<18> 水中火は霧の夜に (後)
「出歩いても大丈夫なのか?」
「と、言いますと?」
「監督してる先生方が居たんじゃないのか、って事だよ」
「ええ、そうですね。いらっしゃいました。けれどもわたくし、ひとつ特別な事情がありまして……」
「どういった事情?」
「実家がこちらなのです。幼少の頃はこちらで暮らしておりまして、せっかくなので親戚や祖父母と会いたいと言ってみましたらお許しを頂けました」
「ふーん、なるほど……いや待て、じゃあどうしてここにいるんだ? ホテルのロビーとかで会えばいいだろう」
「ええ、先ほど会えました。それでせっかくの機会と思いましたので、ちょっと抜け出してきました」
「はあ、大胆というか考えなしというか……騒ぎになっても何だし、早めに帰りなよ」
「ええ、しばらくしたら……」
ふとした小さな仕草で、彼女は目を流して滝を眺める。
円く切り取られた空の下は静かだった。すぐそばにあるというのに、滝音は遠い。
奥ゆかしく浸み込んでは消え入ってゆき、流れているはずの水はまるで突き立つ柱のようだ。
「さっきの光は、やっぱり?」
「はい」
上向けた左の手のひらに、緑色の火球が灯って浮かび上がった。
「わたくしの『ひとだま』の光でしょう」
「前に見た時より、随分と眩しさが強かったけど」
「消える前に何かに当たると、光が分かれて強まるみたいなのです。ほら、このように」
しゃがみながらゆっくりと腕を下げて、地面に火の玉を近付けていく。そのまま触れてしまうかと思ったが、球は揺らめきながら彼女の元を離れはじめて飛行する。背負った空間には暗闇の滝柱が、影の下りる空間には水面があって――――がくりと角度が落ちて後者が選ばれた。
花火をバケツの水で消すみたいに、短く小さくじゅっと音がした。
それにまったく見合わない光量で、鮮烈なグリーンカラーの爆散が同時に目に焼きつけられる。
緑火はそうやってひとつ弾けた。
視界はすぐに戻ったが光は無論去った後で、暗い水の中には火種の影も形も断片さえも見えはしない。もともと無いものをどう探せというのか。
「綺麗だけどな。目がやられそうだ」
「まあ、ふふふ。美しきは罪と言う事でしょうか」
どこかずれた答えを返しながら、上幌坂は口元を隠すように袖を振って笑った。
「ところで、上幌坂」
「かしこまらずとも。どうぞシノとお呼びくださいな。それで、何でしょうか?」
「火の玉が緑色なのは何でだ? 一般的には赤とか、あるいは青ってイメージじゃないか」
「あら、そうでしょうか? 『ひとだま』は隔世の証、常ならぬものの認識はあやふやで御座いましょう」
「まあそれもそうか。個人的な違和感と言えばそれまでだな」
「とはいえお望みとあれば、如何様にも致しましょう――――」
言いながら立ち上がると、彼女は左手で袖を掴みながら右手を広げた。やわらかく指をしならせて折り曲げ、そして閉じた拳をまた開く。
予備動作であろうそれを見て、また『灯る』のだろうと視線は彼女の指に向けていたのだが。
まったく予想していなかった場所に火が浮かんだ。
光によわく照らされた彼女の顔が、妖しく影を得る。
しかしその笑顔に邪心はかけらもなく、ただ色合いだけが不穏に映るのみである。
その光源は、彼女の真下。
両足の左と右に沿うように、濃い赤と薄い青の二色が低空に佇んでいた。
「うふふ、ひっかかりました? あんまり手元を見るんですもの、穴が開いてしまいます」
「だからって何でまた足元に……というか、色は自在なんだな」
「そのようですね。試したのは今がはじめてですわ、色の違いなど思いもよりませんでしたので」
「ぶっつけ本番か」
「ええ、そうですが……ちょっと、慣れませんね。えい」
ひょいっと右足を後ろに蹴りあげると、赤い火玉は宙に散った。
青い方はと言えば、注視する間もなく消え失せていた。
かわりに、再び手の上に緑色が咲いた。
「やはりこちらが落ち着きますわ」
「そういうもんか」
「緑が好きですから。山育ちなもので、慣れ親しんだ色とでも言いましょうか」
「好きな色の方が扱いやすいのか」
「少しニュアンスは違いますが、そうですわね。好きな物には興味が出ますし、目を引かれますし、力が湧きますもの。わたくし達の能力と言うのは、きっとそれがすべて――――在るべき何物でもないので、何も残りませんが、しかし何かを得るのです」
「…………」
禅問答じみた上幌坂の言葉に、しばし沈黙して考えをめぐらせる。
そのまましばらくしてから、彼女はこちらを見たままくすりと笑って水辺に近寄っていった。辺りは依然暗いが、彼女の手元は明るく所作に危なげもない。
名所だという話だが奇怪なほどに滝に存在感は無く、かすかに水鏡の表面を揺らすだけであった。
「考えるのはもちろん良い事です。でも、難しいことはないんですよ」
こともなげに自然な動作で右腕が下りてゆき、やがて手の甲が水面に着いた。
そこで動きを止めて、こちらを見る。にこりと目元が笑んで垂れたのは、来い、ということだろうか。
数歩進んで、緑光が目に入る場所まで近づく。すると彼女は満足したように頷いて、水中に手をぐっと沈めた。
ずっと手のひらから等距離を維持して浮かんでいた火の玉は、つられるように水中に潜らされて――――
――――しかし、消えなかった。
緑の火の玉は健在なままである。平素の通り空気中に居るかのように消えず、保たれた範囲の中を守り燃え盛っている。
水の中で緑の輝きがくらくらと揺らめき、空気と接する表面を乱れさせた。
さながら、大粒の宝石が煌めくように。
わずかな間それを鑑賞してから、彼女は光源に沿って半球を描き水を撫でた。すると渦に似た流れができて、たちまちに光が吸い込まれてしぼみ、消えていった。後に残ったその腕をぱしゃりと引き揚げて、水を払うように小さく振った。
そうしてまた現れた静寂と夜霧の中で、彼女はぽつりと言葉を締める。
「綺麗だから、もっと見ていたい。それだけですわ」
- - - - -
戻った先のロビーのソファで、すっかり忘れていたことだが桐代を見つけた。
「やァ、打川。こんな夜遅くに遊び歩いてたなんてね。浮気かい?」
「何ですかそれ、なに言ってんですか。桐代さんも外に居たんじゃ?」
「まあねェ、嗜みとしてちょっと夜遊びでもと思ったけど……僕向きの場所はいかんせん多くないね」
「はあそうですか。早いところお休みになったらどうです。では」
桐代はそれ以上何も言わなかったが、なんというか憎たらしい笑顔をしていたので構われる前に去ることにした。
- - - - -
翌日。
連なった窓ガラスの向こうに、相変わらずの晴天が続いていた。
近くの林でわめいてるらしい蝉の声で目を覚ましたが、寝起きの気分は悪くない。
パン、ベーコンエッグ、あとはサラダにコーヒーと軽い朝食を済ませる。食後にロビーで新聞などに目を通したあたりで、今日の予定にまで頭が回り始めた。
「どっか行こうかとも思ったが、正直なところ目ぼしい名所は無いんだよな」
「でも部屋にこもってるのも損してる感じじゃない? すぐそこの通りにいろいろお店出てるっぽいし、見て回ろうよー」
「んー……じゃあ午前中はそうするか。でも暑くてバテそうだと思ったら帰るぞ」
と、そこで近くに居た人物に声を掛ける。
「ということなんですが、川藤さん。自由に出歩いてもいいですかね」
「あー? あー、まあ、いいんじゃねえか? 迷わない程度に遊んでくりゃいい。俺も車は出せんし」
「なんです、まだ酔ってるんですか」
「酒盛りが終わったのは今朝の5時だしなー。ちびちび飲んでたらもう朝になってたっつーの? てーかよお、こーんな飲めるとは思わなかったぜえホントによおー」
がっはっは、と掴みがたいテンションで笑う川藤にあきれながら、ひとまず部屋へと戻る。
しばらくしてから再びロビーに降りると、川藤は静かに腕を組んで黙考していた。……ように見えただけで、気持ち良さそうに寝息をたてている。
誰かがどうにかするだろうと思い、それ以上は関わるまいと素通りしホテルを出た。
風は無いし、湿度も高い。
それでもまだ早い時間だからか、耐えられないほどの暑さでもない。建物のつくる影に入って直射日光から身をかわしつつ、広く幅がとられた歩道を進む。先を歩いて辺りを見回していたメイが振り向いて、ホテルから貰ってきたパンフレットをこちらに向ける。
「ね、ここ行ってみない?」
「足湯? ああ温泉地だもんな、そういうのもあるか」
「あとここも行ってみたいな」
「ん? ええと、ガラス工芸と展示……地図は……まあ遠くないならいいか」
「うんうん、それからここのお寺の庭が……」
「待て待て、いっぺんに行けるわけじゃねえんだから。順番も考えろよ」
期待に輝く目がきょろきょろとせわしなく動いて定まらない。
こうまでメイのテンションが高いのはもちろん常にない旅行だからということもあるが、『午前中だから』という点もある。
ふだんの彼女は基本的に昼型で、正午をピークに少しずつ落ち着いていく。陽が落ちてしまうと静かなもので、じっくりと本に没頭しては読了しだい就寝に至る。続きもので大作の場合は夜更かしをすることもあるとはいえ、幼子や老人よりも早いうちに床についてしまう。
自分はまったくその逆といったところで、寝るのも深夜の3時ころが標準になってしまっている。どうもさほど睡眠時間を取らなくても平気な体質ではあるようだが、授業中や休み時間は大体まどろみつつ過ごす。
共に暮らすようになり日が経つにつれ、そういった相違がよく分かってきた。幸いなことに、それが互いにとってのブレーキになってくれている。
手綱を預け合って日常を過ごせることは心地良く思える――――少なくとも、自分にとっては。
「シンゴー、聞いてるー? 最初どこ行けばいいかな?」
「んん、ああ。とりあえずそうだな、足湯は最後だろうな。歩き疲れてからにしろ」
「ういうい。それもそうだねえ。じゃー距離的にまんじゅう屋さんからでいいかな?」
「おい、さっき候補に無かっただろそれ……まあいっか。行くぞ」
「はあい」
- - - - -
「ただいまー」
「家じゃねえけどな。ちょっと疲れたな、汗かいた」
あれも行こうこれも行こうという具合で午前のうちに回り切れず、昼食をとったのちも気楽に温泉街を探訪しつつ各スポットを堪能していった。やっと戻って来れた現在の時刻を確認すれば、すでに午後の5時を回っている。
メイに疲れた様子は微塵も見られず、例によって今の彼女は動きが少なく静かだ。
座布団に膝を折ってちょこんと座り、自分用のお土産だと言ってガラス工芸館で買った箸置きを明かりに透かせて眺めている。葉っぱの形をした、薄紅色の硝子細工。もっと洒落たものを買えばいいだろうとも思ったが、言わないでおいた。気になったからというだけで二十四面体ダイス(印字なし)をこっそり5色分も買った自分と比べたら、実用性がある分だけメイの方が幾分かましだろう。
「しおりでも売ってたら良かったのにな」
「んーガラスじゃちょっとねー、かさばっちゃうよ。危なっかしいし、そもそもしおり使わないしー」
「ああ、そうなのか……そういや見たこと無かったな。お前は一気に本読むしな……何でだ?」
「そだね、休憩をはさんで読んじゃうと印象が変わりそうだからかな、自分でも分かんないや」
うつぶせるような体勢に変わって、メイはころりと畳に転がる。テーブルを挟んで反対側に居るので、ちょうど死角になって見えなくなった。
「……っとー、そうだ。はい、これ。……えっとー、シンゴの分だから」
「うん? なんだ、袋?」
口が山折られた小さな紙袋を、腕だけ伸ばしてテーブルのはじに置いた。こちらからは遠かったので、身を乗り出して袋を引き寄せる。持ってみると軽いが、何かが入っているのは分かった。
「開けていいのか」
「うん」
小さな返事をもらって、その中身を取り出す。見覚えがあった。
いま彼女が手にしているそれと、まったく同じ形をしていたから当然だろう。
違うのは色合いだけ。薄い青が白みがかった、晴天の空の様な色の箸置きだった。
「俺にか」
「うん」
「そうか……うん。ありがとな」
「ん」
彼女の顔は見えない。返事だけが少しずつ、短く小さくなっていった。
「……んー、そうだな。貰ったら返さないとな。メイ、好きな色ってあるか」
「色? ……えっとぉ……オレンジ。橙色が好き、かな……」
「そっか、ちょうど良かった」
“五色”のうちに、それは含まれていた。白、赤、青、緑……黒にしようかと思ってやめたもう一色、橙のダイスを手に取る。いま寄越された袋に入れてさっきの位置に戻してやると、メイはなおも顔を上げないままぱっと掴んで手元に寄せた。
かさかさと袋を開く音のあと、爪に当たったのか小さくこつんと音が聞こえた。
「役に立つようなものじゃないけど。要らなかったら処分は任せる」
「……ううん、……きれいだよ、いい色。ありがとう、うれしい」
「そっか」
それっきり、しばらくずっと、何もせず過ごした。
広い部屋の中に午後の静寂が流れて、時間が落ちてゆく。
数時間もすれば夜が来る。
また霧に隠れるように一日は寝静まっていくのだろう。
その前に夕暮れを堪能できるのなら、今日はそれだけで満足に終えられる。
山が橙に染まり終わるまで、こうしていようと思った。
綺麗なものを、もっと見ていたかった。
- - - - -
<18> 水中火は霧の夜に /了
- - - - -