勇者、逃亡⑥
案の定、エドガーが大急ぎで紙を掲げる。
『手 とれ! 今すぐに!』
文字に力が入りすぎて紙からはみ出しそうだ。
しかしカイルには、突然目前に差し出された華奢な白い手しか見えていないらしい。
「はうっ……そ、その……」
しきりに太ももで手のひらの汗を拭っているあたり、手を取りたい気持ちはあるのだろう。それでも、女の手を取るなんて、あいつにとっては隊長から一本取ってこいって言われるよりよっぽど難しい。
外野は必死だ。エドガーは周りの目も気にせず、掲げた紙をバシバシ叩き出すし、ユナなんて両手を握りしめて神頼みしてる。俺だって、できるなら今すぐあいつに駆け寄って、無理やりにでもエリシアの手を取らせたい。
だが、そろそろ限界らしい。ふいにカイルの拳に力が入る。両目をぎゅっと瞑り、天に吐き出すみたいに口を開いた。
「むっ……無理だぁぁぁぁ……っ!」
そのままじりじりと後ずさる。ぽかんと顔を上げたエリシアに、「すまんっ!」と叫ぶやいなや、くるりと背を向け、部屋の入り口めがけて一目散に駆け出した。テーブルや椅子にぶつかっては、その度によろめく。あちこちで談笑している他の聖女たちが、驚いたようにカイルを振り返っていった。
(あいつ! 逃げやがった!)
「ユナ、エリシアのフォロー頼む!」
もうこれは昔からの癖みたいなもんだ。俺は気づけばカイルの後を追って飛び出していた。体力ならあいつに敵うはずもないのだが、今のカイルはふらふらと足元すら頼りない。エドガーも止めに入ってるし、たぶんイケる。
「おい、ロイ。なにが起こったんだ?」
途中、両腕の聖女たちを振り払いながら、ルーカスが心配そうに――もとい、興味津々で声をかけてきたが、今はそれどころじゃない。
「カイル!」
部屋の入り口を出たところで、ようやく追いつく。エドガーが両手を広げて必死に行く手を塞ぎ、「ここで逃げるなんて男ではないですぞ!」だのなんだのと喚いているが、当のカイルは聞いちゃいない。その視線が俺を捉えたとたん、さっと顔色が変わる。
「ヤバい」とでも言いたげに目を見開き、エドガーを力任せに押しのけると、今度は反対方向へと駆け出そうとした。が、すんでのところで後ろ首を掴んで引き止める。
「……ぐえっ。離せロイ! 俺には……無理だっ!」
「うるさい! 落ち着け! なにも逃げなくてもいいだろ。おまえ、せっかくデートに誘ってもらったってのに――」
エリシアに代わって小言のひとつでも言ってやろうかと口を開いたとたん、カイルがぎょっとしたように飛び上がる。まるで禁句でも踏んだみたいに、慌てて俺の口を塞いできた。
「おまっ! で、ででで、デートとか言うなっ!」
(……こいつは)
だんだんと腹すら立ってきた。いい大人が、思春期迎えたばっかのガキかよ。たかがそれで、どんだけ照れるんだ。俺はその手を勢いよく払いのけると、わざとらしく声を張り上げた。
「じゃあ、おまえは! エリシアとデート、しなくていいんだな?」
ぐっと顔を近づける。
「しっ、したいに決まってるだろ!」
カイルもムキになって、さらに顔を寄せて言い返してきた。
(なんだ、これ)
なんで俺がこんなところで、こいつと顔突き合わせてんだよ。急にばからしくなって、突き放すように顔を離した。
「あ、あの……」
背後から遠慮がちな声が割り込む。カイルの動きがぎくりと止まった。
ドアの陰から、ほんのり赤くなった頬を両手で挟んで、エリシアがおずおずと顔を出した。はにかむような、少し困ったような表情だ。その隣で、腕を組んだユナが呆れた顔を向けている。
「――――っっっ!!」
カイルが仰け反るように飛び退いた。
「なっ……ななななっ……い、いいい、今の聞いて……!?」
エリシアが申し訳なさそうに頷いた途端、カイルの顔から血の気が引く。かと思えば、今度は頭からペンキをぶちまけられたみたいに一気に真っ赤になった。
ひゅ、と息を詰まらせたような音を漏らし、ぐるりと踵を返す。
「おい!」
(こいつ、また逃げる気だ!)
咄嗟に腕を掴んだが、思いきり振り払われる。ぶん、と大きく振られた腕が、俺の頬をかすめた。
「いって……!」
思わず出た声に、カイルがちらりと振り返る。「まずい」とでも思ったのか、一度だけ足を止めかけたが、次の瞬間にはもう全力で廊下の奥へ消えていった。
「ロイ〜〜〜っ、すまぁぁぁぁんっ!!」
(マジかよ……。あいつ、あとで一発ぶん殴る!)
叫び声が遠ざかる中、ユナが俺の頬を見て大袈裟に騒ぎ出す。
「やだ、ロイ! 血が出てる!」
「ああ。袖のボタンでも当たったんだろ。別に大したことない」
「ロイ殿、これをお使いください」
エドガーがさっと歩み寄り、手際よく俺の傷にハンカチを当てて押さえる。さすができる男――って、おまえ、これさっき思いっきり口元に当ててたやつだろ。
「あ、あの……ロイさん、すみません……」
エリシアが俺の頬を見て、気まずそうに視線を落とした。
「その……私が、急に……驚かせてしまって……」
「いや、全部あのバカのせいだ」
「そ、そ。全部お兄ちゃんが悪いの! ほんと、信じらんない!」
ユナが、カイルの去った廊下を睨みつけながら、これでもかってくらい大げさにため息をつく。
「でもまあ……あれだ」
目の前の聖女のあまりの落ち込みように、俺は軽く肩をすくめた。なんで俺があいつの尻拭いまでしなきゃいけないんだよ。
「さっきの聞いてただろ? あいつ、照れ方が異常なんだよ。本音は嬉しいくせに」
「左様! その証拠に」
エドガーが一歩前に出て、妙に大仰な口調で言い放つ。
「『君とデート、したいに決まっているッ!』と、胸に手を当て、天を仰ぎ、魂の底から叫んでおられましたぞ!」
おい、いつの間にそんな演出が付いた。
「は、はい。聞こえておりました。その……嬉しいです」
照れ隠しなのか、エリシアがきゅっと下唇を引き結ぶ。ほんのり頬を染めたまま、にこりと微笑んだ。
「エリシアさんっ!!」
ユナが勢いよく抱きつく。出た。ユナが感極まったときに、誰かれ構わずするやつだ。
「ありがとうっ! お兄ちゃんを見捨てないでくれてっ!」
今にも泣き出しそうな声で、ぐいぐいと頬をすり寄せている。
「ふふ。また、誘ってみます」
エリシアが困ったように、でも嬉しそうに笑った。
(なんていうか……いい子、なんだろうな)
いろいろあったが、ひとまずこっちは大丈夫そうだ。多少は前に進みかけたカイルの恋路が、ここで強制終了、なんて事態は避けられたらしい。肩の荷が降りた気がして、ほっと息を吐く。
(さて。問題は、逃げたあいつをどうとっちめるか、だな)
「面白いことになったな」
いつの間に来ていたのか、ルーカスがにやにやと隣に並んだ。
「見てたのかよ」
肩越しにちらりと横目で睨むと、ルーカスは楽しそうに肩をすくめる。
「あたりまえだ。エリシアと話してたはずのカイルが、いきなり真っ赤になって部屋を飛び出してったんだぞ。そんな面白そうなもん、見逃せるか」
だよな。こいつはそういうやつだ。
「あいつらは?」
もちろん、さっきまでルーカスにべったり張りついていた聖女二人のことだ。あの手の連中が、簡単に獲物を手放すとは思えない。
「ああ。あいつらなら、近衛の中から顔のいいやつを見繕って押し付けてきた」
「は?」
「顔が良ければそれでいいらしいぞ。俺とどうこうなるより、よっぽど現実的だしな」
ひょうひょうとそんなことを言ってのける。
(ほんと、こういうやつだ)
「あ、おいユナ! おまえ、ふざけるな!」
今さら気づいたみたいに、ルーカスがユナに向かって声を張り上げる。
「ルーカス、いたんだ! ごめんごめん! でもああでもしないと、あの二人ずっとお兄ちゃんに付き纏ってそうだったし」
「だからってだな――」
背後でわちゃわちゃと騒ぐ声が続く。まったく。国王の威厳ゼロだな。まあエリシアは、にこにこと楽しそうに眺めてるけど。
(てか、なんだったんだ、今日のこの会は)
エドガーは上機嫌のまま、さっさと仕事へ戻っていきやがった。あいつにとってはこれでも上出来ってことか? 俺なんて無駄に服買ってもらっただけで終わったぞ。
夕刻を告げる鐘が城内に長く響いた。
(あのバカ、どこまで逃げてったんだよ)
「さ、そろそろ戻るぞ。面倒だが、いったん締めなきゃだしな」
部屋の中を軽く一瞥して、ルーカスがうんざりしたように口を開く。
「お兄ちゃん、探しに行かなくていいかな?」
そう言いながら、ユナの足はもう部屋の方へ向いている。エリシアが、ほんの一瞬だけカイルの消えた廊下に目を向けた。
「そのうち戻ってくるだろ。放っておけ」
「そだね」
そんなやり取りをしながら、俺たちはそのままぞろぞろと部屋へ戻った。




