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緊縛の美 ~縄を一本、捨てる夜~

作者: ルブルなGπ
掲載日:2026/09/25

 挿絵(By みてみん)


 最後の客が階段を上りきると、錠前の音がした。


 開店前とは違う音だった。


 これから夜を閉じ込めるためではなく、使い終えた夜を地下へ残すための音。

 Noir Knotから人の気配がひとつずつ消えていき、さっきまで客が座っていた椅子と、

 薄く濡れたグラスの底だけが取り残されている。


 照明は半分まで落とされていた。


 円形のステージには、営業中よりも濃い影が落ちている。

 黒い床に埋め込まれた六つのアイボルトも、今は役目を終えた金属の点にしか見えない。


 玲奈と紗世はもう帰った。


 モデルたちもいない。


 カウンターの奥では三上が一人、グラスを拭いている。

 布が硝子を擦る乾いた音と、製氷機が時折吐き出す小さな振動だけが店内を渡っていた。


 俺はステージの中央に座り、六本の麻縄を並べていた。


 来週、十分。


 三上から渡された時間は、それまでの六分とも八分とも違って聞こえた。


 たった二分。


 時計の上では、それだけだ。


 だが舞台では違う。


 六分なら、最初と終わりを決めれば中間は短い。

 八分になると、途中にひとつ空白を置ける。

 十分になると、その空白の中にもうひとつ空白が生まれる。


 何かをしていれば埋まる時間ではない。


 何もしないことまで見られる時間だ。


 だから、縄を選び直すことにした。


 一本目を取る。


 掌へ二つ折りに落とし、親指で面をなぞる。毛羽の立ち方は均一。

 芯も暴れていない。軽く曲げれば、遅れて元の線へ戻ろうとする。


 問題ない。


 二本目。


 少し硬い。


 だがこれは知っている硬さだった。あと何度か使えば落ち着く。

 今夜の段階でも、床なら充分に扱える。


 三本目もいい。


 四本目には、端にわずかな毛羽がある。

 指先で撫で、光へ向ける。切れではない。表面だけだ。


 これも使える。


 五本目。


 六本目。


 すべて使える。


 俺は六本をもう一度並べた。


 おかしい。


 問題がないのに、終わらない。


 営業中なら、ここで迷う理由はなかっただろう。

 破断につながる傷がなく、芯が潰れておらず、表面の荒れも許容できる。

 長さも揃っている。


 使える縄だ。


 それなのに、一本だけ手が戻った。


 四本目だった。


 もう一度持つ。


 毛羽を見る。


 問題ない。


 曲げる。


 戻る。


 軽く引く。


 いつもの抵抗が掌に返る。


 端を指に掛け、少し捻ってみる。妙な癖もない。


 何もない。


 だから余計に気になった。


 傷なら切ればいい。


 硬さなら揉めばいい。


 癖なら寝かせればいい。


 原因が見えれば、手を入れる場所も決まる。


 だが、この縄にはそれがなかった。


 俺は目を閉じ、掌の中でもう一度返した。


 麻が擦れる。


 小さな音がする。


 若くはない。


 仕込み不足でもない。


 むしろ、今まで何度も使ってきた縄だった。


 六分なら使う。


 そう思った。


 八分でも、おそらく使う。


 では十分なら。


 そこで、指が止まった。


 理由はわからない。


 ただ、十分という時間の中でこの一本を持っている自分を想像すると、

 どこかで一度、この縄を見る気がした。


 モデルではなく。


 指先でもなく。


 耳朶でもなく。


 呼吸でもなく。


 縄そのものを。


 その一瞬が、妙に引っかかった。


 俺は四本目を列から外した。


 五本になった束と、一本だけ離れた縄。


 黒い床の上では、その距離が必要以上に大きく見えた。


 捨てるほどではない。


 使えないわけでもない。


 なのに、戻す気にならなかった。


 カウンターから氷がひとつ鳴った。


 三上は何も言わない。


 こちらを見ているのかさえわからない。

 あの男は、聞かれない限り口を出さない。

 舞台の時間には厳しいくせに、その舞台へ何を持って出るかについては、

 最後のところを縄師へ返す。


 それが余計に面倒だった。


 誰かに「使うな」と言われれば簡単なのだ。


 自分で決めるから、残る。


 俺は外した縄を膝へ置いた。


 毛羽を指で寝かせる。


 まだ使える。


 その事実だけは変わらない。


 縄に罪はない。


 妙な考えだと思いながら、もう一度、五本の束へ戻そうとした。


 やめた。


 掌が先に拒んだ。


 技術というものは、できることが増えていくことだと思っていた。


 結びを覚える。


 支持を覚える。


 荷重を知る。


 身体の色を読む。


 待つことを覚える。


 六分が八分になり、八分が十分になる。


 上へ行くほど、持てるものが増えるのだと思っていた。


 だが今、俺がやっていることは逆だった。


 一本、減らしている。


 理由も説明できないまま。


 階段の向こうで、錠前が動いた。


 三上の手が止まる。


 俺も顔を上げた。


 閉めたはずの扉が開き、細い足音が地下へ降りてくる。


 アマーリエだった。


 営業中とは違い、肩には薄い上着を掛けている。

 片手にスマートフォンを持ち、店内を一度見回してから、鏡前の椅子へ向かった。


 忘れ物らしい。


 椅子の下から小さなケースを拾い上げ、そのまま帰るかと思ったが、足が止まった。


 視線がステージへ落ちる。


 正確には、俺ではない。


 五本の束から離して置いた、一本の麻縄を見ていた。


 アマーリエはモデルだ。


 だからなのかもしれない。


 人間より先に縄を見る。


 ステージへ数歩近づき、床の一本と俺の膝元を交互に見た。


「捨てるの?」


 俺は縄へ目を戻した。


「舞台では」


 アマーリエは少しだけ眉を動かした。


 近づいても、縄には触れない。


 その距離の取り方が彼女らしかった。


「まだ使えるでしょう」


「使えます」


 答えると、自分でも妙な返事だと思った。


 使える。


 なのに使わない。


 アマーリエの視線が、今度は縄ではなく俺へ移った。


「なら、どうして?」


 答えようとして、言葉が出なかった。


 傷があるからでもない。


 癖があるからでもない。


 危険だからでもない。


 ただ、十分の途中で一度だけ、この縄を見てしまう気がする。


 それをどう説明すればいいのか、まだ俺にはわからなかった。


 カウンターの奥で、三上が新しいグラスを一つ取り上げる。


 布が硝子を擦る音が戻ってくる。


 黒い床には五本。


 少し離れて、一本。


 俺はその一本を見た。


 捨てたわけではない。


 まだ、捨てる理由さえ見つかっていない。


 ただ今夜初めて、自分の手の中にある「使える」という言葉が、

 それだけでは舞台へ持っていく理由にならないことを知った。


 アマーリエの問いだけが、閉店後の静かな店に残っていた。


 ——なら、どうして?


 答えはまだ、縄の中にはなかった。


 ◇

 

 ——なら、どうして?


 アマーリエの問いに答えられないまま、俺は膝の上に置いた縄をもう一度手に取った。


 麻の感触は変わらない。

 掌へ収めれば、これまで何度も扱ってきた馴染みの硬さがあり、

 親指を滑らせれば表面の毛羽がわずかに逆立つ。

 端を持って自重を預けても、不自然な伸びはない。

 曲げた芯の戻りも悪くなかった。


 やはり、使える。


 安全か危険かという二つだけで分けるなら、迷わず安全側へ置く縄だった。

 今夜までなら、おそらく俺もそうしていた。


 アマーリエは答えを急かさなかった。


 ステージの縁から少し離れたところに立ち、

 床に並んだ五本と、俺の手の中にある一本を眺めている。

 モデルが縄を選ぶときの目だった。

 色でも新しさでもなく、自分の身体へ入ってくる道具として見る目。

 第一夜から変わらない。


 縄師がモデルを観察するように、モデルも縄師と縄を観察している。


 その当たり前のことを、俺は最近になってようやく実感として理解し始めていた。


 黒川の縄を受けた夜、アマーリエの指先から色が引いた。

 耳朶の変化は小さく、客席からならまず気づかない程度だった。

 桐島のときは、吊られるかもしれないという予測だけで肩に薄い緊張が残っていた。

 身体は言葉より早く反応する。だからこちらも、言葉になる前に拾わなければならない。


 呼吸を見る。指を見る。耳朶を見る。汗を見る。肩を見る。


 八分間、それを続けた。


 では十分なら。


 俺は手の中の縄を返した。


 たった二分増えるだけだ。

 それでも、その二分のどこかで今と同じことをする自分が見えた。


 縄を見る。


 ほんの一瞬。


 この毛羽は大丈夫か。


 芯はまだ持つか。


 さっきの滑り方はいつもと同じだったか。


 確認すること自体が悪いわけではない。

 舞台の上でも道具の状態を見るのは当然だ。

 むしろ見なければならない場面もある。


 だが、今感じているものは少し違う。


 確認ではない。


 疑いだ。


 その言葉が浮かんだ瞬間、手の中の縄が少しだけ重くなった気がした。


 俺は縄を見てしまう。


 この一本を持って舞台へ出たら、十分のどこかでモデルから目を外し、縄そのものを見る。


 それが一秒なのか、半秒なのかはわからない。

 しかし、その時間だけ俺の目はモデルから離れる。


 指先の色が変わるのは、一秒あれば充分だ。

 呼吸の方向が変わるのに時間はいらない。

 肩が逃げる瞬間も、汗の粒が流れ始める瞬間も、こちらの都合に合わせて待ってはくれない。


 縄を疑うために使う目を、俺は身体を見るために残しておきたい。


 ようやく、違和感に輪郭ができた。


「……途中で」


 声にすると、アマーリエがこちらを見る。


「途中で一度でも、この縄を疑ったら、そのぶん、あなたを見る目が減る」


 自分で口にしてみると、ひどく単純だった。


 単純すぎて、なぜさっきまで言葉にできなかったのかわからない。


 アマーリエはしばらく何も言わなかった。


 やがてステージの縁へ腰を下ろしたが、それでも縄には触れなかった。

 視線だけが俺の手元を追っている。


「使えることと、預けられることは、同じじゃないから」


 それだけだった。


 説明も、慰めもなかった。


 だが、その言葉は俺が考えていたものを別の側から照らした。


 モデルにとって縄師がそうなら、縄師にとって縄も同じなのかもしれない。


 使える手。


 預けられる手。


 使える縄。


 預けられる縄。


 舞台では、どちらも同じ場所に立つ。


 俺は五本の束を見た。


 あの五本なら、途中で見ない。


 見なくていい、という意味ではない。必要な確認はする。

 ただ、自分の不安を消すために視線を使うことはない。


 その違いだった。


 階段の上で金属音がした。


 今夜はよく扉が開く。


 足音はアマーリエより重く、遠慮がない。

 誰なのかは姿を見る前にだいたいわかった。


 黒川だった。


 ジャケットを片手に引っ掛け、

 階段を降りながらポケットを探っている。

 カウンターまで来ると、

 自分が座っていた椅子の下を覗き込み、落としていたらしい鍵を拾った。


 それで帰ればいいものを、ステージに俺とアマーリエが残っていることに気づいた。


「何やってんだ?」


 俺は答えず、六本目を床へ置いた。


 黒川はそれを見るとステージへ近づき、俺が止めるより先に縄を拾った。


 手つきが変わる。


 普段の黒川は大雑把に見える。

 縄を払う動きは大きく、結びも客席へ見せる。

 しかし、縄そのものを見るときまで雑なわけではない。

 長く現場に立ってきた人間の指だった。


 親指で毛羽を押さえ、端を見る。

 半分に折って芯の戻りを確かめ、両手の間で軽く張る。


 俺がさっきやったことと、ほとんど同じだった。


 だからこそ、次の言葉も予想できた。


「使えるじゃねぇか」


「使えます」


「じゃあ使えよ」


「嫌です」


 黒川の眉が寄った。


 アマーリエの口元が、ほんのわずかに動いた気がした。


 黒川はもう一度縄を見る。

 俺の判断を否定するためではなく、自分の判断に抜けがないか確かめている。

 その目を見て、少し安心した。


 同じものを見ている。


 その上で答えが違う。


 黒川は縄を掌へ落とし、もう一度曲げた。


「俺なら使うな」


 それも間違いではないと思った。


 黒川なら使えるのだ。


 彼の手は俺とは違う。

 縄を払う速度も、視線を置く場所も、舞台で何を優先するかも違う。

 この一本を持ったとき、黒川が途中で縄を見るとは限らない。


 俺が疑うものを、黒川まで疑う必要はない。


 逆も同じだ。


 以前なら、その違いを技術の差だと思っていたかもしれない。

 慎重か雑か。安全か危険か。

 だが三夜を経て、そんな単純な線では分けられないことが少しずつ見えてきた。


 黒川は第三夜で支持を二つにした。


 派手さは捨てなかった。


 そのまま、自分のやり方で戻す道を増やした。


 あれは俺にはできない。


 俺が同じことをすれば、たぶん派手さだけが浮く。


 縄師が違えば、同じ縄も同じ舞台も別のものになる。


 黒川は床へ一本を戻した。


「贅沢なやつだな」


 それ以上は言わなかった。


 カウンターの奥から、三上の声がした。


「何を揉めてる」


 揉めてはいない。


 そう答えるより先に、黒川が事情を説明した。

 俺がまだ使える縄を一本外そうとしていること、

 それを来週の十分には持って出ないつもりらしいこと。


 三上はカウンターから出てこなかった。


 縄を確かめようともしない。


 ただグラスを照明へ透かし、曇りがないことを確認してから棚へ戻した。


「舞台で自分の手が疑うものを持つかどうかは、自分で決めろ」


 それだけだった。


 黒川が肩をすくめる。


 三上は続けない。


 結局、誰も俺の代わりに答えを出さなかった。


 アマーリエも。


 黒川も。


 三上も。


 それでいいのだと思った。


 俺は一本を拾い、五本の束へ近づけた。


 一瞬だけ迷った。


 その一瞬が答えだった。


 戻さなかった。


 ステージの脇にある練習用の籠へ、その一本を置く。

 捨てるわけではない。切るわけでもない。まだ使えるし、役目もある。


 ただ、来週の舞台には出さない。


 五本になった縄をまとめると、六本のときより少し軽い。


 当たり前のことなのに、その軽さが掌だけではなく頭の中にもあった。


 十分を任されたとき、俺は何を足すかばかり考えていた。


 六分より二分長い。


 八分より二分長い。


 なら、一手増やすのか。菱を増やすのか。床から別の形へ移るのか。


 増えた時間には、増えた技術を置かなければならないと思っていた。


 だが今夜、最初にやったことは一本減らすことだった。


 アマーリエが立ち上がる。


 忘れ物のケースをバッグへ入れ、階段へ向かう。途中で一度だけ振り返った。


 視線は俺ではなく、練習用の籠へ落ちた。


 そこには一本の縄がある。


 まだ使える縄。


 だが、俺が舞台では使わないと決めた縄。


 アマーリエは何も言わず、そのまま階段を上った。


 黒川も鍵をポケットへ押し込み、少し遅れて帰っていく。


 店内にはまた、俺と三上だけが残った。


 氷がひとつ鳴る。


 俺は五本のコイルの面を揃えた。


 減った一本分だけ、黒い床が見えている。


 その空白を見ながら、来週の十分が初めて少しだけ短く感じられた。


 埋める時間ではない。


 見る時間なのかもしれない。


 モデルを見る。


 呼吸を見る。


 戻る道を見る。


 そのために、見なくていいものを舞台から降ろす。


 技術というものが、できることを増やすだけではないのなら。


 今夜の一本もまた、俺が覚えた技のひとつなのだろう。


 ◇


 一週間後、Noir Knotの扉はまだ開いていなかった。


 地上では仕事帰りの人間が歩き始める時間だが、地下に夜はまだ降りていない。

 客席の椅子は揃えられ、グラスは伏せられたまま並び、

 円形のステージには営業中より白い照明が落ちている。

 黒い床に埋め込まれた六つのアイボルトも、この時間だけは舞台装置というより、

 点検を待つ金具に見えた。


 開店前のNoir Knotには、閉店後とは違う静けさがある。


 閉店後は、使い終えた夜が残っている。


 開店前は、まだ何も起きていない。


 その違いを、最近になって少しずつ感じるようになった。


 俺は袖の作業台に五本の縄を並べていた。


 一本目から順に手へ取る。面を確かめ、端を見て、軽く曲げる。

 芯の戻りを掌で受け、毛羽の立ち方を指の腹で拾う。

 先週と同じ確認をしているはずなのに、手が止まることはなかった。


 五本とも使える。


 そして五本とも、使う。


 その二つが、今日は同じ意味になっている。


 六本目はない。


 正確には、ここにないだけだった。


 作業台から少し離れた壁際に、練習用の縄を収める棚がある。

 使い始める前のもの、癖を取り直しているもの、舞台から一度外したもの。

 用途ごとに分けられた束の中に、先週の一本も混じっている。


 捨ててはいない。


 あの夜から何度か手に取った。


 家へ持ち帰り、もう一度揉んだ。引いた。端を整えた。重さも測った。

 練習では普通に使えた。手順を確認するだけなら、何の問題もなかった。


 それでも今日、五本の横へ戻そうとは思わなかった。


 理由はもうわかっている。


 縄が悪いのではない。


 俺が、あの縄を舞台で疑う。


 それだけだった。


 背後で足音がした。


 振り返ると、アマーリエが袖へ入ってくるところだった。

 演目を終え、バックヤードのシャワーを使ってきたらしい。

 身体には白いバスタオルを巻いただけで、濡れた髪がまだ肩に張りついている。

 着替える前に何かを取りに戻ってきたのだろう。


 彼女は俺を見るより先に、作業台へ視線を落とした。

 五本の縄。 そして、少し離れたところに置かれた一本。

 足が、そこで止まった。


 挿絵(By みてみん)


 人を見るより先に、縄を見る。


 棚の前まで行き、束を眺める。手には取らない。やがて、あの一本を見つけたらしい。


「捨てなかったのね」


「まだ役目はあります」


「舞台には?」


「出しません」


 それで会話は終わった。


 アマーリエは頷きもしなかった。ただ、もう一度だけ棚を見てから鏡前へ向かった。


 それで充分だった。


 舞台から外すことと、価値をなくすことは同じではない。


 練習なら使える。手順の確認にも使える。

 新しい結びを覚えるとき、手に馴染ませることもできる。

 いつか違和感が消えれば、また舞台へ戻す日が来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 どちらでもいい。


 今夜、持たないと決められることの方が大事だった。


 カウンター側から、縄が空気を払う音がした。


 黒川だった。


 すでに衣装へ着替え、一本を軽く振って癖を取っている。

 以前なら、その大きな動きだけで俺は眉を寄せていたかもしれない。

 だが、今は少し違って見える。


 彼は支持に使う縄を二本、別に置いていた。


 第三夜と同じだ。


 片側へ荷重を寄せすぎないための二点。


 派手さを捨てたわけではない。今日も余りを払うだろうし、客席へ結びを見せるだろう。

 おそらく俺よりずっと速く形を作る。


 それでも、戻すための道が一本増えている。


 黒川は黒川のまま変わっている。


 俺が一本減らしたように、あの人は一本増やした。


 同じ方向へ進むのに、同じことをする必要はないらしい。


 黒川がこちらへ来て、作業台を覗いた。


「本当に五本でやるのか」


「はい」


「十分だぞ」


「知ってます」


 鼻で笑う。


「贅沢なやつだ」


 先週と同じ言葉だった。


 ただ、その声にはもう「戻せ」という響きはなかった。


 黒川は自分の縄へ戻る。俺も五本へ視線を戻した。


 玲奈と紗世が店内へ入ってくる。


 玲奈は各テーブルへ水を運び、紗世はタオルとグラスの位置を整える。

 営業が始まればバニー姿で客席を回る二人も、この時間はまだ裏方の顔をしている。


 水が置かれる。


 タオルが置かれる。


 グラスが立つ。


 椅子の角度が揃う。


 何かを足しているようで、実際には余計なものを消している作業だ。


 客が入ったとき、迷わなくていいように。


 モデルが袖へ戻ったとき、探さなくていいように。


 縄師が手を伸ばしたとき、そこに必要なものがあるように。


 Noir Knotは、開店前からそういう場所だった。


 足すためではなく、迷いを減らすために準備する。


 なぜ今まで気づかなかったのだろう。


 カウンターの奥で三上が時計を見る。


「匠」


 俺は顔を上げた。


「最初、十分。予定どおり床一本」


「はい」


「延ばすな」


「はい」


「縮める必要もない」


 それだけ言って、三上は氷へ戻った。


 時間は枠だ。


 埋めろとは言われていない。


 十分という数字を渡されたとき、俺は勝手に中身を増やそうとしていた。

 六分でできたことに何かを加え、八分で見えたものをさらに広げ、

 十分に見合うだけの技を並べなければならないと思っていた。


 だが、それでは時間を技で埋めているだけだ。


 モデルの呼吸は、俺の都合で十分にはならない。


 肩が落ちるまで何秒かかるかは、その夜にならなければわからない。

 指先の温度も、汗の流れも、最初の一手を受けたときの身体の硬さも毎回違う。


 なら、空けておけばいい。


 待つ時間を。


 見る時間を。


 戻す時間を。


 そのために一本減らした。


 考えてみれば、縄だけではなかった。


 この一週間、十分の構成から何度も手を削った。


 菱は増やさない。


 結びも増やさない。


 床から上へ移らない。


 形を変えるためだけの一手を置かない。


 最初に考えた構成より、ずっと少なくなった。


 その代わり、どこを見るかは増えた。


 呼吸を見る。


 肩を見る。


 指を見る。


 縄が触れていない場所を見る。


 何もしていない時間に、身体がどこへ戻ろうとしているのかを見る。


 減らした分だけ、目が空いた。


 玲奈が袖へ水を置いた。


 紗世がその横へタオルを置く。


 アマーリエは鏡前で肩を一度回し、髪を整え始めている。


 黒川の縄が遠くで一度だけ空気を切った。


 三上がグラスへ最初の氷を落とす。


 音がした。


 開店の時間が近い。


 俺は五本をひとつずつ巻き直した。


 面を揃える。端を収める。手の中へ置く。


 軽い。


 六本より一本少ないのだから当然だ。


 だが、先週感じた軽さとは少し違う。


 あの夜は、何かを失った軽さだった。


 今日は、持つものを決めた軽さだ。


 階段の上で錠前が外れる。


 乾いた金属音が地下へ落ちてきた。


 最初の客が降りてくるまで、あとわずか。


 照明が営業用へ切り替わり、白かったステージの輪郭が黒へ沈んでいく。

 六つのアイボルトが光を失い、円形の床だけが静かに浮かび上がる。


 俺は五本の縄を持って袖に立った。


 壁際の棚には、舞台へ出なかった一本が残っている。


 捨ててはいない。


 失敗した縄でもない。


 ただ、今夜ここへ持ってこないと決めた。


 それだけのことに、一週間かかった。


 十分を埋めるために、縄を増やす必要はない。


 一手を増やす必要もない。


 時間が長くなったからといって、見せるものまで増やす必要はなかった。


 一本減らす。


 一手減らす。


 迷いを減らす。


 そのぶんだけ、見る。


 そのぶんだけ、待つ。


 そのぶんだけ、戻す。


 五本のコイルを掌へ収める。


 不思議なことに、十分という時間がもう長く感じなかった。


 短くなったわけでもない。


 ただ、ようやく形が見えた。


 客席で氷がひとつ鳴る。


 三上の視線が袖へ来た。


 俺は一歩、黒い床へ出る。


 十分を埋めるために、縄を増やす必要はない。


 むしろ一本減らしたことで、ようやく十分が見えた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

今回は『緊縛の美』本編の舞台から少しだけ離れて、一本の縄を巡る小さなお話でした。


派手な演目も、大きな出来事もありません。

まだ使える一本の縄を、使うのか、使わないのか。

ただそれだけのことで、匠には約6000文字も悩んでもらいました(笑)。


さて、ここから少しだけ縄のお話を。

麻縄は、見た目だけで「まだ使える」「もう使えない」と単純に決められる道具ではありません。

使い方や手入れを重ねることで、毛羽立ちや硬さ、癖、手触りなども少しずつ変わっていきます。


もちろん作中の匠の判断は物語として描いたものですが、

道具の世界には、完全に壊れるまで使うのではなく、状態や用途に応じて一線から外し、

別の役目へ回すという考え方があります。

だから匠も、本当には一本を「捨てて」いません。


舞台から外して、練習用へ。

使えなくなったからではなく、舞台の上で迷わないために。

そう考えると、この物語のタイトルにある「捨てる」は、物を捨てるというより――

迷いをひとつ、舞台から捨てる。

そんな意味だったのかもしれません。

……しかし六本から五本に減らすだけで一作できるとは、作者も思っていませんでした(笑)。

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