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転生龍は人と暮らす  作者: くらいさおら
序章
1/98

1.少年の事情

 神殿の一室で少女がテーブルの上に肘をつき、掌を組み合わせていた。

 僅かにあどけなさが残る額には、じっとりと汗が浮かんでいる。


 まっすぐと腰まで伸びた燃えるような朱の髪に同色の眉が、年若さに似合わぬ凛々しい表情を演出していた。

 この大陸では平均的な高さを持つ鼻梁の脇には、汗が流れた跡が残っている。


 小振りな唇は薄い紅に彩られ、精神統一をはかるためか固く引き結ばれていた。

 すっきりとした頬からは血の気が引き、朱の髪を引き立たせるとともに彼女の緊張を物語る。

 固く閉じた瞼の上を一筋の汗が流れ、頬を伝って顎の先からテーブルに落ちた。



 少女が精神統一をはかっている部屋の直下にある地下室では、朝から多くのひとびとが忙しく働いていた。

 誰もが神官や巫女の作務衣に身を固め、魔法陣のチェックや貴賓席の準備に奔走している。

 整然と準備が進む中、時折新米への叱責が響いていた。


「アーノル様、準備は滞りなく完了いたしました」


 序列第三位を示す神官服に身を固めた壮年の男性に、僅かに大人の雰囲気を漂わせた若い女性が報告する。

 大人と少女の間にある身体は、女性特有の曲線を女官服の下からでも主張していた。


 すっきりと手入れの行き届いた金色の長い髪を、襟足でひとつにまとめている。 

 髪と同色の眉と、翡翠をはめ込んだようなぱっちりとしたドングリのような双眸が、責任感の強い性格を表していた。


 高い鼻梁と引き締まった口元が、彼女に近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

 先頃筆頭巫女を引退して女官へと異動した女性は、泰然とした態度でアーノルの言葉を待った。


「クレイシアか。ご苦労。では、王族の方々をご案内するように取り計らってくれ。神官長のご準備は大丈夫だろうな。それから……」


 険しい表情でアーノルは応え、次々と確認事項を口にする。

 中肉中背の引き締まった身体に、いつもとは別人のような顔が乗っていた。

 丁寧に刈り込まれた亜麻色の髪が、緊張に蒼ざめた顔色を浮き立たせている。


 普段は柔和という言葉を受肉化させたような穏やかなまなざしは見られず、彫りの深い容貌をよりいっそう厳しげに見せていた。

 たったひとつの失敗すら許すまじと、肩を怒らすその姿に、クレイシアは小さな笑みを浮かべる。


「承知いたしました。そちらも滞りなく。それから……やはり、レニアがご心配でございましょうか?」


 クレイシアは淀みなく答えたあと、口元に手を当てて小さくぷっと笑い、親ばかを見る目で問い返す。

 筆頭巫女を彼女の跡を引き継いだレニアは、アーノルの実子だった。


 ひとびとの耳目を集める立場への出世は、親として嬉しい。

 だが、失敗を許されない立場ともなれば、心配の方が勝っている。


「余計なことは言わんでよろしい。しかし、そなたが女官とは、な。てっきり家庭に入るものと思っておったが」


 クレイシアのからかいに、アーノルは慌てて話題を変えた。

 彼らが信仰するブーレイ神殿に、女犯の禁はない。

 彼女はこのたびめでたく、同じ神殿に属する神官と結婚の運びとなっていた。


 神殿に女犯の禁がないとはいえ、神おろしの巫女には清純な処女性が求められている。

 そのため、クレイシアは結婚が決まってからのこの一年で、レニアを立派な巫女へと育て上げていた。


「あの子のことでございましたら、どうぞご心配なく。一から十まで、しっかりと指導してございます」


「そ、そうか」


 ふと、娘が血反吐を吐きながらのたうち回る光景が、アーノルの脳裏に浮かんだ。


「それから、将来子供たちを神学校へ進ませるのに、あのひとの稼ぎだけでは足りるとお思いで? そこはお解りでございましょう?」


「そうだな」


 そして神官の俸給の少なさを咎めるような視線に、アーノルは背筋に冷たいものを感じ、思わず言葉を飲み込む。

 このときアーノルは、将来を嘱望されている部下が、すでにクレイシアの尻に敷かれていることはっきりと悟った。



 ガルジオン王国国王カルミア・ド・ノンマルト・ガルジオンを先頭に、王国の首脳陣が入室してきた。

 魔法陣の北側に用意された貴賓席に、王を中心にして着席する。


 王の両脇を、内務尚書と財務尚書が固める。

 後列には王妃や王太子といった、王の血縁者が並ぶ。


 魔法陣の西側に、ブーレイ神官団が陣取っている。

 東側には女官たちと、次代を担う巫女見習いたちが儀式の始まりを待ちわびていた。


 やがて、魔法陣の南側に、神官長と筆頭巫女レニアが立つ。

 異世界召喚の儀が、厳かに始まった。



 異世界召喚の儀とは、王国神殿総本山の年中行事であり、異なる世界の道具を召喚する儀式だ。

 召喚された道具の使い方が想像もつかないほど進んだものであれば、良いことが起こるとされている。

 それを解析し複製できれば、この世界の技術を一気に進展することができるからだ。


 もっとも、そう簡単にそれができるはずもなく、数百年にわたる召喚の結果、神殿の倉庫はガラクタで埋まっていた。

 そして、必ずしも未知の技術が召喚される保証はなく、ハズレの年はスコップだの塩だのが召喚されたこともあった。


 だが、それから凶事を予測し、対策を立てることも、また国の仕事だ。

 スコップが召喚された年には国を挙げての治水事業が展開され、数年後の水害を防ぐこととなっていた。

 塩が召喚された年には塩田の拡張が行われ、それまで貴重品扱いだった塩が庶民に行き渡っている。


 クレイシアも五年の筆頭巫女在任中に、ひとつの当たりを引き当てていた。

 五回の召喚で呼び出したものは、ブラウン管、八木アンテナ、トランジスタ、ツルハシとアンパンだった。


 上手く技術が組み合わされればレーダーでもできそうなラインナップだが、電気が発明されていないこの世界ではガラクタでしかない。

 ツルハシは治水工事が一段落した状況で召喚され、油断大敵といった警告の役には立っていた。

 だが、彼女最大の大当たりは、筆頭巫女就任最初の年に召喚したアンパンだった。


 当時、天然酵母を利用した柔らかいパンは、王族をはじめとした貴族たちに独占されていた。

 焼き釜を持ち、必要な燃料を充分に購える財力を持つ者の特権だった。


 それに対して庶民は、パン屋が特定の日に大量に焼き上げ、それを何日かで食い伸ばしていた。

 もちろん、そのパンは日持ちのする固いものだ。


 パン屋は大量生産の日以外に、まったくパンを焼かないわけではない。

 天然酵母を使った柔らかいパンは、そんな日に焼かれていた。

 だが、庶民階級のパン屋が持つ天然酵母の量はごく僅かで、市井のひとびとが安価に誰でも買えるわけではなかった。


 だが、クレイシアのアンパン召喚を期に、王の一存により天然酵母の大量生産が始まった。

 その天然酵母が庶民階級にも分け与えられ、柔らかいパン急速に浸透していった。


 まだ餡子の解析が終わっていないが、再現には砂糖を大量に必要とすることは判っている。

 そのため、北の地域で甜菜の栽培が盛んになり、庶民も砂糖を容易に入手できるようになりつつあった。


 そして今年、クレイシアの引退で巫女がレニアに代替わりした。

 神官序列第三位の実力を持つアーノルの実子である彼女は、その血統に裏打ちされた異常なまでの魔力量を持っていた。

 どのような未知の道具が召喚されるか、誰もが期待に満ちた目で彼女の登壇を待ちわびている。



「それでは、これより大陸歴一五三八年の召喚の儀を執り行う。筆頭巫女レニア、前へ」


 神官長の厳かな声が響く。

 呼ばれたレニアは、おずおずと魔法陣の中心へと歩を進めた。


 周囲の大人たちは、誰もが期待に満ちた目で彼女を見つめている。

 レニアは、言いようのない不安に駆られていた。


 この部屋に入ったときから、両の掌がぴりぴりと痺れている。

 身体の中で、魔力が暴走しかけていた。


 今までどんな過酷な状況にあっても、魔力は容易に制御してきている。

 それが、この魔法陣を前にした瞬間に崩れた。


 早くこの部屋から逃げださないと、どのような大惨事を引き起こすか解らない。

 そんな予感が、レニアを捕らえていた。


 魔法陣の中心へと歩を進めるレニアの両手に、蒼いプラズマがまとわりついている。

 アーノルとクレイシアがいち早く異常に気づき、警告の声を上げた。


「レニア、下がりなさい!」


「神官長、即刻中止に!」


 ふたりの声に触発され、異状に気づいた神官長がレニアに駆け寄るが、見えない壁に弾き返される。

 当のレニアは異状を自覚しているが、自信の意志で足を止められなくなっていた。

 悲しげな視線がアーノルに向けられ、それでもレニアは魔法陣の中心に立ってしまう。


 次の瞬間、レニアの頭上に黒い渦が巻き上がる。

 即座に異常事態を悟った幾人もの神官が、王族や両尚書の周りを取り囲んだ。




 熊野龍平は高校生活初めての夏休みを、焦りの中で終えようとしていた。

 何度も繰り返される八月三一日の後悔。


 そして、毎年誓う。来年こそは。

 間違いなく破られる誓い。


「あ~! 畜生! 終わんねぇ~!」


 壁に問題集とノートを投げつける。

 毎年繰り返される光景。懲りない少年だ。


「どうしよ、これ」


 ブン投げた問題集以外に、手つかずのものがあと三冊ある。

 仮に解答集があったとしても、書き写す時間が圧倒的に足りない。


 読書感想文も残っている。

 指定された美術館のレポートもある。

 インターンシップのレポートだって、まだ手つかずだ。


 指定の本など読んでいないし、美術館に入ってすらいない。

 インターンシップで何をやったか、細かいことなんて、もうすっかり忘れている。


「うん、気分転換に行こう。そうだ、それがいい」


 中学までと違って義務じゃないしと、義務教育の意味を大きく間違えた言い訳をしながら、龍平はスマホからラインを送った。

 仲のいい友達に気分転換の外出を誘いかけてみたが、帰ってきたメッセージは罵倒の嵐だった。


 この日暇な者など誰もいない。

 提出物の無視が評定に直結していることを、このときばかりは誰もが認識していた。


「ちっ、みんな真面目なんだから。いいよ、ひとりで行くよ」


 龍平は友達を誘うことは諦めて、部屋を出た。

 今、この家にそれを咎める者は、誰もいない。


 共働きの両親は、それぞれ会社に行っていた。

 龍平はその幸運を噛みしめ、階段へと足を踏み出す。


 階段を下り、踊り場に足を踏み入れたとき。

 踊り場に巻きあがった黒い渦が、龍平を吸い込んで消失した。




 レニアの頭上に巻き上がった黒い渦が、その中心に向かって吸い込まれていく。

 そして、黒い渦が消えるに従い、見慣れぬ服を着たひとりの少年が具現化してきた。


 身長は一七〇センチほどだろうか。

 この世界ではほとんど見ることのない、漆黒の髪を持っていた。


 少し垂れ気味の切れ長の双眸は、固く閉じられている。

 この世界の平均より少々低い鼻梁に、薄めの唇が続いていた。

 全体的に平たく見える容貌だが、決して拒絶するような造作ではない。


 線が細く、肉体労働とは無縁に見える少年の身体に、黒い渦が吸い込まれていく。

 黒い渦がすべて吸い込まれた後、レニアの身体から白い渦が巻き上がり、少年へと流れ込んでいく。

 自身の魔力が吸い出されていく感覚に、レニアはどうしていいか分からなくなっていた。


 レニアは両の掌で頬を押さえ、為す術もなくその光景を見つめていた。

 宙に浮いた少年は、気を失っているのかその両目は固く閉じられ、両腕両脚は力なく垂れ下がっている。

 誰もがあり得ない事態に顔を蒼ざめさせる中、少年の身体が透き通っていく。


 そして、そのまま少年は西の壁に吸い込まれるように消えていく。

 少年の姿が掻き消えたとき、糸が切れた人形のようにレニアの身体が仰向けに倒れた。


「レニアっ!」


 とっさにアーノルが駆け寄り、レニアの後頭部が床に叩きつけられる前に抱き留めた。

 神官長を弾き返した見えない壁は、このとき既に消えていた。


 だが、アーノルはそんなことに構っていられなかった。

 それの原因を探るより前に、やらなければならないことがある。

 今起きた状況のすべてを理解したとはいえないが、考え得ることを頭の中で整理し、国王へと視線を走らせた。


「うむ。少年の捜索を急げ! 魔力の追跡はいかがかしておる!? 国内と周辺諸国に神隠しの照会を急げ! 委細隠す必要はない!」


 さすがに一国を率いるだけあってか、カルミア王の理解は早く、対応も迅速だった。

 かつて召喚の儀で生き物が出現したことはない。


 ましてや人間を召喚するなど、想像の埒外だった。

 そして、その被害者がこの場に落ちついたならまだしも、どこかへと消えていった。


 王国内は言うに及ばず、この大陸には人跡未踏の秘境がまだ存在している。

 万が一、そのような場所に身ひとつで放り出されて、無事に済む人間がいるとは思えない。

 国民であれば当然救出の義務があり、また国外の者だからと見捨てたとあれば人道に悖る。


 ましてや他国の重要人物だったとしたら、間違いなく外交問題に発展する。

 どのみち、捜索と救助は国の責任において行わなければならかった。



「どうやら、彼の少年は幻霧の森に落ちた様子。陛下、いかがなされますか? セルニアン辺境伯閣下にお任せするか、近衛を差し向けるか……」


 いち早く情報を神官からもたらされたキルアン内務尚書が、カルミアに耳打ちする。

 幻霧の森を領内に有する辺境伯に丸投げするか、近衛を動かして迅速に片を付けるか、どちらにするかの判断を待った。


 辺境伯に丸投げして被害者の身柄を確保した後、それが外国の要人と判明した場合、保護料という名目の莫大な身代金が発生しかねない。

 近衛を遠く離れた辺境伯領に派遣するには、膨大な予算が必要とされる。

 ここは独断ではなく、王の裁可を以て動くべきだ。


「いくら余の近衛とはいえ、己が兵権の及ばぬ軍を彼の辺境伯が越境を許すと思うかね?」


 今更解りきったことをと言外に含ませ、カルミアは命じた。


「委細承知。では、財務尚書閣下、彼の地への迷惑料は陛下の歳費からでよろしかろうな。神官長殿、原因の究明とご報告をお願いいたす。その者の罪を問うことなどないよう、お取り計らいを」


 歳費という名の小遣いを巻き上げられ、抗議の声を上げようとしたカルミアを後目に、キルアンは召喚の間を後にした。




「あの方はご無事でしょうか……」

 誤召喚事件から十日後、起居している王城の一室でレニアはひとりごちた。

 少年に魔力のほとんどを吸い上げられたレニアは、現在筆頭巫女の任を解かれている。


 もちろん、責任追及などという、くだらない理由ではない。

 魔力暴走原因究明のため、王城からの要請でそうなっていたのだった。


 セルニアン辺境伯領へは、あの日のうちに伝令が出立していた。

 そして、他の諸侯諸卿領、直轄領、周辺諸国へも数日から十日ほどの遅れで使者が走っている。


 責任に押し潰されかけたレニアは、王城から慌ただしく使者が発つ様子を、あてがわれた居室から暗い目で眺めるしかなかった。

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