<07> 歪んだ透明な壁 (前)
訓練の無い日だったが、今日はひとつ約束があった。
授業中や昼休みなどに何度かそのことを心中で確認しては、留意し直した。
割と記憶力には自信が無い方で、うっかりと大事なことを失念することも、ごく稀ながらある。大体はメモを取って確認するようにしているが、その約束だけは頭の中だけに留め保っていた。
……まあ何というか……気恥ずかしかったから、だろうか。
靴を履きながらそんな考え事をして尾岐山高校の昇降口に出た時、中学時分の同級生に偶然会った。
「やあ」
「おう」
久しぶりというほどでもないが、クラスが違うため会うことは少ない。
“彼”は友人かと言われると、言い回しに悪意は決してないが微妙なラインである。ことさら親しくもなく共通の話題も少ない『知り合い』なのだが、割と気の合うやつで居ると落ち着く。クラスや地元にもそこそこ親しい友人はいるが、自分が話を聞く側に回りがちなためか、割と騒がしく話好きなタイプが多い。
そういうこともあって、彼のような物静かで理性的な知人は希少だった。
「この時間に帰りかい。打川は、部活には興味無かった?」
「そうだな、ピンと来る奇抜なのが皆無だった。草壁(くさかべ)こそどうなんだ?」
「文化系は少し気になったけど、本気で取り組むとなると敷居が高そうでね。それほどの情熱はないよ」
「運動部はどうだい、お眼鏡にかなわなかったか」
「嗜んでるような種目の活動は無かったな。マニアックなスポーツには部費も出せないみたいだ」
その物腰だけでは分かるまいが、草壁帆悟(くさかべほうご)は浅黒くて肩幅が広く、がっしりとした体格を持つ男である。“彼って何部所属だと思う?”と道行く人に聞けば、十中八九は“ラグビー部”と答えるであろう。
中学に入りたての頃はここまで強靭な見た目でもなかったので、成長期というのは神秘の一種だと見るたびに思う。アウトドアスポーツ全般が趣味であるらしいため、いちおう筋力の理由に関しては明確なのだが。
「立ち話で時間の浪費も何だし、駅まで行こうか」
「ああ、いいけど……電車は別なのか?」
「駅ビルで買い物をしたくてね。家族からこまごましたものを頼まれちゃって」
「そうか。じゃあ駅までは」
合わせずとも似たような歩幅で、さほど距離の無い道を歩き出した。
「打川はC組だったよね。そっちの雰囲気って、どんな感じだい」
「他はどうか知らんが、まあ騒がしいのは分かるな」
「いいね、楽しそう。F組は静かというか、誰もしゃべんなくて息の詰まる空気でね」
「まだ打ち解けないってだけだろう。じきに皆はっちゃけるさ」
「そうかもね。けど何というか、ムードメーカーがいない感じ。あるいはリーダーか。誰かが音頭を取らなければ停滞は長引くかもよ」
「草壁が率先してみたらどうだ?」
「はは、冗談だろ?」
「ああ、冗談だよ」
互いに含むような皮肉などはなく、どちらかというと社交的な会話を続ける。
あまり学生らしい卑近なトークにはつながらないが、彼らしい落ち着いた受け答えではあった。
「そういえば一昨日だったか、トイレで水戸川(みとがわ)に会ったのだけどね」
名前の挙がったそいつも同じ中学にいた友人で、さらには同じC組に在籍しており日々を騒がしく過ごしている。
「へえ、それで?」
「打川の事を話してたよ。『珍しいことに、たまに忙しそうにしてる』ってさ」
「まったく、よっぽど俺は呑気者だと思われてんだな……」
「実際、中学の時の君はマイペースだったよ、いい意味でね。同年代には見えないほど落ち着いてたと思う」
「外から見りゃそうだったのかね。中身は普通の中坊だったよ」
「ふうん、そう言うならそうだったのかもね。……ところで、何か忙しいのかい?」
「え? ……いや、電車時間に間に合わないと嫌だから、下校を急いだりしてるだけだ」
「おや、そう? じゃあ急ぐといいよ、引き留めちゃったね」
「なに、駅もすぐ目の前だ。じゃあここで。またな、機会があれば」
「うん。また話せるといいね」
そう言って草壁は、店舗の入った駅ビルの方へと歩いて行った。
「……やっぱり訓練の事は、気取られないようにした方がいいのかね……」
客観的には“変な連中とつるんでる”訳だし、見られたら面倒かもとは多少思った。
その時はその時で考えるか。まあ適当に言い訳をすればいい、自己啓発セミナーの集いとか言い張って切り抜けよう。
今更自分の評判を気にする事もないだろうと思いながら、電車時刻に余裕はあるが、早めに改札口へと向かった。
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御旗五堂駅・待合所の端にある丸テーブルに、両手をだらーっと伸ばして彼女が座っていた。
「あー、シンゴ。ごめーん、待ったー?」
「いいや、いま来たとこ……って、今来たのは俺だが待ってたのはお前だろう。おかしいぞこの会話」
「定番の会話じゃーん、気にしない気にしない。んー、まあ楽しみにしながら待ってたよ?」
「そうかよ。じゃあ、すぐ行くか?」
「うん、いこいこ」
行きたいところがあるから付き合ってほしい、というメイの提案は朝食の席で発され、賛成1で可決された。
平日の午後4時を回った頃で、遠出には無理な時間から分かるように、行き先は近場であるらしい。空いてる土日は駄目なのかと聞いたら、休日は読書に専念したいと言われた。
わがままなのか物分かりがいいのか、ともかく訓練もないし断る理由も無かった。
……もっとも、行く理由も無いが。
「で、どこ行くんだ」
「本屋」
「やっぱりか。それか図書館だと思ってたが、近場にゃ無いもんな」
「んー、シンゴはつまんないとは思うけど、でも行きたいからさ……」
「別に俺は本嫌いじゃあ無いが。しかしどこ行くんだ。山久書店なら何度か行ったろ」
国道沿いにある全国規模の有名な書店を挙げてみるが、メイはかぶりを振った。
「ううん、別のとこ。商店街にあるらしいんだけど」
「ええ?あったかな、本屋なんて……」
「看板は出してないらしいんだけど、古本屋って話だよ」
「誰から聞いたんだ?」
「津島ちゃん」
「津島ぁ?」
御旗岳中1年、津島多々史の顔を思い浮かべる。大人しいタイプではあるが、読書が趣味とは聞いたことがない。というより常に携帯ゲーム機を所持しているほどで、趣味としては現代っ子っぽい印象があった。
「まあ行ってみようよ。地元民のシンゴが知らないくらいだし、よっぽど穴場なんだよきっと」
いつになく目を輝かせて、メイは先を急ぐように早足で歩き始めた。
駅から真っ直ぐ国道へと伸びる道と交差するように、小規模なアーケード街がある。ぽつぽつとシャッターも降りてはいるが、駅近くで人口も多いため繁盛している店もいくらかはある。
「えーと、美容院、美容院。坂本美容院と平島衣料品店の間…あった! ここだ」
目的の本屋を見つけたらしいメイが、財宝を発見したかのように歓喜を表した。
「……これ、営業してんのか?」
建物はいかにも古く、黄ばむように汚れた壁の端にはツタがはっていた。
『城北堂』とぞんざいにマジックで書かれた紙が貼ってあるガラス戸の向こうは、薄暗くて様子がうかがえない。
「定休日は知らないけどー……店じまいには早いと思うし、多分空いてるんじゃ? どれどれ……失礼しまーす」
メイが引き戸をがらがらと鳴らして途中まで開いた。だが、引っ掛かるように途中で止まい、どうにも開き切ってはくれない。そうこうしているうちに、奥で人の動く気配がした。
「何だね! 何が誰だい、どっこのお客さんだい」
こちらに気付いてか、奥から突然しわがれた感じの声が飛んできた。
「ここって、古本屋なんですかー?」
空き切らない戸から半身を押しこんで乗り出し、驚くふうも無くメイが聞く。
「古本“も”やっとるが、そっちは貸し出しだけえね。で、どこのもんね」
「ええっと……何ていうかー。台地の上の……」
「メイ、ちょっと引っこめ。……御旗七込(ななごめ)の打川いうもんです。開がらねども上げっくれか」
「あー、台のほっかね。待ちよお」
ごそごそと近付いて動く様子ののちに、バンッと何かが打たれる音がして引き戸の『つっかい』が取れた。戸を開け切ると、陽の入った店内が入口付近だけとはいえ明らかになる。
狭い天井まで届く棚が壁面と中央で計4列並び、そこに無造作な感じで“もの”が置かれている。
棚ごとに大体のジャンルは分かれているが、古びた玩具や土器の様なもの、鉱物の埋まった黒い石に折れ曲がった鉄の棒など、“役に立ちそうにはないが年代だけは感じるもの”が無造作に並ばされ置かれている。木とカビの匂いが混じったような独特の香りが漂っており、当たり障りなく言うなら……雰囲気を感じた。
「古物商、ですか?」
「道楽じゃも、大金を取るでもないがの、そうだね。……七込の打川と言ったけ」
七十歳は過ぎているような老いた婆さんに見えたが、背筋はさほど曲がっておらず、思いがけなく動きも眼光も鋭い。
「ええ。打川譲介(じょうすけ)の長男で、祖父は藤次郎、祖母はカヨです」
「あー、カヨちゃんとこのねえ。せんは五堂にも居たもね、お孫さんかい」
「そうです、どうも突然すみません」
「いんや、構わねけどね。なんか用で来たかいね」
そう聞かれて、後ろ手に戸を閉めていたメイの方に視線を向ける。
するとメイは姿勢を正し、その老婆をじっ、と見据えた。
「――――本を探してるんです。どうしても読みたい、いや、読まなくちゃいけない本があるんです」
思いがけず真面目な表情になって、メイは来意をはっきりと告げた。