宇和島出奔
ざく、ざく、ざく、と雪を踏みしめ、北方へと歩みを進める若侍が二人。
ちょうど土佐国と伊予国の境界、地芳峠に差し掛かったところであった。
二人は宇和島を発し、一旦土佐国に入った後、地芳峠から改めて伊予の国に入ってきたのである。
「三郎佐よい、もうええ加減休んでよかろうよ。」
「何じゃ、もう弱音を吐くのか。鬼の藤左も雪には勝てんか、ふふ。」
三郎佐と呼ばれた男は冷ややかな笑いをその顔に浮かべた。
「三郎佐よい、誰が二人分の荷を背負うとると思うとるんじゃ。わしがかわいそうじゃと思うんじゃったらちっと休んで行こうわい。」
「ふん、おぬしが赤子よりも荷の方がええと言うたのではないか。男子の一言、既に出ずれば駟馬も及ばず。一旦口に出したことを、後になってごちゃごちゃぬかすとは、伊達家家臣の風上にも置けんやつじゃ。」
「三郎佐よい、またわしにわからん言葉を使うて煙に巻こうとしておるな。わしゃ死馬なんぞいらんぞ、元気な生きた馬が欲しいんじゃ。生き馬に死馬が及ばんのはもちろんのことじゃわい。」
「おぬしのような阿呆に何を言うても埒が明かぬ。馬の耳に念仏じゃわい。」
「三郎佐よい、また馬か。ああ、それにつけても馬が欲しいのい。」
「藤左よ、ここからは馬が用を足さぬ山道に入る。おぬしも鬼の藤左ならば、覚悟を決めてわしに付いてまいれ。」
「どうでもええが、鬼の藤左はもう勘弁してくれんかいのう。言われるたびに力が抜けるわい。」
鬼の藤左とは渡辺藤左衛門の別名である。
鬼のように力が強いことからつけられた名前ではない。むしろ刀を持っても槍を持ってもからっきしな腕前の渡辺藤左衛門であるが、怒ったときに顔が真っ赤になり、赤鬼に瓜二つの形相になるためこの名が付けられたのである。
対して、もう一方の赤子を抱いた男が神尾三郎佐衛門である。
幼い頃より文武共に興味を示し、二十歳になろうとする現在では、両道に渡って非凡な才を示していた。
しかしながら時は既に承応二年、わずか十三歳の幼い家綱が将軍であってでさえ、徳川幕藩体制にはわずかな揺らぎも見えず、三郎佐が腕を振るう機会は訪れるはずもなかった。
さすがに二年前に徳川家光が没した際には、由比正雪が倒幕の狼煙を上げたものの、あっけないほど静かな幕切れで終わってしまった。
そんな時代のことなので、三郎佐が槍を振り回している姿を見るたびに同輩は三郎佐をからかった。付いた名前が「宇和島一本槍」、時代遅れであることを痛烈に皮肉った名前である。
そんな同輩を全く相手にせず、三郎佐は一人黙々と槍を振り回し、そうでなければ本に向かった。そのうち三郎佐には「宇和島一本槍」の他に「冷血漢」というありがたくない名前も加わった。
何をするにも常に一人の三郎佐であったが、そんな三郎佐に変化が訪れたのは一年前のことだった。
主である伊達宗時に呼び出された三郎佐は、同様に呼び出された藤左と二人で極秘任務に当たるよう命を受けた。
一年前までは誰とも親しく付き合わなかった三郎佐だが、この藤左とは不思議と馬が合った。愚鈍で阿呆な藤左だが、なぜか嫌いにはなれないのだ。
「三郎佐よい、何ぞええ方策でもあるんかいのう。」
大川嶺を左に見ながら久万高原の辺りまで回りこんできたところで、二人は適当な洞穴を見つけて暖をとっていた。今夜はこの洞穴で休む腹である。
「うむ、こうなれば松山城の松平定行公にすがるよりほかあるまい。」
松平定行は久松系松平家宗家として、幕府から絶大な信頼を得ていた人物である。現在は幼将軍家綱の補佐として江戸城に詰めていた。
「三郎佐よい、定行公は上様のお守りをおおせつかって江戸詰めじゃぞ。まさか江戸まで駆けるつもりではなかろうのう。」
「したが藤左よ、他に頼りになる人物がおるか。土佐の山内なぞは意気地がないし、西条の一柳は衰退する一方じゃ。ここはどうでも江戸まで参るより他に策はないぞ。」
「いかに言うても江戸は遠いのう。讃岐か阿波くらいで手を打つ気にはならんかのう。」
「讃岐か阿波のう。おおっ、そうじゃそうじゃ。藤左よ、わしはおぬしのことをさんざん阿呆じゃと罵っておったが、わしなぞよりおぬしの方がよほど英才じゃ。」
「上げたり下げたり忙しいやつじゃのう。」
「ふふ、まあ聞け。讃岐高松城には松平頼重公がおられる。このお方こそわれらが頼るべきお方じゃ。」
「讃岐で堪忍してくれるか。まあなんでも、江戸でのうなって助かったわい。」
「頼重公ならば、この赤子を連れて行くのに格好のお方じゃ。よし、このまま面河村へ行き、石鎚山、瓶が森、笹ヶ峰と尾根伝いに山を越えて参ろう。」
「三郎佐よい、わしはおぬしが気にいっとるけん、何でも言うとおりにするけんども。じゃけんどのう、まさか、まさかに賢いおぬしが殿の命に背くとは思わなんだぞい。」
「言うてくれるな、わしにもようわからん。ふん、赤子も既にお休みの様子じゃ。われらも寝るぞ。」
慣れない山歩きで疲れきっていた二人は、どちらが先ともなく眠りに落ちた。