<10> 力の外覚、人の記憶 (前)
これといって科目に好き嫌いがない。
文系か理系かと聞かれたら前者寄りだとは思うが、数学や理科を苦手に思ったことはない。高校生活はまだ出だしだが、赤点や補習のお世話にもなっていない。ともかくそれなりに予習復習を繰り返して、平均点を取るぐらいはできる。
逆を言うなら、人並みに勉強しないことには危うい結果を取りかねない。
期末テストが来週に迫っている、初夏の放課後。
尾岐山高校4階の学習スペースに、ちらほらとテスト対策に励む姿が見られた。
廊下から仕切りなしに続く広めの空間に、6~8人ほどが囲んで座れるテーブルが5つほどある。円状にずらっと窓が並び、採光が良くて開放感があるのが特徴だ。
静けさを義務付けられる図書室と違い、ここはわりあい気楽に勉強が出来る。1-Cの教室もこの時期はどことなく空気がピリピリと張り詰めており、どうにもやりづらくて出てきた。
もちろん帰って勉強するという手もあるが、だらけてしまいそうだし電車時間もいまひとつ半端になる。気が向いた今に集中して取り組んでおくのがいいと判断した。
倫理の教科書をぱらぱらと黙読し、重要そうな点をノートに書きだしていく。ヤマには割と自信があるが、堅実に点を取れそうな重要単語はチェックしておこう。
「おーっす、打川じゃん。ここいい?」
「ああ、好きにしろ」
「んじゃ、失礼するねー」
話しかけてきたのは同じクラスの女子、新見千亜季(にいみちあき)だった。クラスでも男女の気兼ねなく積極的に話しかけてくるためムードメーカーの様な認識で通っており、副委員長も務めている。
文を書きこんでいる途中だったので、教科書を見たまま顔は上げずに返事だけした。
「ほらー、こっち来なって」
「うん……」
「ん? 他にもいたのか」
「そ、別に良いでしょ? そこ座っても」
新見は斜め前に座り、後からやってきたもう一人の女子が自分の正面に座った。
余裕を持って6人座れる場所である。逆側の隣も空いているのだから、そちらでも構わないというか……居づらくないのだろうか。
書いていた箇所に区切りがついたので、一度シャーペンを紙から離し指に挟める。
「倫理なんてやってんの? 数学とか不安じゃない?」
「焦って備えるより今やる気なのをやる、ってのがモットーでな」
「それだと好きな教科しか出来なくない? 点数偏るんじゃないの」
「いいだろ別に。総合点が平均より上なら俺はそれでいいんだ」
「あ、出来る奴のセリフだよそれえ。私は平均行くかも怪しいのに」
「それは普段からやらないからだろ」
「うっさーい」
新見は笑いながら、下敷きで顔をぱたぱたとあおぐ。赤いトートバッグから出したのはそれだけで、教科書も問題集も出す気配はない。何しに来たんだか、こいつは。
正面に居る子のほうは、テーブルに置いたバッグから静かにノートなどを選んで抜き取り、かたわらに積み重ねているようだった。入学からそろそろ3ヶ月になるが、雰囲気や所作はクラスで見た記憶がないように思える。もっとも全員の顔をちゃんと覚えてはいない。いたとしてもこういう静かなタイプは、騒がしいC組においてはいっそう埋没気味になる。
「チアキちゃんは、勉強しないの?」
か細い声だったが、声量が少ないだけで聞き取るのに不都合はない。
「んんー、まずはさあ。そっちからじゃないかな」
「え、そうかな……うん」
変な会話だ、と率直に思った。内容に具体的なところがなく、しかし二人の間では成立しているらしい。
少し気になって、そちらに顔を向けてみる。さっと見ただけだが、やはりクラスでは見たことのない顔のように思えた。
「新見」
「ん、なに」
「こっちの彼女、どちらさん?」
「……誰だと思う?」
「見当がつかないから聞いているんだが。うちのクラスじゃないよな」
「さー、どうかなー」
「何だおい、変だな今日は。じゃあ……」
顔を正面に据え直すと、彼女と目が合った。ひるむでもなく黒目の真ん中をじっと見つめると、一度驚くように顔を横向けたが、そろそろと目を合わせ直した。
初対面の人間に“こう”するのは母親譲りの癖であり、特に直す気もない。
変だとは思うが、こうすると会った人を忘れなくなるのだ。
「直接聞けばいいよな。……えーと、何組の子?」
「でぃ、Dです」
「へえ、隣だったんだ」
「はい……ええっと……」
「打川慎五。打川でいいよ」
「……その……知ってます」
「ああ、新見から聞いてたか」
「いえ、そうじゃなくて……」
もどかしげに彼女が続けて何かを話そうとするが、あいにく途中で打ち切られた。
「ようっ、打川」
「あん? 水戸川……に、草壁もか」
「やあ」
後ろからやってきたのは、同じクラスの男子、水戸川友博(みとがわともひろ)と、もう一人は別のクラスだが同じ中学にいた、草壁帆悟だった。
「勉強なら、混ぜてもらってもいいかな」
「ああ。けどお前、勉強する必要あるのか? あの成績で」
「はは、ひどいな。最近ちょっと忙しくてね、あまり復習が出来てないんだ」
「ほーらこれだぜこいつはあ。そんなこと言ってばっちり勉強はしてんだよ。なーんでこの学校に来たかねえ、陽ノ嶋とか一高に行けば良かったろ」
横から水戸川が顔をしかめつつ悪態をつくが、草壁は笑って流す。この二人は小学校からの縁らしく、はたから見たところは“悪友”という関係がしっくりくる。
隣に水戸川、その隣に草壁。二人が同じ並びに着席すると、今度は新見が口を開いた。
「草壁君って、あの成績トップの?」
「そーだよ、こいつが1位以外だったのは見たことねえや」
「ミトには聞いてないんだけど。ね、そうなの?」
「うん、中間テストは確かにそうだったよ。君はC組の新見さん、でいいのかな」
「えっ、知ってたの?」
「あ、いや。名札に書いてあるから……でも顔は知ってたよ」
「あはは、そう? まあよろしくねー」
「うん、よろしく」
草壁が屈託のない笑顔を見せると、新見もつられて笑った。挨拶が済んだところで、二人ともが勉強道具を取り出し始めた。水戸川はそういうつもりが無いというか、こいつはまず鞄を持って来てさえいない。
「あーそういやあ、F組の数学って、担当が……」
「そうだね、授業がなかなか面白くて……」
「ええー、でも苦手な人だって……」
それから3人して和やかに雑談を始めたようだが、ちょっと気になることがあって会話には参加しなかった。
それというのも、対面に座る彼女の事だ。
会話の交わされている方を見つつも、その子はまだ自分の方をちらちらと見ている。向こうにもまだ言いたい事があるのだろうか。こちらとしても名前ぐらいは聞いておいた方がいいとは思うが。
その様子がどうも気にかかる。
というより、何だか既視感がある。言いたいけど、言い出せないようなその態度に。
訓練生の誰かと重ねてるのかと思ったが、あいつらはだいたいが遠慮のない連中だ。しいて言うなら桜嶋や湊には近いかもしれないが少し違う。
直接は向けてなかった視線を彼女に戻して、しばし観察するように見つめる。
柔らかそうな髪がウェーブがかったショートカットで、睫毛が長くて小顔、線が細い感じで物腰も柔らかい。あまり会わないタイプなので余計にどこで見たのかが気になる。
こちらと何度か目が合ったが、もう驚くような様子はない。逆にこちらを観察してるようでもあった。
「……って言わないじゃん、普通!? って突っ込んだら、風間が…」
「……はは、らしいけどタイミングが最悪だな。……むしろそこは……」
「……うはっ! 笑わすなや帆悟! ははっ、わははははっ!」
隣の会話もだいぶ興が乗っていたようだが、あいにく草壁が言ったらしいオチの部分を聞いてなかった。
向かいに座る彼女は話を把握していたようで、口を閉じたままおかしそうに身体をすこし震わせて笑い、顔に左手を当てた。
口元を隠すのではなく、頬に手を添える。
……急に記憶が掘り起こされるような感覚がして。
その仕草が『えくぼを隠す癖』だと、知っていた事に気付いた。
「お前」
驚いて口をついて出た言葉は、小声になった。
笑い声に隠れるような一言だったが、それでも彼女にだけは聞こえたようだった。
「……『ヤヤ』……か?」
疑問というよりは驚きであり、自分の中では確証に至っていた。
多分彼女にとっては、もっと早く。
「……そうだよ、打川くん。ううん……『シン兄ちゃん』」
『ヤヤ』――もとい、八坂谷透(やさかやとおる)が。
昔のままに、小さく微笑んだ。