13.洞窟
「……リューヘー……出掛けて……くる」
夏のある日、セリスが唐突に言った。
不穏な強い波動を感じたあの日以来、一年の月日が過ぎていた。
その頻度はそれほどでもないが、あれ以来セリスは幾度となくあの波動を感じ取っていた。
いつも、一瞬のことでしかないが、未知なるものへの不安が募っていた。
セリスは、その正体を確かめずにはいられなかった。
「……俺も行く」
何から何まで、セリスにおんぶに抱っこでは、男の子の意地が廃る。
この一年でそれなりに、自分の身は守れるくらいに、セリスに鍛えられていると思っていた。
もちろん、僅か一年でこの森最強に登り詰めたなどということはない。
そんな都合のいいチートは、当然というか、残念というか、当たり前だが、なかった。
しかし、龍平は決して腐らなかった。
毎日弓を射、剣を振り、セリスにこてんぱんにされ、おっぱいの感触の中、絞め落とされながら、ある程度まで肉体強化の魔法を行使するまでになっている。
体術もコツを掴み始めたのか、腕ひしぎ逆十字から脱することも、アームロックに入られる前にエスケープすることも、膝や足を取られても切り返すこともできるようになってきた。
もちろん、セリスの手加減あってのことだが。
だが、それを知ったうえで、昨日よりは今日、今日よりは明日と、龍平は努力を積み重ねていた。
「……だめ。……リューヘーでは……まだ……死ぬ。……この森で……初めて……どの魔獣とも……幻獣とも……違う。……危ない」
拒絶。
まだ早い。
まだ、龍平がかなわない幻獣は、掃いて捨てるほどいる。
あの波動の主は、この森の幻獣が束になってもかなわないほどの凶悪さを感じさせた。
セリスに妥協する気は、ないらしい。
「何でだよっ! ……俺が弱いのは、解ってるけどさ……セリスだけ危ない目に遭わせるなんてっ!」
思わず龍平は気色ばんだ。
当然、龍平にも妥協する気はない。
「……ん。……その気持ちは……嬉しい。……でも……待っていて。……危ない目には……遭わない……から。……私は……死なない……から」
龍平の不安を解くように、セリスは噛んで含めるように言った。
「何だよ、それ? 死なねぇって、どういうことだよ? わけ分かんねえよ」
セリスが人間ではないことは、もう知っている。
だが、生ある者である以上、死なないというわけがない。
耐久力が異常なまでに強いということか。
だとしたら、ダメージがないわけではない。
それは、龍平にとって、受け入れがたいことだ。
「……ん。……この森にいる……幻獣で……、私に……敵対……するものは……いない……から」
初めて聞いた。
そういえば、龍平が幻霧の森に住み始めて以来、この館を襲うような危険な生物はいなかった。
当然龍平は知る由もなかったが、ワーズパイトとセリスが力でねじ伏せた結果だ。
襲いかかれば返り討ちにされるが、命までは奪われない。
友好的に振る舞っていれば、いきなり襲われることもない。
幻獣たちにしてみれば、ワーズパイトとセリスはそのような存在だった。
龍平は黙って聞いている。
「……それから……私の身体は……自然魔力。……それが……実体化……したもの。……だから、どこを……刺されようが……平気。……首を……ねじ切られても……腕……引きちぎられても……身体……踏み潰されても……痛く……ない。……しばらく……すれば……元通り」
長く喋ったせいか、つらそうな表情をセリスは浮かべた。
妖精は、龍とはまた違う仕組みで、限りなく不死に近い。
龍の不死性は、異常なまでの耐久力だ。
だが、妖精には、死という現象自体が存在しない。
現世への執着を失い身体が霧散するか、妄執に取り憑かれて異なる種へとなり果てるかだ。
もし、身体を破壊されても、その部位が自然魔力として放散されるだけだ。
損壊の度合いにもよるが、数瞬から長くて数日で元通りに再構築される。
痛みも、苦しみも、妖精が拒絶すれば感知しない。
つまり、マッサージに伴う適度な痛みは、セリスが受け入れた結果だ。
ずいぶんと都合いいな、おい。
「分かったよ。なんつうチートだよ。それから、長く喋るのつらかったら、念話でいいからな」
呆れたような、よく解らないような。
完全に納得したわけではないが、セリスに任せるしかないようだった。
付いてこいと言わせるだけの努力を積もう。龍平はそう決心した。
「……? ……!」
念話と言われ、しばらく首を傾げつつ考えていたが、その手があったかと、セリスはぽんと手を打ち合わせた。
本気で失念していたらしい。
「何、その手があったかって顔してんだよ!」
肩の力が抜けたか、龍平が思いきり突っ込む。
「……?」
ボケたつもりはないと言わんばかりに、セリスは首を傾げる。
「そうやって、かわいくしてもだめっ! 絶対忘れてたろ。俺は誤魔化されないからな」
再度、突っ込む。
かわいくという言葉に、セリスが真っ赤になった。
ワーズパイトの館から、歩いて二日ほどの距離にある山の中腹に、その洞窟は存在した。
セリスは何も身構えることなく、無造作にその洞窟へと足を踏み入れた。
ここに来るのも、かなり久し振りだ。
最後に来たときから一〇〇年以上、いや一二〇年以上経っているかもしれない。
だが、中の風景に、ほとんど変化はなかった。
軽い足取りで、セリスは洞窟の中を進む。
途中にあるいくつもの分岐も、迷うことなく選択している。
まるで、行く先への矢印でも、書かれているかのようだった。
だが、徐々に濃くなる未知の波動に、セリスも少しずつ緊張の度合いを高めていく。
それでも、セリスの足取りが鈍ることはない。
やがて、セリスは波動の発生源へと、たどり着いた。
――まさか……しかし……なんで?――
セリスの視界は、巨大な赤い龍に占められていた。
その龍は、セリスを前にして呑気に寝こけている。
――前に来たときに、こんな龍はいなかったはず。私もワーズパイト様も、見落とすはずがない。そういえば……――
セリスは寝こけたままの龍から、周囲へと視線を走らせた。
――やはり。ここはこんな広い空間ではなかった。岩の奥に潜っていたのか――
確か、この分岐の奥は、徐々に狭くなり人間大の生物では入れないような亀裂で終わっていた。
セリスが身体を自然魔力に戻して放散し、亀裂を通ってから再構築すれば調べられたかもしれない。
だが、亀裂がどこまで続くか解らないし、その奥から何の気配も波動も伝わってこなかった。
調査の必要を、ふたりとも認めなかったのだった。
もちろん、その先に何があるか判らない以上、無闇な行動は危険だ。
何らかの理由でセリスの自然魔力が、逸散しないとも限らない。
ワーズパイトには、セリスを必要のない危険に晒す気はさらさらなかった。
――しかし、この世界にまだ龍が残っていたとは。もし、ワーズパイト様が知ったら、どれほど残念がることか。そういえば、この龍は、いつからここに?――
ワーズパイトから聞いていた話では、この世界の龍は絶滅したはずだった。
そして、少なくともワーズパイトがこの森に居を構えてからの一五〇年の間、龍が飛来した記録はない。
あのとき無理してでも、亀裂の奥を調査すれば良かった。
もし、この龍を発見していたら、どれほど喜んだことか。
今さらながら、セリスはそれが残念でならなかった。
――恐ろしいほど禍々しいのに、この龍から邪悪な波動は感じられない。なんで、どこから、ここに来たのか――
龍を前にしたまま、セリスは考え込む。
危険など、これっぽっちも感じ取れなかった。
この龍が目を覚まし、世界へ飛び立っても、破壊も殺戮も起こさない。なぜか、セリスは確信していた。
龍はうつ伏せで両腕を枕に、呑気に寝こけている。
――あふ……。う~ん。ん? 誰かいる?――
龍が目を開けた。
深紅の身体とは対照的な、深い碧の瞳が辺りを見回している。
まだ寝ぼけているのか、特徴的な縦に絞られた虹彩が弛緩していた。
セリスは息を飲んで、その様を眺め続けている。
やがて、龍の意識が覚醒したのか、碧の瞳がエメラルドのような輝きを取り戻した。
――ねえっ! そこの人、今何年? って、まだ大陸歴使ってる? 国王って、今誰? 名前判る? 私が怖くないの? あなたは誰?――
赤い龍から念話に乗せられた質問が、矢継ぎ早に飛ぶ。
あまりの急展開に、セリスは答えるタイミングを逸し、目を白黒とさせていた。
――少し待って。相当長く寝ていて、いろいろ聞きたいのは理解する。だけど、そう一気に聞かれては、答えるいとまがない――
セリスは強引に割り込み、龍の質問を遮った。
――あぁ、ごめんなさい。取り乱したわ、私としたことが――
龍から気恥ずかしげな答えが返された。
きまり悪いのか、身体を小さくしてセリスの答えを待っている。
――まず、話の腰を折るようで申し訳ないが、私は人ではない。あなたと同じ、超常の者。簡単に言えば、妖精の一種。一五〇年ほど前に、この地に生まれた。名前はセリスという――
自身も落ち着かせるように、自己紹介から入る。
――今は、大陸歴一五四〇年。ここがガルシオン王国のセルニアン辺境伯領であることは知っている。でも、申し訳ないが、国王の名前は知らない。私は生まれ出て以来、この森から出たことがないから。あとは、なんだっけ?――
セリスが答えを返す。
意外と世間を知らないことを、セリスは少々恥ずかしく思った。
――ありがとう。そう、ガルシオン王国は健在かぁ。気にしないで、知らないことまでは聞けないし。うん、ほぼ二〇〇年かぁ。ティランの言った通りね。あっ! ティラン? 起きなさいよ!――
複雑そうな表情で龍が呟き、急に何かを思い出したように辺りを見回す。
――ティランとは? もう一頭、龍がいる?――
龍のいきなりの行動に、セリスは不思議そうに聞いた。
もしそうなら由々しき事態だ。
幸い、この龍は危険ではなさそうだが、もう一頭までそうである保証などない。
――あ、ごめんなさいね、ティランはこの身体の持ち主なの。わけあって、私は身体を借りてる身ね。ま、ティランは後で起こすとして、もう一度聞くわ。私が怖くないの、あなた?――
ティランが起きてこないことは心配だが、気配はしっかりと感じ取れる。
ティランを後回しにして、目の前の妖精が龍を恐れていない理由を聞いた。
――なかなか深い事情があると見える。でも、それを聞く気はないから安心してほしい。そして、あなたから敵意を感じない。それならば、怖いと思う必要もない――
簡潔にして、明快な回答だった。
――あはははははっ! すごいわね、あなた。その自信はどこから来るのかしら。私があなたを騙そうとしてるなんて、これっぽっちも考えないのね――
嬉しそうに龍が言った。
だが、広角をあげて笑うその顔は、気が弱い者が見たら腰を抜かすのではないかと思うほど禍々しかった。
――あなたが敵対しないなら、私も友好的に振る舞うことを約束する。よければ、あなたの名前を教えてほしい。それで、これからあなたはどうするつもり?――
その禍々しさを軽く受け流し、セリスが尋ねる。
セリスの基本姿勢は、これまでに友好的な関係を築いた幻獣たちに対するものと、何ら変わりがない。
敵意には敵意を。
友好には友好を。 そして、中立には中立だ。
――あ、申し遅れました。私はガルシオン王国ノンマルト公爵家長女、だった、アレフィキュール・ラ・ノンマルトと申します。以後お見知りおきを。アレフィキュールなんて長いから、レフィでいいわ――
家名を名乗るなら、それ相応のマナーがある。
生き残っているか判らないが、誇りある家名を汚すようなマネはできなかった。
――ご丁寧なご挨拶傷み入ります、アレフィキュール様。私も改めて。ワーズパイト様が僕、セリスにございます。既にワーズパイト様はお亡くなりになっておられますが、私はワーズパイト様に生み出されたようなもの。終生の忠誠を捧げております――
さすがに貴族相手であれば、言葉遣いを買えるくらいの常識は、ワーズパイトから教えられていた。
――ちょっとっ! あなたっ! 今なんて?――
さすがに相手の名乗りを遮るような無礼は働かず、レフィはセリスの言葉が終わると同時に食いついた。
――ワーズパイト様の僕、と申し上げましたが――
何を分かり切ったことを、といった表情で、セリスは答える。
レフィがなぜそこに食いつくのか、理解できなかった。
――あの、大賢者様の? ああ……神様……このお導きに感謝を―
レフィが生きた時代において、ワーズパイトは既に神格化されていた。
魔法を志すものであれば、その一端に触れることは是非とも叶えたい望みだった。
それが煩わしくなり、ワーズパイトはこの森に隠遁した。
セリスに自らを大賢者と名乗ることはしたが、神格化されていることまでは話していない。
ただ、人付き合いが煩わしくなったと言っただけだった。
しかし、そんなことはレフィに関係なかった。
今は、ワーズパイトの関係者を前に、興奮しきっている
――これからどうするって言ってたわよね? 是非とも、あなたのお家にお邪魔したいのだけど、だめかしら? ワーズパイト様のお暮らしになったお家、是非この目で見てみたいわ――
恋する乙女のように両手を胸の前で組み合わせ、もじもじする龍。
この世にこんな不気味な光景があったのかと、セリスは呆気にとられていた。
――それは構いませんが。もしよろしければ、ワーズパイト様がお残しになった著書もご覧になりますか?――
別に隠すようなものではない。
奪い取るというのなら、殺してでも守り抜く。
だが、読みたいというのなら、いくらでも読んでほしい。
本とは、読まれてこそだ。
後生大事に飾って置くものでは、決してない。
知識もまた同じ。
独り抱え込むのではなく、広め、共有してこそ価値が生まれる。
――本当? 読ませていただけるの? ワーズパイト様の、それも原本を? あなた、もう敬語なんて結構よ。ワーズパイト様を慕う者同士、申し訳なくなっちゃうわ。……ああ……私、もう死んでもいい――
感激のあまり、本末転倒なことをレフィは口走る。
――いや、読む前に死なれては、意味がない。私の家に案内するのはいいとして、どうやってここから出る? この山を眺めるのは、ワーズパイト様のお気に入りだった。できれば破壊しないでほしい――
セリスは呆れを通り越して、この元公爵令嬢の龍をかわいいと思った。
ワーズパイトをこんなにも慕ってくれているのも、好感が持てた。
とりあえず、セリスが聞きたかったことは、これからどうやって生きていくかだった。
だが、それは後でいい。
――ここに来たときは、一時的に身体を小さくしたのよ。だから出るときも、そうすればいいわ。あと、あなたの家にいるときもそうしましょう。ワーズパイト様ゆかりのものを壊しでもしたら、取り返しの付かない損失よ――
ベッドに寝ころんで本を読む龍平を、レフィが踏み潰す光景がふと頭をよぎる。
――では、そのように。私の家には同居人もいる。できれば、お手柔らかに願いたい――
とりあえず釘だけ差しておこう。
今は意味が分からなくてもいい。
どうせ、すぐに解るはずだから。
「……ただいま」
セリスの声を聞き、龍平は読んでいた本を放り出し、玄関へと急ぐ。
聞いていた予定より、遥かに早い帰宅だ。
何か、悪いことでもあったのかと、ふと嫌な予感が頭をよぎった。
当たりだよ。
今、何やった、おまえ。
「お帰り! 早かったね。どうしたの? 何かあった?」
龍平は、セリスに矢継ぎ早に聞いた。
「……拾った」
セリスの横に、身の丈五〇センチほどの赤い龍が、ちょこんと立っていた。