3.龍の事情
どこか遠い世界で、火山が不気味に鳴動している。
深紅の鱗を全身にまとった龍が、天を見上げていた。
龍の全長は三〇メートルに達していた。
立ち上がった身の丈は、一〇メートル。
太い二本の脚と、全長の三分の二におよぶ長大な尾が、その身を支えている。
その背には雄大な翼が今にも飛び立たんと広げられ、逞しい両腕は胸の前で組まれていた。
後方になびく二本の角を備えた凶相に耳朶は見られず、切れ長のつり上がった両眼には縦に絞り込まれた赤い瞳がはめ込まれている。
太く長い鼻面の先端には、上を向いた小さく鋭い角が備えられていた。
目の下まで裂けた口が僅かに開かれ、鋭い牙と小さな炎が垣間見えている。
荒れ果てた世界の中で、巨大なカルデラを背に、赤龍は天を見上げていた。
何かを待つように、赤龍は天を見上げていた。
いつ、この身が生まれたかなど、覚えていない。
親と呼べる個体がいたのか、そんなことはどうでもよかった。
気づいたときには、既に赤龍は現象として存在していた。
気の赴くままに命を喰らい、空を駈け、地を疾った。
強者に戦いを挑み、戦うことを楽しんだ。
立ち向かう者を叩きのめし、立ちはだかる国を破壊した。
わざわざ出向いてまで国を壊す気などなかったが、自らの命を狙うとなれば話は別だ。
ドラゴンスレイヤーなどというくだらない称号のために、殺されてやる気など欠片もない。
互いの生存権を賭けた闘争であるならば、死力を尽くして正々堂々と戦おう。
そして、武運拙く敗れたなら、その勇気を讃え、称号の価値を認めよう。
だが、個人の栄誉や野望のため、この身の意志を無視して殺しにくるなら、手加減や誇りなど必要ない。
先手必勝。
ただそれだけだ。
小賢しい策ができあがるまで、ゆっくりと待っやる必要など、欠片も認められない。
住処とする火山から打って出て、麓にたむろする人間の陣を蹂躙し、ブレスで焼き払った。
どうやらその中に王の家族でもいたらしく、それ以降何度も攻め寄せてきたのでその都度打ち払っただけだ。
しまいには面倒になり、国ごと破壊し尽くしたが、そのことについて後悔はない。
巻き添えになった民には、気の毒なことをしたと思う。
だからといって生活圏が違う者の栄誉のためだけに、殺される気などないだけのことだった。
ひとつの国を滅ぼした後、赤龍は安穏とした日々を手に入れていた。
生まれついて以来、破壊衝動とは上手く付き合っていたつもりだった。
本能を押さえる気はないが、本能に飲み込まれ、その赴くままにだけ生きる気もなかった。
敵意を持たない者を戯れに殺戮する気もなく、未知の知識をもたらす者とは良好な関係を維持したいと思っていた。
同時期に生まれたと思われる青、黒、白の鱗を持つ同族とは、時折顔を合わせては語らったものだ。
脆弱な人の身を持つ者でも、膨大な知識や深い教養には敬意を払った。
いつしか赤龍の住処は、知識と真理を求める者たちの梁山泊となっていった。
人の心は弱い。
いつも何かに怯えながら生きている。
どれほどの富を得ようと、どれほどの権力を手にしようと、失うことを恐れない人はいない。
だが、知識は別だ。
一度身につけた知識は、誰も奪えない。
忘れることはあっても、奪われることはない。
赤龍の住処に集う者たちは、その真理に気づいていた。
食うに困らぬ食料さえあればよい。
日々の暮らしを苦にせぬほどの財貨があればよい。
人を統べる権力など、知識を求めるために必要なものではない。
赤龍の元を旅立ち、知識を得てはひとびとはまた戻る。
そのようなひとびととの交流を、赤龍は楽しんでいた。
赤龍や他の三龍は互いの住処を訪れては、しばしの時を過ごすことがあった。
年単位で滞在することもあれば、数日で戻ることもある。
他の三龍の元にも、賢者が訪れては知識の研鑽を積んでいた。
その者たちとの交流は、赤龍に新たな刺激をもたらした。
知性を司る青龍になってしまったのではないかという錯覚を、赤龍は心地よいものととらえていた。
権力者は恐れる。
その地位を脅かす者を。
他者の富を。知識を。人望を。
自身よりすぐれた者を恐れる。
赤龍が築き上げた梁山泊は、世界の権力者たちを怯えさせるに充分だった。
あるとき、赤龍が出先から戻ると、そこは血の海だった。
赤龍の梁山泊を恐れたいくつもの王国が連合し、周到な準備の上で彼の不在を衝いたのだった。
数多の友を失い、赤龍の心が砕けた。
かろうじて息のあった年若き探究者から、王国連合に攻められたことを知らされ、赤龍は復讐を誓った。
世界を破壊し、世界に復讐する。
友の遺骸に誓った赤龍は、天を駈けた。
ひとつの王国を滅ぼしたが、赤龍の心は砕けたままだった。
そんな程度で、彼らが殺された苦しみを晴らせるわけがない。
破壊と再生を司る龍は、復讐のために再生を捨て去り、理性を持つ破壊神へと変貌していた。
このままでは世界を破壊してしまう。
理性では理解しているが、彼は止まらない。
止まれない。
止めてくれるはずの友人たちは、既に亡い。
同胞である三龍も諌めてくれたが、それはうっとおしいだけの理想論でしかなかった。
もちろん、八つ当たりであることは、重々理解していた。
それでも赤龍は止まれなかった。
青龍が住む大陸に、仇の王国を破壊するために攻め込んだ。
そして、その大陸を守ろうとした青龍と、心ならずも血みどろの戦いを繰り広げた。
二頭の龍の激突は、天をどよもし、地を震わせた。
互いのブレスが森を焼き、翼が巻き起こす衝撃波に町は崩れ去った。
大陸を所狭しと駆け回り、彼らがもたらした破壊は完全に大陸を荒廃させた。
一年にわたる血みどろの戦いを制した赤龍が雄叫びをあげたとき、王都の城壁は崩壊し、市街はがれきの山と化していた。
王都から離れた貴族たちの領地も、破壊を免れた場所などどこにもない。
山は均され、森が消失し、大河は枯れ果て、農地は焼き払われた。
町も、産業も、治安も破壊された王国は、赤龍が手を下すまでもなく自壊した。
赤龍が飛び去った後には、有史以前の力のみが支配する、凄惨な世界が残されただけだった。
最後に残された王国に鉄槌を下すため、黒龍が住む大陸を赤龍が襲った。
魔法を司る黒龍が、龍族最強の魔力以て迎え撃つ。
彼もまた、守護者だった。
二頭の龍が放つ大魔法に、町が消し飛び、生物が蒸発した。
人の身には扱いきれない大魔法が大陸全土を蹂躙し、生物の生活圏を瞬く間に奪い尽くす。
二頭の龍が通り過ぎた場所は、山も谷も森も湖も、すべてがひとしなみに打ち砕かれ、草木も生えない荒れた平原が残された。
国を失い、生業を失い、住む家を失ったひとびとを飢餓が襲う。
逃げる場所すら破壊し尽くされたひとびとを、二頭の龍が放つ大魔法は容赦なく巻き込んでいく。
餓死と破壊による殺戮の、非情な二者択一をひとびとは迫られていた。
二年にわたる戦いの末、最後の王国は既に滅亡していた。
巻き込まれた民は悲惨だったが、卑しい謀略に似合いの最期だった。
それでも目的を失った二頭の龍は、狂ったように大魔法を叩きつけ合った。
やがて、守る者をすべて失った黒龍が、ついに力尽きた。
暴走した魔力が大爆発を起こし、黒龍が散っていく。
だが、最後の仇を滅ぼしても、最強の魔力を誇る同胞を打ち倒しても、赤龍の心は砕けたままだった。
寂寥とした思いを抱え、赤龍は故郷へと舞い戻った。
誰もいなくなった、かつての梁山泊。
赤龍が見た夢のなれの果て。
そこで浅い夢にまどろみながら、赤龍は待っていた。
赤龍を止めるため、最後の龍がやってくる。
慈愛を司る白の龍がやってくる。
赤い龍の夢を終わらせるため、白い龍がやってくる。
赤龍は巨大なカルデラを背に、天を見上げていた。
不思議と心は澄み渡り、純粋な怒りのみを湛えている。
間もなく、白龍がやってくる。
それで終わりだ。
彼を打ち破り、世界を破壊する。
彼に討ち倒されるなら、それでいい。
やっと、止まれる。
空の彼方に小さな影が見えた。
赤龍が飛び立つ。
二頭の龍に、言葉はもう不要だった。
二頭の龍に、策などもう不要だった。
二頭の龍が、真正面から激突した。
赤龍のカルデラに、天空から一条の白い光が疾った。
上空には、血みどろになってもつれ合う二頭の龍がいる。
世界が、息を殺して二頭の戦いの行方を、見守っていた。
数瞬の後、長い眠りを撃ち破られたカルデラが、巨大な火を噴いた。
この世の終わりを告げるような劫火を、大爆発とともに噴きあげた。
轟音。
炸裂。
衝撃。
無数の火山弾が撃ち出され、ありとあらゆるものを撃ち、砕く。
噴出した高温のマグマが天空から降り注ぎ、ありとあらゆるものを焼いて、滅ぼす。
岩肌をマグマが高速で駆け下り、ありとあらゆるものを飲み込み、溶かす。
カルデラは爆発を繰り返し、真っ黒な噴煙が太陽を隠していった。
その薄闇の中で、二頭の龍は火山弾に身を撃ち抜かれ、マグマに焼かれながらも戦い続けた。
そして、巨大なカルデラを有する山全体が不気味に鳴動し、それが静まった瞬間。
すべてが弾け飛んだ。
それまでの噴火など、子供の火遊びとしか思えないような大音響が、空を引き裂いた。
巨大な火焔が、二頭の龍を巻き込んで噴き上がる。
爆風が辺り一面の火災まで噴き飛ばし、そこに新たな炎が降り注いだ。
地脈を通じ、すべての大陸で火山の誘爆が発生する。
深い海に眠っていた火山も、その長い眠りを破られた。
大地震が発生し、山も谷も炎に包まれながら崩壊する。
ありとあらゆるところで、火焔が猛威を振るい、破壊が吹き荒れた。
地が引き裂かれ、海が荒れ狂う。
僅かに生き残ったひとびとに、巨大な津波が容赦なく襲いかかる。
膨大なエネルギーがすべてをなぎ倒し、あらゆるものをひとしなみに飲み込んだ。
爆発の中心には巨大なクレーターが形成され、この世のすべてを燃やし尽くすような、紅蓮の炎がいつまでも燃え続けていた。