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farewell  作者: 七瀬


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4/7

人を好きになるって、どういうことなんだろう

 翌朝。

 学校の昇降口は、まだ一日の始まりのざわめきで満ちていた。

 靴を履き替えようと下駄箱を開けた瞬間、

 見慣れない白い封筒が目に入った。

 ──まただ。

 思わず、心の中でそうつぶやいた。

 名前の書かれていない封筒。

 けれど宛先は、わかりやすいほど丁寧な字で「内田七海さんへ」と書かれていた。

 ラブレター。

 何度目だろう。

 男の子たちはどうしてこんなに勇気を出せるんだろうと、

 少しだけ他人事のように思う。

 わたしは封筒を鞄にそっとしまった。

 返事は──たぶん、今回も断る。

 それは決めているのに、

 ほんの少しだけ、足取りが重くなった。

 「七海ー! おはよ!」

 元気な声が背中から飛んできた。

 振り向けば智香が駆け寄ってきて、

 その後ろから、みやびが小走りでついてくる。

「どうしたの? なんか暗い顔してるじゃん」

「……別に。なんでもない」

「怪しいなぁ。ま、いいけど」

 智香はそう言って笑ったけれど、

 その横で、みやびはわたしを見上げるようにして、

 心配そうな目をしていた。

 ──なんでもない。

 本当は、なんでもないはずだった。

 でも、封筒のことが気になって、

 教室までの廊下を歩く間じゅう、ずっと鞄の重さが消えなかった。

 放課後。

 廊下には部活へ向かう生徒の足音が遠くに響いていた。

 わたしは昇降口の近くの廊下で、

 手紙の差出人──同じ学年の男子と向かい合っていた。

「……読んでくれた?」

「うん。読んだ」

 彼は少し緊張した顔をしていた。

 でも、その顔を見て、なんとなく胸が締めつけられる。

「ごめん。……気持ちは、嬉しいんだけど」

 口の中で言葉が固くなった。

 それでも、ちゃんと伝えなきゃいけない。

「……あたし、誰かと付き合うとか、そういう気持ちになれないの。

 だから……」

 男子はうつむき、小さくうなずいた。

「……そっか。わかった」

「……ごめん」

 それだけ言って、彼は小走りで去っていった。

 足音が遠ざかるのを、わたしはただ見送った。

 ──また、同じことをした。

 自分の中に誰かを好きになる気持ちがない。

 そういう自分が、少しだけ嫌になりかけた。

 そのとき、昇降口の柱の陰で、

 人影が揺れるのが見えた。

「……みやび?」

 声をかけると、彼女は小さく肩をすくめて、

 気まずそうにこちらを見た。

「あ、あの……ごめんなさい。

 ……見てしまって」

 みやびはおずおずと近づいてきて、

 抱えていた鞄をぎゅっと握りしめた。

「……断ったんです、よね?」

「うん」

 わたしが答えると、

 みやびは何かを言いかけて、結局口をつぐんだ。

「別に、見られても平気だから」

「……でも、なんだか……」

 みやびは言葉を探しているみたいだった。

 その顔が、ほんの少し寂しそうに見えた。

「……七海ちゃんって、

 こういうの、慣れてるんですね」

「……どうだろう。

 慣れたくなんてないけど」

 わたしはそう言って、

 鞄の肩ひもを握り直した。

 昇降口を出ると、空はすっかりオレンジ色から群青に変わりかけていた。

 部活帰りの生徒たちの声が遠くに聞こえる。

 わたしたちは、自然と並んで歩き出していた。

 みやびはずっと下を向いたままだった。

 わたしも何かを言うべきか迷ったけれど、言葉が出てこなかった。

 しばらく歩いたあと、ぽつりと口を開いた。

「……人を好きになるって、どういうことなんだろうね」

 自分でも驚くほど、声が小さかった。

 でも、みやびには届いたみたいだった。

「え……?」

「いや、なんか……よくわかんないなって」

 そう言いながら、わたしは夜風に少し肩をすくめた。

「好きってさ、どういう気持ちなのか。

 あたしには、いまいちピンと来なくて」

 みやびは、すぐには答えなかった。

 足音だけがアスファルトに響く。

 やがて、小さく息を吸う音がした。

「……わたしは」

 みやびの声が、少しだけ震えていた。

「一緒にいたいって思ったり、

 その人のことを考えると、心があたたかくなったり……

 そういうのが、“好き”なんじゃないかなって思います」

 その言葉は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。

「……そうなんだ」

 わたしは空を見上げた。

 街灯の光が、空にぽつんと溶けていく。

「その人のことを考えると、あたたかくなる、か……」

 口の中でその言葉を転がしてみても、

 まだ答えはよくわからなかった。

 でも、隣を歩くみやびの横顔を見たとき、

 心の奥が、ほんの少しだけざわついた気がした。

「……ありがと。なんか、少し考えてみる」

 そう言うと、みやびは小さく笑った。

 その笑顔は、夜道の光の中で少しだけ儚く見えた。


 試験が近くなったある日の放課後。

 わたしたちは智香の家のリビングに集まって、数学の勉強をしていた。

 テーブルの上にはノートと参考書が散らばっている。

「七海さー、この問題さ、どうしてここで符号が変わるの? 途中でわけわかんなくなるんだけど」

「符号が変わるんじゃなくて……計算した結果、マイナスになっただけ」

「いや、それがわからないんだってば!」

 智香が頭を抱えてうなる。

 わたしはノートを取り上げて、問題の式をさっと書き写した。

「ほら、xがマイナスのときにここを二乗すると……」

「あ、ちょっと待って。今のでつまずいた」

「……」

 ため息をひとつ。

 でももう一度、ゆっくり区切って説明する。

「二乗すると、符号がプラスになるよね。だからここはこう整理できる」

「え、待って、それって覚えるしかないやつ?」

「いや、覚えるっていうか……そういうルールだから」

 そのやりとりの横で、みやびが小さく笑った。

 智香のノートを手元に寄せ、静かな声で言う。

「智香ちゃん、ここ、数字を表にして整理すると見やすいですよ」

「表?」

「はい。xが小さいときと大きいときで、値が増えるか減るか並べていくんです」

 ペンで簡単な線を引きながら説明すると、智香が「なるほど」と顔を上げた。

「みやびちゃんの言い方、すごく落ち着く……」

「七海ちゃんが言ってるのと同じですよ。ただ、まとめただけです」

「……あたし、そんなに怖い言い方してた?」

「ちょっと真剣すぎるのかもしれないですね」

「ほら、七海ってさ、目が本気モードすぎて怖いんだよ」

 智香が横からニヤリと笑う。

「……別に本気モードとかじゃないけど」

 でも、わたしは意識して声をやわらかくした。

「……じゃあ、もう一回一緒にやろっか。最初から」

「うん……!」

 智香がペンを握り直し、みやびが横でノートを整える。

 鉛筆の音がリビングに響く。

 その音が、なぜか心地よかった。

 「……もう無理、頭が爆発する」

 智香がノートを閉じると、そのまま床に寝そべって動かなくなった。

 次の瞬間、小さな寝息が聞こえはじめる。

「ほんとに寝た……」

 わたしが呆れたように言うと、みやびがクスクス笑った。

 その笑い声が、さっきまでの騒がしい空気をあっけなく溶かしてしまった。

 リビングは急に静かになった。

 鉛筆を走らせる音も、智香の賑やかな声もない。

 ただ、時計の秒針の音と、智香の安定した寝息だけが響いている。

 わたしはノートを片づけながら、ふと隣に座るみやびを見る。

「……智香ちゃんと七海ちゃんって、仲いいですよね」

 みやびがぽつりと言った。

 その声は柔らかかったけれど、どこか探るようでもあった。

「……まぁ、小さい頃からずっと一緒だから。

 勉強を教えるのも、もうしょっちゅうだよ」

 わたしは智香の寝顔に目を向ける。

 彼女のこういう無防備な顔を、何度見てきたんだろう。

「小学校のときも、中学のときも、試験前になるとだいたい智香が泣きついてきてさ。

 “七海〜助けて”って。

 結局こうやって教えることになる」

 その言葉に、みやびが小さく笑った。

「……なんだか、羨ましいです。

 そういう関係、わたしにはなかったから」

「そうなの?」

「はい。転校ばかりで……だから“ずっと一緒”っていうの、少し憧れます」

 みやびは膝の上で手を組み、視線を落とした。

 その表情がほんの少し切なく見えた。

「でも、七海ちゃんと智香ちゃんの関係……いいですね。

 安心できるっていうか、温かい感じがして」

「……そうかな」

 わたしは曖昧に答えながら、みやびの顔を見た。

 彼女の瞳は真剣で、少しだけ揺れていた。

 そのとき、智香が寝返りを打って「んー……」と小さく声を漏らした。

 その音にわたしたちは目を合わせて笑った。


「智香、起きて。もう時間だよ」

 肩を揺すっても、反応がない。

 みやびがそっと手を添えて、少しだけ声を大きくした。

「智香ちゃん……起きてください」

 すると智香が小さくうめき声を漏らして、のそのそと顔を上げた。

「……んぁ……もうちょっとだけ……」

「もうちょっとでどうするの。ここはあんたの家だからいいけど、わたしたちが帰れない」

「……んー……わかったよ」

 智香は寝ぼけ眼のまま、だるそうに立ち上がった。

 その姿があまりにも頼りなくて、みやびが小さく笑った。

「……なんで笑ってるの」

「いえ……智香ちゃん、ほんと無防備だなって」

 智香はまだ状況が飲み込めていないようで、ふわふわしたまま玄関へ向かっていく。

 わたしたちは鞄を手に取り、そのあとに続いた。

 外に出ると、夜風が思ったより冷たかった。

 智香は欠伸を噛み殺しながら言った。

「もう限界……明日も勉強だよね?」

「そうだね。……今日はもうゆっくり寝なよ」

「うん……でも二人はまだ平気そうだなー。あたしばっかり弱い子みたいじゃん」

「別にそんなことないよ......それじゃ」

 そう言って、わたしとみやびは智香の家をあとにする。

 二人で歩く帰り道は、さっきまでの勉強会の空気を引きずったまま、静かで、少しあたたかかった。




 試験が無事に終わると、学校は文化祭の準備モードに入った。

 どのクラスも、放課後は教室を使って打ち合わせや作業をしていて、

 廊下は段ボールやペンキの匂いが漂っている。

 わたしたちのクラスも例外ではなかった。

 投票の結果、出し物はメイド喫茶に決まった。

「メイド喫茶かー……定番だよね」

 智香が少し退屈そうに言う。

「でもいいんじゃないですか? 衣装かわいいですし」

 意外にも、みやびがすごく前向きだった。

「……みやびって、そういうの好きなんだ?」

 わたしが聞くと、みやびは照れたように微笑んだ。

「はい。コスプレとか、かわいい服とか……見るのも着るのも、好きです」

「へぇ〜。みやびちゃんがメイド服着たら、絶対かわいいじゃん」

 智香が軽口を叩くと、みやびは少しだけ頬を赤らめた。

「そんなことないです……」

「あるって。ね、七海?」

 いきなりふられて、わたしは少し間を置いた。

「……似合うと思うよ。みやびって落ち着いた雰囲気だし」

 そう言うと、みやびは視線を落として「ありがとうございます」と小さくつぶやいた。

 教室の窓から差し込む午後の光が、

 にぎやかな作業の音と混じり合っていた。

 文化祭が近づいているんだと、改めて感じた。

 文化祭のクラス分担が決まった。

 わたしは裏方の仕事を任されることになった。

 ホールで呼び込みやお客さん相手に立つのは……正直、想像するだけで気恥ずかしい。

 だからちょうどよかった。

「七海、ほんとに裏方でいいの? メイド服、着ないの?」

 智香がにやにやしながら言ってきた。

「着ない」

「絶対似合うのに〜」

「着ないから」

 そうやって軽くあしらっている間に、

 みやびと智香は接客係に回ることが決まった。

 当日はメイド服を着て、ホールでお客さんの対応をする。

 そして文化祭当日。

 廊下や校庭には他クラスの出し物の呼び込みの声が響いていた。

 わたしたちの教室のドアの向こうでは、すでにお客さんの笑い声や拍手が聞こえる。

 わたしは受付で会計や注文票の管理をしながら、ちらりとホールの様子を覗いた。

「いらっしゃいませ。お席にご案内しますね」

 みやびだった。

 控えめな声だけど、丁寧で落ち着いたその対応は、

 思った以上に板についていた。

 メイド服も、彼女の雰囲気にすんなり馴染んでいる。

「え、みやび……すごい」

 思わず小さくつぶやく。

 智香はというと、愛想よくお客さんに話しかけていて、

 場の雰囲気を盛り上げるのが得意そうだった。

 でも、みやびの接客はそれとは違って、

 一人ひとりに寄り添うような柔らかさがあった。

「……あの子、すごいな」

 クラスの男子も感心したようにつぶやいているのが聞こえた。

 それを耳にしたわたしは、なんだか誇らしいような、

 でも少し胸がざわつくような気持ちになった。

 昼休憩の時間になり、ホールの喧騒がひと段落した。

 受付の帳簿を片づけていると、ドアの向こうから足音が近づいてきた。

「七海ー!」

 智香だった。

 メイド服姿のまま、満面の笑みを浮かべて手を振っている。

 その横に、少し照れたような顔のみやびが並んでいた。

「どう? 似合ってるでしょ?」

 智香が得意げにポーズをとる。

 フリルのついたエプロンをつまみ上げて、

 わざとらしくくるりと回ってみせた。

「……似合ってるんじゃない」

 わたしが少しぶっきらぼうに答えると、智香はさらにニヤリと笑った。

「ほらー、七海だって認めた! ね、みやびちゃんも言って」

「……はい。智香ちゃん、すごく似合ってます」

 みやびは小さくうなずいた。

 でもそれ以上に、メイド服のみやび自身がよく似合っていた。

 落ち着いた雰囲気と清楚な服装がぴったりで、

 わたしは少しだけ視線を逸らした。

「午後からは担当が交代になるんだって」

 智香が腕を組んで言う。

「だから、わたしたち自由時間なんだよ。せっかくだから3人で構内まわろうよ」

「……いいけど。みやびは?」

「わたしも行きたいです。みんなの出し物も気になりますし……」

「決まり!」

 智香がぱんっと手を叩いた。

 その明るい声に、わたしとみやびも自然と笑顔になった。

 みやびと智香が制服に着替えて戻ってくると、

 わたしたちはそのまま構内を回ることにした。

「お腹すいた〜。なにか食べたい!」

 智香の声に導かれるように、隣のクラスの出し物に立ち寄る。

 屋台風の装飾の前でチョコバナナを買って、3人で並んで頬張った。

「……甘い」

「おいしいですよね」

 みやびが小さく笑う。

「智香、もうチョコ口につけてる」

「えっ、ほんと!? 七海ふいて!」

「なんでわたしが……」

 そんな他愛もないやりとりをしながら、

 わたしたちは校舎を出て校庭へと向かった。

 外は、想像以上の人混みだった。

 屋台の呼び込みの声、楽器の音、笑い声が入り混じっている。

 校庭の中央ではダンス部がパフォーマンスをしていて、

 人の波が一方向に押し寄せる。

「うわ、すごいね」

「……これは、ちょっと動きづらいですね」

 わたしたちは列になって人混みを進もうとした。

 でもそのとき、前を歩いていた智香の背中が突然見えなくなった。

「……智香?」

 振り返ったみやびの手が離れていくのが見えた。

 人の流れがわたしの肩を押し、思わず足が止まる。

「みやび──!」

 声をかけようとしたけれど、

 人の波に遮られて二人の姿が消えた。

 ──はぐれた。

 立ち止まって辺りを見回しても、

 見知った顔はどこにもいない。

 ざわめきの中で、自分の声だけが小さく聞こえた。

「……どうしよう」

 人混みをかき分けるようにして、わたしは校庭の端へ向かって歩いた。

 どの顔も知らない顔に見えて、妙な心細さが胸の奥に広がっていく。

「……はぐれるなんて」

 自分に言い聞かせるように小さくつぶやいた。

 だけど焦っても仕方がない。

 仕方がないから、わたしはそのまま校舎の裏手のほうへと足を向けた。

 そのときだった。

 前方の人混みの向こうに見覚えのある背中が見えた。

「……純?」

 そう思って、思わず足が止まった。

 声をかけようとして、次の瞬間、言葉が喉の奥で固まる。

 純は、わたしの知らない女の人と手をつないで歩いていた。

 きっとクラスメイトだろう。

 ふたりは近くの屋台に並びながら、何か話して笑っていた。

 純はこちらに気づく様子はなかった。

 わたしも呼び止めることができなかった。

 人の流れがふたりを飲み込んで、あっという間に見えなくなった。

 胸の奥がざわついた。

 でも、そのざわめきはわたし自身のためじゃなかった。

 真っ先に浮かんだのは──智香のことだった。

 もし、あの子がこの光景を見たら、どんな顔をするんだろう。

 そう考えた瞬間、わたしは無意識に唇を噛んでいた。

 校庭の人混みをさまよっていると、

 名前を呼ぶ声がざわめきの向こうから飛んできた。

「七海ーっ!」

 振り向いた先に、智香がいた。

 人混みをかき分けながら、手を振って駆け寄ってくる。

 その顔はいつものように明るくて、眩しいほどだった。

「見つけた! もう、どこ行ってたの?」

「……ごめん。はぐれちゃって」

「ほんとだよー。みやびちゃんとふたりで必死に探してたんだから」

 そう言いながら、智香はわたしの肩を軽く叩いた。

 心配した様子をまったく見せないその笑顔に、

 胸の奥がひどく締めつけられる。

「……ありがと」

「なにそれ。とりあえず合流しよ。みやびちゃん、向こうで待ってるから」

 智香が先に歩き出す。

 わたしはその背中を見つめながら、

 さっきの光景が頭から離れなかった。

 ──純が、わたしの知らない女の子と手をつないでいた。

 そのことを、智香に言えるはずもなかった。

 言ったところでどうなるわけでもないのに、

 智香のあの笑顔を曇らせたくなかった。

「……行こうか」

 そう小さくつぶやいて、わたしは智香の背中を追った。

 夕方の光が校庭を照らしていて、

 その眩しさが少しだけ目に沁みた。

 智香に連れられて校庭の隅に向かうと、みやびが待っていた。

 人混みの中でも見つけやすい控えめな立ち姿で、こちらに気づくと安心したように笑った。

「七海ちゃん……よかった、見つかって」

「ごめん。人が多くて……」

「もう、ほんとだよー。こっちは焦ってたんだから」

 智香が大げさに肩をすくめて見せる。

 でも、みやびの目元の緊張がほぐれていくのを見て、胸が少しだけ軽くなった。

「せっかくだし、次はステージ見に行こうよ!」

 智香が指差したのは校庭の端にある特設ステージだった。

 軽音楽部がライブをしているらしく、スピーカーから響くギターの音が校庭いっぱいに広がっている。

 人だかりの後ろに立って、3人並んでステージを見上げた。

 眩しいライトの下で、ボーカルの男子が汗を飛ばしながら歌っている。

 ドラムの音が胸に響くたび、観客の手拍子も大きくなる。

「すごいですね……迫力あります」

 みやびが小さく目を見開いて言った。

「だねー。軽音の人たち、練習のときから気合い入ってたし」

 智香が口ずさむようにリズムを取りながら楽しそうに笑う。

「次のバンドは知ってる先輩が出るんだって!」

「え、そうなんですか?」

「そう、だからちゃんと見ないと!」

 智香が嬉しそうに身を乗り出した。

 夕方の風が頬を撫でて、ギターのイントロが再び響く。

 わたしは拍手しながら、二人の間に流れるあたたかな空気を少しだけ意識してしまっていた。

 そんなこんなで、楽しい文化祭の時間はあっという間に過ぎていった。

 あれほど賑わっていた校庭も、夕暮れが近づくにつれて少しずつ静けさを取り戻していく。

「もうこんな時間か……」

 智香が小さく伸びをした。

 わたしたちは人混みを抜けて教室に戻る。

 さっきまでお客さんでいっぱいだった教室は、今はクラスメイトだけになっていて、

 メイド喫茶の飾りつけが少し物寂しく見えた。

「これも今日で終わりなんですね」

 みやびがエプロンの端を指でつまみながら言った。

「……そうだね。なんだか、切ないね」

 せっかくみんなで作り上げた空間も、明日には片付けられてしまう。

 そう思うと、少し胸がきゅっとなった。

「はい、ちょっとちょっと! みんな並んで!」

 誰かがスマホを掲げて声をあげた。

「最後に集合写真撮ろうよ!」

「いいね、それ!」

「じゃあ机片付けてスペース作ろ!」

 わたしたちは急いで机を端に寄せ、全員で並んだ。

 メイド服のままの子も、裏方で動き回っていた子も、全員が笑顔になっている。

「七海、もうちょい前! ……みやびちゃんもこっち来て!」

「わ、わたしですか?」

「そうそう、真ん中がいいって!」

 智香に背中を押され、わたしはみやびの隣に立った。

 その瞬間、教室のざわめきがひとつの空気にまとまっていくのを感じた。

「じゃあ撮るよー! はい、チーズ!」

 カシャ、というシャッター音が鳴った。

 その一瞬を閉じ込めた画像は、きっと数年経っても色褪せないんだろうな──

 そんなことを思った。

 集合写真を撮り終えたあと、教室の空気は一気に「片付けモード」に切り替わった。

 飾りつけを外す音、机を動かす音、ガムテープを剥がす音。

 さっきまでお客さんでいっぱいだった教室は、

 少しずつ元の教室に戻っていく。

「伊藤ちゃん、もう一回メイド服着てよ! 片付けしなくていいから!」

「え、でも……」

「ほらほら、写真撮らせてー!」

 気がつくと、教室の隅でみやびが囲まれていた。

 メイド服のままポーズをとらされて、

 スマホのシャッター音が次々と響く。

 ちょっとした撮影会みたいになっていた。

「みやびちゃん可愛すぎ!」

「ほんと似合うよねー!」

 みやびは困ったように笑っていたけれど、

 その表情はどこか嬉しそうにも見えた。

 制服のときよりもずっと華やかで、

 クラスの中にすっかり溶け込んでいるように見えた。

「純くんも来てくれればよかったのにね」

 机を動かしていた智香が、ふとそんなことをつぶやいた。

 何気ない声色だった。

 でもわたしはその言葉に反応して、手が一瞬止まった。

「せっかくの文化祭なんだしさ。……今年は忙しかったのかな」

 智香は机の脚のほこりを拭きながら、

 少し寂しそうに笑った。

 その横顔を見て、胸がざわつく。

 ──さっき見た光景が頭をよぎった。

 人混みの中、純が知らない女の子と手をつないで歩いていたこと。

 それを、智香は知らない。

 知らないまま、純を想っている。

 何も言えなかった。

 言えるわけがなかった。

「七海、そっちは終わった?」

「あ、うん……もうすぐ」

 わたしは手に持ったガムテープを丸めながら、

 胸の奥でしつこく渦を巻くざわめきを

 なんとかやり過ごそうとしていた。

 片付けが終わる頃、クラスの誰かが声を上げた。

「このあと打ち上げしない? ほら、空いてる教室で!」

「いいね!」

「行く行く!」

 盛り上がる声が教室のあちこちから聞こえてきた。

 智香も「絶対楽しいやつじゃん!」と笑っていたし、

 みやびも少し戸惑いながらも「わたしも……行きます」と答えていた。

 けれど、わたしはどうしてもその輪に入る気になれなかった。

 笑って過ごすだけの自信がなかった。

「七海は?」

 智香が振り返って聞いてくれたけれど、わたしは小さく首を振った。

「ごめん、ちょっと疲れたから、今日は帰る」

「えー……でも仕方ないか。また明日ね!」

 智香はそれ以上深く聞かず、笑顔で手を振ってくれた。

 その背中を見送りながら、わたしは一人で教室を後にした。

 帰り道の夜風は、昼間よりも少し冷たかった。

 文化祭の飾りが残る校門を出て、

 住宅街の薄暗い道を歩きながら、

 今日の出来事をひとつずつ思い出していた。

 ──純が、知らない女の子と手をつないでいたこと。

 智香のあの、無邪気な笑顔。

 みやびがクラスの真ん中で囲まれて、

 嬉しそうに写真を撮られていた姿。

 あの時間が楽しくなかったわけじゃない。

 むしろ、とても楽しかったはずなのに、

 胸の奥には小さなざらつきが残っていた。

 みんなが笑っているとき、

 わたしはちゃんと笑えていただろうか。

 そう考えると、心が少しだけ重くなる。

 家に着いて制服を脱ぐと、

 部屋の静けさが一層深く感じられた。

 文化祭の喧騒が嘘みたいに遠い。

 ベッドに横になって目を閉じる。

 暗闇の中、智香の横顔が浮かんだ。

 それから──純の姿も。

 あのふたりの名前を、心の中で呼んだ。

 でも、声にはならなかった。

 言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまいそうだったから。


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