12.遭遇の予感
ある日の午後。
体術の鍛錬を終えた龍平は、井戸で汗を流すと館の食堂へと向かった。
夕食までの間、魔導書を読むことを、龍平は自身に義務づけていた。
陽が沈んでしまえば、本は読めない。
そして、薪割りや水くみなど、やらなければいけないこともある。
午前中の弓と剣の鍛錬の後は、昼食までの時間を肉体強化魔法や移転魔法の実験に当てていた。
したがって、本を読み込む時間は今しかない。
龍平にとって、新たな知識を仕入れるための貴重な時間だった。
濡れた髪を拭きながら、龍平は食堂に入り、思わず目を擦る。
そこには睡眠を取るには少々細長い、簡素な作りのベッドが置かれていた。
ご丁寧に、うつ伏せ寝用のドーナツ枕まで用意されている。
立ち尽くす龍平の横を、いつものメイド服ではなく長いワンピースをまとったセリスが通る。
ベッドの前に立ち、龍平に向かって振り返った。
鼻息も荒く、腰に手を当て胸を反らす。
龍平は、思わず頭を抱えた。
「セリスさん、何ですか、これは?」
聞くまでもないが、尋ねずにはいられない。
なぜか、丁寧語になる。
「……ん、……ベッド」
「いや、そりゃ、見りゃわかりますがね、なんで、また、いったい、こんなところに?」
セリスが何を企んだかは、一目瞭然だ。
先日のマッサージが、相当お気に召したことは分かってていた。
だが、よりによって、食堂にベッドとは、予想の斜め上だ。
「……これで……リューヘーのベッドを………取らなくて……済む」
たしかにマッサージをするときは、毎回龍平のベッドを使っていた。
そして、セリスがそのまま寝入ってしまうのも、いつものことだった。
「いや、それはそうだけどさ。いつの間に作ったのさ、これ」
ベッドを占拠されないのは助かるが、かといってここで寝られても困る。
そのうち食堂に毛布が持ち込まれ、普通に寝るための枕が用意されるのが、簡単に予想できた。
「……毎日……夜なべ……。……この努力……ご褒美」
いったい何をやってるんだ、この妖精は。
龍平は、少しだけ頭痛を感じた。
「うん。解った。セリスが意外と甘ったれだってことが、よく解った。はい、そこに寝て」
呆れながらも、なにか嬉しくなった龍平が、ベッドに寝るように促す。
「……ん。……リューヘー……やましい……こと……ない……なら……おしり……触っても……いい」
セリスは顔を真っ赤にしながら、ベッドに寝そべった。
その日のマッサージに、いつもより熱が入ったのは、無理からぬことだった。
「よーし、では、打ち合わせ通り、かかれっ!」
幻霧の森の周縁部に、ミッケルの声が響いた。
領都セルニアを発って十日目の夕方に、誤召喚少年捜索隊は幻霧の森に到着していた。
途中、盗賊の集団をひとつ潰し、カナルロクの偵察部隊らしき集団を追い散らしていた。
幸い戦闘による死者は出なかったが、何人かの負傷者を途中の村に預けて来ている。
それでも捜索に支障を来すような、重大なトラブルは起こらずに済んでいた。
そして野営の後に、捜索を開始しようとしている。
「それでは行って参ります。準男爵閣下もお気をつけて」
ケイリーがネイピアの猟兵を引き連れ、森へと踏み込んでいく。
彼ら以外にも、何組かの集団が森へと向かっていた。
偵察隊を見送ったミッケルは、拠点となる天幕へ戻っていった。
捜索隊全員が一斉に森へと突っ込んでも、ただ混乱するだけだ。
まずは戦と同じく、斥候を出す。
ある程度の当たりをつけたところで、全体を動かすつもりだった。
もっとも、当たりがつけば、の話だ。
幻霧の森の周縁地帯に、盗賊が出ないわけではない。
そのような場所に簡易的な拠点を築いても、安全の確保は一見困難に思える。
だが、周辺には幻霧の森以外に、集団を隠せるような場所はない。
万が一、襲撃があっても充分対処できる。
ミッケルはさらに積極的に考えていた。
どのみち、この広大な森の中で、少年を発見できるとは思っていない。
魔力の反応はあるというが、ピンポイントで場所を指定できるわけではない。
あくまで、大雑把に幻霧の森の西側とか東側とか、その程度でしかなかった。
普通の森なら、それで充分だ。
平原とは比べものにならないとはいえ、多少なりとも見通しが利く。
霧が出たとしても、待っていればたいがいは晴れる。
だが、この幻霧の森では、視界が利くということがない。
そんな状況で、人の捜索などできるはずがない。
それどころか、下手をすれば捜索隊自体が遭難しかねない。
ミッケルは、こんな無意味な動員で死者を出す気は、欠片もなかった。
斥候に出した部隊は、ネイピア領の兵たちを始め、全員が森に慣れた者だけで構成されている。
無事、拠点に戻ること。
それが絶対の命令だった。
もちろん、ミッケルもケイリーも、そのほかの指揮官や兵たちも、手ぶらで帰る気などさらさらない。
手みやげは、盗賊団とカナルロク軍の首だ。
一見手薄に見える拠点は、彼らを誘い出す罠でもあった。
「酷ぇな、こりゃ。聞きしに勝るってもんだぜ。おい、全員いるか? いるな?」
真っ白な世界にデイヴの声が響いた。
即座に返事が返り、デイヴはケイリーに報告する。
「やはり、ネイピアの森とはえらい違いだな。これじゃネイピアが草原に思えてしまうぞ」
ケイリーはその場から動かず、感想を口にした。
「どうしやすか、若。とりあえず、まだロープの余裕はありやすぜ」
デイヴは肩に担いだ細いロープの束を手で探り、残量を確かめた。
いくら森に慣れたネイピア領兵とはいえ、何も見えないのでは動きようがない。
少しでも動いてしまえば、すぐに方角が判らなくなる。
来た道を帰ることすら困難だった。
「ミッケル様の狙いは盗賊団だ。奴らが日中堂々と、警戒中の拠点を襲うとは思わんだろ? だから昼間の間は森で休み、夜襲に備えるんだ。あとははぐれないようにだけ注意して、それぞれ休んでくれ」
ミッケルの意図を正確に見抜いていたケイリーは、そう言ってその場に腰を下ろす。
犬の毛皮を縫い合わせた寝袋を兵から受け取り、早速中に潜り込んだ。
「分かりやした。おい、ここで休むぞ。残ってるロープは、一旦ほどいて汚しておけ。離れるときは命綱つけとけよ」
そう言うと、デイヴも犬の毛皮製の寝袋を取り出した。
アリバイ工作も指示してある。
あとは日暮れ前まで寝るだけだ。
もちろん、見張りは交代で立ててある。
森に生きる彼らは、何も見えなくても動物の気配を察知することができる。
もっとも、動物の方でひとを避けるだろう。
魔獣さえ出なければ、ここは安全な場所だった。
――あふ……。くぅ……。すぅ……――
「……人が……森に入った……珍し……い……? ……? ……!」
すっかり恒例となった鍛錬後のマッサージを受けながら、セリスが突然呟いた。
そして、何かを探るように視線をさまよわせ、緊迫した表情になる。
「どうした、セリス? 人が来るのか、ここに? それって、まずいのか?」
セリスの表情に気づき、龍平の手が止まる。
詳しくは聞いていないが、ワーズパイトが幻霧の森を終の住処と定めた理由は、世俗のしがらみが原因らしかった。
一五〇年の間に当時の関係者はすべて死没しているだろうが、研究者がやってくる可能性はないとはいえなかった。
ほかの人間に会ってはみたかったが、面倒事は御免被りたい。
「……人は……南の……外縁部に……少しだけ……。……森を……抜けてくる……心配は……ない……大丈夫」
何かを考えているような表情で、セリスは自身に言い聞かせるように言った。
確かに、南の外縁部に人の気配が濃厚だった。
だが、それは森にほんの少し入った辺りから、ほとんど動いていない。
それよりも、セリスは恐ろしい気配を関知していた。
北にある山の中腹辺りから、今まで感じたことのない強大な波動が流れ出た。
それは一瞬だけで、すぐに小さくなって、今は感知できなくなっている。
だがそれは、一五〇年の間、一度も感知したことがない波動だった。
未知の種類の生物であることは間違いない。
しかし、それを騒ぎ立て、敢えて龍平に心配をかける必要はない。
人が森に入り込むことも、ここ数十年なかったことだ。
平穏の終わりが、近づいているのかもしれない。
セリスは龍平に不安を伝えないように、ドーナツ枕に顔を埋めた。
夕暮れが近寄ってくる。
幻霧の森の中で、人の集団が動き出す。
「戻るぞ。全員ロープを掴め。慌てず動けよ」
ケイリーの意を受けたデイヴが、命令を下した。
ネイピアの兵は全員がロープをたぐりながら、整然と森の外を目指す。
霧に湿った荷物が、全員の肩に食い込んでいる。
今日から数日間、ミッケルが撤収命令を出すまで、ここに戻らなければならない。
本来なら、この場所にベースキャンプを張るのだが、ここに物を置いてはおけない。
夜には霧が晴れるというが、足下はたっぷりと水分を保持した苔に覆われている。
ビニールなどないこの世界で、そんな場所に放置された物がどうなるかは、考えるまでもない。
持ってきた物資は、道しるべのロープ以外、すべて持ち帰らなければならなかった。
「ネイピア兵、全員います! ロープ、掴みました!」
兵から報告が上がる。
便宜上兵と呼んでいるが、実際は毎日をともに過ごす村人たちだ。
普段の生活では友人であり、隣人であり、同胞だ。
仲の良い悪いは当然あるが、こういった場では一致団結する。
誰ひとり、仲間を見捨てようなどとは、考えていない。
全員で、ネイピア領に帰る。
ケイリーもデイヴも、全員がそう考えていた。
今日の茶番はこれで終わりだ。
あとは、盗賊団とカナルロク軍が釣れてくれるかどうか。
ミッケルの読みでは、久々の街道警備に危機感を持った盗賊団は釣れると、聞かされている。
報奨金は首ひとつに付き、ガルジオン銀貨三枚と破格だった。
銀貨三枚あれば、娼館で豪遊したうえに手みやげを持ちきれないほど買える。
もし、行方不明になった誤召喚の被害者である少年を確保できたなら、それ以上の報奨金が出るだろうが、博打でしかない。
であれば、本番はこれからだ。
そのために、危険を冒してまで幻霧の森に入って、身体を休めてきた。
確かに、湿気の中で半日を過ごしたせいで、コンディションは最悪に近い。
それでも、休んでないよりはまだマシだ。
自分の命を餌にした、盛大な夜釣りが始まる。
「セリス、起きな。ゴハンできたよ。お・き・な!」
案の定、簡易ベッドで寝入ったセリスを、龍平は放置したまま料理をしていた。
普段であれば、何があってもセリスは台所を明け渡すことはない。
だが、寝入ってしまえば、そうもいかなかった。
龍平は初めてセリスの牙城を崩したことに、小さな満足感に浸っていた。
しかし、セリスはまったく反応しない。
「起きろ~!」
龍平は、使っていない鍋と擂り粉木を持ち、セリスの耳元でガンガン叩く。
普通に眠っているのなら、龍平はそれなりに優しく起こす。
セリスだって、寝坊や昼寝をしないわけではない。
だが、マッサージを強要した挙げ句、寝こけた者に遠慮など必要ない。
「……ん。……ん? ……しまった。………私としたことが……」
寝起きのセリスは台所に立つ龍平に、不思議なものを見るような視線を送る。
次いで状況を理解したのか、自身の失態に肩を落とした。
「何だよ、そんな落ち込まなくてもいいじゃん。それなりの仕上がりだと思うんだけどな」
龍平が食卓にふたり分の木椀を運びながら、肩を落としたセリスに向かって口を尖らした。
セリスが落ち込んだ原因を、料理初心者が作った食事にあると、龍平は勘違いしている。
「……違う。……台所は……ワーズパイト様から……預かった……私の……誇り……。……その仕事を……リューヘーに……押しつけて……しまったなんて……」
落ち込んだまま、セリスは台所へのこだわりを口にした。
「あぁ、それは済まないことをしちゃったかな。まぁ、勘弁してくれ。でも、作っちゃったんだから食べてよ。そんなすごいものは作れないけどさ」
セリスの誇りを大きく傷つけたと感じた龍平は、素直に謝罪した。
「……ん。……リューヘーが……謝る……ことじゃ……ない。……私の……失態。……気に……しなくて……いい……から」
慌てたようにセリスは両手を振り、龍平の勘違いをただす。
そして、スプーンを取り、どこか嬉しそうな表情を浮かべた。
龍平が作ったものは、カブと干し肉が入った簡単な麦粥だった。
たいした材料が手に入らず、調味料も塩しかなければ、龍平にしては上出来だった。
そして、この時代において、フライパンなどはまだ一般に普及していない。
調理法も竈に鍋を置いての煮込み料理か、熾火に塊肉をかざすグリルが一般的だった。
この状況で、龍平が食べ慣れてきた現代日本のメニューを再現することは、ほぼ不可能だ。
もっとも、龍平にできる料理といえば、目玉焼きに湯豆腐と冷や奴、後はチャーハンという名の焼き飯で、材料すらなかったが。
「……ん。……おいしい」
台所を奪われたことは棚に上げ、麦粥を口にしたセリスの表情がほころぶ。
麦とカブは裏の畑で採れたもの、干し肉はセリスが狩ったウサギの肉だ。
それを挽いていない、粒のままの大麦と煮込む。
ただ煮込む。
それだけだ。
飽食の現代日本とは違い、この世界、この時代の一般庶民は薄味が基本だ。
龍平も一年の異世界暮らしで、すっかり薄味になれていた。
いや、セリスの味に飼い慣らされていた。
「俺の料理も、なかなかのもんだろ?」
少し自慢げに龍平が言う。
セリスは頷きながら、麦粥を口に運び続けている。
決して、王宮で饗されるような、贅を尽くした料理ではない。
ありふれた、それこそ毎日のように食べている料理だ。
だが、一〇〇年振りの団らんは、その料理を極上のものへと仕上げていた。
愛おしい者と囲む食卓は、空腹にも勝る何よりの調味料だった。
セリスは小さな幸せを、ひと粒たりとも逃さないように噛みしめる。
その幸せは、小さくとも何ものにも替えがたい大切なものだ。
やさしい時間が流れていた。
セリスは、この平穏がもうしばらく続いてほしいと、心から願っていた。