<04> 三人閑女の水入らず (前)
混雑の無いホームに、悠々とした気分で降り立った。
人目こそあったが、それでも一つ小さく全身を伸ばす。今日という日は穏やかに過ぎたが、日中は学業もはかどり眠りも十分足りており、まったく好調だった。
帰宅ラッシュの時間帯だというのに、今日の電車は珍しく空いていた。
私服・学生服・スーツ姿と、それぞれ同じくらいの比率で、乗客が次々と下車してくる。しかしこの駅で降りるような人々は、尾岐市街の退勤者がそうするように足早に階段を上ったりはしない。かといって沈鬱としているわけでもなく、ただ何と言うか……気性がのんびりなだけなのだと思う。
さしたる施設もないのだが、尾岐市街で働くサラリーマン家庭のベッドタウンとしては格好のロケーションであり、割と裕福な層も多く暮らしている。そういう地域事情からか、ことさら盛らず衰えもせず。この一帯、御旗地区は維持され――――あるいは停滞していた。
誰にともなく歩幅を合わせるように、自分もまたゆっくりと階段に足を掛けていく。
御旗五堂駅(みはたごどうえき)と表示板がある2番ホームから連絡通路に上がり、大した距離も歩かぬうちに改札口。そこから小さな駅ビルをまた下階に降りれば、すぐ正面に出口が見える。
最近建て替えられた駅舎はどこも新しさがあり、けして広くは無いが清潔感が保たれている。昨年に一度取り壊される前に見た旧・御旗五堂駅舎は、生えたカビも手つかずな程に老朽化していたというのに。
ともかく、綺麗なことは良い事だ。
何より今日は気分もいい。足取りも軽く、駅舎から外へと踏み出した。
冷蔵庫の中身を思い返すに買い物の必要もないだろう、あとはまっすぐ帰るだけだ。
自転車置き場に向かうべく、壁に沿った自動販売機コーナーの前を通過しようとする。
すると、ふと、そこにいた制服姿の少女と目が合ってしまった。
目を逸らそうとして、思いとどまり彼女を見つめる。
御旗岳中の制服を着ているのは初めて見たが、その顔には見覚えがあった。
「ああ、ハセか。奇遇じゃないか」
「名字で呼ばないで」
ぶっきらぼうに言い捨ててから、少女は続ける。
「前に言ったでしょ、名字はあんまり好きじゃないって」
「はいはい。じゃ、ユリノ」
「ふん、それでいいわ。今晩は、打川先輩」
「その挨拶には、まだ少し早いがな」
「いいでしょ、別に。どうせすぐ夜になるわ」
馳由梨乃(はせゆりの)は御旗岳中学校の3年生で、例によって能力者である。
一つ違いという気軽さからかもしれないが、ことさらこちらに敬語を使うこともなく、基本的に口が悪い。
切れ長の釣り目の上に細眉が引かれ、口は常にきりりと結んでいる。中分けでストレートのセミロングヘアには髪一本の乱れさえ見当たらない。加えて顎をくっと引く癖もあって、とにかくまあ意思が強そうに見える子なのだ。
「5時過ぎはまあ割と遅い時間かもしれんが。こんなとこで何やってんだ?」
「見ればわかるでしょ、自動販売機に用事よ。ここの飲み物は全品100円だからよく利用してるだけ」
「下校ルートでもないだろ、何で制服なんだい」
「……塾帰りよ。さっきの電車で降りてきたばっかり」
「ああ……そうなのか。市内まで出てるのか? ご苦労さん」
「ふん」
斜め下を見るように、毅然としたままユリノが顔を逸らす。
「じゃあ、またな。また訓練時にでも……」
挨拶はその位で、ともかくこちらはお先に帰るとしよう。
手で会釈だけして彼女の横を通り過ぎ、足を進めようとしたが――――
「待ちなさいよ」
その一言とともに、足がぴたりと止まった。
いや、正味なところ止まる気は毛頭なかったのだから、“止められた”というのが正しいだろう。無視して先に進もうにも、圧力がかかったように動けない。
それどころかぐいぐいと押されるように、後ろ向きに右足が、次いで左足が、一歩ずつ動かされていく。
「……やめろ」
それは真後ろに居るであろう彼女、ユリノに向けて言った。
「じゃあ、こっちの話を聞いてよ」
「仕方ねえ奴だな……わかったから解除しろ、ていうか人前で能力を使うな」
「ふん。誰も見てないわよ」
「立会人のやってる探査には引っ掛かるぞ。つい数日前に、実例もあったしな」
「…………」
黙ったとみえてからすぐ、身体を縛る戒めがすっと引くように解けた。後ろに寄っていた身体はバランスを崩しかけるところだったが、何とか持ちこたえた。
振り返り彼女を見ると、右手元にお茶の入った500mlペットボトルが掴まれていた。それはおそらく何の変哲もないお茶なのだろうが、彼女にとっては『武器』である。
「それで何の話だ? さほど急いでもないけど、手短に頼むぞ」
「大丈夫よ、そこまで込み入った話じゃないから」
「それならいいが……ん?」
「え?」
疑問符を浮かべると、同じように返した。
注意を向けた相手はユリノではなく、彼女の後ろに見えた別の人物である。視線の方向に気付いたか、ユリノもその方向へと振り返る。
「あ……ええと、そのう……」
二人分の視線に射すくめられ、その小さな輪郭はいっそう縮こまった。
ユリノと同じ制服を着ており、違いはリボンの色くらいだった。
斜めに垂れた前髪が、隠すように目にかかっているのが印象的な少女である。
ふくらんだ小さなバッグを両手で抱える姿は、猫が丸いものに巻き付いた姿を思わせる。
ついでに加えて言うなら、たぶんこの子は猫背だ。
「…………」
ユリノはいかにも(能力を見られたか?)と憂慮するような横顔をしていたが、その心配は無い。全く今日は、奇遇に奇遇が重なったというか。
……小さなその少女も、知り合いであった。
「……よう、湊(みなと)」
「え、あ、ああ。なんだ、打川さんか……」
「何してんだい」
「訓練が終わって、帰るところですけど……」
どうやらそれはメイも自分も関与していない訓練らしく、ここ最近に通達を受けた覚えも無かった。
「ちょっと」
口を挟むように、ユリノがやや大きく声をかける。その視線は湊ではなく、こちらに向いていた。
「ちょっと、打川先輩。来なさい」
「先輩に“来なさい”ってのもどうなん……うわっ」
言い終わる前に腕を強引に掴まれ、そのまま駅舎の壁際、自転車置き場の端あたりまで連れて行かれる。ぽかんとする湊から背を向けたまま、彼女が手を離してこちらに顔を寄せた。
「誰。あの子」
「誰って、訓練生だよ。イコール、能力者だ。心配すんな」
「そうじゃなくて、名前は」
「湊春夏(みなとはるか)。春に夏と書いてハルカだったな」
「能力は」
「ええっと……あまり会わないから知らないな。そういや、基礎訓練で二回ほど会ったきりだ」
そこまで聞いてか、はたまた聞かずか。ユリノはずんずんと勢いよく元の場所へ戻っていく。詰め寄るように近づかれてか、いよいよ湊のおどおど加減が留まる事を知らない。
「馳由梨乃よ。御旗岳中3年C組所属、能力者をしているわ」
「は、はい。わたしは、その……」
「名前ならもう知ってるわ」
「えっ……そ、そうですか」
「あなた、クラスは?」
「えっと、F組ですけどお……」
「違うわよ。能力階級の話よ」
「ああ、すみませんっ……。そっちは、クラスCです」
「私と同じ……? 席次は?」
「15番、です……」
「あ? 私の一コ下なの?」
「す、すみません。……というと、馳さんは14番……?」
「ちょっと、悪いけど名字で呼ばないでよ。嫌なのよ」
「あっ、ごめんなさい、うう……」
ヤンキーが“お前ドコ中だよ”とでもいうような調子で尋問を続けるユリノ。可哀そうにも湊は、丸まる子猫から一転、チワワのように震えつつかろうじて答えていた。
そろそろ助け船を出そうかと近付きかけた時、まったく思いがけぬことをユリノが口にした。
「せっかく会ったことだし、そこの待合所でお茶でも如何かしら」
……あるいは和やかなお誘いの言葉とも取れる一言だったが。
その端正な顔は、かけらたりとも笑ってはいなかった。