ほんの少しだけ、変わりそうな予感
朝の空気は少し冷たくて、歩くたびに靴底が小さく鳴った。
曲がり角の向こうで、智香が手を振っていた。
「おはよー、七海!」
元気な声が朝の街に響く。
「……おはよ」
返事をすると、智香はにこっと笑って、わたしの横に並んだ。
「ねぇ、昨日の夜、テレビであのパンケーキ特集見た?」
「いや、見てないけど」
「めっちゃおいしそうだったんだよ。なんか、空気みたいに軽いパンケーキ!」
「空気食べて何が楽しいの」
「いやいやいや! ふわふわ感が大事なの!」
「ふわふわって、ほとんど気配だけじゃん」
そんなやりとりで、自然と笑ってしまう。
「じゃあ今度さ、放課後にカフェ行かない? あたし、あのパンケーキ食べたい!」
「……別にいいけど」
「おおー! 七海の“別にいいけど”は“行きたい”って意味だから、決定ね!」
「勝手に翻訳すんな」
智香は肩をすくめながらも、楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、昨日の夜のLINEのことが頭をよぎる。
──「大丈夫?」
たった一言だったのに、妙に泣きそうになった。
本当は、言おうと思っていた。
「昨日、ありがとう」って。
「ちょっと嬉しかった」って。
でも、うまく言葉にならなかった。
それを言ってしまえば、
“昨日のわたしが元気じゃなかった”って、はっきり認めてしまう気がして。
“ほんとうは、少しだけ泣きそうだった”って、悟られてしまいそうで。
だから、何も言わなかった。
でも、わたしの沈黙を責めることもなく、
智香はいつもの調子で、空気を明るくしてくれた。
──それが、彼女らしいところだった。
やさしさを、あえて見せないやり方で。
深く踏み込まずに、隣にいてくれる、その距離感で。
だからこそ、いつもわたしは、言えなくなる。
だけど、
こんな朝も、きっと悪くないと思った。
少し冷たい風の中で、
ふたりの靴音が、ちょっとだけずれて響いていた。
その日は、朝から少しだけ空気が違っていた。
教室に入ったとき、いつもよりざわついていた理由は、すぐにわかった。
黒板の端に書かれた「転入生」の文字。
それだけで、クラスはほんの少し浮足立つ。
担任の先生がやってきて、いつものように点呼をして、
ちょっとした連絡事項を伝えたあと、言った。
「今日からこのクラスに新しい仲間が加わります。じゃあ──入ってきて」
ドアが静かに開いて、ひとりの少女が入ってきた。
黒髪の、細いシルエット。
制服の袖は少しだけ長くて、肩までのストレートの髪が、光に透けて揺れた。
彼女は、教卓の前に立つと、ほんの少し間を置いて、口を開いた。
「……伊藤、みやびです。よろしく、お願いします」
声は、本当にかすかだった。
けれど、その“かすかさ”に、教室のざわつきはすっと静まった。
うつむきがちで、でも無理に笑おうとしているような、その表情。
声のトーン、言葉の選び方、佇まい。
全部が、どこか“控えめ”で、だけど“消えていない”。
──伊藤みやび。
その名前が、ほんの少しだけ空気に残るように、頭の中に染み込んできた。
「じゃあ、空いてるあの席に」
先生が示したのは、教室の窓際、前方の席。
みやびは、ぺこりと軽く頭を下げて、言われた通りに歩いていった。
彼女の歩幅は、まるで音を立てないように調整されているみたいだった。
無理に目立たないように、でも、まったく目立たないわけでもなく。
智香が、小さくわたしの耳元でささやく。
「なんか、ちょっと不思議な子だね」
「……うん」
それが、わたしの最初の印象だった。
まだ名前しか知らない。
声も小さくて、表情も読み取りづらい。
でも、たしかに彼女はそこにいた。
伊藤みやび。
その静けさのなかに、
何かが始まる気配だけが、淡く漂っていた。
いつもと変わらない授業。
先生の声は一定のテンポで、黒板のチョークが時折カツンと跳ねる。
視線をノートに落として、何気なく文字を写す。
けれど、いつの間にか、手は止まっていた。
気づけば、わたしの目は、窓際の席──
伊藤みやびのほうに向いていた。
特別、見ようと思ったわけじゃない。
なんとなく視線を動かした先に、彼女がいた、ただそれだけだった。
みやびは、小柄だった。
制服のサイズが少し大きいのか、袖口が手の甲にかかっている。
髪は黒く、前髪はまっすぐに揃えられていて、
肩にかかるストレートが、光をやわらかく弾いていた。
その姿はどこか──わたしたちよりも、ずっと年下に見えた。
けれど、表情はまるで逆だった。
まっすぐ前を向いて、淡々と授業を受けている。
声を出すことも、周囲に合わせて笑うこともないのに、
どこか「ひとりでいること」に、すでに慣れているように見えた。
無理をしていない。
でも、力も入っていない。
静かで、さみしそうで、だけど──どこか大人びている。
まるで彼女だけ、
別の時間をまとってこの教室に座っているみたいだった。
その空気に、わたしは思わず呼吸を浅くした。
──なんだろう。
うまく言えないけど、あの子は“ここにいて、ここにいない”ような気がした。
そのとき、ふと、みやびがわずかに顔を動かした。
目が合ったかもしれない。
でもそれは、ほんの一瞬のことだった。
わたしはあわてて視線をノートに戻して、
書きかけていた式の続きを、何度もなぞった。
授業は、何事もなかったように進んでいく。
でも、わたしの胸の奥には、
静かな違和感のような、淡いざわめきのようなものが、
そっと沈んで残っていた。
チャイムが鳴って、教室にざわめきが戻る。
椅子を引く音、ノートを閉じる音、友達に話しかける声。
そのすべてが混ざって、休み時間という独特の空気をつくっていた。
でも──その中で、ひとりだけ、音の外にいる子がいた。
伊藤みやび。
みやびは、席を立たずに教科書を閉じただけで、
あとは、机の上に手をそっと重ねたまま、前を見ていた。
誰とも目を合わせない。
誰にも話しかけられない。
まるで、自分がこのクラスにまだ属していないとでも言いたげな姿だった。
「ねぇ、七海」
不意に、隣から声がした。
智香が、身を乗り出してわたしの肩をつつく。
顔は、何か思いついたときの、あの“ちょっと悪い顔”になっていた。
「話してみようよ、みやびちゃんと」
「……え?」
「だってさ、あの感じ、絶対ひとりで緊張してるでしょ? 放っておくのかわいそうじゃん」
そんなこと言いながら、
智香はすでに立ち上がりかけている。
「え、待って。なんであたしも一緒に……」
「七海は話しかけるの苦手でしょ? だから、付き添い!」
「……付き添いってなに」
「ほら、こういうときは勢いだから!」
そう言って、わたしの腕を引っ張るようにして席を立たせる。
教室の中で、小さな決意と強引さが入り混じったような力加減だった。
前を歩く智香の背中を見ながら、
わたしは心の奥で、静かにため息をついた。
──でも。
どうしてだろう。
ほんの少しだけ、心のどこかが期待していた。
あの静かな空気の中に、
言葉をひとつ置いてみたい、と。
「伊藤みやびちゃん、だよね?」
まだ緊張の抜けない教室の空気の中、智香の声だけが、いつも通りに明るかった。
みやびは驚いたように顔を上げて、小さくうなずいた。
「うん、えっと……はい」
その声はか細かったけれど、しっかり返ってきた。
「わたしね、一ノ瀬智香。特技は自撮りと、あと、お昼を美味しそうに食べること!」」
そう言いながら、智香は自分の胸を指差して、にこにこ笑った。
「……自己紹介にそれ入れる?」
思わずつっこんだわたしに、智香はウィンクするみたいに片目を細めてみせた。
「で、こっちが内田七海。小さい頃からの幼馴染で、ちょっとだけ毒舌なときあるけど──ほんとはめっちゃ優しい子。成績は学年トップレベル、頭いいのにそれを鼻にかけないタイプ!」
「ちょっと、余計なこと言いすぎじゃない……?」
それを聞いていたみやびは、きょとんとした表情のまま、しばらく黙っていた。
智香とわたしを交互に見て、
少し迷ったような目をして、そして、ふっと小さく笑った。
ほんとうに、かすかでやわらかい笑顔だった。
「……ありがとうございます。えっと……わたし、話すのちょっと苦手で……びっくり、したけど……うれしかった、です」
みやびの声はまだ細かったけれど、言葉の端々に、たしかな温度があった。
静かだけど、ちゃんと届く声。
遠慮がちだけど、自分の意思が感じられる話し方。
──伊藤みやび。
この子はきっと、ゆっくり馴染んでいくタイプだ。
わたしは、そんな気がした。
自己紹介が終わってからも、智香の勢いは止まらなかった。
「でさでさ、みやびちゃんって、どこから来たの?」
智香の好奇心は止まらない。
昼前の休み時間、教室のざわめきの中でも彼女の声ははっきりしていて、でもどこかやさしい。
「……えっと、東北の方、です」
みやびは少し戸惑いながらも、ちゃんと答えた。
「へえ、そうなんだ! じゃあ東京はまだ慣れてない感じ?」
智香が笑いながらたずねると、みやびはちょっとだけ表情をゆるめた。
「……全然、です。電車も、人も、多くて……」
「わかる〜! 駅とか複雑すぎるよね。あたしでも迷子になるときあるもん!」
その言葉に、みやびはすこしだけ笑った。
声を出して笑ったわけじゃないけれど、目元がほぐれて、どこか安心したような顔だった。
「趣味とかある? ハマってるものとか」
「うーん……お菓子、作るの、好き……かも……」
「えっ! それはすごい! 何系? ケーキとか?」
「……クッキーとか、マドレーヌとか……簡単なやつだけ……」
「すごいってば! それ今度作ってきてよー! あたし味見係になるから!」
みやびは困ったように笑って、それでもちょっと照れたようにうなずいた。
──すごいな、智香って。
わたしにはできないことを、簡単そうにやってのける。
誰とでも距離を縮めて、無理なく空気を柔らかくする。
自分が中心になるんじゃなくて、ちゃんと相手を主役にして。
それでいて、押しつけがましさがないのは、
たぶん、本気で“仲良くなりたい”と思っているからだ。
だから、みやびもちゃんと応えてる。
まだ声は小さいし、言葉もたどたどしいけれど、
それでも彼女のなかで何かが少しずつ、動きはじめているのがわかった。
その様子を見ていると、
なんだか少しだけ、胸の奥がぽっとあたたかくなった。
わたしは、智香みたいにはなれないけれど。
でも、少しだけ、いいなって思った。
“はじめまして”が、こんなふうに、やさしくはじまるのなら。
「ねぇ、七海もなにか話したら?」
唐突にそんなことを言ってきたのは、もちろん智香だった。
みやびとふたりで盛り上がっていた会話の途中、ふとこちらを向いて、
まるで当然のように言ってくる。
「え……なにを?」
「なんでもいいじゃん。ちょっと自己紹介的なやつとかさ? さっき、あんまり喋ってなかったし」
そりゃ、喋ってなかったけど。
あれは、そういう流れじゃなかったし。
それにわたしは──
「……あたし、人見知りなんだけど」
小さく、ぼそっと呟いた。
それは、言い訳みたいで、自分でもちょっと恥ずかしかった。
「えー、人見知りって言ってるわりに、すごい冷静に喋るじゃん」
「……それは平常モードだからであって、初対面は別」
「はいはい、じゃあ“七海の初対面モード”で何かひとこと、お願いしまーす」
智香は軽い調子でそう言いながら、肘でわたしを小突いてくる。
ほんとうに、こういうときの彼女は、容赦がない。
わたしは視線をそっとみやびに向けた。
彼女は、困ったように笑っていた。
でも、その表情には“迷惑そう”とか“気まずそう”はなくて、
むしろ、「待ってるよ」って言っているみたいに、
あたたかく受け止める余地があった。
……それなら、少しくらい。
「……じゃあ、えっと……」
思わず目をそらしながら、ぎこちなく言葉を探す。
「さっきは、いきなり紹介されただけだったから……あらためて、よろしく。
話すのは、あんまり得意じゃないけど……聞くのは、まあまあ得意。だから、もし話したくなったら、たぶん聞けると思う」
そう言ってから、なんだそれ、と自分で思った。
ものすごく不器用な自己紹介だった気がする。
でも、みやびは、小さくうなずいた。
「……はい。ありがとう」
やわらかくて、ほんのり温度のある返事だった。
それだけで、
この教室の空気が少しだけ変わった気がした。
昼休み。
3人で学食に行くことになったのは、ほんの自然な流れだった。
「せっかくだし、みやびちゃんにも学食デビューしてもらおうよ!」と、
智香が声を弾ませて言って、
みやびが少し戸惑いながら「……はい」と答えて。
わたしも、黙ってうなずいた。
学食の窓際の席は、いつもより少しだけ混んでいた。
並びながら、智香はずっと喋っている。
「この唐揚げ丼さー、ボリュームあるけど意外とあっさりしてるんだよ?」
「え、あたし? 今日はミートソースかな〜。なんとなく洋食な気分!」
「七海は絶対ヘルシー系でしょ。今日もどうせパンとサラダとかじゃない?」
「……言っとくけど、これけっこう栄養バランスいいんだけど」
「出た〜七海の理屈っぽい健康理論!」
そんな軽口のやりとりの横で、みやびはおとなしく笑っていた。
でも、笑い方はさっきよりずっと自然で、
話のテンポに少しずつついてきているのがわかった。
トレーを持って席に着いたあとも、智香は相変わらずのハイテンションだった。
「これ、めっちゃおいしいから今度食べてみて! っていうか一口いる?」
「……大丈夫、です」
「七海、これ食べる?」
「いらない」
「冷たい!」
そんなにぎやかな空気の中で、
ふと、みやびがわたしの方を見た。
「あの……内田さんは、いつも、学食?」
声はまだ小さいけれど、ちゃんとわたしに向けられた言葉だった。
「ん、いや。日によるかな。たまにお弁当の日もあるし。コンビニのときもあるし」
「……そっか。なんか、落ち着いてます、よね」
「え、何が」
「……なんとなく、雰囲気が」
みやびはそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。
その笑顔は、さっきよりずっと近い場所にあった。
わたしは、それにどう返せばいいかわからなくて、
とりあえず、水をひとくち飲んだ。
──たぶん、これが「なじむ」ということなんだと思った。
会話のテンポはまだちょっとぎこちない。
気を遣いながら話している感じもある。
でも、今日の昼休みは、確実にひとつだけ違っていた。
“伊藤みやび”という名前が、
少しだけ、ちゃんと自分の中に入ってきていた。
午後の授業は、やっぱり退屈だった。
先生の声は、まるでゆっくりとした波のようで、
話の内容も、ノートに書き写す内容も、何ひとつ心に引っかからない。
時計の針だけが、ほんのわずかずつ、教室の空気を削っていく。
──どうしてこんなに、退屈なんだろう。
そう思った瞬間、わたしの頭の中は、「退屈」という言葉でいっぱいになった。
退屈。
つまらないこと。
変化がないこと。
感情が波打たない時間のこと。
でも──それって、
もしかしたら“何も問題が起きていない証拠”なんじゃないか。
何も起こらない日。
何も変わらない教室。
話す相手がいて、昼休みがあって、帰り道も想像できる日常。
それを“退屈”と呼ぶなら、
きっと、わたしはすごく“幸せ”な場所にいるんだと思った。
誰かと笑いながらごはんを食べて、
誰かの気配を感じながら教室で過ごして、
何事もなく一日が終わっていく。
それって、たぶんすごく、尊いことなのに。
どうしてわたしたちは、すぐに“退屈だ”なんて口にしてしまうんだろう。
──退屈って、もしかしたら、幸せの裏返しなのかもしれない。
そんなふうに考えていたら、先生にあてられた。
「内田、ここ読んでくれるか?」
「……あ、はい」
立ち上がって教科書を読む声が、少しだけ震えていたのは、
考えごとから戻ってきた拍子だったせいだ。
みやびが、前の席からこちらをちらりと振り返った。
その視線は、なぜかほんの少しだけ、やわらかかった。
──退屈な午後。
でも、こんなふうに誰かと同じ時間を過ごしていることが、
本当は、いちばん贅沢なことなのかもしれないと、
わたしは思った。
そんなふうに、退屈な日々が、いくつも過ぎていった。
陽射しはまだ柔らかく、昼休みには窓辺に光の筋ができる。
教室の空気も、少しずつ穏やかになって、
気づけば、わたしたちは、自然と3人でいることが増えていた。
智香と、みやびと、わたし。
最初は“転校生と親切なクラスメイトたち”みたいな距離感だったのに、
気がつくと、みやびはすっかりその中心に馴染んでいた。
智香の明るさに引っ張られて、
わたしの隣で、静かに呼吸を合わせて、
みやびはどんどん変わっていった。
──いや、変わったというより、
本来の彼女が、少しずつ見えるようになってきたのかもしれない。
最初は声も小さくて、笑顔もぎこちなくて、
まるで“ここにいてはいけない”とでも思っているような表情だったのに。
今では、昼休みに「今日のパン、美味しかったです」とか、
「これ、帰りに寄ったスーパーで見つけたんです」とか、
みやびのほうから話しかけてくることも増えた。
ちょっとしたことに目を輝かせて、
おいしいものには素直に「おいしい」と笑って、
ときどき、突拍子もないことを言って、
そして恥ずかしそうに「……あ、すみません」って笑う。
第一印象の「静かで消え入りそうな子」とは、
ずいぶん違って見えた。
彼女は、明るくて、はつらつとしていて、
まっすぐなところのある子だった。
そんなふうに、教室のなかの一角に、
わたしたちだけの小さな輪ができあがっていった。
そして、その時間が、
わたしは嫌いじゃなかった。
──むしろ、少しだけ、
その静かなぬくもりに、甘えていたのかもしれない。
教室には、もう誰もいなかった。
黒板のチョークの粉を拭き取りながら、
乾いた布の摩擦音と、外から聞こえる部活の掛け声が、ぼんやりと重なっていた。
今日の掃除当番はわたしだけ。
智香は「ごめん! 今日は用事あるから、また明日ね!」と笑って、
いつも通り、気持ちのいい勢いで下校していった。
久しぶりにひとりの放課後。
それも悪くないな、と思った。
雑巾を洗い終えて、ロッカーに荷物を取りに戻ったとき。
教室の入り口に、小さな人影が見えた。
伊藤みやびだった。
「あ……あの……」
声は小さかったけれど、はっきりと届いた。
みやびは、制服の袖を少しだけ握りながら、こちらを見ていた。
「え、どうしたの?」
わたしがそう言うと、みやびは一拍だけ間を置いてから、
そっと、でもちゃんとした声で言った。
「……内田さんを、待ってました」
その言葉に、思わずまばたきをした。
「わたし、今日は……なんか、誰とも話さずに帰るの、ちょっと、さみしくて。
それで……その……」
言葉を選ぶように話すその様子は、最初に会った頃とどこか似ていて、
でも、そこにあったのは“気まずさ”じゃなくて、“信頼”だった。
「迷惑……でした、よね?」
「……ううん、そんなことないよ」
思っていたよりも、ずっと自然に言葉が出た。
ほんとうは、少し驚いていた。
でも、驚きより先に、うれしいと思ってしまった。
それに気づいて、ちょっとだけ胸が熱くなる。
「じゃあ……一緒に帰ろっか」
そう言ったわたしに、みやびは、はにかんだように笑った。
それは、いままで見た中でいちばん自然な笑顔だった。
空が、すこしずつ淡い朱に染まり始めていた。
帰り道の住宅街は、車も人通りも少なくて、
ときおり聞こえる自転車のベルや犬の鳴き声だけが、風にまぎれていた。
わたしたちは、歩幅を合わせるようにして、ゆっくりと並んで歩いていた。
話すことも、無理に探そうとはしなかった。
沈黙もまた、心地よく感じられる静けさだった。
そんなときだった。
「あの……」
みやびが、ぽつりと口を開いた。
「わたし……この学校に来て、最初の日、すごく緊張してたんです。
誰とも喋れないと思ってて……ずっと、それを覚悟してたんですけど」
そこで、すこしだけ間が空く。
「でも、おふたりが話しかけてくれて。
……ほんとうに、嬉しかったんです」
その言葉は、まっすぐで、飾り気がなかった。
夕焼けの光の中で、みやびの声が、まるで空気に染み込んでいくみたいだった。
わたしは、少しだけ笑った。
「話しかけようって言ったのは、智香だよ。
あの子、そういうとこだけは本当にすごいから」
「……でも、内田さんも、ちゃんと話してくれたじゃないですか」
「うん、まぁ……押し切られて喋っただけなんだけどね」
そう言いながら、わたしは少し顔をそらした。
みやびが見ていたかどうかは、わからない。
「でも……あのとき、内田さんが“聞くのは得意”って言ってくれたの、
なんか、すごく安心したんです」
「じゃあ……これからも、話したいことがあったら、聞くだけ係でいてあげる」
「ふふ、頼りにしてます」
ほんの短いやりとり。
でも、その一言一言の中に、
わたしは“ちゃんと繋がっている”手応えのようなものを感じていた。
そんなふうにして、
今日の帰り道は、いつもよりちょっとだけあたたかかった。
夕焼けは、もうすっかり濃くなっていて、
歩道に伸びる影は、わたしたちの背中を追いかけるように長くなっていた。
しばらくのあいだ、ふたりのあいだには言葉はなかった。
でも、それは沈黙というより、静けさだった。
言葉がなくても、ちゃんと隣にいることが伝わるような、そんな時間だった。
やがて──
「あの……」
みやびが、ふと立ち止まるようにして言った。
声は、さっきより少しだけ控えめで、それでもまっすぐだった。
「お願いが……あります」
「うん?」
わたしが少しだけ首をかしげると、
みやびは、恥ずかしそうに視線を下げたまま、小さく息を吸った。
「わたし……内田さんのこと、下の名前で呼んでも、いいですか?」
その言葉に、少しだけ胸が跳ねた。
「えっと……“七海ちゃん”って」
そう言って、みやびはこっそりこちらの表情をうかがうように顔を上げた。
その目は、ちょっと不安げで、でもほんのすこしだけ期待も混ざっていた。
「……別に、いいけど」
わたしはできるだけそっけなく言ったけれど、
たぶん、少しだけ声が弾んでしまっていた。
すると、みやびはほっとしたように笑って、
ほんの一歩、足を近づけて言った。
「じゃあ……七海ちゃん」
それは、わたしの名前を呼んだはずなのに、
どこかくすぐったくて、
自分が誰かにちゃんと“見つけられた”ような気がした。
「じゃあ、わたしのことも……“みやび”って呼んでください」
「え?」
「“伊藤さん”じゃ、ちょっと、距離がある気がして……」
そう言って笑う彼女を見て、
わたしはそっと目を伏せる。
──みやび。
口の中で一度だけ転がしてみたその名前は、
意外としっくりきた。
「……わかった。じゃあ、みやび」
そう呼ぶと、みやびは本当に嬉しそうに、
でも少し照れたように「はい」と返事をした。
あたたかい夕暮れの帰り道。
世界は何も変わっていないのに、
ふたりの間にだけ、確かにひとつ、小さな変化が灯った気がした。
翌朝、教室に入ると、みやびはすでに自分の席に座っていた。
窓際の光が髪にやさしくかかっていて、ノートの端を指でなぞるように触っていた。
「……おはよう、みやび」
声に出したその名前は、昨日よりずっと自然だった。
むしろ、そう呼ばないほうがぎこちないような気がして。
みやびもすぐに顔を上げて、ふわりと笑った。
「おはよう、七海ちゃん」
その笑顔があまりにも自然で、
わたしはちょっとだけ、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
“ちゃん”付けは、正直少しくすぐったい。
でも、“七海ちゃん”と呼ぶその声には、敬語でも遠慮でもない、
ほんの少しの勇気と、まっすぐな親しみが混ざっていて。
──悪くない、と思った。
席について鞄を下ろしたところで、
斜め後ろから声が飛んできた。
「……おっ?」
その声の主は、もちろん智香だった。
「いま“みやび”って呼んだ?」
「……呼んだけど、それがなに?」
「いやいやいや〜〜、これはもう、仲良し認定案件じゃないの?」
わざとらしくひとりで騒ぎながら、智香はわたしたちの間にひょいと割り込む。
みやびはちょっと照れたように笑って、
わたしはため息をつくふりをした。
「なにが“仲良し認定”よ……別に、みやびがそう呼んでって言ってきたから、そうしてるだけ」
「はいはい、理由はどうでもよくて〜、実際に呼んでるってことが重要なんですよ〜〜」
そう言いながら、智香はわたしたちを交互に見て、
「うんうん、いいねぇ」と満足げにうなずいている。
「てかさ、じゃああたしも七海ちゃんって呼ぼうかな!」
「やめて。即却下」
「え〜〜〜っ!? みやびちゃんはよくて、あたしはだめ!?」
「だめなものはだめ」
そう言いながら、つい笑ってしまった。
みやびも笑ってた。
智香はむしろ嬉しそうだった。
教室のざわめきの中、
ほんの少しだけ、わたしたちの場所だけがやわらかく揺れていた。
名前を呼ぶということが、
こんなにも特別で、
こんなにも自然なものだったなんて、
昨日までのわたしは知らなかった。




