<18> 水中火は霧の夜に (前)
なんとなく予想は出来ていたので、むしろ遅くさえ思えた。
リビングに掛けられた時計の短針は、頂点を過ぎて下がり始める頃合だった。
「準備できたかー。行くぞォー、打川」
「いきなり何です、どこにですか。今日は訓練ありませんよね?」
「うん。ない。だから行くんじゃないかァ、さあさあ準備したまえ」
ものすごい笑顔である。チャイムすら鳴らさず突然やってきた桐代はいつにも増して上機嫌なようだが、あまりいい予感はしない。もっとも不機嫌でも、すわ天変地異の前触れかと恐れを抱くだろうから困るのだが。早い話、存在自体が厄介である。
「わかりません。説明してくださいよ、せめてどこに行くかだけでも」
「んー、何だよノリが悪い。そうだなァ……じゃあヒントその1、温度が高い」
「夏ですからね」
「そうじゃないけど、ま、そうでもあるね。ヒントその2、わりと近場」
「ざっくり過ぎて絞れませんって。桐代さんは国内を近場とか言いそうですし」
「ふむ、まァパスポート要らない圏内は気安いから近場かもね。なかなか面白い解釈じゃないの」
「いいからさっさと答え言ってください、もしくは帰ってください」
「冷たいねェ、じゃあしゃあないな、大ヒントだ。今現在、訓練生のほとんどはそこに行ってる」
「……はあ。やっぱり“それ”ですか」
出来れば冬に行きたいところだが、今日の陽はやわらかく風も心地良く通る絶好の行楽日和だ。
何が起こるかは置いといて、心の躍る誘いには違いあるまい。今回はまあ、甘んじて受けるとしよう。
「あっはっは、わかってんじゃないかァ。じゃあ行くとしようか――――」
桐代は突然、ビシッと空中を指差した。それはこの場にある物を示しているのではない。人差し指の延長線上、直線方向にある場所をターゲッティングしたのだろう。
彼は、他人の家の玄関先で何はばかることなく高らかに宣言した。
ただ純粋に、愉快そうに。
「2泊3日のッ! 温泉旅行にッ!」
- - - - -
国道の十字路から左に曲がり、車は山中へと進んでゆく。
左折はこの一回きり。自宅から現地までは一本道で、迷う方がよっぽど難しい。
いつもの車を川藤が運転し、助手席では桐代が靴を脱いで寛いでいる。
そして後部座席の左右に座ったメイと俺は、尽きぬ雑談に興じていた。時おり桐代たちに口を挟まれたり、逆に話を振ったりしているうちに1時間ほどが経過していた。
「この分だと到着は3時前後ってとこですか」
「山道で速度出る車じゃないからなあ、もう少し遅れっかもな。まさか渋滞って事も無いから、日が暮れないうちには着くさ」
「安全運転過ぎじゃァないかい、川藤。そもそもこの車さァ、こんなスポーツタイプの外見で小回り重視ってどんな意外性だよ」
「中古車だからなあ、俺に言われても正直困る。気に入った色とデザインのがコレだけだったんだ」
「へー、お古なんだー。でも手入れはちゃんとしてるみたいだね?」
「まあな。性分でな」
川藤はそう几帳面な人間にも思えないが、礼儀や義理を重んじる所は確かにある。普段はくたびれたおっさん予備軍という風体だが、仕事関係では真面目な人間で通っているのかもしれない。もっとも、その職種はいまだ知らない。
「そういえば、急に準備して出てきちゃったけど……今日ってどういう名目で連れてかれてるの?」
「立会人および関係者の集まりだな。要は懇親会だわな、社員旅行とも言うか」
「それだけ? わざわざ場所合わせといてー?」
「ハハ、まあ隠す事も無いよォ川藤。確かにわざわざ松杜見(まつとみ)温泉に向かってるのはそう言う理由だよ。一応、集まってる訓練生の監視目的もあるさ」
「やっぱりですか。宿代を払ってもらう手前、文句は言いませんけどね」
今更言うまでも無いが、目的の場所は勉強合宿と同じ温泉地である。昨日猪吹が言ってた通り、訓練生の多くもそこで勉強に励んでいるはずだ。息のつまるような沈黙の中、ただひたすら用意されたプリントや問題集に取り組む苦行のような合宿――――なのだが、悪名の高さゆえの怖いもの見たさからか参加者は割と多い。ただし、リピーターは一人も居ない。
基本的に任意参加だが、成績の悪い生徒はほぼ強制で参加させられることになる。その場合は参加費を大分まけてもらえるので、親御さんの方がノシをつけて我が子を送り込んでくるくらいだ。実際この合宿のお陰で全体の学力は底上げされているらしく、中止になる様子も無い。
そんな風に学習に取り組む中学生たちを尻目に温泉でくつろぐ……というのも少し気は引けるが、行く分には楽しんでおかなくては損だろう。少なくとも自分以外の3人は、見るからにその気のようだ。
「良い景色だねー、あの谷みたいな場所は川かな? ほらあれ、光って見える」
山道は狭くはあるがうねるような道はなく傾斜も緩く、周囲に広がる緑の山景をゆっくりと鑑賞できる。暑気ゆえに窓は開けがたいものの、メイがウインドウに張り付くようにそちらに興味を示していた。
「秋になったら、もっと綺麗なんだろうなあ」
「紅葉か? それ系の名所って言うと山一つ向こう、峠を越えた隣県だがな」
「ふうん。見た事あるの、カワさん」
「ああ、数年前……暇してた頃にな。いい所だが、シーズンにはちょいと混み合うのが難点かね……お、そろそろだな」
「え。早いですね」
気付けばもう、温泉街のかかりまで来ていた。華やかなオレンジ色で「歓迎」と書かれているアーチをくぐると、両脇に土産物屋や饅頭屋、食事処などといったいかにも観光客を意識した店が立ち並ぶ。アクセスはお世辞にも良いとは言えないどんづまりの地域だが、夏冬の観光スポットに近い事もあってか、ここ松杜見温泉郷の景気は良好なように思える。
「この辺も見て歩きたいですけど、ホテルは中学生御一行と同じ所なんですよね? 山中からだと降りてくるのが面倒ですね」
合宿で泊まる保養施設はもっと奥まった山の上にあり、景色は良いが距離と時間がかかってしまう。
「いや、すぐ近くだが? ほら、そこの十字路を曲がった先の通りだ」
「ええ? 場所が変わったんですか?」
ここにきて意外な変更点を知らされる事となったが、近くなったのは良い事だろう。料理や温泉がその分グレードダウンしていなければいいのだが……などと思っていると、車は迷いなくある敷地に入り込んでいった。
「あれ、間違えたんですか川藤さん。ここじゃないでしょ」
「何言ってんだ、ここだよ。俺も泊まるのは初めてだけどな」
「……マジですか。宿泊料、本当に払ってくれるんですよね……?」
「疑り深いなあ、打川はァ。日ごろの苦労へのねぎらいだと思ってくれよォ」
そう言われても半ば信じられず、ただその立派な建造物を見上げるしかなかった。ざっと見ても10階以上はあるホテルで、行き届いた庭園が敷地に広がっている。灯篭を模した照明が石道に沿って仄かに輝き、別館らしい純和風の離れに向かって伸びていた。
「ここら一帯じゃ一番高いとこらしいな」
「高いって、どっちがです。建物の高さと料金と」
「どっちも。お偉いさんも良く泊まるって話は聞いたなァ」
車は駐車場の端に無造作に停められた。ともかく降りてみると、すぐにホテルマンらしき従業員が3人がやってきて、恭しく礼をする。
「よォ、お疲れさん。荷物頼むね、運んどいて」
桐代はぞんざいに返礼をしながらそう言って、勝手に入口に向かって歩いていった。気にせず川藤がトランクを開き、いつのまにか用意された二台のカートに荷物を振り分けていく。
「これは俺らの部屋、こっちはこいつらの部屋にお願いします」
「かしこまりました」
答えた従業員たちが静かに台車を押し、残った一人が案内をする。
導かれるままについていくと、すぐに正面玄関に至った。背の高く茂りのいい濃緑色の植木に並んで、来客者を示すお決まりの看板に名前が掛かっている。
『御旗岳中学校御一行様』と記された横に、『桐代興業御一行様』とあった。
「……いつの間に会社を設立したんですか」
「はは、まあいつもの冗談だろうけどよ。でもこうしとけば何者かと怪しまれなくて済むんじゃないか?」
「あの人が社長じゃ早々に破産ですよ。だいたい仮想にしても何をする会社なんですか」
「そりゃお前、開発だよ。何をと聞かれたらアレだが、適当にごまかしとけ。精密部品とかでいいか」
「扱いには気をつけてるつもりだよー? みんないい子だし」
あれこれと話しつつロビーに入ると、先に行ったはずの桐代が歩み寄ってきた。
「何だい、ゆっくりしてるねェ君ら。チェックインは済んだから、以降夕食までは自由にしてなよ。はいこれ、部屋の鍵」
「っと、それはどうも。ずいぶん手続きが早いですね?」
「話はついてるからね。お高いところほどスムーズなもんだよ。んじゃ、またね」
何食わぬ顔でエレベーターに向かう桐代を、ワンテンポ遅れて川藤と荷物番が追っていった。残された我々はとりあえず、投げ渡されたキーを確認した後、もう一つのエレベーターへと進むのみであった。
- - - - -
「わぁー……! すごいねー、高い高い。どっちを見ても緑色だけど、向こうの山は青くて綺麗」
「あちらは筒野木山(つつのきやま)でございます。最大標高は2502mと高い山ですが、地形と気候の影響で木々が少ないためか、あのように独特の青色をつくります。殊にあのように真っ青に染まって見えるのは、この時期のこちら、松杜見の方角からのみと言われております」
「へえー! いいなあ、いいねえ、いい部屋いただいちゃったね。キリさんに感謝しないと」
常になく興奮気味のメイが、着いた部屋で待っていた仲居さんと景色の話に花を咲かせている。客室としては最上階らしい11階の角部屋に通され、その立派な造作と細やかな意匠を目にして気後れは強まっていた。とはいえメイがこの上なく喜んでいるので、そういった後ろ向きな思いはだんだんと薄まってくれた。
「時期……と言うと、この光景は夏だけですか?」
「そうですねえ、秋の入りになると筒野木の一帯は真っ白に霞んで見えなくなりますので。筒の御山(おやま)は隠れますが、霧を吹いたような朧気な紅葉はまた、ここ松杜見の秋の風物でもございます」
すらすらと淀みない受け答えを聞きながら三方を見れば、紅白のまだらに溶け合って染まる山々の景観が幻視されるようであった。
荷物を持ってきてくれた従業員と揃って深く礼をしてから、しずしずと仲居さんは退室して行った。
「……あ、心付けとか渡せば良かったか。いや逆に失礼なのかね、どうだろ」
「チップ? さっきあげようと思ったんだけど、やんわりと断られちゃったよ」
「行き届いてんなあ。こっちが申し訳ないくらいなのに」
「老舗って感じだしねえ、気にしないのが良いのかもね。気兼ねなくゆっくりすればいいんじゃない? はいこれ、お茶いれたよ」
「おう、サンキュ……何だこれ、随分うまいな。茶葉からして違うのかね」
上質の潤いを啜りつつ、座布団の上に腰を落ち着ける。曲線をなす背もたれに寄りかかると、今更ながら空間の静けさを感じ取れた。
「いいねえ……家でのくつろぎとはまた違うっていうか、心身ともにリフレッシュできそうっていうか。普段は良くも悪くも喧騒まみれってな具合だからなあ。考えてみれば旅行なんて本当に久々だし、高校に入ってからは色々と煩雑だったからなー……。ともかく来れて良かったと思うよ、一人じゃなんやかんやと考え込んでしまいそうだから、まあ、お前にもわりと感謝して…………」
「ねえねえ、ほらこれ! 見てよ、屋上に展望露天風呂があるんだって! しかもジャグジーとか滝風呂とかサウナとかいっぱいあるよ!」
「いや聞けよ」
「えっ、なに? もうお風呂行くの? ほんと? わーどうしよっかなー、あっははー」
どうも耳に入ってなかったらしい。普段の落ち着きようが嘘かと思えるくらいのはしゃぎっぷりである。
思うにメイは、熱しにくく冷めにくい性質のように思える。この場合で言うと、リミッターを超えて上がったテンションが戻ってこない状態にあるようだ。
……面白いから、とりあえずは放っておこう。
適当に相手をしてなだめつつ、観光パンフレットやホテルの案内図を見ながら茶を飲んでのんびりする。そわそわと部屋の中を歩き回っていたメイも、次第に我を取り戻し始めたようだ。様子が目に見えて落ち着いてきたころに時計を見上げると、時刻は午後五時を数分ほど回っていた。
「じゃーそろそろ行くか、のんびり浸かっても夕食には間に合うだろ」
「うん、行く行くー。一応持って来てたけど、バスタオルとかはあるみたいだね。あと浴衣も」
「ああそっか、それがあったか。温泉街の中であれば出歩いても良いそうだし、今日はもう浴衣で過ごしても良いかもなー」
なんだかんだ言いつつ自分も浮かれ気味でありながら、その状態を心地よく受け入れていた。
- - - - -
いい湯だった。
- - - - -
――――月並みな感想で済ませたとはいえ、実際それ以上の感慨もない。
もう少し年をとれば温度以上に染み入ってくるものがあるのかもしれないが。
不足ない設備の各種浴場と風情ある造園の露天風呂が2つの売りらしく、どちらも印象は非常に良かった。なにより他の客が数人しかおらず、空いていたので満喫できた。タイミングとしては混んでてもおかしくなかったが、そもそも現在の宿泊者のほとんどが中学生なのだろうから当然ではある。
ああ、一切何かしらを期待したわけではないが。露天は混浴ではなかったし、そもそも男女で場所が離れていたということも念のため付け加えておこう。えてして、そのようなものである。
ここは地上12階。エレベーター前の展望ホールで熱気を落ち着けながら、はるかに見ゆる県境の方向などに思いを馳せる。
橙の陽は静かに山並を縁取るように落ちてゆき、夕方がつつがなく進行していく。
「おまたせー、シンゴ。なに飲んでるのー?」
「フルーツ牛乳。早かったな、メイ」
湯から上がりたての彼女が姿を現すと、しっとりと湿った熱を感じ取れた。水気に満ちた髪がゆるく波打って先でまとまり、普段と違う見た目が新鮮に感じられた。間からのぞく健康的な白肌に思わず目を逸らし、一息のあとに会話に戻る。
「……なんていうか、意外と早かったな。もうちょいかかるかと思ったが」
「まー明日もあるんだし、でもとりあえず一通り堪能してきたよ。分かれて落ちてくる滝風呂が一番インパクトあったかなー? 次点で面白かったのはサウナかな」
露天風呂が挙がらないあたりは、なんとなく彼女らしい。
それから自販機でパックジュースを買い、黙って飲んでいたと思ったらすぐにゾゾゾと空になった音がした。よほど喉が渇いていたのか、「ぷはあ」と気持ち良さそうにストローから口を離した。
「さってー、どうしよっかー? 部屋戻る? キリさんとこにでも遊びに行く?」
「あの人らはなんかすでに酒盛りしてそうだしなあ、風呂でも見なかったし……。あとは館内で行くとなると1階のロビーぐらいか」
「そだね、さっきは見る暇無かったし。お土産コーナーとか見たいかも」
「買うとしても帰りだろうけどな。例によってひやかすだけになりそうだ」
晩までの時間つぶしになればよかろうと、話しつつエレベーターに乗り込んだ。
途中階での停止も無くエレベーターがまっすぐ1階で止まり、扉が開いたのでロビーへと踏み出して、見回しながらも土産品の方へ――――
――――と。
その時点になるまですっかり忘れていた。
いや当然分かってはいたが、ここまで一切気配すらなく会うこともなかったので、ただ知る人の無い遠い地へ来たという感覚しかなかったとでもいうか。
そう、“連中”のことはすっかり意識の外だったのだ。
「……あら……? 気のせいかあちら、打川先輩と狩野先輩に見えるけれど」
「え、あっ。ホントですね……あれ。って、何で……?」
さて、先ほど想定した一般人への対応はともかくとして。
ここに我々がいることを、“こいつら”にはどう説明すればよいのだろうか。
C-14とC-15、馳由梨乃(はせゆりの)と湊春夏(みなとはるか)。
御旗岳の訓練生である二人は揃いの浴衣を纏っており、しかし同じ浴衣を着たこちらを不審そうに見ていた。