<18> 水中火は霧の夜に (中)
彼女たちとの距離は3メートルも無いが、疑念の深さの程は知れない。
「偶然ね、先輩方。まさか同じ宿に泊まっているなんて」
「あー、そうだな……驚いたよ。それで、何してるんだ?」
「ご存知ないかもしれないけど、御旗岳中学校恒例の勉強合宿よ。それで今は休憩時間、夕食を挟んで夜までは暇ね」
「そうなのか。まあゆっくり休んで勉強に励むと良い」
ごく自然な体を装いつつ、玄関方面に身を傾けて足を踏み出す。
――――だが、こちらに許されたのは左足での一歩だけであった。
全身の動きが、突如として止められた。
右足が浮いたままでバランスが取れない体勢になったのだが、なぜか倒れることは無い。
まるで見えない力に支えられているように、誰かの意思が働いているように。
「怪しいわよ、そんな急ぎ足で。何か外せない御用事でも?」
「っぐ…………これと言って無いが、せめて二歩目に進ませてくれ」
「二の足ならその場で踏めばいいじゃない。……会うたび何度も逃げないでほしいものだわ、まったく」
憮然とした顔を隠しもしないユリノは、以前と違って“水”を手にしてはいない。
その能力『ウォーター』の使用に必要な媒体もなしに、何故こちらの動きを止められるのだろう。
「だいたい聞くだけ聞いて退参なんて、ずいぶん虫が良すぎるんじゃないかしら?」
「別にやましい事は無いんだがな……」
「まあいいわ、話したくないんならそれでも。狩野先輩に聞けばいいのだし」
くるりと彼女の体勢が変わって、視線と矛先はやわらかくもメイに向けられた。
「んー、私?」
「ええ。何故こちらに……我々のいるこのホテルにお二人が居るのでしょうか」
「……桐代さんもいるんですよね、たぶん。看板が掛かってましたし……」
つぎ足すように、湊が横から小さくつぶやく。確かにありふれた名字でもないし、入口のアレを見た時点でひっかかりを感じた奴は他にもいるかもしれない。
「そだねー。答えても良いと思うんだけど、シンゴが言いたくなさそうだし」
「俺は構わねえよ別に。ただ説明が面倒なだけだ」
「そう? じゃあ言っちゃうと、関係者一同の休暇で来てるんだー」
「本当に……? 同じ場所に来ておいて、ですか?」
「ありゃ、私と同じこと言ってるねえ。まあ何かあった時の為のバックアップって面もあるみたいだね。私たちは末端だから深くは知らないんだ、ごめんねー」
「…………わかりました。いずれ立会人の方々にも会うでしょうから、その時にでも伺っておきましょう」
その言葉と同時に、拘束が解かれた。全身の戒めが一息に消えたわけではなく、傾いた姿勢が元の位置に引き戻されてから力がすっと消えた。
「ありがとよ。でも能力は使うなよ、そういうのが不安で来てるんだしな」
「他人に危害は加えないわよ。一般人に向けて使ったことは無いし」
「そういう問題じゃなくて……ところで、『水』は?」
「向こうに池があるじゃない。この程度の拘束ならアレで事足りるわ」
屋外に面している窓ガラスの向こうに、小さく澄んだ池が見える。ユリノは口には出さないが、手元に水がなくとも十分な水量があれば『ウォーター』は行使できるらしい。
「でも、その、ユリノ先輩。今日は勉強合宿で来てるんだし、能力は止めた方が……痕跡も残りますし」
「あ?」
「う、うう……いえ、すみません……」
「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなくて……言うとおりよね、大人げなかったわ」
「あっ、はい……」
ほっとした表情に変わって、湊は小さくうなずいた。
「まーそうよね、使ったら残るわよねえ。かなり鈍くて疎い私でさえ気付けたんだから」
「ひあっ!?」
予期せぬ方向からの急な声に、再び湊は不安な顔を取り戻してしまう。
もっとも我々としては正面方向なので先ほどから気付いていたが、『彼女』が口元に指を当てたままそろりと接近していたのだ。先ほどの戒めに対する意趣返しでもないが、ユリノを驚かせるのは面白そうだったのでそれに従ったまでである。
とはいえ様子を見るに、ユリノは早い段階で気付いていたらしい。結果として表れたのは、見慣れた湊の驚き顔のみであった。
「ひっ、あ、あれ? え、えっと……美濃川さん、先輩……?」
「そうよー、美濃川さんセンパイだね。ちゃんと会うのは初めてだけどね、名前知っててくれたってのは嬉しいかな、はは」
「ずいぶん悪趣味じゃないの、レイハ。年下をおびえさせて楽しい?」
「ユっちゃんこそ、能力使ってこのコをしばいてたんじゃないの? 心配で駆けつけたのよー、私は」
「何よそれ、人聞きの悪い事を言うのはやめてよ。……まったく、面倒なのが来たわね」
ユリノと同じ中学3年生の美濃川玲葉は、ご機嫌な様子で絡んできた。
ほか2人とは違って浴衣は着ていない。上は黒い無地のTシャツで下は学校のジャージというだいぶ油断したような格好だが、特に気にしたような様子は無い。
「美濃川もいたか。まあお前らは今年受験だもんな、出ておいて損は無いか」
「そうですねえ、厳しいって言うから気合入れてきたんですけど。今年は何だかずいぶん楽な感じなんでこの通り緩んじゃってます」
「勉強合宿に変わりは無いでしょう。機会を活かせるかは本人の意思次第なのだから、だらけているのも自分の責任じゃなくて?」
「ユっちゃんがそれ言うのー? 自習時間になったとたん真っ先に湊ちゃん連れてお風呂行ったくせにー」
「……な……!? 何でそんなこと、い、いいでしょ別に! 疲れてたのよ! 悪い!?」
「いや全然? まあ自分の責任ってやつだよね、あはは」
「くっ……もういいわ。部屋に戻る! さよならっ!」
ユリノは答えに窮したようで、顔をしかめて足早に歩み去っていった。
「え、えっと。すみません、私も……。ユリノ先輩、別に怒ってないと思うので……」
「ああ、わかった。わかってるよ。あのままでもなんだし、行ってやれ」
湊は背を丸めて一礼すると、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら後を追って行った。
「やー、だいぶ仲良くなったねえ、あの二人。相性悪いかもって思ってたけど」
「性格とか趣味は真逆な方が付き合いやすいのかもな。津島と葉村とか、井房野とお前……美濃川みたいなもんか」
「そうですかあ? 割と似た者同士っていうか同レベルって感じですよ。ところで」
「ところで?」
「先輩たちは、どうしてここにいるんですか?」
……もしかしてこの旅行中は、中学生諸君に会うたびに説明しなくてはならないのか。
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「やあ」
「おう、一日ぶり。っていうか、昨日のうちに旅行の事を教えてくれてりゃ良かったろうに」
「何ダ、サプライズは嫌いダッタか?」
「すぐ終わる事ならともかく、2泊3日となればそれなりの準備はいるだろう」
「他の関係者同様に身軽だろうから来るとは思っていたよ」
「まあねー、実際来ちゃったわけだしねえ」
並べられた山海の幸に目を引かれつつ、テーブルの向かいに座る星倉とデイジーに挨拶をする。
ロビーで美濃川を適当にいなしてから、一時間も経たぬうちに夕を過ぎ会食の時間と相成った。あるいは大広間で宴会かとも思ったが、そこまでの人数が集まっているわけではないらしい。普段はレストランであるらしい夕食会場は天井が高く、エメラルドに似た薄緑色に輝くシャンデリアが目に付いた。中学生たちとは別会場らしく、あるいは大広間がそちらに割り当てられているのかもしれない。
趣きを凝らした和食に加えて洋食中心のバイキングが用意されており、豪勢ではあるが節操なくも思える。子供を連れたファミリーや若年層には喜ばれるだろうし、なんにせよ食べたい物を選べるのは有り難い。
「乾杯の音頭なんかは?」
「晩餐は7時からというだけで集合の義務もないからね」
「じゃー食べてよっか。向こうはもうできあがってるみたいだし」
ふいとメイが目を向けた先を、星倉たちもつられるように揃って見やった。
赤ら顔の川藤が、真崎に向かってべらべらと喋り続けている。周りの迷惑と言うほどの声量でもないが、その様子が普段よりも数倍だらしないのは確かだ。聞き手をつとめる真崎の方は涼しげな顔で杯をちびちびとあおっており、時おり短く相槌を打ったりはしていた。
「まあ、うん。あれは放っておこうか。んじゃ、いただきます」
「うん、いただきまーす」「いただきます」「頂クか」
それから談笑しつつ、あれこれと箸をつけた。刺身に天ぷら、すき焼き鍋とオーソドックスなメニューだがどれも悪くない。劇的な美味しさとまでは言わないが外れがなく、味わい深くて飽きが来ない。普段は煮物など食べもしないのだが、不思議な甘みが染み出してくるようで思わず唸るほどであった。
食事が心地よい潤滑さで進んで一通りを堪能したころ、入り口に複数の人影が現れた。
あるいは一般客かとも思ったが、やってきたその青年は目を細めて、こちらではないテーブルに向かって声を掛ける。
「真崎。飲んでるようだね。楽しい気分だとやっぱり美味しい?」
「小津(おづ)か。しばらく会わなかったが。健在だったか」
「今さら大きく損なうほど健常でもないけど、変わりはないよ。君も久しいけど君のままだね」
「まあ、な」
真崎の口調が柔らかく思えるのは、やはり酒のせいなのだろうか。
親しげにしているその青年に、あいにく見覚えはない。小柄かつ細身で手足がすらっとしており、所作や眼差しから明晰そうな印象は受ける。
さらにその後ろから、なぜかリュックを右肩に担いだパーマがかったボサボサ頭の男も現れた。小津とやら同様に見覚えはないが、いかにも偏屈で気難しそうな……なんとなく抱いている典型的な立会人のイメージそのものである。
「……桐代は散歩してから食いに来るってよ。一応は伝言しといてやる」
「そうか。知った事ではないがな」
「おや、真崎もやっと慣れたみたいだね。彼はとことんまで奔放だからね、大変だろう?」
「別に、どうもしない。……構うとつけ上がるからな」
それを聞いて、にっこりと小津は笑った。てらいのない爽やかな顔で、傍で見ているこちらの気持ちも晴れやかになるほどだった。
「……あの人も立会人なのか。ある意味で奇特な感はあるが、まともな人と見ていいのかね」
「小津さんとはあたしも数度しか会ったことがないので特に詳しくもないしコメントは出来ない」
「ワタシはアマリ得意じゃナイな。どうイウ奴かは知れ切ってイルし、面白味が無イ。だからツマらん」
バイキング用らしい空の皿を片手に、ぴょいとデイジーが椅子から降りて歩き出した。途中で彼らのテーブルの横を通ったが、小津が挙げた手に対して見向きさえしなかったようだ。
「……ああ言うってことはひょっとして、デイジーちゃんってけっこう古株なの?」
「少なくともあたしよりはそうだね」
「立会人ではないんだろう?」
「能力水準は私よりも遥かに上だから時間が許せば立会人も務まるだろうけどね」
まったくもって、人は見かけによらない。
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「ごちそうさま」
「ゴチソウさま。イイ飯だっタナ」
「ごちそうさまー。うあー……食べ過ぎたかも」
「俺もだ……あれもこれもと食うんじゃなかったな……」
片っ端からバイキングテーブルを漁っていた結果として、腹がやや苦しい。
どこの国かもわからないマニアックな料理に好奇心をそそられたのが原因だったか。とはいえ味は申し分なく新感覚・新食感・新食材のオンパレードで、和食に劣らず飽きは来なかった。後で聞いた話だが、半分以上が創作料理だったという。
「ちょっと腹ごなしにそのへん歩いてくるか……キー預けとくから先戻ってていいぞ」
「うーい……でも私もしばらく動けないかもだけど……」
言うほど辛そうでもなかったが、メイも無理はしないだろう。キーを手渡すと、ひらひらと手を振ってから大げさに椅子に沈みこんだ。
手洗いついでにトイレへと寄ってから、もたれる腹を気にしつつもロビーまで再び降りる。
客の姿はなく、冷えた静かな空気の中に照明が灯っていた。
フロントの近くまで歩いて行くと、年かさの男性従業員がにこりとスマイルを見せた。小さく頭を下げてから、手近なところにあったパンフレットをおもむろに手に取ってみる。主にはレジャー施設の案内のようだが、勧められている遊園地や水族館に動物園といったスポットはここから足を延ばすには地理的に大分遠い。
静けさに耐えかねたわけでもなく、フロントマンの人当たりの良さそうな顔についなんとなく話しかける。
「このあたりって、若い子はあんまり来ないんですかね」
言ってみてから、自分も若輩の分際で失礼な事を聞いたかとは思ったが今さらである。
「そうですね、お子様連れのご家族などの場合には不都合かもしれません。松杜見の近隣ですとスキー場はすぐ傍にございますが……この季節では退屈してしまうかもしれませんね」
「んー、自然は豊かでいい所だと思いますけどね。景勝地なんかも多いでしょう」
「ええ、数多くございます。この地域の魅力といえば景色と温泉ですから。筒野木山に桜間高原、尾岐川の水源に浜ヶ島湖……ああ、それとすぐ近くに“松の小滝”もございますね」
「滝?」
「はい、徒歩にして5分ほどのところにございます。ちょうど霧の出るこの時期この時間帯がまさしく見所でして……そういえばつい先ほど、カメラを持って『お連れ様』が出て行かれましたね」
メイがなぜ、と思ったがそういえば連れは他にも二人程いた。
夕食に桐代が現れなかったのはそのためだったのだろうか。
「……へえ。もう暗いですけど、足下とか危なくないものなんですか?」
「ええ、滝までの道は数年ほど前に整備がされましたから。通り道に照明を備えてありますのではっきりと足元の様子が分かります」
「そうですか……そこまで聞いたら気になってきたな、行ってみようか。方向としてはどちらです?」
「ここからですと向こうの山側ですね、入口を出て左手に進んでいきますと白い看板がありますのでそこを……」
丁寧な説明をしながら、その従業員はカウンターの陰から懐中電灯を取り出した。用意がいいとは思ったが、見に行く客は多いという事なのだろう。
「どうも。お借りします」
「どうぞお気をつけて、行ってらっしゃいませ」
自動ドアが開くと、夜に残る熱気が心地よい程度の温度差をもたらした。
小さな温泉街の通りは思ったより明るく、その色合いは全体的に赤い。特に目につくのは点々と並ぶ居酒屋の提灯の色だが、十字路まで続く街灯の明かりもなぜか赤みを帯びて見えた。道の先は霧がかかったように――――いや実際に霧が満ちていて、視界は良くなかった。
この濃霧で色味が変わって見えるのだろうか。原理は分からないが、べつだん理解したいわけでもない。ゆるい傾斜になった山側の霧はそれほど濃くはないので、ともかく目的とする滝へと向かってみる。
いちおう懐中電灯が点くことを確かめてから坂を登り始める。
自宅周辺をとりまく坂に比べたら、この程度は傾いているうちに入らない。腹具合もこなれてきたところであり、苦もなく進んでいくと言われたとおりの白い看板があった。簡素だが目立つ位置に立っていたそれには、水色の文字で『松杜見滝』と記されていた。
(なるほど、これなら迷いもしないか)
林を分け入るアスファルトの両端に等間隔で照明が置かれ、黒い地面がはっきりと見える。虫は集まっていないかと霧に目を凝らしてみたが、せいぜい一匹二匹といったところであり気にはならない。作られた環境ではあるが、木々で暗く閉じた空と霧がかった朧な光源に言いようのない幽玄さを覚えた。
目的の滝が近いのか、進むほどに空気はいよいよ澄んでゆく。
――――不意に、光が弾けた。
一瞬の事で、やってきた方向は分からなかった。カメラのフラッシュかとも思ったが色合いが異様すぎる。瞼裏の残像は、鮮烈な紫色を記憶していた。
木に隠れて滝の一部が見える。歩道は階段状に続きがあり、辿ればすぐに根元近くまで行けるのだろう。
光の正体を確かめたものか一歩分だけ止まって迷ったが……自らの好奇心の強さに動かされた。せめて慎重に、足音は隠さずとも一歩ずつを踏みしめて前へと進む。
(……ん、あれ? 『光の正体』……前にもそんなことがあった気が……)
光が、再度弾けた。
それはさっきよりも激しく、だが――――色が違う。
緑色の輝き。
ちょっと前に屋内で似た色を見たが、計算された光の反射とは違う。
自然界に沿うように仄かな色彩を持つシャンデリアの記憶は、ひとつ月をさかのぼる頃のことだ。
“何か”が弾けたためか、風が生まれ流れて空気が揺らぐ。
地の際に生い茂る草花はせわしなくお辞儀をさせられる。
気がつけば滝の根元まで来ていた。
喚起されていった記憶が、霧が晴れるように開けて姿を見せた。
「……? ……あら、まあ……? …………ふふ、奇遇なものです。御無沙汰をしておりましたね」
「……どうにも人騒がせだな。いつもそうなのか?」
御旗岳中学3年E組、D-29『トゥインクル』。
上幌坂篠(かみほろざかしの)とは初対面の梅雨時以来だが、その露の様にうるおった微笑みに変わりは無かった。