雪の下に眠る感情と、近づく距離
冬休みに入ると、学校は急に遠い場所になった。
毎日のように顔を合わせていたはずの智香もみやびも、
気づけば、会えない日が何日も続いていた。
窓の外は、凍った空気のせいで音が吸い込まれているみたいに静かだった。
日が暮れるのも早くて、夜は長い。
そんな長い夜の途中で、スマホが震える。
「……智香」
画面に表示された名前を見て、思わず小さく笑った。
あれから、智香はほとんど毎晩のように電話をかけてくるようになった。
『ねえ七海、暇でしょ?』
受話口から聞こえてくる声は、いつもより少し高くて、どこか甘えるようだった。
『なんかさ、静かすぎてやだ。学校行ってた頃のほうが楽しかったなって思う』
「……わかるよ。わたしもなんか変な感じ」
ベッドに寝転がったまま、天井を見上げる。
電話越しに聞こえる智香の息遣いは、部屋の静けさに溶けていった。
『七海さ、冬休みの宿題もう終わった?』
「……終わるわけないじゃん」
『だよねー。じゃあさ、明日一緒にやろうよ。うち来る?』
電話の向こうで、智香が笑った気配がした。
その笑い声を聞くと、胸の奥にぽっと灯がともったような気がする。
でも同時に、言葉にならないざわめきが、小さく広がっていく。
「みやびちゃんも誘おうか」
わたしがそう言うと、智香は一瞬だけ黙った。
ほんの数秒の沈黙のあと、小さく「……うん」と答えた。
その声は明るいようで、どこか小さく響いていた。
翌日、わたしとみやびは智香の家に集まった。
冬の光が差し込むリビングのテーブルの上には、
参考書とプリントと、甘いお菓子が散らばっている。
「はぁ〜、冬休みも勉強かぁ……」
智香がシャーペンを回しながら大げさにため息をつく。
「言い出したの、智香ちゃんですよね」
みやびが小さく笑う。
智香は「だって退屈だったんだもん」と肩をすくめた。
「冬休み、何かした?」
みやびが何気なく尋ねると、智香は少し考えてから、
笑いながら答えた。
「あたし? ずーっと家に引きこもってたよ。
七海と電話してるか、寝てるか、そんなのばっか」
その笑顔は、軽くて明るくて、
でもほんの少しだけ、胸に刺さるような寂しさが混じっていた。
「……冬休みって、思ったより長いよね」
智香は窓の外をちらりと見ながら言った。
その横顔に、言葉にできない影がよぎるのを、わたしは見逃せなかった。
シャーペンの先でノートに数字を書き込みながら、ふと顔を上げた。
窓の外は、白い世界になっていた。
朝から降り続いていた雪が、いつの間にか地面をすっかり染めている。
「……あ、雪」
わたしのつぶやきに、智香も窓のほうを見た。
「わぁ、積もってるじゃん! 朝はまだ全然だったのに」
静かな住宅街の屋根も道も、白く覆われている。
その静けさに、部屋の中の暖かさが急に現実感を増す。
「……ちょっと休憩しませんか?」
みやびがそっと声をかけた。
「せっかくですし……雪、触ってみたいです。雪遊びとか……」
「雪遊び! いいね、それ!」
智香が勢いよく立ち上がる。
「勉強ばっかで退屈してたとこだし、外行こ行こ!」
わたしも、机に散らかったプリントを見てため息をついた。
どうせ集中力も切れていたし、みやびの提案は少しだけ心を軽くした。
「……ちょっとだけね」
そう言うと、智香は嬉しそうに笑った。
雪に覆われた外の景色は、まるで別の世界に誘っているみたいだった。
外に出ると、冬の空気が頬を刺した。
吐いた息が白く揺れて、目の前の世界はすっかり白く塗り替えられている。
庭の植木も、電線の上も、屋根の端も──全部、雪の静けさに包まれていた。
「わぁ……ふかふかです」
みやびが手袋越しに雪をすくい上げる。
その声は思わず零れたみたいにやわらかかった。
「見て七海! 雪だるま作れるよ!」
智香はもうしゃがみこんで、雪をぎゅっと丸めている。
その背中を少し離れたところから眺める。
智香がずっと家にこもっていたなんて、やっぱり意外だ。
──純のことがあったからだろうか。
笑っているけど、心の奥ではまだ、雪みたいに冷たく固まった何かを抱えているのかもしれない。
そんなことを考えていたら──
「……っ!」
視界が突然、真っ白になった。
冷たい感触が頬に当たり、思わず肩をすくめる。
「ははっ、命中!」
声のする方を見れば、智香が雪玉をもうひとつ握りしめて笑っていた。
頬を赤くして、子どもみたいに。
みやびも隣で口元を手で押さえながら、くすくす笑っている。
「七海もさ、そんなとこで見てないで──遊ぼうよ!」
智香の声が、白い景色に跳ねるように広がった。
その無邪気な笑顔に、胸の奥で凍っていた何かが、
ほんの少しだけ溶けていくような気がした。
「……たまには、いいか」
そうつぶやいて、わたしは足元の雪を手ですくった。
冷たさが手袋越しに伝わる。ぎゅっと握ると、雪玉ができた。
「おっ、七海参戦だ!」
智香が目を輝かせる。
その声に、みやびもぱっと顔を明るくした。
雪玉を投げ合うと、白い粉がふわりと舞い上がった。
空気が冷たいのに、胸の奥は不思議と熱い。
「ねえ、覚えてる? 小さい頃、二人で雪遊びしたこと」
智香が雪を丸めながら、懐かしそうに言った。
「七海が雪の上に寝転んでさ、あたしが上から雪をかけて、
泣かせちゃったんだよね」
「……あったね。あれはひどかった」
思い出して、つい苦笑する。
みやびは少し羨ましそうに、二人の顔を交互に見ていた。
「いいなぁ……そういう思い出、わたしにはないから」
その声は小さくて、雪の冷たさに似た透明さを帯びていた。
そのときだった。
「七海ー、待てーっ!」
雪玉を持った智香が、勢いよくわたしの方に駆けてくる。
でも、足元の雪に滑った。
「──わっ!」
次の瞬間、わたしの体は雪の上に押し倒されていた。
上には智香。顔が近い。
吐く息が白く重なって、彼女の頬も耳も赤い。
雪の冷たさが背中に染みてくる。
それよりも、胸の奥の熱さのほうがずっとはっきりしていた。
──顔が、近かった。
智香の吐く白い息が、頬にかかる距離。
睫毛の一本一本まで見えて、
その瞳の奥に、笑顔と寂しさがまざっているのがわかった気がした。
ほんの一瞬だったはずなのに、
時間が伸びたみたいに、心臓の音だけが耳の奥で響いていた。
どうして、こんなに息が詰まるんだろう。
どうして、こんなに目を逸らせなかったんだろう。
──やっぱり、わたしは智香のことが。
「ご、ごめん、七海っ!」
智香が慌てて立ち上がった。
雪まみれの手袋をぱたぱたさせながら、顔は真っ赤だ。
息も少し上がっている。
「七海ちゃん、大丈夫ですか?」
みやびが心配そうに駆け寄ってくる。
小さな手が、そっとわたしの肩に触れた。
「あ……うん、大丈夫。全然、痛くないから」
平然を装った声は、思ったよりもちゃんと出ていた。
でも、心臓の鼓動だけは隠しきれない。
自分にしか聞こえないはずのその音が、やけにうるさかった。
「……そろそろ、部屋に戻ろっか」
そう言うと、智香も「そ、そうだね」と頷いた。
みやびはわたしの上着についた雪を軽く払ってくれる。
その手のやわらかさに、少しだけ胸がちくりとした。
家に向かって歩きながら、
白い庭に残った三人の足跡を、わたしは何度も振り返った。
雪は静かに降り続いていて、
さっきまでのはしゃぎ声は、まるでなかったことみたいに吸い込まれていく。
部屋に戻ると、外の白さとは別世界みたいに暖かかった。
ストーブの前に置かれたテーブルに再び腰を下ろすと、
窓ガラスの向こうに小さな雪の粒が静かに降り続いているのが見える。
「じゃ、再開ね」
わたしはプリントを広げながら言った。
「……はぁい」
智香はシャーペンを手に取り、素直に頷いた。
さっきまで雪の上で無邪気に笑っていたのが嘘みたいに、
どこかおとなしい。
「ほら、ここ。二次関数のグラフは、頂点の座標を先に出すの」
「あ、うん……こう?」
智香は眉を寄せて問題に取り組む。
わたしが横からそっと手を伸ばし、赤ペンで小さく補助線を引くと、
「あ、そっか」と小さく声をあげた。
そのやりとりを、みやびがじっと見ていた。
ノートを抱えたまま、視線だけがこちらに向けられている。
その目は、真剣というよりも……なにか、別の感情が滲んでいるように見えた。
わたしと智香の間に流れる静かな空気に、
みやびだけがそっと耳を澄ませているみたいで、
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
シャーペンの音とストーブの低い唸りだけが部屋に満ちていた。
外の雪はまだしんしんと降り続けていて、
その静けさが、時間をゆっくりとしたものに変えていく。
誰が最初に言ったのかは覚えていない。
ふと、こんな声がこぼれた。
「……もうすぐ、今年終わるね」
その一言で、部屋の空気が少しだけゆるんだ。
「ほんとですね。もう、年越しか……」
みやびが小さく頷く。
「年越しの瞬間って、みんな何してるの?」
「あたしはいつもテレビ見ながらゴロゴロしてるよ。
カウントダウンの瞬間だけ、なんか妙にソワソワするんだよね」
智香が笑いながら答えた。
「わたしは……家族でお蕎麦食べて、そのまま寝ちゃうことが多いです」
みやびの言葉は控えめで、なんだか微笑ましい。
少し間が空いて、智香がシャーペンをくるりと回した。
「ねぇ、年越しの瞬間さ──3人で一緒にいたら、絶対楽しくない?」
その声は、雪の静けさに吸い込まれるみたいに響いた。
思わず手を止めて、智香の顔を見る。
頬はほんのり赤く、瞳は期待で少しきらきらしている。
「え……3人で?」
「うん。七海とみやびちゃんと一緒にさ。
カウントダウンして、初詣とか行けたら、絶対楽しいよ」
みやびは驚いたように瞬きをして、すぐに笑みを浮かべた。
「……楽しそうですね。わたし、そんなの初めてかも」
その言葉に、胸の奥がほんのり温かくなった。
玄関先で靴を履きながら、智香は「今日はありがとね」と笑った。
「また電話するから! 冬休みの宿題、残りも一緒にやろうね」
「うん……じゃあ、またね」
バイバイ、と手を振る智香の声は、夜の冷たい空気に少しだけ弾んで消えた。
わたしとみやびは振り返りながらその姿が見えなくなるまで歩いた。
雪を踏む音だけが、静かな住宅街に響く。
みやびが隣でふっと白い息を吐いた。
「……智香ちゃん、やっぱり無理してました」
その声は、雪と同じくらい静かで透明だった。
わたしは「うん」とだけ答えた。
「たぶん……まだ、クリスマスパーティのこと、引きずってます」
みやびは目を伏せて続ける。
「でも、あの時ちゃんと気持ちを伝えた智香ちゃんは、やっぱりすごいです」
胸の奥がちくりと痛んだ。
あの日のことが鮮やかによみがえる。
体育館の裏で泣き崩れた智香、言葉を失って立ち尽くす自分、
そして──そっと隣にいたみやびの温もり。
「……うん、そうだね」
小さく答えると、白い息が夜空に溶けた。
静かな住宅街に、三人で過ごした時間の余韻だけが
まだふわふわと残っているような気がした。
雪を踏む足音と、夜の静けさだけが続く帰り道。
わたしの白い息と、みやびの白い息が並んで、ゆっくり溶けていく。
「……七海ちゃん」
みやびが、少しだけためらうようにわたしの名前を呼んだ。
足元の雪を見つめたまま、声は夜に溶けてやわらかい。
「智香ちゃんのこと……ほんとに、大事なんですよね」
胸の奥が小さく揺れた。
言葉に詰まったわたしを、みやびは横目でちらりと見て、
そしてまた前を向いた。
「……わたしも、七海ちゃんにそんなふうに思われる人になれたら、
すごくうれしいな」
足元の雪がきゅっ、と鳴った。
夜の空気は冷たくて、頬がひりつく。
でもその言葉だけは、雪の上に落ちてじんわりと溶けるみたいに、
胸の奥で温かく残った。
それきり、言葉は出てこなかった。
わたしも、みやびも。
ただ、足音と雪の軋む音だけが夜の住宅街に溶けていく。
街灯の明かりに照らされて、白い息がふわりと並んで浮かんでは消えた。
手袋越しの手がふと触れそうになって、
お互いに何も言わずに少しだけ距離を空ける。
その沈黙は気まずくなくて、
むしろ、胸の奥にゆっくりと沁みていくようだった。
みやびの言葉が、まだ心の奥に熱を残している。
雪は相変わらず静かに降り続けていて、
足跡だけが、わたしたちがここにいた証のように並んでいた。
この夜のことは、たぶん忘れない──
そんな確信だけが、胸の奥で小さく灯っていた。
家に帰ると、部屋はいつも通り静かで、外の雪の白さだけが窓越しににじんでいた。
コートを脱ぎながら、さっきまでの光景が何度も胸の奥で反芻される。
──智香は、あんなにまっすぐ気持ちを伝えられたのに。
泣きながら、傷つきながら、それでも言葉にした。
わたしには、あんなことできない。
できるはずがなかった。
もしも、わたしが心の奥に隠している気持ちを言葉にしたら──
それはきっと、誰も幸せにしない。
智香も、みやびも、そしてわたし自身も。
だから、わたしは黙っている。
雪の下に眠る土みたいに、誰にも触れられない場所で、
自分だけの気持ちをそっと抱えている。
けれど。
みやびの言葉が、まだ胸の奥でやさしく残っている。
「七海ちゃんに、そんなふうに思われる人になれたら、うれしい」──
思いを伝えることはできなくても、
この気持ちだけは、静かに大事にしていきたいと思った。
窓の外の雪は、降り止む気配を見せない。
その白さに、わたしの沈黙もゆっくりと溶けていくような気がした。




