最大の難関②
「お兄ちゃん、私ね――」
俺はそっと手を上げ、ユナの言葉を止めた。
「カイル、あのな……」
糸が切れた人形みたいになったカイルにどこまで届くかはわからない。それでも俺は、話さなきゃいけない。ユナと付き合うまでのこと。俺の気持ち。これからのこと。幼馴染としてじゃない。好きな女の兄貴であるカイルに、誠実に、正直に。
話し終えても、カイルはずっと俯いたままだった。誰一人声を発さず、ただじっとカイルの反応を待ち続ける。
「…………ユナは?」
やがて顔を伏せたまま、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声がぽつりと漏れた。
「え?」
「ロイの話はわかった。ユナ、おまえの口から聞きたい」
カイルの顔は見えないが、その声に怒りの色はない。ただ、何かを必死に押し殺しているような、そんな声だった。
「……うん」
ユナは静かに立ち上がると、カイルの前まで歩いていった。そしてしゃがみ込み、膝の上で力なく握られたカイルの手に、自分の手をそっと重ねる。
「私ね、お兄ちゃんのこと、大好きだよ」
ぴくり、とカイルの肩がわずかに動く。
「だから、お兄ちゃんに嘘はつきたくない」
ユナはそこでひと呼吸おくと、ぎゅっとカイルの手を握りしめた。
「ロイが好きなの。小ちゃな頃からずっと。大好きで、大好きで……いつかお嫁さんになれたらいいなって本気で思ってた」
そこで初めてカイルが顔を上げた。無意識に動いてしまっただけのようにも見える、本当に僅かな動きだ。ユナの真意を確かめるように、上目遣いでじっと見つめている。
「だからね、ロイも私を好きになってくれて、本当に嬉しい」
ユナは一度だけ俺を振り返り、少し照れたように笑った。そしてまたカイルに視線を戻すと、きゅっと誇らしげに目を輝かせる。
「ロイとのキスで光が出たときは驚いたけど、私、すごく嬉しかったの。だって、大好きな人と一緒に、大好きなお兄ちゃんや王都のみんなの役に立てるんだよ? そんな幸せなこと、ないよ」
最後にそう言うと、カイルに向かってにこりと微笑みかけた。
「…………っ」
それまでずっと我慢していたんだろう。カイルの肩がぷるぷると震え出したかと思えば、バケツの水をぶちまけたみたいに涙が溢れ出す。
「うおおおおぉぉぉっ!」
ソファから転げ落ちるように、カイルはユナへ抱きついた。
「ちょ、お兄ちゃん!?」
「幸せなんだなっ!? ロイでいいんだなっ!?」
ぎゅうううっと抱き締められ、ユナの体がぐらりと揺れる。
「い、痛い痛いっ! 締まってる! 締まってるってば!」
「ユナぁぁぁっ! 俺も大好きだぞぉぉぉっ!」
大声で吠えるカイルには、まるで聞こえていない。
ユナは困ったように小さく笑うと、兄の背中へそっと腕を回した。そして赤ん坊をあやすみたいに、ぽん、ぽん、と優しく叩く。
「もう、お兄ちゃんってば」
しばらくの間、応接室にはカイルの盛大な泣き声だけが響き続けた。途中、廊下を通りかかった侍女が何事かと扉をそっと開け、中を覗き込んできたほどだ。ルーカスは侍女へ「なんでもない」と小さく目配せすると、呆れたように肩をすくめる。
「ったく、どんだけ泣くんだよ。まあ、暴れられるよりはよっぽどマシか」
そうぼやきながらも、カイルを見下ろすその目は、これでもかというほど優しい。
「うぅっ……うぅっ……」
(ん?)
妙なすすり泣きに振り向くと、いつの間にかエドガーがハンカチを目に押し当て、肩を震わせていた。
(いつから泣いてたんだよ)
「もう我慢できませんっ!」
エドガーが床へ駆け寄るなり、泣きじゃくるカイルごとユナを抱き締めた。
「カイル殿ぉぉぉっ! ユナ殿ぉぉぉっ! なんと尊い兄妹愛なのでしょう!」
「ぐえっ!」
「ちょっ、なんでエドガーまで!? 苦しい、苦しいってば!」
泣きじゃくる男二人に挟まれ、ユナの悲鳴が応接室に響いた。
「お前まで混ざるなっ!」
ルーカスが盛大にツッコむも、感涙にむせぶエドガーに届くはずもない。
一向に収まる気配の無いカイルの泣き声と、それに混じるエドガーの嗚咽。時々聞こえるユナの悲鳴。もう何がなんだかわからない。
(まあ……)
これが俺たちらしいっちゃ、らしいのかもしれない。なんやかんや言いながら、カイルも俺たちの付き合いを認めてくれたし。
(……ん? 認めた、でいいんだよな?)
そろそろユナを助けてやるか、と腰を浮かせると、ルーカスが「お疲れ」とでも言うように、俺の肩をぽんと叩いた。
「実は、おまえとカイルの乱闘を少し期待してたんだけどな」
「……やめてくれ」
ルーカスはハハッと笑い、まだおいおい泣き続けるカイルへ向かって声を張り上げた。
「カイルー、つまり、おまえ、ユナとロイの付き合いを認めるってことでいいんだよなー?」
ぴたりと泣き声が止んだ。ゆっくりと顔を上げたカイルは、ぐしゃぐしゃの涙顔のまま鼻をすすり、一度だけ大きく息を吸った。
「…………ぐすっ……認めるしかないだろ……ユナがっ……幸せならよぉ……」
その言葉に、ほっと胸を撫で下ろしかけた。
「でもなっ!」
カイルがキッと、俺を睨む。
「ユナを泣かせたら承知しねぇぞ!」
「……ああ」
「あと! ロイ、おまえ!」
今度は勢いよく俺へ詰め寄ろうとして、涙で足元が見えなかったのか、よろりと体勢を崩した。それでも気合いだけで踏ん張ると、鼻をずびっとすすりながら叫ぶ。
「これから先、俺のいない時に家へ来るの禁止だからな! いいな!?」
「ええっ!?」
「なにぃっ!?」
途端にカイルの顔が鬼の形相に変わった。
(いや待て。今のは俺じゃない)
よく見ろ。カイルがぐるんっと振り返ると、床にしゃがんだままのユナが、不満げに口を尖らせていた。
「いいじゃん、別に今までだってロイ何度も来てたんだしさ」
「はぁぁっ!? お、お、おまえらっ! 俺のいないところで、二人っきりで何するつもりなんだっ!」
「うっざ〜。別に何もしないわよ」
ぷいっと顔を逸らすユナを見て、カイルの頭の中では最悪の想像が完成したらしい。
「ま、まさか……おまえら……もう……」
わなわなと唇を震わせながら、真っ赤な顔で頭を抱える。
「ロイ! お、おまえぇぇぇっ!!」
「おい! なんでそうなる!」
カイルが腕を振り上げたところを、ルーカスが片手でひょいっと襟首を掴んで止める。
「落ち着け、カイル」
「離せぇっ!」
「よく考えてみろ。相手はロイだぞ」
「ああん?」
鼻をふがふが鳴らしながらも、カイルはしぶしぶ抵抗するのをやめた。
「ちょっと地味だが真面目で穏やか。それがロイの代名詞だろ。初めての恋人に浮かれてがっつくような奴じゃ――」
そこで何かに思い当たったらしい。ルーカスが、ぴたりと動きを止めて黙り込んだ。
「……?」
怪訝そうにカイルが振り返る。
「いや、でもキスは早かったな」
(おい、今そのタイミングで余計なこと言い出すな!)
案の定、カイルの顔がみるみる引きつった。
「ぜったい禁止だぁぁぁっ! 二人になるなっ! 外でもダメだっ! 門限は五時! いや、四時だぁぁぁっ!!」
結局、頭に血が上ったカイルがどんどん条件を増やしていくたび、ユナが文句を言い、ルーカスやエドガーが「まあまあ」と宥めるという謎の攻防がしばらく続く。
最終的には、「お兄ちゃん、私を信じてくれないの?」という、ユナのあからさまに演技がかった泣き落としによって、家に上がるのはカイルがいる時だけ、キスより先は禁止、デートの門限は二十時という条件付きで、付き合いを認めてもらえることになった。もっとも、ユナは最後まで「なんで門限だけ残ってるのよ」と不満そうだったが。
ようやく騒ぎも落ち着き、エドガーが淹れてくれた茶で一息つく頃には、皆ぐったりと疲れ切っていたのは言うまでもない。
「いやぁ、でもよかったな、ユナ。長年の恋が実って。カイルにも認めて貰えたしな」
ルーカスが湯気の立つカップを片手に、嬉しそうに目を細めた。
「ちょ、お兄ちゃん! なんでここ座るのよ! 狭いんだけど!」
「うるせぇっ。俺がどこ座ろうと勝手だろ」
カイルが俺とユナの間へ無理やり体をねじ込んでくるもんだから、当の兄妹はルーカスの声なんて耳に入っちゃいない。
「……先が思いやられるな」
兄妹喧嘩を眺めながら、ルーカスは苦笑して肩をすくめた。どうやらユナに話しかけるのは諦めたらしい。今度は表情を少し引き締めると、俺へ向き直る。
「さて。これでカイルへの報告っていう最大の難所は越えたわけだ。あとは国民たちにどう伝えるか、だな」
ルーカスの一言で、それまで言い合っていた兄妹もようやく口を閉ざした。騒がしかった応接室に、少しだけ張り詰めた空気が戻る。
「正直に話すしかないとは思う」
俺は手にしたカップへ視線を落とした。
それは、ここ数日ずっと考えていたことだった。俺とユナで光が出た。だから俺はこれから、カイルとじゃなくユナとポーションを作っていく。それが事実だ。隠したところで、いずれはわかる。
「でもなぁ」
ルーカスが腕を組んで唸る。
「王都のやつらの、お前たち二人の持ち上げっぷりを考えるとな。すんなり受け入れられない奴も出るだろう」
俺たちが静かに息を呑むなか、エドガーだけは当然のように頷いた。
「十分に考えられますな」
ルーカスの空になったカップへ静かに紅茶を注ぎ足しながら、淡々と続ける。
「ロイ殿を『心変わりした』と責める者もおりましょう」
そこでふと表情を曇らせ、ユナへ視線を向ける。
「あるいは……ユナ殿を『ロイ殿を誘惑した悪女』だなどと口にする者もいるやもしれませぬ」
「は!? 誰だよそれ! そんなやつ、俺がぶん殴ってやる!」
「おい、仮定の話だ。落ち着け」
俺は勢いよく立ち上がったカイルの腰へ腕を回し、そのまま力任せにソファへ引き戻した。だが、カイルの気持ちもわからなくはない。俺だって、ユナが傷つくようなことだけは絶対に避けたかった。
「……どうしたもんかな」
ルーカスが小さく息を吐く。
(いや、それは俺も聞きたい)
場がしんと静まり返る中、エドガーが何事もないような顔で、俺たちのカップへ順に紅茶を注ぎ足していく。立ち上る湯気だけが、重苦しい沈黙の中を縫うように、ゆっくりと漂った。
「ゴホンッ!」
頭上で、やけにわざとらしい咳払いが響く。顔を上げると、空になったティーポットを赤子でも抱えるみたいに胸へ抱き寄せたエドガーが、誇らしげな笑みを浮かべていた。
「ご安心ください。実は、このエドガー。すでに一つ、妙案を用意しております」
(は? 妙案?)
「ロイ殿もユナ殿も誰一人悪く言われず! むしろ国民全員が心からお二人を祝福し、涙するような――とっておきの策にございます!」
(いや、そんな案があるなら、ぜひとも聞きたいところではあるが……)
だが、誰一人としてすぐには食いつかなかった。この侍従の言う「妙案」とやらが、時として常人の想像を軽々と飛び越えてくることを、皆、嫌というほど知っているからだ。
俺たちはそっと互いの顔を見合わせた。




