<22> 幽断ち
荒れはてた神社の中で少年少女は円になって座り、真夏の風物に興じていた。
べつだん夏は好きではない。子供の時分は「早く秋になればいい」とだけ思いながら、30度を超す温度をかわし、じっと室内でやり過ごしているのが通例だった。いっそ動いて汗を流している方が時間を忘れられるかと思い、ここ数年は無心でソフトテニス部の活動に励んでいたわけだが、当然疲れが先行してバテるだけではあった。
その頃の炎天下を思えば、ひさしのある屋内でいくらか涼んでいる今は気楽なものである。人里からだいぶ離れた山中で木々に囲まれた緑色基調のロケーション、自動車の排熱も熱せられたアスファルトも遠い彼方の世界に思える。
細かい経緯は重要ではないため省くが、今日も訓練生と“影響物”を探しに来ていた。
現在は休憩中である。当然ながら、毎度のようにすんなりと影響物が見つかるわけでもなく、今回も状況は厳しい。そもそも連絡をしてきた桐代の話しぶりが投げやりだったので、駄目元で行かされた感も少なからずある。
これまでの影響物探しを思い返してもそうだ。近場や同日内の探索も合わせて既に5つ目の対象に取りかかっている現状だが、見つかった場所は田に近い畦道だったりビルの屋上だったりと様々で、ことに直接見えない場所に影響物が入り込んでる場合などは厄介だった。葉村の高い感知能力が最後の綱となることも多く、それでも最後まで見つからず諦めるケースもあった。その時は後から“別チーム”が回収したという話を聞いたが、それなら初めから専門の人間を呼べば良かったのではとも思い――――しかしこれも訓練の一環だ、などと言われるなり思うなりすれば、最終的に残る文句はなかった。
結局のところ苦労をしているのは実働者たる訓練生たちの方なので、付き添いの自分はせめて気を配ってやる必要があるだろう。そのために先ほど、探索が行き詰まりそうなタイミングで休憩を言い渡したというわけだ。
円く座をなした一同は、話を続けるひとりに注目していた。
「……まあ噂の事があったし、その同級生の子もそこを通るたびにちょっと気をつけてたんだけどね? しかもあのあたりはほら、電気っていうか照明が全然当たってなくて、暗くてさ、となるととにかくトイレの電気付けようと急ぐわけよ……。そうして小走りな感じで、近付いてったんだけど……」
旬の風物を語っているのは愛中だった。その右隣の井房野はふんふんと興味深そうに顔を寄せてうなずきつつ聞き、逆隣の葉村は目をぱちぱちさせつつ引いたふうで、とりあえずという感じで聞いている。向かい側の猪吹はにこやかだが、よく見れば苦笑気味なのが分かる。存外生真面目な彼の性格からして、幽霊や妖怪の類をそもそも信じないスタンスなのだろう。ちなみに鑑は法事だかで今日は不在である。
打ち捨てられた神社の中という効果を高めるポイントではあるが、あいにく時間帯が悪く、眩しげな日光が縁側をじりじりと焼いているのが見えた。ゆえに暗いわけでもなく、遠巻きに見ても怪談の雰囲気ではない。
バスを乗り換えて町はずれの山中まで来ておいて、退屈で徒労に終わるのも何だろうからともかくくだらない話でもして和んでくれれば気も紛れることだろう……という意図から、特に止めもせず好きにさせていた。むろん早くに影響物が見つかればそれだけ早く帰れるが、どうも葉村の探索でも位置が掴みづらく、あるにしても生い茂った草々を分け入った先だそうだ。ために無理はさせずに早めに帰らせる方向で考えていた。
さて、愛中の語る“御旗岳中体育館前トイレに出没する黒い手の怪”はそろそろクライマックスのようだが、語り口がどうにも明るくしまらないので恐怖は覚えない。ただ自分の学校にまつわる話ということで、近しい話題としてみな多かれ少なかれ興味があるように見えた。
「ひんやりした影みたいな黒い手?でね、ぞわーって感じの感覚だったって。手首をつかまれちゃったその子はもうさー、声も出せなくって…………それで……」
「出せなくって……え、どうしたんですか?」
「んー……まあ……もうその子も気が動転してわかんなくなっちゃって、気が付いてたら黒い手は消えてたみたいだけど、電気付けたら足元に筆記用具入れの中身が散らばっててさ……で、誰のかも分からないんだけど、シャーペンや定規に交じってさ――――異常に大量のカッターの刃が、たくさん、たくさん落ちてたんだって……」
「……へえ。…………ちょっと怖いですね、それ」
「えー、ちょっとなのー? これは結構自信あったんだけどな。猪吹くん、こういうの怖くない方?」
「まあ、わりとそうすけど……こわいっていうか、気味が悪い感じですねそれ」
「確かにそうだよね。同じものが大量にあるのって私も苦手かも……それってそのあと、誰かが片付けたんでしょうかね?」
「んー知らないけど、たぶん次の日行ったら消えてたとかじゃない? 細かい話は知らないや……てか砂月ちゃんも反応びみょーかー……。――――あっ、ねえ、先輩はどうでした? 今の話」
なかば流すように聞いていたところ、突然にこちらに視線が注がれた。
「あー? いや最初の方をあまり聞いてないんだがな……とりあえずあれだな、とっておきの話なら時間帯を選べってところだな。こう明るくちゃ雰囲気も出ねえよ」
「ふふーん、分かってないね先輩。こういう怪談ていうのはさ、後から効いてくるんだよ。そのうち夜に近い状況になってから曖昧に思い出す事で恐怖心を加速させるってわけ」
「ふうん……賢いやり方のようにも聞こえるがな、ディティールがいい加減だと怖さも減っちまうと思うぞ。お前の楽しそうな顔を思い出して馬鹿らしくなるんじゃないか」
「むー……」
不服そうな愛中を残して、めいめいおもむろに立ち上がって笑い合いながら、外へと歩いてゆく。
少し遅れて愛中も立ち上がり、ちょうど自分に伴うように出口に向かった。
「先輩のときは、そういう御旗中にまつわる怪談とか無かったんですか?」
「いやまず興味がなかったしな。聞いたこともない」
「えー、つまんないの」
「個人的に怖かった話ならあるぞ。夕闇の坂道でひたひたとついてくる黒髪の女の事とか」
「えっ何それ、聞きたい聞きたい」
「そうか……実はその話は星倉の方が詳しくてな。あとで存分に本人から聞いてくれ」
結局その日の探索は、採取困難ということで影響物の取得を断念し、午前中で切り上げることとなった。
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――――ところで、その日の夜はやけに冷えた。
夕ごろから日が陰って小雨が降り、すぐに止んだものの暗いまま夜に移り、その雰囲気になんだか妙に胸騒ぎを覚えた。別に自分は勘が鋭いわけでもないので、そういう根拠のない感覚はあてにならない。それが“自分の”感覚であるならば、だが。
「んー……あれー、雨だね」
「え? ああ、さっきまで少し降ってたな……」
「ううん、これからの話。けっこう降るよーこれ。お風呂前にコンビニ行きたかったんだけどなー」
夕食後のひとときのことだった。開け放した扉の向こう、廊下の窓に目を向けてガラス越しにメイは空を見た。薄暗い空だが、また雨が降るかまでは感じ取れそうもない。ちらりと携帯で天気予報を確認したが、「くもり」としか予想されていない。ただ前例のあったことなので、すでに自分の中に疑いはなかった。気象庁よりは、身内を信頼したいことだし。
ほどなくして雨粒がぽとりぽとりと落ち始め、あっという間に夏の大雨を成した。
メイはコンビニ行きを既に諦めており、断ってから先に風呂に入ってしまった。気ままな性格だと思っていたが、予定が狂った場合に限ってはわりと不機嫌になるのを、最近なんとなくわかってきた。表情にこそ全く出ないが、たとえば返事がいい加減になる。読書中につまらない用事で話しかけたりすると顕著で、最近は「あー」だの「んー」だの生返事も多い。それだけメイが来た当初より馴染んできた、あるいは緊張が解けてきたとも言えるだろう。
しばらくしたのち風呂上がりの際には、こちらも見ずに歩きつつ、
「おふろあがった。おやすみー」
とだけ挨拶して部屋へと上がっていった。だんだん居候としての遠慮が無くなってきたというか、ふてぶてしくなってきたというか……まあ特に家主として気にはしていないし、家事も欠かさず完遂してくれているので文句はない。
メイが去ってからも居間にとどまり、テレビをだらだらと眺めながら夜の時間を過ごす。雨音が気になりはしたが、気温が下がっていることで過ごしやすいからか、耳触りというほどには感じなかった。眠気はさほどないがすることも見当たらず、さっとシャワーを浴びて戸締りだけ確認し、自分も階段を登り自分の部屋へと入った。
普段はあまり自室に長居することはない。2階にいると来客に気付きにくいし、どちらかというと広いところの方が好きなので居間の方がくつろげるからだ。メイはどうかは知らないが、少なくとも本を読みたがっている時は部屋にこもりたがる傾向は見てとれた。
彼女が使っている部屋は防音がしっかりしていて、窓も雪国仕様の二重層ガラスなので、暖冷房で調整さえできれば外気をきっちり断てて過ごしやすい。2階にある4室すべてがほぼ同じ構造であり、日の差しかたを除けば読書や作業や就寝や瞑想には最適と言えた。この家を建てる際に、母のほうが特に強く口を出したところであるらしいのだが、その分だけキッチンや風呂周りなどは質素になったりもしている。……ちなみに父が手を掛けた部分は言うまでも無く、離れのデッキと書庫の方だったそうだ。
改めて言うが、その日の夜は妙に冷えた。
エアコンをつける必要が無かったぐらいである。また寝冷えするといけないので、夏場は使わない毛布を一枚、念のため足元に用意し畳んでおいた。せっかく過ごしやすい日に風邪を引いたとあってはつまらない。
一時より弱まってはいたが雨はまだ止む気配がない。せめて腹が冷えないように毛布を二つ折りにして掛けてから、ベッドに横たわった。サイドテーブルに手を伸ばして電気のスイッチを消すと、すぐに暗闇がやってくる。目を閉ざして視神経を休め出すと、雨音が際立って耳をさわり出す。
眠りにつくまでしばらくかかるだろうから、そういうときは極力どうでもいいことを考えるようにしている。先に控える面倒な事とか、後悔したことや反省すべき点ではなく、とにかく明日には忘れるようなとりとめのない日常の事柄に思いを馳せるのである。
たとえば昼に愛中が話していた、かけらも恐ろしくない怪談のことなどは格好の対象だった。
もともと御旗岳という土地は城のあった古戦場だったということもあり、その手の話の種は尽きない。いわれの知れない無銘の石碑だとか、隠れるように山間に広がる墓地群だとか、開発が断念された北西側の旧住宅地廃墟だとか……。単純な小山に見えて複雑な道で入り組んでおり、外の人間にとっては存在自体が奇異であるらしい。
一時は霊能力や怪奇現象のブームが若い世代の間に来ており、ちょうど5年ほど前が最後の波だったと思う。俺が小学校高学年の時分であるが、そういうのに目がない友人に連れられて、幽霊探検と称してこの土地をいろいろと巡ってみたものであった。……ふと思うに、「訓練生」たちが超能力自体に抵抗がないのもその辺の事情に絡むのかもしれない。多少年代は下がるが同じ渦の中にいた彼らは、超常的な能力に対して少なからず興味と興奮を持って迎えるのだろう。もっとも同じぐらいの熱で、恐怖をもって能力を拒んだ者もいるのだろうけれど。
ほどよくどうでも良いことを考えているとそろそろと眠気がさしてきて、なかば無意識に体勢を寝返らせて、ちょうど良い姿勢をさがす。壁に近い側から部屋の中央へ――――そうして身体をひねり切ったその時、いくつかのことに気付いた。
まず分かりやすかったのは、いつの間にか雨が止んで静かなこと。
あと、気のせいかもしれないが、指先が、爪先が、空気が、先ほどより冷えていたこと。
それから少し遅れて、目を開いてから気付けたのは――――
枕元に、何者かが立っているということだ。
……“何者か”と言ったが、あるいは“何物か”かもしれない。視力に異常が発生したのでなければ、それは真っ黒いかたまりだった。人に似た姿を取った影のようなもので、2メートルほどの高さに浮いており……目を凝らしても接地した部分が見当たらず、爪先が曖昧だった。
当然ながら、驚き、ぎょっとした。
ぎょっとはしたが、落ち着いてもいた。
昨今の経験によって感覚がマヒしているのもあるし、眠気も手伝って判断力も鈍っている。とりあえず身体を起こそうとしたが――――出来ない。俗に言う金縛りだろうか、体は硬直しておりぴくりともしなかったが、目だけはかろうじて動く。しだいに、闇にも慣れてきた。おぼろげだった黒い影が、闇と分離して見分けられてきた。それはどうやら、暗闇の色よりはわずかに明るかったためらしい。
ふちがぼやけた、曖昧な影だ。目鼻も耳もない頭部と、両腕、両足部分があるようには見える。脈打つように周期的に輪郭が揺れて、だいたいの位置は定めつつも一定の姿をとどめなかった。その不気味な拍動をどうすることも出来ず眺めるうちに、やがて、変化が訪れた。
と言っても残念なことに、こちらの体は依然動かない。
頭部の中央あたりがもぞもぞと蠢き、歪んでいく。人間で言うと口のあたりだ。その動きから少し遅れて、こちらに感覚が襲ってきた――――耳を、めがけて。
「――――う ち ア……か、 グ……――――」
反射的に総身が震えた。その異形が声を発したことそのものより、突然の音声が“耳元で”発せられたのが原因だった。影の位置自体は動いていないのに、距離が無いように音声だけがゼロ距離で飛んできた。内容はすぐには理解できなかったが――――
「……う、ちか、わ。 ……、シ――――」
二度目のおぞましい声触りに耐えて、見当がついた。ついてしまった。
『打川』。父母祖父母や祖先を指すのでなければ、その名字は俺のことだ。こいつは無差別な悪霊ではなく、おそらくは俺をターゲットにして現れたらしい。さて憑かれるような心当たりはないが、おおよそ霊のなすことなど理不尽な方が自然だろう、と妙に納得もしていた。
「……しん、………ご」
名指しときた。俺狙いで確定らしい。先ほど「シ」まで聞き取れたので「死すべし」とか「幸せに」みたいな続き方をするのかとも思ったがさにあらず。悪霊なのか守護霊なのか、意図が今ひとつ掴めずもどかしい。返事でもしてやりたいが、せめて呪縛は解いて欲しい。
「…………くら、い……ここ……は、暗、い……………」
夜だからな。カーテンも閉め切ってるし、寝るときは電気全部消す派なので真っ暗闇である。
「……が、そこ……へ……行く、おマ、えを、…………かわ、リ、に……」
把握できる範囲は断片的ながら、あまり話が良い方向に向かって無い気はしている。呆けていた脳味噌に血が巡っていくほどに、何か得体の知れない感覚が、少しずつ、這い上がってくる。
「 その、カら、だ、……いた、だク…… ……」
――――上半身が跳ねるように起き上がり、急激に視界が揺れた。それは危険を察した反射的な動きなどではない。この呪縛は解けてはいない!
肩と腰が左にねじれて、その勢いで全身が回り、音を立ててベッドから転げ落ちる。頭を打たなかったのは幸いだが、右肘を床に打ちつけてしまい、声にならない痛みに苦悶した。声も出せない、声は出せない。全ての動きは封じられたままだ。
「イタ、み……は……す、ぐキ、え、る……、なく、な、……る」
この“何物か”の力で、もはや我が身に自由はなかった。俺は不格好にぐらぐらと立ち上がるが、ただ操られてそうしているだけだ。
不可解なことに影が言う通り、肘の痛みはもうほとんど感じなかった。先ほどから呪縛が弱まっているように思えていたが、それは感覚そのものが薄くなっているからだと気がつく。コントロールが奪われて肉体が乗っ取られていく異常事態を前に、恐怖さえ薄くなすがままであった。
暗闇の中、足が一歩、二歩と踏み出されていく。それを視界の動きから察する他はなく、止める手段はない。窓側に近付いてゆき、左に体が向いて立ち止まる。
鈍くも眼球を下向かせて確認すると、白色の簡素なデスクがわずかに見えた。そこにあるのは確か、教科書・参考書にノート、筆箱、ペン立て、あとはノートパソコンと電気スタンド。特筆すべきものは無いはずだ。“何物か”は興味があるかのように、俺の足を机の前に張り付けた。
「……ち……、 を…… やい、……ばを……」
机の真上へと浮動した影が何事かを繰り返す。ち。やいば。血と刃。物騒な単語を並べられて、こちらの焦りも強くなってきた。だがキッチンでもないのに刃物など――――あった。
卓上のペン立てには、カッターナイフが差し込まれている。
「……きれ………… きり、さ、け…………」
腕がまったく無造作に、刃物へと伸びていく。やめろと叫ぶことさえできず、理不尽に流血の時が迫ろうとしている。“異常に大量のカッターの刃が、たくさん、たくさん――――”今更また、愛中の怪談が思い出される。
そして指先がその刃を摘み取って――――
「ねぇ、シンゴー? どうかしたのー?」
……ノックの音と共に、メイの声がドアの向こうから掛けられた。
「なんかするならさ、静かにしたほうがいいと思うよー」
転げ落ちた際に立てた音を聞いたか、いやおそらく震動のほうが伝わったのだろう。こちらの異常までは感じ取っていないにせよ、このまま返事をしないでいればおかしく思うはずだ。そうすればあるいは助けてくれるかも知れないが――――だが、どうやって? 幽霊相手に?
勝手に希望と絶望の間で逡巡した一瞬ののちに、大きな違和感に気付いた。
感覚が、ある。体を制していた縛めが消えており、少ししびれたような感じがあるが、指先が自分の意思で動いた。思い出したように肘に鈍い痛みを覚え、小さくうめかされる。急に戻ってきた多くの感覚と思考によって、しばし困惑のうちにいたが、メイの呑気な声が静けさをぬっと破る。
「あれ、シンゴどしたの? 寝てるのー? あんまり寝ぼけないでねー、おやすみ~」
そう言って去っていった足音、ドアの方に一度目をやったのち、ずっと見せられていた机の真上の中空を再度見上げる。
影は消えていた。
まったく忽然と形もなく、目の先にはただまっさらな壁紙があるだけだった。
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当然ながらしばらく眠れないままで、警戒した心持ちを解けずにその夜を明かした。
とはいえ最後の数時間は気付かないうちに寝てしまっていたらしく、多少寝足りなくはあるが寝覚め自体は妙に良くて、中途半端に図太い自分にいささかがっくりきた。
夢でも幻でもないとすれば、やはりあれは幽霊だったのだろうか。真実はおいといても、また来ないという保証はないし、もしまた来られたとしたら当然身の危険があり危ない。もうひとつ、気が回らなかったが、メイの方にもやってこないとは限らない。
そのことを朝のうちに伝えようと思って、起きてすぐ、少し急ぎ足で階下に降りていった。
睡眠不足と昨晩の出来事の合わせ技で、まだ興奮状態が抜けてないのが自分でも分かったが、しかし早めに相談はしておきたい。一階の床をだんと踏み鳴らしたところで、メイはまだ部屋にいたかもしれないという可能性に行き当たって一瞬迷ったが、ともかく勢いのままに居間へと向かった。
居間にずいと踏み入る。その途端、窓側からぎらりと照る朝の陽に目を射られて、不意に身がすくんだ。
そんな様子を見てか、食卓そばに立っていたらしいメイが、おかしそうにくすりと笑った。
「あ、おはよーシンゴ。早いね」
「……ああ、お前も……早いな」
実際、メイがこれほど早くに目を覚ましてるのは珍しかった。用事があれば時間通りには起きるのだが、だいたいは眠そうにして牛歩戦術のごとく緩慢に動いているか、ソファでうつらうつらと軽い二度寝をしているのが常だった。
そんなことはともかく、まずは昨晩の話から――――と切り出そうとしたところで止められた。
不意に、チャイムの音が響いた。
玄関の、来客を告げるベル音。静かな早朝がその高音で占領され、切り裂かれた。
それが不吉な音色に思えたのは、タイミングの問題だけではない。頻度の高い来客は、皆して慣れた様子で縁側からやってくるからである。わざわざベルを鳴らすというのは、顔見知りなどではない可能性が高い。それもこんな朝早くからとは、尋常の用事には思えなかった。
「……俺が出る」
「えー、まず顔洗ってきたら? 着替えもまだ――――」
「いいから。そこに居ろ」
無理はあったができるだけ平静を装い、Tシャツにジャージという寝巻き代わりの姿で玄関へと慎重に歩を進める。あいにくモニターどころか小さな覗き穴すらない古い防犯体制であり、開門しなければ相手の姿はまったく見えない。
その客はただベルを鳴らしただけで、何も言葉を足したりはしなかった。
「……どなたですか」
そう発言を促すが、返事はない。放置するわけにもいかず、ともかくそっと段を下りて、サンダルに足を通して、ドアへと近付いて――――だが、その時点で不用心が過ぎた。
腕が、動いた。
そして知っている、これは自分の意志ではない。
指先が、動いた。
そして目の前のロックがグイッとひねられ、施錠はあっさりと突破された。その動きのままにドアが押され、右半身がつられて押しつけられて――――開いた。とっさに左手を内壁の縁に引っ掛けてもがき、なんとか転ばずには済んだがそれどころではない。
青い空が、白い雲が、開け放された扉の先に平和そうに待ちうけていて。
あとそれから、黒い影も御一緒だった。
……その色彩の無さを目にした瞬間にぞっとしたが、しかし様子が昨晩とは違っていた。
まず足があった。この点は大きい。一般的イメージの幽霊では少なくとも無い。それから全くの黒というわけでもなかった。
黒いもの。両サイドが垂れた薄地の黒帽子、鎖骨の辺りまで落ちた二房の黒髪、細いがくっきりとしたシルエットで長めのワンピース、漆黒につやめく革の靴。
あとは細い眉毛と長い睫毛、それから二重まぶたの下の両眼くらいのもので――――つまりは、具体のしっかりした人間、それも小さな少女に他ならなかった。
面喰らいつつもとりあえず姿勢を正し、なんとか言葉を口にしようとする。
「――――あ、ああ。どうも。すみません。……何でしょうか」
動転を隠せないまま、ともかく体面だけは繕おうとする。
すると、少女の形の良い口元が少しだけゆがんで、人形のように丸い目がこちらを見上げた。そして、小さな口のあいだからわずかに息が漏れるような感じで、か細く声が発せられて――
「……“昨晩”は、どうも。お邪魔しました」
その決定的言動にとっさに返事ができず、わずかに口を開けたまま固まった。
「栗沢夕樹(くりさわゆき)。階級はB、九つ目」
変な言い方のためにすぐにはピンとこなかったが、ともかく名前を言っているのだけは理解した。それでは「B」と「9」とは――――これもじきに分かったが、栗沢と名乗ったその少女は言葉を足した。
「わたしは『ファズ』。改めて、初めまして。うちかわ、せんぱい?」
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<22> 幽断ち /了
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