。その後は、三年間の高校と四年の大学ってのがあって、ほとんどのひとがそれに通うな。俺も大学は行く気だったし。そっからまた二年か四年の大学院ってのがある。中には高校の後専門学校に行く奴もいるな。話を聞くに魔法高科学院って、大学から大学院みたいなもんか」
ざっくりすぎるほどざっくりと、龍平は日本の学校制度の説明をした。
魔法高科学院は国や貴族をパトロンとして、主として魔法の研究を行い、その成果を貴族などの特権階級に教育という形で還元している。
最大の目的はワーズスパイトが残した魔法の改良や、まだ原理が不明な魔法の解析だ。
就学の年齢制限を別と考えれば、ほとんど現代社会の大学と同じシステムだった。
平均寿命が短く、子供すら重要な労働力と考えられているこの世界では、現代社会からは考えられないほどあらゆる年齢制限が低かった。
就業はいうに及ばず、飲酒や喫煙の制限も、結婚の適齢期もそうだ。
そして、魔法高科学院の入学年齢は、この世界で一般的に成人と考えられている一五歳からだった。
もし、龍平が幻霧の森に飛ばされず、あのままガルジオン王国やブーレイ神殿で保護されていたら、有無を言わさず放り込まれていただろう。
もっとも、魔法の行使が今のところ不可能な龍平では、研究職にたどり着く前に放逐されているかもしれないが。
――いや、ちょっと待ってほしい。それは貴族とかだけの話ではなく、すべてのひとびとが? 信じられない。庶民にとって、子供だって貴重な労働力。それを働かせず学校に行かせるなんて、リューヘーの国はどれほど豊かなのか、想像もつかない――
信じがたいといった表情で、セリスは首を横に振りながらまくし立てる。
人間社会に出たことがない妖精ではあるが、ワーズスパイトから社会常識は教わっていた。
それだけに、その常識に縛られているとも言える。
龍平が話す現代日本の話題は、セリスにとってとんでもなく常識外のことが多かった。
しかし、それは唾棄するような非常識ではなく、この世界の発展を期待させる夢のような話でもあった。
「よくできた、豊かな社会だと思うよ。離れてみてつくづく思った。できることなら、去年までの俺をぶん殴ってやりてぇ」
当たり前の幸せは、それを享受しているときには気づきにくい。
平々凡々と学校に行って勉強だけしていれば良かった過去を、龍平は歯噛みする思いで振り返っていた。
そして、今さらながらに教師の言っていたことを、実感とともに噛み締めていた。
――しかし、なるほど、それならリューヘーの知識も理解力も、年の割にすぐれているのが理解できる。そして、多分、あなたたちの教育は知識が優先され、洞察力は後回しになってる分、肝心なところで抜けているのも――
「抜けてる抜けてるって、そればっかり強調するな!」
今度こそ照れ隠しに、龍平は叫んだ。
こっそりと髪に手を当てたのは、秘密だった。