<14> 二つに一つの生き物 (後)
終端に達したエスカレーターから離れて、そのままフロアを歩き始めた。
「……暑いな。どこも快適というわけにはいかないか」
今要る通路は屋内ではあるが、頭上は階段の他が吹き抜けになっていて上階に人の行き交いが見える。外よりはもちろん快適なのだが、先ほどまで冷蔵設備の整った食料品コーナーを歩いていたせいだろうか、若干の暑ささえ浮き彫りになって感じられた。
「多々史は……」
それとなく聞こうと思っていた話題に、機先を制するように葉村が触れる。
「……別に、多々史は悪くないんです」
「?」
「こっちが、勝手にムシャクシャしてるだけで」
「んん……何でだ? 察するに、何かあったのか」
「あ……言ってなかったか。そうですね。……映画、今日。あいつ、来るはずだったんだけど」
なるほど、葉村が常にない様子でいたのは、つまり約束をすっぽかされたからだろうか。
「忘れたってわけじゃないんだろ? 事情があってのことか?」
「お母さんが怪我したみたいで。捻挫ってぐらいで、骨折はしてないし重くはないって聞いた。でもとにかく、ついていなくちゃ、って……」
「姉の方はどうしたんだ」
「家事の方を香利さんがやるって言ってました」
「へー……むしろそっちが大丈夫なのかね」
ふふっ、とそよぐように息を吹いて葉村が微笑む。
「まあ、香利さんが付き添ってても落ち着かないでしょうから……」
「だろうなあ。じっとしててもらうのが一番じゃないか」
「そう言ってその通りにしてもらえればいいんですけどね」
気を取り直した様子の葉村が、少し先を行くように歩調を上げる。向かった側は暗がりの階段で、ゲームセンターへは遠回りになる。
しかしながらそこにはひんやりとした空気が満ちており、心地よく停滞した涼しい空間を成していた。
「ああ、いいもんだなここは。知っててこっちに来たのか?」
「いえ。何というか……“こう”なってからは感覚で分かるんです。離れていても気温や湿度、人の気配なんかが大まかになら把握できるようで」
「面白い副産物だな。扇子の延長では終わらんか……っと、失礼な言い方だな」
「いや、気にしなくても。正直な物言いは有り難いですから。……ええと、その。気を使わせたならすみません、ともかく忘れてくれれば幸いです」
苦笑いを薄く浮かべながら、とさっと葉村が壁際の長椅子に腰かける。お互い口には出さないが、ゲーセン行きはひとまずお流れ、水も差されたしいったん休憩しようという気分であった。
「それに、副産物とは言ったけれど……そちらが本来の意義であるのかもしれませんから」
「ほう? するってえと、『風を起こす能力』じゃなくてか」
「ええ、いくらでも変化の余地はあるって話ですよね。立会人の皆さんが“能力名”と言わず、“通号”と聞き慣れない単語を使うのはそのためだと」
「そのあたりは川藤さんが何度か言っていたようだな……ところですまんが、お前の通号って何だったっけ」
「言ってなかったかもですね。『ブロウ』です」
「そのまま解釈するなら“風が吹く”という意味合いに取れるな」
「そう。けど考えてみれば、ただ風に関する能力というなら『ウインド』の方がよほど分かりやすい筈です」
「あくまで“吹く”ことが重要だということか」
「通号なんてものは便宜上の通称名でしかないから好きに考えろ…これは星倉さんからの受け売りですが、実際その通りだと思います」
「じゃあ言わなくても良いようなもんだろうけどな。名前とかクラスとか、番号で呼べばいいんじゃ?」
「きっと通号って言うのは、キーワードみたいなものだと思うんです。各人の適性に沿った一単語。我々の理解と感覚、ひらめきを助けるための……」
当の命名者である桐代がそこまで深く考えてるとも思えないが、“ひらめき”という言葉は残念ながら彼にはよく似合う。ふと思いついてその場で浮かんだ一語が、いち能力者の本質を端的に表している―――と、そこまでウマい話になっているなら結果オーライではあるだろう。
だがそのキーワードは逆に、広がるはずの想像力を封じ込める鍵でもあるはずだ。
川藤や星倉の考えや訓練はよく言って自由、悪くて放縦。桐代のそれはいい加減に見えて指向的で、何かしらの目論見を感じないでもない。
「先輩?」
「ん……ああすまん。ちょっと深く考えてた」
「そうですか。……実際、わかんないことだらけですね」
「あいにくその通り、だな」
「でも」
立ち上がって、大仰ながらしなやかに腕を回す。葉村の作った見えない軌跡をたどって、同じ方向に風が吹いた。
「なんたって、楽しいんです。関わらずには居られませんよ。……私も、皆も、無論のこと其方とて―――」
その手元にはいつのまにか、見慣れた小さな棒状の物体があった。
手首を返してばっと広げられたそれは、あざやかな青一色で染め抜かれて目に眩しいほどだった。
「是非か楽悲の分幕か、根の分かたるるは明快と見ゆ―――今日はこの辺で失礼しましょうか」
「……なあんだ。調子が戻ってきたじゃないか」
「それこそ幸か不幸か、って言いたそうですね。ま、沈んだままでも居られません、いずれ浮かぶは世の華です。しばらく一人で気を晴らしますよ、ではまた」
挙止閑雅といった様子で扇子を閉じながら、舞台袖にはけるように葉村は通路を曲がり姿を消していった。
「(まったく、とにもかくにも面倒な奴だ……楽しい奴ではあるけどな)」
そのうちまた、葉村の傍らに戻ってくるであろう多々史にお守りを任せるのが、どちらにとっても一番だろう。……そんなことを適当に結論付けると同時に、舞台脇に取り残されていた空きっ腹がぐうと鳴いて、我ながら可笑しかった。
昼の頃合いはまだ長く、夏の本領もぐったりするほどに遠い日だった。
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「……とまあ、映画は見れなかった」
「やーい、うっかりー」
「酷いもんだな。もっとこう、ねぎらいの言葉とかないのか」
「んー、だって勝手な徒労じゃん? ていうかそう言うならさあ、せっかく出かけたんだしお土産にアイスぐらいは買ってきてほしかったかなー、って」
「みやげなら今食ってるじゃねえか」
ちゅるちゅるとメイが啜っているのは、夏の風物詩には少し早いそうめんであった。帰りしなに裏手の家の前を通りがかった時にお裾分けでもらったものだし、厳密に言うと土産ではないのかもしれないが。
「これは遅い昼ごはん扱いってことでー。それで、落ち込んでたサツキちゃんがどうしたってー?」
「だからそこまで気落ちしてもいなかったって話で……え? 誰だサツキちゃんって」
「そりゃー、葉村さんとこの砂月ちゃんでしょう? 今まさにシンゴが話してた…」
何かしらの抗弁をするより早く、テーブルにおいていた携帯ががたがたと震えた。
着信元は折り良くというべきか、葉村の相方と言えよう津島多々史であった。
『どうも、突然すみません。津島多々史です』
「ああ、俺だが。どうかしたか?」
『来週以降の訓練なんですけど、日程をずらせないかと思ってまして』
「それで俺に? それなら立会人に直接……あー、捕まらなかったか。そうかもな」
『そういうわけです。また後で方々にかけ直すつもりですが、とりあえず連絡まで』
希望する日程を書き留めた後、この機にこちらの“懸案”も済ませるためにまず話を振る。
「理由としてはあれか、親御さんの怪我でか?」
『え、ああ、そうですけど……よくご存知ですね』
「昼にたまたま葉村と会ってな……で、ちょっと聞きたいんだが」
『聞きたい……って、何をですか?』
「いや、難しい話ではないんだが、その葉村の事でな……」
何というかほんとうに今更といった感じで、非常に聞きづらいことではある。もちろん当人に聞くのは失礼にも程があるだろうし。
『何を…………あ、もしかして』
「え、分かったのか。聞きたいこと」
『ええ。…………えーと、女ですよ。葉村砂月は女性です、まぎれもなく』
そう言われたとたん、難問が解けたような、つかえが下りたような。しかしわずかに落ち着かない感もある形容しがたい心地になった。
実を言えば、ずっと気になってはいたのだ。
葉村はいったい“どっち”なのだろうか、と。
髪はいつも短めに切られているし、くっきりと役者らしい顔立ちで中性的。着るものも男女どちらとも取れるような服装だし、言動も芝居がかっていて声も高低を使い分ける。あいにく制服姿も一度も見た事はなかった。
『本人は意図して中性的に振舞ってるようですし、それを楽しんでる節はありますね。気安いけど気を使うっていうか……まあ慣れましたけど』
淡々とまったく慣れたように、多々史はそんな事を変わらぬ声音で喋っていた。
それから半ばごまかすように連絡や世間話をして、頃合いのいいところで電話を切った。
「……いやあ……初めて知ったよ」
「鈍いねー、シンゴってば」
ざる一杯にあったはずのそうめんは、いつのまにか電話中にすべて平らげられていた。あろうことか、なみなみ注がれていた麺つゆすらまったく消え失せている。
「……おい、お前の食欲も鈍くなってないかこれ。晩の分もあったはずなんだが」
「んー、ほら、そろそろ夏だから……夏バテってやつじゃないかな」
気にした様子もなくメイは食器をまとめ、そのままキッチンへと去っていった。
メイが見た目よりもよっぽど“敏い”ことは知ってはいたが、これに関しては根拠どうこうではなく女の勘というやつかもしれない。
それほどに、葉村はうまい具合に二者択一を絞れなくしていたと思う。見抜けなかったのは自分の鈍さではあるだろうけれども、これでは騙し合いとなれば到底勝てないだろうと、そらおそろしくさえ感じた。
葉村という役者の手による隠された演目は、人知れず始まっていて。
そして人知れず、静かに幕を下ろしたのであった。
――――とりあえず今、ひとつだけは。
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<14> 二つに一つの生き物 /了
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