サンマ水族館に連れてって
「水族館に行きませんか」と先生。
「海ではないのですか」と私。
「いいえ、水族館です」と先生の物静かな声。
七月二三日、午後。
うだるような真夏日。保健室でのひとつのやり取り。
先生は白衣に浮き輪という珍妙な格好で、私の前に立っていた。先生の白衣と黄ばんだカーテンが、生ぬるい風に時折はためく。カーテンの色と白衣の色があまりに似ているので、そのうち視界の中で同化して、平べったくなった先生がカーテンに織り込まれてしまったのではないかと錯覚した。
先生はおもむろに浮き輪を脱いで、質素なベッドの上に置いた。私は先生の眼鏡のレンズに映り込む白熱灯の色を観察していた。
「どうして急にまた水族館に?」
「私は八月一日に故郷に帰らなければならなくなりました。帰郷すれば、この学校に戻ってくることはありません」
私の灰色がかった目が三度瞬いた。
「先生、お国はどちらでしたっけ」
「T軸三六二世界出身です」
ティージクサンロクニセカイ。
前に一度聞いた覚えがあるけれど、やはり耳慣れない言葉だ。とにかく、先生は地球出身でもないし、かといって宇宙人でもない。こことは違う世界の人で、自称魔法使い。先生は魔法の国の役人で、地球のこの学校には偵察に来ている。スパイではなくて、つまりは遣唐使みたいなものだと。科学の力を観察したいそうだ。
そして私は、この高校の生徒。しがない女子高生。プリーツスカートは膝下一〇センチの一七歳。先生とは一年来の知り合いだった。
「どこにある水族館なんですか? 私の知っている場所でしょうか」
「いいえ、おそらく知らないでしょう。時空の狭間にありますから。とても長い水族館で七日かけて巡ります」
「そんなに大きな水族館があるんですね。何がいるのですか。魚以外にも生き物が?」
「いいえ、魚だけです。もっと言えばサンマだけです」
「サンマ? 秋に刀に魚と書く、あの魚でしょうか」
「はい、秋に焼くと美味しい青魚です」
サンマはお好きですか、と尋ねられたので、素直にはいと頷いた。塩をふって七輪で焼くと、細長い魚は全身から油を出して、それが金網を伝って滴り落ちていく。白くにごった瞳を冷酷に無視して、箸で白身をほぐし、白米と合わせて食べる。私は乾いた口内にわいた唾をこっそりと飲み込んだ。先生にばれていないといい。
「……ですが先生。私は七日も家を空けられません。一日だけならお付き合いできます」
「それでは、七月三二日に」
「七月に三二日はありませんよ」
「ありますよ。七月三一日と八月一日の境に。魔法というものは、何事も境目を大切にするのです」
「そうなのですか」
先生の声は夕方の雨のような仄かなあたたかさを含んでいる。私は曖昧に頷いた。
「待ち合わせはどこにしましょう」と先生に尋ねた。
「貴女はいつも通りベッドでお休みになって ください。一一時五五分ぴったりに家まで迎えにいきます」
「先生、私の家をご存じなのですか」
「魔法使いですから」
しれっと先生は答えたけれど、生徒名簿をチェックしただけなんじゃないかと私は疑う。
でもそんな疑問は喉の奥に押し込めて、それでは三二日にと保健室のドアを閉めた。ホワイト板チョコレートの上方の四つをくり抜いたようなドアがスライドしていって、一度サンの部分で跳ね返って、元通りにおさまる。くりぬかれたところに嵌った曇りガラスが、私と先生を隔てている。でも、そんな曇りガラスよりも、爪先を廊下に向けた私の背中の方が、はっきりと二人を区分していた。
このスライド式のドアにも、何か魔法がかかっているのだろうか。
(たとえば、)
例えば 実はこのドアは幻覚で、本当は私と先生を隔てるものは何もないというのに、先生が私にそう思い込ませているだけ、とか。例えばの話。
*****
私が先生の正体を知ったのは、本当に偶然だった。
放課後、日直として窓の戸締りをしていた私は、うっかり手を挟んでしまった。痛みはなかったが真っ赤な血が溢れ出した。制服を汚すわけにはいかず、水道で血を洗い流したあと、絆創膏をもらおうと保健室に向かった。
夕方の保健室はひっそりとしてひと気がなく、消毒液のにおいがうっすら漂っていた。今は誰もいないようだ。
入室しようと部屋の中へ一歩踏み出した私は、次の瞬間、石像のように固まった。ぽかんと眼前の光景を見つめる。ギチギチ、ぎこちなく視線を巡らす。
部屋は掃除の真っ最中だった。
四本の箒と五枚の雑巾が縦横無尽に床を這っている。舞い上がった埃が何かのアートのように一塊になって、そのままゴミ箱に投身自殺した。
繰り返すけれど、ひと気は全くなかった。
保健室にいたのは、私と、それから私の背後から入室しようとした先生だけだった。
『ばれてしまっては仕方ありませんね』と先生はあっさり正体を打ち明けてくれた。そして打ち明けたあとで、私の頭に片手を乗せた。
『さあ私の正体を打ち明けたんです、その代償に貴女に一つ魔法をかけさせてもらいますよ』
自分からべらべら話しておいて、それってないですよ。
その文句は、未だ言えずじまい。先生の手のひらと私の頭頂部が眩しい光を放った。視界が真っ暗に染まる。
それからというもの、私は先生のことが――
*****
七月三一日、真夜中近く。
「山下さん、山下綾女さん」
宣言通り、一一時五五分ピッタリに先生は私を迎えに来た。今日も白衣の先生は、まさかの二階の窓からダイレクトお迎え。
「先生、一体何の乗り物に乗ってきたんですか。サンタクロースのそりですか」
「サンタクロースのそりはすでに貸し出されたあとでしたので、北風の絨毯を借りてきました」
北風の絨毯は透明だったので、先生は空中で正座しているように見えた。
「まさか水族館のサンマも透明なんでしょうか」
「貴女、そんな水族館を見て楽しいと思いますか」
はい、と反射的に答えそうになったところをぐっと堪えた。
私はおそるおそる窓から右足を出して、先生がここです、と指差した場所にえいやと飛び込んだ。素足を柔らかい毛が撫でる。私の勢いの良いジャンプに、絨毯が波打って、先生が正座したままコロンと転がった。私は透明な絨毯に驚いているふりをして、大きく足踏みをしてみたが、絨毯の方も私の重さに慣れたのかビクともしなかった。しまった、鉄アレイでも仕込んでくれば良かった。
体勢を立て直した先生が「出発しましょう」と声をかけた。透明な絨毯が音もなく滑り出す。三六〇度のパノラマどころか、上も下も全てが見渡せた。山に囲まれた小さな町からは、夜になると明りがほとんど消える。瓦屋根は闇に沈んでしまっていて、遠くの山の稜線も薄ぼんやりとしか見分けることができなかった。
四階建てのビルの最上階にはまだ明りがともっていて、屋上でよれたワイシャツをきた中年男性が煙草をふかしていた。私たちが飛んでいるのを見られたら不味い、と私は慌てた。先生の背中を人差し指の第二関節でつつく。先生は泰然。中年男の口から、いかにも有害そうな煙がもくもくと湧き上がった。かと思うと、みるみるうちに男の頭上を覆う雲となって、何と中年男はその煙の雲に飛び乗ったではないか。
涼しげに私たちとすれ違う中年男性を唖然として見送って、私は先生を振り返った。
「あの人もですか?」
「そうですね、多分S軸のどこかの世界の住人でしょう」
絨毯がぐっと高度を上げた。私の長い黒髪がなびいて、うしろに翻った。先生の腕時計の針の位置を覗き見る。金色の長針と短針はほとんど重なりかけていた。
「一一時五八分五〇秒。さあ、もうすぐ着きますよ」
空気がどんどん冷たくなって、呼吸をするだけで精一杯になる。喉がひゅーひゅーと鳴りはじめる。無意識のうちに先生の手を握っていた。ちゃんと人間の手の構造をしている。水かきが少し大きい気がした。先生の手が私の手首をそっと握ってくるから、喉の奥がさらに痛くなった。
絨毯はハヤブサのように飛翔する。星がその数をどんどん増していく。三日月の横を通り過ぎたのではないかという気さえした。藍色の布を黄色と赤と青のスパンコールで埋め尽くしたような夜のベールを幾重にも飛び越えて、先生は私を水族館へと連れていった。
【ようこそ、サンマ水族館へ!
ご予約済の方はこちら→
当日券をお求めの方はこちら←
当水族館は、あらゆる世界のサンマを集めた全軸最大級のサンマ専門水族館です】
当日券のところに張り紙がしてあって、「完売御礼」という字がでかでかと書かれている。太いマジックペンの筆跡に何故だか安堵してしまった。
絨毯を丸めて大型ロッカーに預けると、先生はすたすたと先を歩き出した。私は小走りについていく。丸裸だった足はいつの間にかソックスとローファーをはいていて、つるつるとした床を小気味良く鳴らしていく。ド、レ、ミ、ファ、と音階を数えながら踵を打ち鳴らすと、実際床はその通りの音を奏でた。
選択の三叉路。先生は迷わず右の道を選んだ。右の道の両側の壁からは、犬の頭部を模した彫像が突き出ていた。先生は、ポケットから取り出した二枚のチケットを右側の犬の口に投げ込んだ。ばりばりむしゃん、と犬が下あごを動かしてチケットを飲み込む様子を見て、私は感心した。
「チケット、先に買っておいてくれたんですね」
「本来なら、七月の二五と二分の一日目から見はじめるものですから、当日券が売切れることは分かりきっていました」
「すみません、一日しかお付き合いできなくて」
「いいえ。いいえ、十分です」
やけに力を込めて、先生はそう言った。拳にも力がこもっていたけれど、前を行く背中は時々ふらついていた。
最初に現れた水槽は、A軸世界のものだった。先生曰く、アルファベット順に水槽は並んでいるらしいのだけど、A軸世界の水槽だけで数キロはありそうな長さだった。
A軸世界のサンマは、私たちの世界のサンマに類似していていたが、やけにキラキラしくて 目がチカチカした。
瞼を擦る私に、先生が説明してくれる。
「A軸世界の住人は、皆さん顕示欲が強く、自分の美を磨くことに生涯を捧げます」
「要するにオシャレさんが多いってことですか」
「はい。見てください、あそこでサンマたちがコンテストを開催していますよ」
私は先生の人差し指に従って視線と顔を移動させた。そこでは一〇匹ほどのサンマたちが、放射線状に輪になっていた。尻尾を内側に向けている。それぞれの尾ひれの形と色は全く違っていた。虹色、金色、ターコイズブルー、ハート型、星形、ウニのような形の尾ひれ……。
「彼らは文字通り身を削って理想的な尾ひれをつくり出すのです。コンテスト前には近辺の海が血の色に染まります」
コンテストにもいろいろな種類があって、真剣に顔を突き付け合ってて目玉の透明度を競っているサンマたちもいれば、スキンヘッドとアフロの頭を見せびらかして、人気票(投票に使われているのは真珠だった)を募っているサンマたちもいた。先生はその様子を熱心に観察している。私は自分の指先を見下ろした。親指の端がささくれているのを見つけてしまう。そっと背中に不格好な指先を隠した。
私と先生はコンテストを立ち見しながら、やがてB軸世界の水槽へとたどり着いた。水族館はカーブも分かれ道もない縦長の一本道で、私たちの他にお客さんは誰もいない。いや、いるかもしれないけれど、私には見えない。
B軸世界については、水槽を一目見ただけでいくつかのことを察せられた。赤黒い炎が分厚いガラス板の向こうで燃え盛り、そこで巨大なサンマがリンボーダンスを踊っていた。二枚の尾ひれを使って、人間のように二足歩行している。
「おいしそうですね、サンマのあぶり焼き」
と、食欲をそそられた私が言うと、先生がぎょっとした顔で振り向いた。
「そんなことをしたら彼らに殺されてしまいますよ。彼らは皆幼い頃から鍛えられた戦士です。あの踊りは殺した敵を贄として彼らの神に捧げる前の儀式なのです」
「あのサンマたちには知能があるのですか? だとしたらどうしてこんな場所に捕らわれることを良しとしているのでしょう」
「考えるまでもなく、お給金が良いからでしょうね」
キエエエエ! と一匹の巨大サンマが地面ぎりぎりに張り渡された棒の下をくぐり抜けた。体を反らせて二つ折りにし、棒をくぐり抜けた巨大サンマに拍手が送られる。ところが、彼は背中を反らせ過ぎたあまり、そのまま背骨を折って、その場で息絶えてしまった。周りのサンマたちが沈黙して、火槽内は静寂に包まれる。
「名誉の死ですね。ああしてダンスを成功させた直後に死ぬことは、彼らにとって最高の誉れとされています。私たちも黙とうを捧げましょう」
五分ほど黙とうを捧げたあと、先生と私はそそくさとB軸世界の火槽の前から逃げ出した。先生が、彼らの黙とうは半日以上続くことを思い出したのだった。
次の水槽は、きちんと水で満たされていた。C軸世界の水槽だ。ジャングルのように水草と藻が繁茂していた。
水槽の中では、ボールのように丸い形をしたサンマたちが、木の枝やガラス板に跳ね返ってはポーンポーンと飛び回っていた。尾ひれも背びれもえらも口もあるけれど、目玉がないボール型のサンマ。鱗が緑がかっていて、サンマというよりマリモに近かった。
一匹のマリモサンマがこちらに泳ぎ寄ってきた。コロコロしていてかわいいな、と思っていると、シャーッと口を開いて威嚇された。ずらりと並んだ細かい歯に、私は思わず仰け反った。
「先生……」
眉を八の字にして先生の方を窺ったら、先生は威嚇してくるマリモサンマと睨めっこの最中だった。目のない魚とどうやったらそんなに熱心に睨み合えるのか。私がじっと視線を送っても気付かない。自分から誘っておいて、実はサンマを見たかっただけなのかもしれない。そうだったらがっかりだ。可能性はなきにしもあらずで、緊張気味に上がっていた肩がしゅんと下がった。
「先生」
目線の位置にある肩口を掴んで強引に引っ張ると、ようやく先生も気付いてくれた。一重の目が少しビックリしている。薄い唇が瞬きに伴って開閉するのが笑いを誘った。
「先生、えっと」
何を言ったら先生の興味を引くか、突然妙案をひらめいた。
「私、T軸世界の水槽が見たいです。もっと言えば、T軸三六二世界の水槽が見たいです」
「どうしてですか」
「先生の国を覗いてみたいからです」
先生は眼鏡の弦に手を添えて、少し渋る素振りを見せたが、結局は了承してくれた。
――急に不安になった。
どうしよう。わがままな子だと、嫌われてしまったのかもしれない。
そう思ったのは、先生が顔をしかめていたからだ。
先生の数少ない表情は、私の心をゴム毬みたいにする。上下左右、斜め右上天井の裏、てんで予想のつかない方角へ飛び回らせる。先生と話すのは、他の誰と話すよりも、ずっとずっと疲れる。無理やりに喉の奥に押し込んだため息は、きっと水色をしていた。
いかにも気が進まないと言った体で先生は口を開いた。
「髪の毛を一本下さい」
何を言い出すのかと思ったら、移動魔法に必要な材料らしい。私が躊躇もせず髪の毛を引っこ抜くのを見て、先生は顔を青ざめた。この世界に潜り込む前の研修で、女性の髪を傷め付けるのは極刑だと聞きました、とぼそぼそ呟いている。先生になら髪の毛何本だってあげますよ、という私の呟きには恐怖しか感じなかったようだ。
先生は器用に指を動かして、自分の髪の毛と私の髪の毛を駒結びにして一本に繋げた。
「それにしても髪の毛だなんて、いきなり黒魔術みたいなことするんですね」
「別に髪の毛じゃなくてもいいんですが。複数人で移動魔法を行う時は、各々の体の一部を使って境目をつくることが重要なのです。手を繋ぐのが一番手っ取り早いですね」
「じゃあ、何でそうしないんですか。水族館に来る途中では手を握ってくれたじゃないですか」
「あれは貴女が怖がっているのかと思ったからです」
結び目を固くするのに夢中な先生は、ちらともこちらを見ない。納得がいかずに、私はさらに言い募った。
「私、今、怖がってますよ。あのマリモみたいなサンマ、怖いですもん」
「嘘はいけません。あんなに可愛い生物、なかなかお目にかかれませんよ」
先生が真顔でマリモサンマの愛くるしさを説きはじめたので、私は諦めて、「早く行きましょう」と出発を促した。先生は左腕の腕時計で時間を確かめると、繋がった髪の毛の片一方の端を持つように言ってきた。先生がもう一方の端を持つ。やはり手を繋いだ方が早かったのではないだろうか。
先生が二本の髪の結び目を人差し指で弾いた。視界の端から黒い芋虫のようなものが這い出てきて、分裂し、分裂し、あっという間に私の視界を埋め尽くした。うじゃうじゃうじゃ。それが全て私の頭の中で起こった出来事だと悟った時には、既にマリモサンマの飛び跳ねる緑の水槽は消え、代わりに何の変哲もない水槽が眼前にそびえていた。移動は一瞬で済んだのだ。
「ここがT軸世界の水槽ですか」
「はい、そうです」
先生の肯定の返事を聞いても、にわかには信じがたかった。何故なら、水槽の中は空っぽだったからだ。サンマも、水も火も、小さな砂利でさえも見当たらない。
「何もいませんよ、先生」
「この水槽でサンマを見られることは滅多にありませんから、仕方ないことでしょう」
「先に言ってください」
「そしたら、貴女、ここまで来てくれなかったでしょう」
ぽつりと零れ落ちた言葉に、私は反応に困った。
そんなことありませんよ、先生に誘われたならついていきますよ。現にこんな怪しい水族館にまでついてきたじゃありませんか。
そんな思いを胸の内に仕舞い込んだのは、「それは何故か」と尋ねられると答えに窮してしまうから。
俯く私が落ち込んでいると勘違いしたのだろうか、先生が出し抜けに提案した。
「探しに行きますか、私の世界のサンマ」
「え?」
「行きましょう、もうあまり時間がない。きっとサンマたちもそう遠くまでは行っていないでしょうから」
さあ、と差し出された先生の手。戸惑った私がその手を取らないでいると、先生がしまったというような顔をして手を引っ込めた。しまった、のは私の方だった。
軽く咳払いして、先生は白衣のポケットを――正確には縫い付けられたポケットとその下の生地の境目をトン、トトン、トン、というリズムで叩いた。するとふわりという浮遊感と共に足が地面から浮き上がった。戸惑ったのは一瞬で、すぐに歩行するように飛べるようになった。同じように浮遊した先生が、するりとガラス板を通り抜けたので、私もそれに続いた。水槽の中に入って天井を仰いだ私は、そこにあるはずの白い天井板がないことに目を丸くし、吹き抜けの先に青空を見つけて口も丸くした。
空気をかいて上昇して、私たちはぽっかり空いた穴から水族館を飛び出した。穴を抜けた先でムッとした熱気に襲われる。沸騰したやかんの湯気をまともに被ったようだった。思わず下ろした瞼を上げる と、黄色く広大な砂漠が見渡す限り続いていた。灼熱の太陽が白く発光している。遠くで蜃気楼が立ち上り、ゆらゆら揺れていた。稀に黄色以外の色を見つけたと思ったら、それは砂丘のつくった黒い影で、太陽の下ではことごとく元の黄色に戻るのだった。
砂の粒は工場で大量生産したかのように一粒一粒が全く同じ大きさと形をしていて、ためしに手のひらにすくってみるとアイスクリームみたいに溶けて消えてしまった。
「山下さん、サンマたちの通った跡を見つけました」
「どこですか」
「貴女には見えないと思いますが、あそこの方が光っています」
なるほど、私には見えなかった。先生にははっきりと分かるようで、眼鏡の奥の目がしっかりと道筋を見極めている。急に胸が痛くなった。私は先生と同じ世界を見ることがかなわない。ちっぽけな私を嘲笑するように頭頂部をじりじり焼き付ける太陽が心底憎たらしかった。
私は先生の縦に長い背中を追って、砂漠を飛行旅行した。いくつも砂丘を通り越したせいで、黄色い砂にはうんざりしてしまった。けれど、それよりもずっと長く見ているはずの先生の白衣に飽きないのは、驚嘆に値すべきことだろう。
平らな地面に落ちた二人分の黒い影は、砂丘に差しかかる とグニャリと歪んで斜めに伸びて、砂丘の天辺で折れ曲がり、また斜めに戻って、砂丘を抜けるとちゃんとした哺乳類の形になる。人類、人間、ホモサピエンス。魔法使いの先生がこの世界の先生でいてくれるのは、あと少し。
「あ」
先生がピタリと空中で止まった。私もそれに倣う。訪れた頃は白かった太陽が、徐々にオレンジに染まりつつあった。
私は息を飲んだ。
黄色と青に二分された視界の中で、青白い魚が群れを成して飛行していた。
トビウオのように海を跳ねるのではない。黄色い砂漠の上を、地に落ちることなく悠々と飛行する姿は、どんな鳥よりも優雅だった。乾いた空気にもかかわらず 、サンマの体は瑞々しく潤い、体中の鱗が銀色に光っている。細長い体は青竹のように真っ直ぐで、浩々たる砂漠を旅する生命力が、薄い皮膚の下で躍動していた。尾ひれと胸びれが著しく発達して、羽の役割を果たしていた。太陽の光で透き通る大きなひれは、天女の羽衣のようにも見える。
サンマたちの正円を描く目玉にともる強い光が、何故だか先生を思い起こさせた。遠くどこまでも私を置いていってしまう、そんな気持ちにさせる。
「先生」と呼びかけた。
「どうして私をこの水族館に誘ってくれたんですか。浮き輪なんて被って。先生の、この世界での最後の日に」
果たして、先生は答えをくれた。
「私はサンマがとても好きなんです」
「味がですか」
「いいえ、貴女とは違いますよ。鑑賞するのが好きなんです、昔から。だから」
先生の呼吸が一度止まって、一秒ののちに再開された。
「最後に貴女とこの水族館でサンマを見られたら、とても楽しいだろうと思ったんです。浮き輪を被ったら人間の興味を引けると耳にしたので、そうしたら貴女も頷いてくれるかと思って。どうしても貴女と一緒にサンマを見てみたくて」
先生は、本当に私を苦しめるのが上手だった。
今度痛くなったのは、湧き出るものを堪えようとした目頭だった。
「先生、質問があります。答えてくれますか」
「今日までは、私は先生ですから」
「それでは聞きます。先生は映画館で映画を見るのと水族館でサンマを見るのはどちらが好きですか」
「後者ですね」
「じゃあ、三組の田中さんと水族館でサンマを見るのと、私と映画館でホラー映画を見るのではどちらが楽しいと思いますか」
「それは……」
先生の眉根が悩ましく動いた。困り果てたような諦めたような表情に落ち着く。
「後者ですね」
「誓って?」
「誓って」
「あの真っ赤な太陽に誓って?」
「はい、誓いましょう」
いつの間にか白かった太陽は、赤く変わっていた。焼いた鉄のように真っ赤で、ずっといたら炉の中に放り込まれたかのごとく溶けてしまいそうだ。黄色い地平線に沈もうとしている巨大な恒星の前を、小さな魚の群れが横切っていく。太陽が隠れるごく短い時間だけ、砂漠の世界はわずかに所持した色さえも消して、赤一色へと変貌するのだ。黄色も空色も魚たちの銀色もない、赤に支配されたT軸三六二世界へ……。
――この景色だけは、先生の見ているものと同じものであってほしい。
夕日は今にも沈んでしまうだろう。先生が「この世界の基準で言えば、残り一〇分しかありません」と教えてくれた。そのあと、
「……貴女は、寂しく思うでしょうか。私がいなくなったら」
と聞いてきて、それからそんな質問をしたことを後悔したかのように顔をそむけた。私は先生の後頭部と半分覗いたうなじを見上げた。
「寂しくありません」
きっぱり答えると、先生の後頭部は見るからに萎れてしまった。冷蔵庫に放っておいたホウレン草の葉のようだ。
私は微笑んだ。
「先生、貴方はきっとまたこの世界に来るでしょう、と私は予言しておきます。そして私に会いに来るでしょう。だからちっとも私、寂しくありません」
先生は怪訝な顔つきをした。
「どうしてでしょうか」声の調子にも不思議そうな感情がまんべんなく混ざり込んでいた。「貴女の何の根拠もない意見に反論できません。この世界にも予言の力を持つ人がいるのですか」
「分かりませんが、私に関して言うならば、先生限定で」
残された時間は、あと五分ほどだろうか。太陽はもう、ほとんど沈みきって、夜闇がうしろから迫っていた。
「魔法使いの先生に、最後のお願いがあります」
「聞きましょう」
「私、一度だけでいいので空飛ぶサンマになってみたいです――先生も一緒に」
先生が、今日初めて笑った。
「私も、実はそう考えていました」
T軸世界の、境目を大切にした魔法が私と先生にかけられる。周りのものがどんどん大きくなり、砂の粒が巌のようになり、そのかわり体はうんと軽くなった。両腕を動かすと、視界の端でひらひらと白いものがはためく。先生を見ると、彼もまたサンマになっていた。けれど、サンマの姿に留まっていた私とは違って、先生の姿は数秒ごとにくるくると変化した。メダカ、カワエビ、カメ、ネズミ、サル、人間、クマ、ゾウ、キリン、クビナガリュウ、ティラノサウルス、翼の生えたウマ、黄金の羽を持つ鳥、それから、それから……
――先生の、本当の姿ってどんなふうだろうか。
魔法使いって言っていたから、変身だってお手のものに違いない。
そうやって、いろいろと想像を巡らせるようになった原因は、間違いなく先生にあった。
先生が魔法で掃除をしているのを偶然見かけて、不本意にも先生の正体を知ってしまった翌日。ひどい理屈で魔法にかけられた私は、その日から先生の姿が全く見えなくなってしまった。先生が透明人間になった、と最初は思ったのだけど、どうやら他の人たちには先生の姿は今までどおりに見えているらしかった。私にだけ、先生が透明になる魔法がかけられたのだ。声は聞こえるけれど、姿はまるで見えない。てっきり記憶を消されたりするのかと内心不安だったので、この魔法の効果は拍子抜けとも言えた。
『先生、絆創膏下さい』
『先生、怪我しちゃったんですけど』
『今日熱っぽくって』
保健室に駆け込んでいく同級生たち。先生の物静かな声に私は耳を澄ませた。不思議と、姿が見えていた頃より、声だけになってからの方が先生の存在が気になった。
私は毎週のように保健室に通った。あらかじめ机上に置かれている入室名簿に記入をしながら、先生の気配を探していた。固いベッドに横になっては、先生と他の生徒が朗らかに会話するのに耳をそばだてていた。
一カ月もしないうちに、記憶の中の先生の輪郭はぼんやりとしてきて、へのへのもへじにすり替わった。
それからだ。先生の姿をいろいろと想像するようになったのは。
本当の姿も人間に近いのだろうか。それとも四足歩行の動物なのだろうか。想像上の生き物みたいに、この世界には存在しないものかもしれない。
いつしか、先生の声が聞こえると、自然とそちらを振り向くようになっていた。雨どいから雨粒がぽつぽつ滴るような、静かで落ち着いた声が耳に心地良かった。保健室に行って、ベッドに横になっても、眠気が襲ってこなくなった。じっと息をひそめて、先生が誰かと話しているのを聞いていた。寝たふりをすると、先生は偶に様子を見にきてくれて、狸寝入りに気付かない鈍感さを忍び笑った。
そうして、半年が過ぎる頃には、声がしなくても視線は先生を探すようになっていた。透明人間の先生を。
先生の姿を再び見ることが出来るようになったのは、秘密を知って魔法にかけられた日からおよそ一年後。七月二三日。
私は日課となっていた保健室通いを行おうと、校舎の一階を歩いていた。今日はまだ一度も、先生の声を聞いていなかった。
部屋に入ると、生徒ではない見知らぬ男が立っていた。教師の一人かと思ったが、それにしては若い。しかも浮き輪を被っている。そんなおかしな風体の教師がいるものか。
その男が、何度も躊躇ってから口を開いた。
――水族館に行きませんか。
意識が吸い寄せられる声だった。
レンズの向こうの細い瞳、薄い唇、翻る白衣。強烈に脳裏に焼き付いた姿が、一年前の記憶とピタリ重なる。頭の中がカッと熱くなって、くらりとした。
目眩がおさまった頃には、私は先生のことが――
気が付くとベッドの中だった。時刻は午前〇時一分。デジタル時計の日付を確認する。
今日は八月一日。
*****
それから一年と半年以上が経ち、私は無事卒業式を迎えた。
つつがなく式を終えて、友人たちに別れを告げたあと、校門までの銀杏並木を一人歩いていた。生徒たちのほとんどはまだ校舎の方に残っていて、意外なほど人は少なかった。
校門を出ようとすると、声をかけられた。待ちわびていた声。私は澄ました顔をつくって、踵を回して爪先を声の主に向けた。
私の前に現れた先生は、卒業証書を抱えた私をとっくりと眺めて、釈然としない雰囲気を醸し出していた。彼の口には、たまりにたまった質問が私に襲いかかろうと待機していることだろう。だがしかし、そうは問屋が卸さない。用意周到な私は、前日にレンタルショップで借りておいたホラー映画のパッケージを差し出して、先生ににっこり笑いかけたわけだ。
「で、先生。今度は先生でなくて、わんちゃんに変身しているわけですか」
先生はさらに顔を歪めた。つぶらな黒い瞳が潤み、頬の筋肉につられた白いヒゲがピクピクと上下する。どこからどう見ても可愛らしい柴犬だ。
やわらかな首に埋没した赤い首輪を、私はしっかりと掴んだ。今度は逃がすものか。先生は私の持っているDVDパッケージを見て、先ほどよりも大きくヒゲを動かす。パッケージには、ゾンビと化して人々に襲いかかる犬の姿が描かれていた。周囲の様子を確かめたあと、何を勘違いしたのか必死に訂正してくる。
「わ、私は人間を襲ったりなどはしませんよ。善良な魔法使いですから」
「分かっていますよ、第一こんな可愛い柴犬に襲われたところで微笑ましいだけですって。何でまた、犬なんかになったんですか」
「同じ生物に変身することは禁じられていたので、一番かわいらしいものを、と。本当はポメラニアンとやらになりたかったのですが」
「ああ、あのマリモサンマも丸っこかったですもんね。先生の趣味、何となく分かりました」
私は首輪を握ったまま、もう一方の手でスカートを押さえて、先生の前にしゃがみ込んだ。
「ねえ先生、今度は私に付き合ってくださいね。朝までホラー映画三本連続鑑賞会です」
以前は私が先生に付き合ったんですから、良いですよね、と確認する。先生がますます妙な顔をした。
「それは私と見なければならないものなのですか」
私は腹を抱えて笑いたくなった。
あれから一年半も経つのに。先生の秘密を知ってから、二年以上も経つのに。私はとっくに気が付いているのに。
口角が上がりっぱなしの口許を、卒業証書のケースで隠しながら、私は言った。
「当たり前じゃないですか。先生と見ればB級ホラー映画だってアカデミー賞受賞作なみの傑作に変わります。だって私、先生のこと好きですもん」
つぶらな瞳が最大限に丸くなった。顔を埋めたくなるほど毛並みの良い柴犬の下あごが落ちる。だらりとピンクの舌が垂れた。
私は先生にぐっと顔を近づける。黒々と濡れた鼻からは、湿ったにおいがした。小麦色の額に自分の額をくっつける。
「ねえ、先生。手を繋いだら移動魔法が使えるのでしょう? じゃあ、額と額をくっつけたら、どんな魔法がかかりますか」
「ええと……」
かわいそうなことに、先生はすっかりうろたえていた。
「ね、先生。私の唇と先生の唇を合わせたら、どんな魔法がかかるんでしょう」
先生はもはや固まっていた。私がそう尋ねたのは、先生の口許に私の唇が埋もれたあとだったからだ。
――二人の思いの境目が、できるだけ滑らかではっきりとして、噛み合う形をしていると嬉しい。
何か細かなもので頬を打たれる感触に顔を上げた。風が運んできた黄色い砂のつぶてだ。先生のふさふさとした尻尾の向こうに、灼熱の白い太陽が揺らいでいた。干からびた眼球を覆う瞼の薄い皮膚を、恵みの雨粒がパタパタと叩き潤していく。先生のかすれた声だった。
「ホラー映画は、また今度でも構いませんか」
頭上を、サンマたちが半透明の羽を広げて悠々と飛んでいった。
初出は昨年度のゼミ誌です。半年経ち、再版の予定もないため転載いたしました。