6.妖鬼の館
龍平は、ゆっくりと意識が覚醒するのを感じた。
身体を包む空気はしっとりと湿気を含み、そしてひんやりとしていた。
いきなり黒い渦に飲み込まれ意識を失ったことは覚えている。
記憶はそこで途切れていた。
身体が酷い懈怠感に包まれ、目を開ける気になれない。
相当な重傷を負ったと、龍平は確信していた。
何が起きたのかは、解らない。
おそらく目眩か何かの挙げ句階段から落ちたか、踊り場の板を踏み抜きでもしたのだろう。
というか、それくらいしか思いつかない。
意識を失ってから倒れたのか、倒れてから意識を失ったのかは解らないが、頭を強打した可能性が高い。
階段を転げ落ちるか、床板を踏み抜いたなら、そこら中打撲しているはずだが、不思議と痛みは感じない。
帰宅した両親が、病院まで運んでくれたのだろう。
心配させたことを済まなく思い、次いで後遺症が心配になった。
そこまで考えて、龍平はあることに気づいた。
夏休み!
宿題!
どれくらいの時間が経ったのだろう。
とりあえず、後遺症さえなければ数日の入院で済むだろが、宿題が帳消しになるわけではない。
とりあえず、ナースコールでもしようと腕を動かし、そこで初めてあり得ない違和感に目を開いた。
木々の間に霧がかかっている。
柔らかな苔の上に身を横たえていた。
腕は苦もなく動く。
ぺたぺたと身体をまさぐるが、打撲の跡はまったくなかった。
間違いなく、病院のベッドでもなければ、家の中でもない。
龍平は混乱のあまり飛び起き、声の限りに叫んでいた。
「なんじゃ、こりゃあああぁぁぁっ!」
「おーけー、おーけー。状況を整理しよう。まだ慌てる時間じゃない」
柔らかな苔の上に座ったまま肩で息をしながら、自身に言い聞かせるように敢えて声に出す。
「ここがどこだかは、この際どうでもいい。ここが安全かどうかが、今は一番大事だ」
とりあえず辺りを見回す。
真っ白だ。
「おーけー。解った。何も解らない。今はそれでいい。これは霧だ。いつかは晴れるはずの霧だ。それから動けばいい。それまで寝よう」
物音ひとつしない。
苔がこれだけあるということは、森の中なのだろう。
鳥のさえずりひとつ聞こえないのであれば、周囲には何もいないということに龍平は決めた。
剛胆なのか、危機感がないのか。
龍平は柔らかな苔の上に寝ころんだ。
「ダメだぁっ! こんなしっとりしたとこで寝てられっかぁっ!」
ものの一分も経たないうちに、龍平は飛び起きた。
Tシャツがじっとりと濡れている。
今すぐ風邪を引くようなことはないだろうが、このままでは危ない。
濡れた身体は乾かさなければ、体温を奪われる一方だ。
雨こそ降っていないが、まとわりつくような霧の中では体温の維持すらままならない。
とにかく、霧の中から脱出しなければ、命が危ないことだけは理解できた。
サバイバルの経験など、あるはずもない。
せいぜいがキャンプだ。
それも、子供会の。
これまでに読み溜めた雑学本と、僅かな経験を頼りに龍平は動き始めた。
そのとき、重大なことに気がついた。
なぜ、靴を履いていない。
最後の記憶をたぐる。
階段を下りようとして。
間違いなく、家の中にいた。
靴など履いていなかった。
「そうだ、現在位置を……」
立ち止まってポケットからスマホを取り出す。
そして、アプリを起動すべく画面にタッチする。が、起動しない。
「……なん、だと?」
まさかと思って、スマホの脇を確認する。
イヤホンジャックと充電ジャックが開いていた。
まさかと思って、スマホの脇を確認する。
イヤホンジャックと充電ジャックが開いていた。
寝ころんだときにそこから水が入り、水没状態になったようだった。
「……マジかよ」
スマホをポケットに戻し、ふらふらと歩き出す。
幸い、厚く生えた苔のせいで、慎重に足を運べば歩けないこともなかった。
明るい方へ行こう。
少なくとも、そっちなら霧は薄いはずだ。
幸いにも、まだ空腹は感じていない。
喉の乾きは、葉っぱの上に溜まった滴を舐めることで、今のところ何とかなっている。
今は、明るい方へ。
鞭のようにしなる枝に叩かれ、あちこちに切り傷を作りながら、龍平は森を掻き分けていた。
あてがあるわけではない。
生物としての本能が呼び覚まされたのであれば、きっとそうなのだろう。
真っ白な世界の中を、龍平は明るい方へと歩き続けた。
どれくらい歩いたのか、龍平はもう解らない。
無我夢中で歩くうちに、足の裏にも切り傷ができている。
破傷風は予防接種を受けたことがあるからいいが、鈍い痛みに苛まれている。
一歩踏み出すのが、つらくなっていた。
真っ白な霧の中では太陽も見えず、時間が判らない。
腕時計を信じるなら、まだ一五時だ。
しかし、何時から歩き始めたのか、焦っていた龍平は覚えていない。
アップダウンは少なかったが、倒木を乗り越え、枝をかい潜るうちに体力は消耗していた。
じっとりと濡れていた服は、霧で絞れるくらいになっている。
そのせいで、かなり動きにくい上に重さで体力の消耗が莫迦にならなくなっていた。
今はいい。
動いているなら体温も上がる。
止まったら危ない。
日が暮れたら危ない。
かつて、キャンプで川遊びの最中に土砂降りに遭ったことがある。
子供だった身体は、あっという間に体温を奪い去られた。
その後は、歯の根も合わないほど震えたことを思い出した。
震えるだけなら、どうとでもなると思っていた。
だが、身体は動かなくなるうえに、寒くて意識が遠のいていく。
真夏だというのに、寒さで身体中が痛くなっていった。
あのときはバンガローに駆け込んで、シャツからパンツから全部脱ぎ捨て、素っ裸で毛布にくるまって何とかなった。
このままでは、あれの再現だ。
だが、逃げ込むべきバンガローも、温かさを保証してくれる毛布もない。
止まるな。探せ。
霧が入り込まない洞窟でも、樹のウロでも、なんでもいい。
身体を乾かせる場所を探せ。
雨じゃないだけまだマシだ。
まだ、慌てる時間じゃない。
そう、慌てるな。
龍平は着ていたパーカーの袖を、力任せに引きちぎった。
それを靴下のように履き、手探りでむしり取った蔓で縛る。
拾った木の枝を杖にして縋り、龍平は明るい方へとよろぼうように歩き続けた。
荒れ果てた館の中に、一匹の妖鬼がうずくまっていた。
瀟洒なメイド服はそのままに、頬は痩け、両眼は落ち窪み、唇は乾ききっている。
敬愛する主人が天寿を全うした後も、主人の帰還を待ち続ける家憑き妖精のなれの果てだった。
かつて、主人が健在だった頃から、幻霧の森にひっそりと建つ館を訪れる者はいなかった。
館に憑いた妖精にとって、ここに出入りする者は主人のみだった。
その足音が絶えてから、既に一〇〇年の月日が流れている。
家憑き妖精にとって、その主人の世話を焼くことこそ、その生き甲斐。
誰もいない館を掃除し、誰も着ない服を洗濯し、誰も食べない食事を用意する毎日は、妖精の生き甲斐を否定していた。
何をしても、誰もほめてくれず、誰も感謝してくれない。
その生き甲斐を失っては、妖精から妖鬼に堕ちるのも、また必定。
荒れ果て、朽ちていく館とともに、妖鬼は滅びようとしていた。
陽が落ちようとしていた。
森の中は急速に暗くなっていく。
龍平の中に、焦りが生まれていた。
「ヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバい。このままじゃ霧の中で夜明かしだ。間違いなく凍死する。早くなんとかしないと。もう慌てる時間だ。何を言ってるかよく解らんが、屋根と壁を探さないと」
陽が落ちた後に無闇と歩き回ることは危険だ。
同じ場所をぐるぐる回り、体力を失うだけの結果に終わる可能性が高い。
もっとも、日中であっても濃い霧の中をさまようことは、同じ事だったかもしれないが。
「なんか俺こんな目に遭うような悪いことやったかよぉ……」
やってない。
夏休みの宿題もやってない。
さすがに心細くなったか、泣き言が出始めた。
へたれめ。
やがて、完全に陽が沈んだ。
辺りは漆黒の闇に閉ざされている。
靴代わりのパーカーの袖は、もうずたずただ。
ないよりはマシだが、靴下の代わりにもなりはしない。
足が痛い。
もう歩けない。
もし、月明かりがあったとしても、鬱蒼とした樹木の枝に遮られ、地上までは届かない。
龍平は歩き回ることを諦め、座り込んで倒木に身体を預けていた
。
幸いにも分厚い苔のおかげで、尻が痛くなることはない。
だが、たっぷりと水分を含んだ苔は、容赦なく龍平の衣服を濡らしていった。
腹が減った。
そういえば、朝起きてから食パン一枚しか食べていなかった。
霧の中を歩き回っていたときには、焦りのせいか空腹を感じる余裕すらなかった。
それが、歩けない状況になり、腰を落とした途端に身体が思い出してしまった。
腹が鳴り、龍平の意識に空腹が強調される。
胃酸過多の状態になったのか、吐き気がこみ上げてきた。
辺りを探そうにも、既に漆黒の闇に閉ざされている。
手に当たるものといえば、苔と倒木に木の枝。そして石ころくらいのものだ。
どう考えても、食べていいものではない。
龍平が知らないだけで、ひょっとしたらこのままで食べられる苔なのかもしれない。
いや、そもそも苔を食う動物など、聞いたことがない。
アクアリウムの世界では、岩や水草につくコケをエビなどに食わせて除去するという。
だが、あれは通称コケと言い習わされているだけで、実際は藻類だ。
苔に近い地衣類であれば、シベリアやアラスカ、カナダにいるカリブーが食うと本で読んだ記憶がある。
そのほかの地衣類では、イワタケが珍味として知られているが、龍平は見たことがない。
見たことがあったとしても、この暗闇の中でそれを見つけることは不可能だ。
だいたい、苔が食用になるなら、苔を食べる動物がいるなら、こんなに大繁殖するはずがなかった。
試しにひと摘み口に含んでみるが、ごわごわとした舌触りにものすごい青臭さだった。
とても飲み込める代物ではない。
毒があったら死ぬぞ、莫迦。
とにかく、無理矢理にでも睡眠をとり、明るくなってから食料を探すかと、龍平は考えた。
だが、今まで動物といっさい遭遇していないことに、気づいてしまった。
つまり、動物の餌になるものすらない。
徐々に龍平は追いつめられていった。
「これ、食えねぇかなぁ……」
虚しいと解っていても、無理矢理にでも声に出す。
真っ暗闇かつ無音の世界で、人間は正常な精神を保つことは困難だ。
もちろん、龍平にそんな実体験があるはずもない。
本で読んだ知識だが、龍平の危機感をあおるには充分だった。
マンガだか小説だかで、近未来のシェルターに独り残された男の物語を読んだ記憶がある。
その中の食料が尽きた後、履いていた革靴を煮込んで食うシーンがあった。
食えたのか、食える代物ではなかったのかまでは覚えていないが、確かに食うシーンがあったことは覚えていた。
だが、今の龍平にはその靴さえない。
代わりにベルトが革製だった。
だが、あのシーンを再現しようにも、ベルトを煮ることは不可能だ。
鍋がない。
水がない。
火がない。
もし、薪になる木があって、火種があって、水があって、鍋があっても、こんなに濡れた環境で火を熾すことは不可能だ。
龍平はわざと足下の音を立てながら、永遠のような闇の中でうずくまるしかなかった。
何でこんなことになったのか。
ここはどこなのか。
なぜ、家からここに来ているのか。
闇の中で龍平は考えてしまった。
家の中から移転していたとしか考えられない。
龍平が歩いて行ける範囲に、こんな森はない。
夢遊病か何かのように、無意識に電車等を利用したかもしれないが、財布の中身は減っていない。
定期で降りられる駅から歩ける範囲でも、こんな森があるなんて聞いたことがなかった。
いよいよ認めたくない現実が、龍平の前に立ちはだかってきた。
異世界移転。
ライトノベルやネット小説で、大流行している設定だ。
それが現実に、我が身に起こるなど、普通なら噴飯ものだ。
だが、数々の状況証拠が、それしかないと物語っていた
ふと、樹木の向こうに小さな灯りが見えた。気がした。
そして、まとわりつくような霧が晴れていることに、龍平は気づいた。
ほんの僅か闇になれてきた目を頼りに、龍平は木々を掻き分けて歩いた。
枝に顔をぶつけ、腹を叩かれ、木の根に足を取られて倒れても、僅かな望みに向かって歩き続ける。
どれほど歩いただろうか、それまで行く手を阻み続けた森が、唐突に終わった。
少なくとも霧を恐れる必要はなくなったが、目の前の光景は信じ難いものだ。
龍平の眼前には、ふたつの月明かりに照らされた草原が広がっていた。
「月が、ふたつ? なんだ、それは……。でも、今はそれどころじゃない」
なんとなくだが、記憶を連続させればここが地球ではないことを、うっすらとだが予感していた。
月がふたつあることで、予感は確信に変わる。
認めたくなかった。
もう二度と、両親や友達に会えない。
我が家に帰ることも、団らんのひとときを過ごすこともできない。
学校に行くことも、友達と遊ぶこともできない。
テレビもパソコンもスマホもゲームも本も、二度と見ることも使うことも読むこともできなくなった。
だが、今は生きることが先決だ。
打ちのめされそうになった心を何とか奮い立たせ、龍平は先ほど見た灯りを探した。
草原の片隅に、瀟洒な洋館がぽつんと建っていた。
龍平は思わずへたり込みそうになったが、残った力を振り絞り駆けだした。
洋館の玄関にたどり着き、力の限り扉をノックした。
地球ではないのなら、この家に住んでいる者は人間ではないかもしれない。
だが、このとき、龍平の頭からはそこに何が住んでいるのか、危険はないのかなどの考えは、すっぽりと抜け落ちていた。
荒れ果てた館の扉から、何かを叩きつけたような音が響く。
長い間部屋の片隅でうずくまっていた妖鬼の耳にも、その音は確かに届いた。
幾久しく聞くことのなかった扉からの音。
主人の帰還ではないことを妖鬼は理解しているが、それでも扉を開けに行かずにはいられなかった。
妖鬼は小走りに扉へと向かう間に、僅かに残された魔力を振り絞る。
醜く変貌した容姿を、必死になって元の姿へと戻していった。
髪も肌も瞳も唇も、瑞々しい若さを作りあげ、思いの丈を込めて扉を勢いよく押し開く。
「お帰りなさいませ、ご主人様ぁっ!」
普段から極端な無口だった妖精は、万感の思いを言葉に込めて、扉の向こうへ深々と頭を下げた。
だが、応える者はいない。
いるはずもない。
この館に帰還すべき妖精の主人は、もう一〇〇年も前に天寿を全うしていたのだ。
解ってはいたが、それでも妖精は希望に縋りたかった。
お辞儀をしたまま溢れた涙が、床に小さな水溜まりを作る。
解っていた。
でも、満面の笑みで迎えたかった。
涙で歪んだ笑顔のまま、妖精は扉の外に目を向ける。
誰が音を立てたのか、確かめたかった。
それだけは確かめたかった。
主人がもう還らないことを、確かめたかった。
意を決して、妖精は頭を上げる。
扉の外を確かめなければならない。
悲しい事実を、自身に認めさせなければならない。
扉の外には若い男が倒れていた。
仰向けに。
大の字で。
あまりにも予想を外した光景に、妖精はつい言葉を投げかけた。
「あなたは、誰?」