10.強化魔法もしくはマッサージ
「知ってる天井だ」
絞め落とされた龍平は、ベッドの上で目を覚ました。
受け身をとれなかった背中が痛い。
限界まで極められた肘が痛い。肩が痛い。膝が痛い。足首が痛い。
身体中が痛かった。
どうやってベッドまで来たか、思い出せない。
おっぱいを押し当てられた辺りで、ぶっつりと記憶が途絶えていた。
おそらく、絞め落とされたのだろう。
庭からセリスが運んでくれたことは、間違いない。
きっと背負われたのだと思う。
さすがにお姫様抱っこは勘弁だ。
落とされたときに失禁しなくて良かったと、龍平は心底思った。
「ふう……。セリス、強ぇなぁ……」
スパーリングを思い出して、ひとりごちる。
腕を、肩を、膝を、足首を極められた光景が、龍平の脳裏にフラッシュバックした。
鼻水を垂らして泣きながら暴れている、情けない、あまりにも情けない光景だった。
「……。……うぐっ……、ぐすっ……ひくっ……えぐっ……」
不意に涙がこぼれた。
堰を切ったように、とめどなく涙が溢れてくる。
声を殺して泣いていたが、やがてしゃくりあげるような泣き声へと変わっていった。
自分が強いとは思ってなかった。
だが、これほどまでに弱いとも思ってはいなかった。
体格に劣る女の子に、手も足も出なかった。
サブミッションのデモンストレーションをやったわけではない。
必死になって防ごうとした。
かなわぬまでも、一矢報いようとした。
だが、何もできなかった。
何も届かなかった。
セリスが何を伝えようとしたか。
それは充分すぎるほど、理解していた。
自分の弱さ。
この世界で生きていくために、最も把握していなければならないことだ。
あのスパーリングで、セリスがその気なら龍平が殺された回数は、両手でも足りない。
だが、セリスは柔道など知らなくても、きちんと手加減してくれていた。
投げられたとき、柔道の模範演技のようなきれいな一本だった。
あれを脳天から落とされたら。
間違いなく、即死だ。
セリスの優しさは、解っていた。
セリスは扉の外で龍平の泣き声を聞いていた。
いくらなんでも、このまま入っていくのは、さすがに躊躇われる。
こてんぱんに伸された悔しさを噛みしめ、消化するには時間が必要だ。
だが、やりすぎたとは、セリスは思っていない。
理不尽な異世界転移に巻き込まれただけだとしても、嫌が応にも今を生き抜かなければならない。
この世界は、決して優しい世界ではない。
後ろ盾など何もない少年が、生きていくにはつらすぎる世界だ。
ずっとこの先セリスがついていられるならば、それなりになんとかなるだろう。
だが、セリスはこの森から離れることができない。
そして、龍平をいつまでもこの森に置いておくわけにはいかない。
いつか、それも早晩に、独り立ちするときは必ずくる。
セリスにしても、龍平が出て行くなんて寂しいことだ。
だが、この先龍平が誰ひとり新たに巡り会わないなんて、もっと寂しいことだ。
それならば、ひとりこの地を守り、龍平を待つ。
龍平ががどんな出会いの果てに誰を連れてくるかを楽しみにしようと思っている。
帰ってくると判っているのなら、長いときを生きる妖精にとって、待つことなど苦にならない。
今は心を鬼にして、龍平に生きる術を伝えようとしていた。
ちょっとやり過ぎだったかもしれないが、何事も最初が肝心だ。
絶対に敵わない者がいることを、知らなければならない。
そうでなければ、逃げることもできなくなる。
逃走は最後の闘争手段であり、決して卑怯な振る舞いではない。
戦いの目的は、敵を打ち倒すことではない。
生き残ることこそが、最も重要だ。
そのために、セリスは自分が持つ技術のすべてを、龍平に叩き込むつもりだった。
ただし、ほんのちょっと、パンツを漁られた恨みと、沐浴を覗かれた怒りが入っていたことを、セリスはあえて否定する気はない。
へたれのくせに覗きとはいい度胸だ。
もっとやられてしまえ。
セリスにボロ雑巾のようにしごかれ、男泣きに泣き明かした翌朝、龍平はいつもとは違う雰囲気をまとっていた。
別に怒っているわけでもなく、ふてくされているわけでもない。
何かを決意した、男の顔がそこにあった。
「おはよう、セリス。今日もまたよろしく」
龍平はどこか難しい表情で、蒸かしたタロイモをかじっていた。
だが、龍平の変化に気づいたセリスが呆気に取られるほど、朝の挨拶はいつも通りだ。
「……リューヘー、……何を……考えている?」
珍しくセリスが念話を使わずに話しかけた。
「うん。無駄に余ってる体内魔力なんだけどさ、肉体強化に使えないかな。あっ、もちろん、それに頼って鍛錬をサボるって訳じゃなくさ」
ひと晩考えたことを、龍平は口にする。
直後、安易に流れたと誤解されないかと、慌てて言い訳のようにつけ加えた。
確かに鍛錬は大切だが、五〇年近く大賢者とともに鍛えたセリスに対抗するには無理がある。
龍平が五〇年かけて技を磨き、力を蓄えても、その頃には老化が進んでいるだろう。
老齢の達人というのもいるのだろうが、そこまで龍平は気長ではない。
ワーズパイトの著書を調べ上げた結果、四属性魔法にもバフ、デバフの類があることは分かっている。
しかし、龍平が考えるような、肉体強化は見つからなかった。
見落としたのか、『加速』や『硬化』の中に含まれているのかは分からないが、純粋に力を増幅する魔法は今のところ見つけていない。
『加速』は風属性の魔法だった。
対象となる者の両足の裏や背中に風をまとわせ、身体周辺の空気の流れを調整するものだ。
追い風と空気抵抗や摩擦の軽減を組み合わせた、なかなか考えられた魔法だった。
もちろん、この世界、この時代に空気抵抗の概念はまだ芽生えていない。
おそらく、最初に思いついた者は、呼吸困難に陥ったか、大火傷を負ったかもしれない。
最悪、調整を失敗して音速を突破し、ソニックムーブでばらばらになったかもしれなかった。
だが、術者たちは失敗を乗り越え、改良を繰り返してきた。
その結果、この世界で風属性の適性を持つ者であれば、誰でも使える便利な魔法として『加速』が完成していた。
『硬化』は土属性だ。
肉体に地面から抽出した金属を吸い込ませ、筋肉を金属化させる魔法だ。
確かに打撃や斬撃に対しては有効だが、動きが極端に阻害される欠点を持ち、使いどころが難しい。
コントロールをしくじれば、二度と動けない身体になってしまうかもしれない。
最悪、内臓が金属化してしまえば、即死ということもあるだろう。
これも数え切れないほどのトライアンドエラーを積み重ね、土属性を持つ者なら誰でも使えるようになっている。
ところで、『硬化』に関する考察の最中に、龍平が考えついたことがある。
土の中から金属を抽出して肉体に付与できるなら、微量元素欠乏に役立つのではないか。
具体的には亜鉛欠乏による味覚障害だ。
今のところ、これくらいしか思いつかないが、将来役に立ちそうな発想だと、龍平は自画自賛していた。
だが、元素という発想がまだこの世界にはなく、『硬化』が抽出する金属は種類まで指定はできなかった。
龍平の発想が陽の目を見るには、まだまだ時間がかかりそうだった。
それはさておき。
これらに対して龍平が考えた肉体強化の魔法は、筋繊維に魔力を通し、筋肉そのものを強化するものだった。
筋力そのものが増大すれば、加速や硬化と同様の効果が得られる。
さらに、しなやかで弾力のある筋肉は、打撃や斬撃を受け流すことも可能だ。
そして純粋な力は、サブミッションからの脱出も、逆に捕獲も用意にする。
移転魔法よりも先に開発すべきと、龍平は考えていた。
「……ん。……それは良い考え。……頼り切るのは……良くないけど。……やってみる……価値はある」
セリスも納得できたのか、珍しく長く喋る。
龍平の目が死んでいないことに、セリスは嬉しそうな笑みを浮かべていた。
朝食を済ませ、しばしの食休みの後、龍平とセリスは連れだって庭に出た。
軽いストレッチから始め、身体をほぐしていく。
プッシュアップは、二〇回。
一〇回は普通に行う。
次の一〇回は全身に魔力を流し、肉体強化をイメージしながら行った。
腹筋も同様に二〇回。
やはり、魔力を流した方が、僅かだが楽な気がした。
スクワットも同様。
魔力の流れを太腿に意識的に集中させ、体内での流れをイメージする。
思ったよりも早く成果が実感できたことに、龍平は満足げに太腿を叩いた。
弓から鍛錬を始める。
適度な準備運動のおかげか、無駄な力が抜けているような感じだ。
昨日より一歩下がり、射る。
敢えて肉体強化は、使わない。
まずは、正確な技術を身につけ、肉体強化の応用はその後だ。
遠くに飛ばせるようになるだけでは、いくら射ても当たるようにはならない。
純粋に技術を習得しようと、龍平は考えていた。
五〇本の矢を射たところで、いったん終了。
水分と塩分補給のため、塩をひとつまみ落とした水を飲む。
息を整え、短剣を腰に佩く。
昨日の最後の方を思い出しながら、龍平は無心に剣を振った。
弓の鍛錬の際にもそうだったが、横からセリスが的確なアドバイスを飛ばす。
そのたびに龍平は動作をチェックし、また剣を振り始める。
一〇〇を数えたところでいったん終了。
変なクセをつけても仕方がない。
良い感じに無駄な力が抜け、剣の振り方も感覚が掴めそうだ。
体術の鍛錬は午後に回し、ふたりは館に戻る。
龍平はそのまま井戸に行き、汗を流した。
そして、セリスに声をかけて部屋に入ると、龍平はおもむろにベッドでうつ伏せになる。
「セリス、こう、首とか肩とか、腕とか……、うん、全身をね、筋肉をにぎにぎするというか、指でぎゅぅってするというか……」
セリスに甘えているわけではないが、体術の鍛錬の前に、全身の筋肉をほぐしておこうと思った。
セリスがマッサージを知らないことを考慮して、抽象的な説明を試みる。
案の定、首を傾げているセリスを見て、龍平は言葉による説明を諦めた。
「よし、解った。セリス、ここに寝て。やり方教えるから」
龍平はベッドから立ち上がり、掌を開いたり閉じたりする。
「……ん、……何を……する気、リューヘー? ……身体を……触る? ……へんな……ことは……」
「違う、違う。筋肉をほぐすんだよ。気持ちいいんだ、これが。こんなときくらい信頼してよ」
無理だよ。
今まで何やってきたか、胸に手を当てて考えてみやがれ。
パンツ漁ったり、沐浴覗いたりしたくせに。
マッサージにかこつけて、あわよくばおしり揉む気だろ。
できることならおっぱいも、だろ。
「……ん、……身の危険……」
「だ~か~ら~、大丈夫だって。この目を見てよ。やましいこと考えてるように見える?」
見えるよ。
むしろ、やましいことだけ考えてるようにしか見えないよ。
「ほら、この目を見て」
そう言われたセリスは顔を近づけ、龍平の目をじっと見つめる。
しばしの後、龍平はすっと視線を外した。
へたれ。
「……目を……逸らした……やっぱり……やましいこと……」
「あああああっ! しまったぁぁぁっ! つい……じゃなくて! もしセリスが気に入らないってことしたなら、絞め落とそうが、関節極めまくろうが、好きにしていいから!」
「……ん。……その言葉……忘れない……ように」
龍平の勢いに負け、セリスは渋々とベッドにうつ伏せた。
「じゃ、やるよ」
さすがにまた関節を極められたうえに絞め落とされたくない龍平は、しごく丁寧にマッサージを始める。
首、肩と揉みほぐし、腕から背中、腰へと手を這わせていく。
「……ん。……これは……気持ち……いい……。……こんな……の……初めて……。……んあっ」
初めての快感に、思わずセリスは小さく喘いでしまった。
しかし、龍平の手は止まらない。
「……んくっ……少し……んっ……あぁっ……苦し……くふっ……痛い……あんっ……」
脊椎骨を中心に、右側から集中して背中を指圧する。
ひとしきり右側を済ませると、次は左側を親指で圧していく。
一時的な痛みと圧迫に、セリスは苦悶の表情を浮かべる。
だが、解放の瞬間にはなんともいえない快感が広がり、とろけたような恍惚の表情を浮かべていた。
「ん~~っ! 痛っ! けど……楽……に……これ……クセに……ああっ……私……だめに……なる……」
腰を重点的にほぐしてから、おしりの双丘を……パスして太腿へと移行する。
へたれ。
「んっ!……あっ……これも……効く……なんで……こんな……気持ち……いい……」
スカートの上からとはいえ、セリスの太腿の感触を堪能した龍平は、不意打ちでセリスの頭を掴み締めていた。
指先でゆっくりと頭を揉みほぐすと、龍平はふくらはぎへと手を移す。
「……痛っ……あっ……でも……あったかく……いい……それ……すご……」
セリスの足を持ち上げて三里から脛をほぐし終えると、龍平はメインイベントである足の裏に手を這わせた。
ここまでたっぷりと一時間。
龍平も汗だくになり、呼吸が荒くなっていた。
もし、他人に聞かれたら、何をしているのか、盛大に誤解してくれるだろう。
「……っ!? ……痛っ! ……~~っ! ……でも……いい……。……。……」
もちろん、タイ古式の痛くない足裏マッサージでゆっくりと揉みほぐす。
セリスの小さな足を揉みながら、龍平はアロマオイルのことを考えていた。
それから指圧棒もほしいな。
青竹踏みもいいなぁ。
庭に小石をばらまいて、その上を裸足で歩いたら、相当効くだろうなぁ
とりとめもなく、そんなことも考える。
指から土踏まず、かかと、アキレス腱と痛くならないように気をつけて、セリスの足を揉みしだいていった。
気づけばセリスの反応が消えている。
しばらく足の裏を揉みほぐした後、龍平はセリスの顔をのぞき込んでみた。 セリスはだらしなくよだれを垂らし、気持ちよさそうに小さな寝息をたてている。
龍平はセリスを起こすことなく、筋肉に魔力を込める実験をひとりで始めた。