勇者、陥落⑤
カイルたちが帰った途端、ついさっきまで騒がしかった応接室が嘘みたいに静まり返る。
「ユナ。この菓子、持って帰るか?」
ルーカスはほとんど手つかずのクッキーをひとつ摘みながら、そう声をかけた。城の料理長が焼いた、バターの香りが濃い品だ。以前、ユナが好きだと言って嬉しそうに頬張っていたことを思い出したらしい。
だが返事はない。ルーカスが顔を上げると、ユナは腕を組み、窓の外を向いたまま黙り込んでいた。
その横顔を見てルーカスが小さく笑う。ユナのこの膨れっ面を見るのもずいぶん久しぶりだ。子どもの頃、ルーカスたちにからかわれたユナはよくこんな顔をして不貞腐れ、最後はエドガーが仲裁に入るのがお決まりだった。大きくなってからは自然とそういう時間も減ったが。
「おい。嫌なら嫌って言わないと。あいつ、きっと一生気づかないぞ」
「な、なにがよ」
視線は合わせない。わざと逸らしているのだろう。だが、蜂蜜色の髪の奥に覗く小さな耳はしっかりと赤く、それだけでルーカスは吹き出しそうになる。
「このままじゃ、見合いでロイにいい相手が現れるかもな〜?」
ユナが弾かれたように立ち上がり、真っ赤な顔でルーカスを睨みつける。
「う、うるさいっ! ルーカスのバカっ! オタク男っ! おたんこナスっ!」
まだ何か言おうと口を開きかけるが、言葉になっていない。わなわなと唇を震わせたかと思えば、そのままルーカスの脇をすり抜け、扉を乱暴に開けて出ていってしまった。
再び静まり返った部屋で、ルーカスが肩を震わせる。
「ほんと、素直じゃないよな〜」
そこへノックの音が響き、ユナと入れ違いでエドガーが戻ってきた。廊下の奥を心配そうに何度か振り返っていたが、部屋の奥で笑いを噛み殺しているルーカスを見るなり、呆れたように目を細める。
「さきほどユナ殿とすれ違い、何やら様子がおかしかったのが気になりましたが……なんですか、陛下が原因でございましたか」
「ああ。ちょっと揶揄っただけだ。心配しなくていい」
「左様でございますか。相変わらず仲がよろしいですな」
エドガーは軽く一礼すると、手際よくテーブルを片付け始めた。カップを重ね、皿を整えるその指先は、やけに軽やかだ。
「お茶、まだ飲まれますか?」
「いや、もういい」
残った菓子をまとめながら、とうとう鼻歌まで歌い出した。どうやら本日の成果に大層ご満悦らしい。泣き落としだの強引な畳みかけだの手段は褒められたものではないが、それでも結局、狙ったところに話を着地させるのだから、この男はやはりやり手なんだろう。
「ユナ殿は……」
ふいに、何気ない調子でエドガーが口を開いた。
「すっかりお綺麗になられましたな。最近は城に来られることも少なかったので、久しぶりにお会いできて嬉しゅうございました」
「そうか? 相変わらず中身は子どもみたいだったぞ。おたんこナスって……なんだよなぁ」
肩をすくめながらも、ルーカスの声音はどこか柔らかい。昔からこういう顔をするのは決まってユナの話題だ。
穏やかな空気がふわりと流れる。だが、それも長くは続かなかった。
「なあ、おまえ気づいてたよな?」
「はて?」
「とぼけるな。ユナの気持ちだよ」
仕上げに手早くテーブルを拭き上げたエドガーはそれには答えず、今度は優雅な手つきで花瓶の花を整え始めた。ほんのわずかに花の向きを変えては満足気に頷いているが、ルーカスにはその違いがさっぱりわからない。
「なんでロイの見合いまで進めたんだよ。しかもわざわざユナを煽るようなこと言って」
そこでようやく。エドガーの手がぴたりと止まった。そしてゆっくりとルーカスを振り返る。
「かーーーっ!!」
喉の奥から絞り出すようなエドガーの呆れ声が響いた。
「な、なんだよ、いきなり!」
「これだからお若い方はっ!」
「は?」
「いいですか? このままでは、あのお二人は永遠に平行線でございます!」
エドガーは手元の花瓶から、するりと一輪の薔薇を抜き取った。その花びらを指先で弄びながら、大きくルーカスの方へ一歩踏み出す。
「恋というものは……」
わざわざ芝居がかった溜めを作るあたり、これは……絶対面倒なやつだ。ルーカスは黙ってそっと額を押さえた。
「火種だけでは燃えません」
にやり、とエドガーの口元が吊り上がる。
「風が必要なのですぞ!」
そう言って、大仰な仕草で薔薇を差し出してくる。きっぱりと断言するその姿には、幾多の恋をくぐり抜けてきた男の自負が見え隠れしていた。いや、見え隠れどころじゃない。堂々と前に出ている。
「あー……つまり、おまえが言いたいのは、ロイに見合いさせることが、あのふたりに必要な『風』とやらだと、そういうことか?」
ルーカスは差し出された花に一瞬だけ視線を落とし、そのまま何事もなかったように逸らした。
「ええ、ええ。左様でございます。ヤキモチは恋にはかかせぬスパイス! ユナ殿の可愛らしいヤキモチによって、きっとあのお二人の恋の火は一気に燃え上がることでしょう!」
「そんなにうまくいくもんなのか?」
「かーーーっ!」
再びエドガーが吠え、わざとらしく首を振る。「何もわかっておられませんな」とでも言いたいのだろう。その自信満々な顔がいちいち腹立たしい。
「恋愛経験ゼロの陛下と、幾多の修羅場を越えてきたわたくし。どちらの言葉に説得力がございますかな?」
「余計な一言だ」
「ほっほっほ。これまで陛下には、推しだのなんだのと自由にさせておりましたが。そろそろ陛下にも男と女のアレコレを伝授し、本格的な『国際交流』を――」
「いい! いい! いらんっ!」
恋の炎は、思わぬところへ飛び火しかけたらしい。
「執務がある!」
ルーカスはそう叫ぶと、逃げるように部屋を出ていった。




