16.筆頭巫女だった少女の憂鬱
王都ガルジアの中心から少し外れた場所に、ブーレイの神殿は建っている。
誰でも気軽に参拝できるよう、戸口は狭くとも多数開かれていた。
神殿前の広場には、白亜の石材でいくつもの池が築かれている。
その池からは、清浄な湧き水が常にあふれ出し、一旦暗渠へと引き込まれ、町のそこここで再び姿を現していた。
どれもこれも、戦の際に民衆を迎え入れるための、シェルターを意識した作りになっている。
神殿を建立する地を選定する基準自体が、水の確保を最優先させていた。
戦は仕方がない。
あれは政治だ。
国家間の交渉手段が、口先から武力に替わっただけのことだ。
だが、無辜の民が無為に死ぬことは、許容できない。
苛烈な神殿の意志だった。
その神殿の一室で、先代筆頭巫女のレニアはひとりの少女と向き合っていた。
レニアの燃えるような朱の髪とは対照的な、栗色の真っ直ぐな髪を肩の辺りで束ね、腰へと流している。
糸のように細い眼窩には、理知的でくっきりとした瞳がはめ込まれていた。
高い鼻梁と引き締まった口元は、この少女の顔立ちに危ういバランスを醸し出している。
痩せているわけではないが、無駄な肉を削ぎ落としたかのような頬に少女の知性が現れていた。
現筆頭巫女ナルチアは小さな怒りとともに、レニアと対峙している。
その感情は、レニアの持つそれと対照的だが、ブーレイ神殿では無視できない勢力を作りつつあった。
「レニア様、神敵はまだ、捕らえられないのですか?」
一旦開かれた口から、問い詰めるような言葉がこぼれ、また唇が引き結ばれた。
「神敵ではありません。私の失態による被害者です。その方は、まだ幻霧の森にいらっしゃいます。なぜ、あなたたちは、そのような物言いをするの?」
レニアの物言いも、相手を詰問するようだった。
「彼の者は、レニア様から体内魔力をすべて奪い取り、筆頭巫女を蔑ろにしました。初の人間召喚の成功という快挙に泥を塗るなど、神敵以外の何者でもないでしょう? それとも、レニア様はこれがブーレイ神様のご意志とでも仰るのですか?」
ブーレイ神の名の下に行われる神事は、無謬でなければならない。
そう信じて育ち、厳しい修行に耐えてきたナルチアに、今回の事件は許容しがたい。
そして、実力を以て筆頭巫女の地位に就いたのならまだしも、尊敬する先輩が魔力をすべて奪われ、神事が執行不能になったが故の棚ぼただ。
レニアを蹴落とそうなど、ナルチアは露ほども思っていなかった。
だが、いつの日が自身に課した修行の成果で、彼女に追いつき追い越したかった。
それ故に、ナルチアはレニアの魔力を奪い、遁走した少年が許せなかった。
彼を捕らえ、弾劾し、懺悔させる。
そして、魔力をレニアに返させたうえで、神罰を与える。
ナルチアの瞳には、暗い影が宿っていた。
「それは酷い言いがかりです。彼に罪などあるはずがない。初の人間召喚など、世迷い言にすぎません。あれは、私の未熟さが招いた失態です。そうやって神殿の体面のために言葉を弄するなど、それこそブーレイ神への冒涜です」
レニアも負けてはいない。
そのような言いがかりで、罪人をでっち上げるなど許容できない。
そんなことをして、神殿の体面を保てるはずもない。
失敗に正面から向き合えないどころか、それを隠して責任を転嫁するなど、神徒にあるまじき振る舞いだ。
「では、どうしろと仰るのですかっ! このままでは召喚の儀がっ! レニア様っ!」
ナルチアは冷静に諭されても、納得できないとばかりに言い返した。
「原因の究明が終わるまで、召喚の儀は執り行わない。これは全ブーレイ神殿の決定です。あなたには酷なことだと、重々承知していますが……」
今回の原因も解明できずに、召喚の儀を強行するわけにはいかない。
もちろん、今回のみがイレギュラーなだけで、次は問題なく執り行えるかもしれない。
だが、ひとりの人間を人跡未踏の秘境に放り込んでおいて、それはあまりにも無責任だ。
今のところ、他国から要人が行方不明になったとの抗議はない。
かといって、かもしれないで強行したあげく、今度こそ他国の要人を死なせてしまえば、戦争にもなりかねない。
それどころか、天変地異でも引き起こしてしまったら、ブーレイ神殿が排斥されてしまう。
「それは構いませんっ! ですから、早くっ! 原因究明のためにもあの少年をっ!」
口ではそう言ったが、構わないわけがない。
筆頭巫女でいられる時間は、そう長くない。
せいぜい、五年から七年程度だ。
若い方が精神感応の感度が高い。
幼い者は論外だが、年齢を重ねるに従い、その感度は下がっていく。
筆頭巫女の年齢の上限は、おおよそ二〇歳。下限は一三歳といわれている。
ナルチアは、筆頭巫女就任時には、一三歳になったばかりだった。
上限まであと七年あるが、それは七年間筆頭の地位を保証しているわけではない。
より、すぐれた者が現れたなら、その地位を明け渡すことになっている。
このままでは、ナルチアが召喚の儀を執り行うことなく、次代の者が現れる可能性が大きかった。
本来は世のため人のため、召喚の儀を執り行うはずだ。
だが、そこに名誉欲がないとは言いきれない。
ナルチアは名誉欲と焦りを、混同していた。
「そこまでになさい、ナルチア」
扉が開き、クレイシアが入ってきた。
「軽々しく神敵などと言わないで、ナルチア。それを決めるのは、あなたではないはずよ。神官長様のご決定に、あなたは反する気?」
立ち聞きなどする気はなかったが、ナルチアの声は廊下に漏れていた。
だが、聞き捨てならない言葉が飛び出した以上、そのままにしておくわけにはいかなかった。
そのときは、あなたが神敵よと、クレイシアはその意味を言外に含ませる。
「……っ!」
貫禄が違った。
三歳しか離れていないレニアに対してなら、それなりに強気でいられた。
だが、九歳違いのクレイシアには、気圧されてしまった。
まさに、大人と子供だ。
それだけではない。
筆頭巫女を一年足らずで解任されたレニアと、五年間勤め上げ、実績を残したクレイシアでは言葉の重みが違う。
ナルチアは、うつむいて唇を噛みしめていた。
「……それでも……それでも、神殿は無謬でなければならないんですっ!」
意を決したように顔を上げたナルチアは、レニアとクレイシアを交互ににらみつけると部屋を出ていった。
人選を誤ったかとの感が強い。
もちろん、筆頭巫女就任後、すぐにナルチアがこうなったわけではない。
おかしくなったのは、その年に召喚の儀が無期限中止と決定されてからだ。
残されたふたりは憂鬱そうな面もちを、見合わせるだけだった。
「あのことは、言ってないでしょうね?」
ナルチアの気配が完全に消えてから、クレイシアが口を開いた。
「もちろんです。もし、あの娘に知られたら、今以上に神敵だと騒ぐに決まってますから」
まだ憂鬱そうな表情のまま、レニアは答える。
あの少年が異世界人だと判ったのは、歴代筆頭巫女たちの努力の成果だ。
魔力を失ったレニアは参加できなかったが、魔力探知の精度を上げたのは彼女たちだ。
その結果、少年の魔力が無属性と判明し、黒い瞳と黒髪を合わせ持つことと相まって、異世界人と判断したのだった。
この世界は緩やかな多神教だ。
ブーレイ神殿以外にも、信仰を集めている神殿は多種多数ある。
ほとんどのひとびとは、自身が信仰する神以外の信徒の存在も、等しく認めていた。
しかし、どこにでも原理主義者という名の莫迦はいた。
今、ナルチアはその原理主義者に、堕ちようとしていた。
そんな彼女にとって、誤召喚されたことで召喚の儀を中止に追い込んだ少年は、なにより許し難い神敵として認識されている。
そこに異世界人などという情報を与えようものなら、召喚の儀を排するために送り込まれた邪神の使いとまで言い出しかねない。
何があっても、秘匿しなければならなかった、
改めて、ふたりは憂鬱な表情で見つめ合っていた。
「セリス、行ってきます。おみやげ、期待していてね」
――まあ、任せてちょうだい。リューヘーだけだと心配だけど、私がついてるわ――
夜明けとともに、龍平とレフィはワーズパイトの館を発った。
セリスは不安げな面もちで、ふたりを見送っていた。
レフィにはまだ話していないが、異世界人の龍平に、この世界の常識を求めるのは酷だ。
レフィは任せろと行っているが、これから行く先は領主や貴族の館ではない。
それどころか、庶民階級の居住区域でもない、吹き溜まりのようなところだった。
そこに貴族の、それも最上流階級の常識が、通じるとはとても思えなかった。
それでもセリスは、ふたりの現状を打開しなければならないと思っている。
そのために、さまざまなことに目をつぶって送り出すことにした。
そして、途中の村に立ち寄れば、多少なりとも庶民の常識に触れることもあると期待していた。
そこで騒動を起こさなければいいと思うが、敢えてその可能性にも目をつぶっていたが。
幻霧の森の踏破は、ワーズパイトが開発した特殊な水の魔法を封じ込めた宝珠を使う。
宝珠が霧を吸い込み、周囲の半径二〇メートルほどの視界を確保できる物だ。
ときどきレフィが森の上空に舞い上がり、方角を見定めれば迷うことはない。
ふたりは意気揚々と、森に分け入っていった。
「ここ来るのも久し振りだ……」
龍平は約二年前の、遭難した過去を思い出していた。
――そういえば、あなた気がついたらここにいたって言ってたわね。どうやって来たかは分からないんでしょうけど、それまで住んでいたところも、まるで分からないの?――
これまでレフィは、龍平の過去を深く詮索したことはない。
当人に話す気がないのは、思い出したくない過去なのだろうと思っていた。
それをあれやこれやと詮索するなど、淑女の嗜みではないとレフィは自粛していた。
「ん? ……あぁ、覚えてるよ。でも、荒唐無稽すぎて、信じてもらえないかと思って言わなかっただけだよ。信じられるかい、異世界なんて?」
そりが合わない分本音で付き合ってきた分、レフィにも話していいかと思っていた。
この先、どれだけ長い付き合いになるか分からないが、ずっと隠しておくのもはばかられたのだった。
――信じるわよ。だって、この身体。ティランは異世界のドラゴンだもの――
あっさりとレフィは信じ、自らの秘密も打ち明けた。
「な、やっぱり信じられねぇよな? ………って、え? はい?」
信じてもらえるはずないと、龍平は半ば諦めていた。
しかし、あっさりとしたレフィの言葉に龍平は心臓が口から飛び出すほど驚かされた。
信じてもらえただけでなく、目の前で羽ばたいている龍が異世界からの移転者だった。
その方がよほど信じられない。
自分のことを棚に上げ、龍平は唖然としていた。
――まぁ、あなたの所作とか、ベッドにひっ散らかった紙に書かれた文字は、少なくとも、私が知る限りこの世界のものじゃない。とは言っても、私だってティランに会っていなければ、到底信じられなかったでしょうね――
珍しく、龍平をおちょくることなく、レフィは話している。
いくらなんでも、軽々しくおちょくっていい話ではなかった。
「ありがとう、レフィ。俺もレフィの身体が、異世界のドラゴンだってこと、信じるよ。でもさ、何度も聞くけど、いきなりドラゴンが人里に出て、本当に騒ぎにならないのか? いくら小さいとはいえ、さ」
信じてくれる者を、疑うなんて龍平にはできなかった。
だが、それとこれとは別の話だ。
レフィの姿に、ひとびとが騒ぐくらいならまだいい。
パニックを起こしたり、いきなり打ちかかってきたらどうするか。
龍平は、それが心配だった。
出発前に三人はそのことについて、ずいぶんと話していた。
その点について、レフィは絶対に自分からは手を出さない。
いざというときも、反撃はしないで龍平を連れて逃げるからと強調していた。
――最初が肝心よ。多分、ちょっとは騒ぎになるでしょうけど。くどいようだけど、そこで私が安全っていうか、中身は人間だって分かってもらいたいの――
ふたりの周囲だけ霧が晴れた森の中で、龍平の周りをくるくると羽ばたきながら、レフィが言った。
人里離れた山奥に隠れ住めば、確かに騒ぎは起きないだろうし、争いも起きないだろう。
だが、それではティランが身体を譲ってくれた意味がない。
レフィは人間として暮らし、ティランを安心させたかった。
そして、ティランにもこの世界の人間社会で、楽しい思い出を作ってほしかった。
「まあ、何とかするしかないんだよな、どのみち。ところで、そのティランってドラゴンはどうしてるんだ?」
龍平はそれが気になっていた。
ティランはレフィに譲った身体の中で、まだ眠っているとは聞いている。
未だに、一度も顕在化したことがなかった。
龍平は自分の名前にもなっている、生粋の龍と一度話をしてみたかった。
――それがねぇ……。いるのは判るのよ、私の中に。でも、起きてくる気配がまるでないの。この世界を見てほしいのに、どうしたものかしらね――
身体に比して長い首を傾げつつ、レフィはくるくると飛び回っている。
ふたりの道中は、穏やかな空気に包まれていた。
「ミッケル様、たった一年で盗賊団が元通りの数に、いえ、増えてます。これは、やはりカナルロクで……」
幻霧の森まで二日ほどの野営時、ケイリーがミッケルに話しかけた。
昨年の幻霧の森捜索と街道警備で、カナルロク軍を壊滅させた以外に、相当数の盗賊団を討ったはずだった。
それが元の木阿弥どころか、悪化している。
まさかカナルロク軍が、再侵攻してきたとは思えない。
だが、彼の国で、何か不穏なことが起きつつあるのは、間違いない。
「……ふむ。やはり気づいたかね、ケイリー君。領主たる者、境界の向こうで何が起きているか、想像がつく、か。さすがの嗅覚だ。諸君も見習いたまえ」
ミッケルは感心した面もちで、ケイリーに頷く。
そして、何がなんだか判らないといった表情の若い騎士たちに、厳しい目を向けた。
普段田舎者と小馬鹿にしている地方小領主が持ち上げられ、我らこそ国の柱石と自負する自分たちが厳しい目を向けられた。
いつもなら、ケイリーを貶めるような発言が飛び出す場面だった。
だが、彼らからそういった発言や、ミッケルへの反論は出なかった。
ここまでの行軍で歩き慣れていない彼らは、既に疲労困憊になっている。
馬上で槍を振るう軍事教練とは、疲労の質がまるで違っていた。
ケイリーもミッケルもそれを平然とこなし、盗賊団の討伐までやり遂げている。
そのうえで平然としている男たちに、若い騎士たちは反論などできなかった。
「騎士崩れもいました。ほとんどの者は身形もみすぼらしく、装備もお粗末でした。先の戦での影響かと。賠償金のために重税を課しているのでしょう」
まず間違いない。
騎士崩れは、彼の侯爵家の陪臣やその家族辺りだろう。
嫡男を捕虜にされた責任でも問われ、放逐されたか、取り潰されたか。
みすぼらしい身形の男たちは、重税による逃散民だろう。
「正解だ。おそらく、彼の国の再侵攻はある。それも、セルニアンの陪臣領辺りを狙ってだ。身代金分は取り返したいだろうからな」
ケイリーの洞察力に、ミッケルは満足げに頷く。
これが初めての地方の現実に、王都から出たことがない若い騎士たちは、想像が追いつかない。
三人は恨めしそうな視線を、ケイリーに送っていた。
ここまで差をつけられると、ケイリーのさり気ない気遣いさえ嫌みに思えてしまう。
だが、泣こうが喚こうが、立場をひっくり返すことなど不可能だ。
悔しかろうが、これも騎士修業。
立派に育って、実績で見返すしかない。
「では、今年も幻霧の森までは行くとして、渡河拠点の捜索が最優先でしょうか?」
三人はミッケルの頷く姿を見て、ケイリーの質問の体を借りた意見具申が正しいことを理解する。
言われてみれば、理解できる。
ただ、そこに自力ではたどり着けない。
三人の騎士修業は、まだ始まったばかりだ。
その頃幻霧の森では、龍平とレフィがくだらないことで、また取っ組み合いの喧嘩を始めていた。
「くひっ! てめぇ、何し……やがる……。放……せぇ……」
――いひゃい、じゃにゃい……。 あなひゃ……こひょ……はにゃひなひゃい――
尻尾で首を絞められている龍平が、レフィの両頬をつねりながら引っ張っている。
君たち、本当に仲いいねぇ。