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farewell  作者: 七瀬


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2/7

ほんの少しだけ、変わりそうな予感

 朝の空気は少し冷たくて、歩くたびに靴底が小さく鳴った。

 曲がり角の向こうで、智香が手を振っていた。

「おはよー、七海!」

 元気な声が朝の街に響く。

「……おはよ」

 返事をすると、智香はにこっと笑って、わたしの横に並んだ。

「ねぇ、昨日の夜、テレビであのパンケーキ特集見た?」

「いや、見てないけど」

「めっちゃおいしそうだったんだよ。なんか、空気みたいに軽いパンケーキ!」

「空気食べて何が楽しいの」

「いやいやいや! ふわふわ感が大事なの!」

「ふわふわって、ほとんど気配だけじゃん」

 そんなやりとりで、自然と笑ってしまう。

「じゃあ今度さ、放課後にカフェ行かない? あたし、あのパンケーキ食べたい!」

「……別にいいけど」

「おおー! 七海の“別にいいけど”は“行きたい”って意味だから、決定ね!」

「勝手に翻訳すんな」

 智香は肩をすくめながらも、楽しそうに笑っていた。

 その笑顔を見ていると、昨日の夜のLINEのことが頭をよぎる。

 ──「大丈夫?」

 たった一言だったのに、妙に泣きそうになった。

 本当は、言おうと思っていた。

 「昨日、ありがとう」って。

 「ちょっと嬉しかった」って。

 でも、うまく言葉にならなかった。

 それを言ってしまえば、

 “昨日のわたしが元気じゃなかった”って、はっきり認めてしまう気がして。

 “ほんとうは、少しだけ泣きそうだった”って、悟られてしまいそうで。

 だから、何も言わなかった。

 でも、わたしの沈黙を責めることもなく、

 智香はいつもの調子で、空気を明るくしてくれた。

 ──それが、彼女らしいところだった。

 やさしさを、あえて見せないやり方で。

 深く踏み込まずに、隣にいてくれる、その距離感で。

 だからこそ、いつもわたしは、言えなくなる。

 だけど、

 こんな朝も、きっと悪くないと思った。

 少し冷たい風の中で、

 ふたりの靴音が、ちょっとだけずれて響いていた。

 その日は、朝から少しだけ空気が違っていた。

 教室に入ったとき、いつもよりざわついていた理由は、すぐにわかった。

 黒板の端に書かれた「転入生」の文字。

 それだけで、クラスはほんの少し浮足立つ。

 担任の先生がやってきて、いつものように点呼をして、

 ちょっとした連絡事項を伝えたあと、言った。

「今日からこのクラスに新しい仲間が加わります。じゃあ──入ってきて」

 ドアが静かに開いて、ひとりの少女が入ってきた。

 黒髪の、細いシルエット。

 制服の袖は少しだけ長くて、肩までのストレートの髪が、光に透けて揺れた。

 彼女は、教卓の前に立つと、ほんの少し間を置いて、口を開いた。

「……伊藤、みやびです。よろしく、お願いします」

 声は、本当にかすかだった。

 けれど、その“かすかさ”に、教室のざわつきはすっと静まった。

 うつむきがちで、でも無理に笑おうとしているような、その表情。

 声のトーン、言葉の選び方、佇まい。

 全部が、どこか“控えめ”で、だけど“消えていない”。

 ──伊藤みやび。

 その名前が、ほんの少しだけ空気に残るように、頭の中に染み込んできた。

 「じゃあ、空いてるあの席に」

 先生が示したのは、教室の窓際、前方の席。

 みやびは、ぺこりと軽く頭を下げて、言われた通りに歩いていった。

 彼女の歩幅は、まるで音を立てないように調整されているみたいだった。

 無理に目立たないように、でも、まったく目立たないわけでもなく。

 智香が、小さくわたしの耳元でささやく。

「なんか、ちょっと不思議な子だね」

「……うん」

 それが、わたしの最初の印象だった。

 まだ名前しか知らない。

 声も小さくて、表情も読み取りづらい。

 でも、たしかに彼女はそこにいた。

 伊藤みやび。

 その静けさのなかに、

 何かが始まる気配だけが、淡く漂っていた。

 いつもと変わらない授業。

 先生の声は一定のテンポで、黒板のチョークが時折カツンと跳ねる。

 視線をノートに落として、何気なく文字を写す。

 けれど、いつの間にか、手は止まっていた。

 気づけば、わたしの目は、窓際の席──

 伊藤みやびのほうに向いていた。

 特別、見ようと思ったわけじゃない。

 なんとなく視線を動かした先に、彼女がいた、ただそれだけだった。

 みやびは、小柄だった。

 制服のサイズが少し大きいのか、袖口が手の甲にかかっている。

 髪は黒く、前髪はまっすぐに揃えられていて、

 肩にかかるストレートが、光をやわらかく弾いていた。

 その姿はどこか──わたしたちよりも、ずっと年下に見えた。

 けれど、表情はまるで逆だった。

 まっすぐ前を向いて、淡々と授業を受けている。

 声を出すことも、周囲に合わせて笑うこともないのに、

 どこか「ひとりでいること」に、すでに慣れているように見えた。

 無理をしていない。

 でも、力も入っていない。

 静かで、さみしそうで、だけど──どこか大人びている。

 まるで彼女だけ、

 別の時間をまとってこの教室に座っているみたいだった。

 その空気に、わたしは思わず呼吸を浅くした。

 ──なんだろう。

 うまく言えないけど、あの子は“ここにいて、ここにいない”ような気がした。

 そのとき、ふと、みやびがわずかに顔を動かした。

 目が合ったかもしれない。

 でもそれは、ほんの一瞬のことだった。

 わたしはあわてて視線をノートに戻して、

 書きかけていた式の続きを、何度もなぞった。

 授業は、何事もなかったように進んでいく。

 でも、わたしの胸の奥には、

 静かな違和感のような、淡いざわめきのようなものが、

 そっと沈んで残っていた。

 チャイムが鳴って、教室にざわめきが戻る。

 椅子を引く音、ノートを閉じる音、友達に話しかける声。

 そのすべてが混ざって、休み時間という独特の空気をつくっていた。

 でも──その中で、ひとりだけ、音の外にいる子がいた。

 伊藤みやび。

 みやびは、席を立たずに教科書を閉じただけで、

 あとは、机の上に手をそっと重ねたまま、前を見ていた。

 誰とも目を合わせない。

 誰にも話しかけられない。

 まるで、自分がこのクラスにまだ属していないとでも言いたげな姿だった。

「ねぇ、七海」

 不意に、隣から声がした。

 智香が、身を乗り出してわたしの肩をつつく。

 顔は、何か思いついたときの、あの“ちょっと悪い顔”になっていた。

「話してみようよ、みやびちゃんと」

「……え?」

「だってさ、あの感じ、絶対ひとりで緊張してるでしょ? 放っておくのかわいそうじゃん」

 そんなこと言いながら、

 智香はすでに立ち上がりかけている。

「え、待って。なんであたしも一緒に……」

「七海は話しかけるの苦手でしょ? だから、付き添い!」

「……付き添いってなに」

「ほら、こういうときは勢いだから!」

 そう言って、わたしの腕を引っ張るようにして席を立たせる。

 教室の中で、小さな決意と強引さが入り混じったような力加減だった。

 前を歩く智香の背中を見ながら、

 わたしは心の奥で、静かにため息をついた。

 ──でも。

 どうしてだろう。

 ほんの少しだけ、心のどこかが期待していた。

 あの静かな空気の中に、

 言葉をひとつ置いてみたい、と。

「伊藤みやびちゃん、だよね?」

 まだ緊張の抜けない教室の空気の中、智香の声だけが、いつも通りに明るかった。

 みやびは驚いたように顔を上げて、小さくうなずいた。

「うん、えっと……はい」

 その声はか細かったけれど、しっかり返ってきた。

「わたしね、一ノ瀬智香。特技は自撮りと、あと、お昼を美味しそうに食べること!」」

 そう言いながら、智香は自分の胸を指差して、にこにこ笑った。

「……自己紹介にそれ入れる?」

 思わずつっこんだわたしに、智香はウィンクするみたいに片目を細めてみせた。

「で、こっちが内田七海。小さい頃からの幼馴染で、ちょっとだけ毒舌なときあるけど──ほんとはめっちゃ優しい子。成績は学年トップレベル、頭いいのにそれを鼻にかけないタイプ!」

「ちょっと、余計なこと言いすぎじゃない……?」

 それを聞いていたみやびは、きょとんとした表情のまま、しばらく黙っていた。

 智香とわたしを交互に見て、

 少し迷ったような目をして、そして、ふっと小さく笑った。

 ほんとうに、かすかでやわらかい笑顔だった。

「……ありがとうございます。えっと……わたし、話すのちょっと苦手で……びっくり、したけど……うれしかった、です」

 みやびの声はまだ細かったけれど、言葉の端々に、たしかな温度があった。

 静かだけど、ちゃんと届く声。

 遠慮がちだけど、自分の意思が感じられる話し方。

 ──伊藤みやび。

 この子はきっと、ゆっくり馴染んでいくタイプだ。

 わたしは、そんな気がした。

 自己紹介が終わってからも、智香の勢いは止まらなかった。

「でさでさ、みやびちゃんって、どこから来たの?」

 智香の好奇心は止まらない。

 昼前の休み時間、教室のざわめきの中でも彼女の声ははっきりしていて、でもどこかやさしい。

「……えっと、東北の方、です」

 みやびは少し戸惑いながらも、ちゃんと答えた。

「へえ、そうなんだ! じゃあ東京はまだ慣れてない感じ?」

 智香が笑いながらたずねると、みやびはちょっとだけ表情をゆるめた。

「……全然、です。電車も、人も、多くて……」

「わかる〜! 駅とか複雑すぎるよね。あたしでも迷子になるときあるもん!」

 その言葉に、みやびはすこしだけ笑った。

 声を出して笑ったわけじゃないけれど、目元がほぐれて、どこか安心したような顔だった。

「趣味とかある? ハマってるものとか」

「うーん……お菓子、作るの、好き……かも……」

「えっ! それはすごい! 何系? ケーキとか?」

「……クッキーとか、マドレーヌとか……簡単なやつだけ……」

「すごいってば! それ今度作ってきてよー! あたし味見係になるから!」

 みやびは困ったように笑って、それでもちょっと照れたようにうなずいた。

 ──すごいな、智香って。

 わたしにはできないことを、簡単そうにやってのける。

 誰とでも距離を縮めて、無理なく空気を柔らかくする。

 自分が中心になるんじゃなくて、ちゃんと相手を主役にして。

 それでいて、押しつけがましさがないのは、

 たぶん、本気で“仲良くなりたい”と思っているからだ。

 だから、みやびもちゃんと応えてる。

 まだ声は小さいし、言葉もたどたどしいけれど、

 それでも彼女のなかで何かが少しずつ、動きはじめているのがわかった。

 その様子を見ていると、

 なんだか少しだけ、胸の奥がぽっとあたたかくなった。

 わたしは、智香みたいにはなれないけれど。

 でも、少しだけ、いいなって思った。

 “はじめまして”が、こんなふうに、やさしくはじまるのなら。

「ねぇ、七海もなにか話したら?」

 唐突にそんなことを言ってきたのは、もちろん智香だった。

 みやびとふたりで盛り上がっていた会話の途中、ふとこちらを向いて、

 まるで当然のように言ってくる。

「え……なにを?」

「なんでもいいじゃん。ちょっと自己紹介的なやつとかさ? さっき、あんまり喋ってなかったし」

 そりゃ、喋ってなかったけど。

 あれは、そういう流れじゃなかったし。

 それにわたしは──

「……あたし、人見知りなんだけど」

 小さく、ぼそっと呟いた。

 それは、言い訳みたいで、自分でもちょっと恥ずかしかった。

「えー、人見知りって言ってるわりに、すごい冷静に喋るじゃん」

「……それは平常モードだからであって、初対面は別」

「はいはい、じゃあ“七海の初対面モード”で何かひとこと、お願いしまーす」

 智香は軽い調子でそう言いながら、肘でわたしを小突いてくる。

 ほんとうに、こういうときの彼女は、容赦がない。

 わたしは視線をそっとみやびに向けた。

 彼女は、困ったように笑っていた。

 でも、その表情には“迷惑そう”とか“気まずそう”はなくて、

 むしろ、「待ってるよ」って言っているみたいに、

 あたたかく受け止める余地があった。

 ……それなら、少しくらい。

「……じゃあ、えっと……」

 思わず目をそらしながら、ぎこちなく言葉を探す。

「さっきは、いきなり紹介されただけだったから……あらためて、よろしく。

 話すのは、あんまり得意じゃないけど……聞くのは、まあまあ得意。だから、もし話したくなったら、たぶん聞けると思う」

 そう言ってから、なんだそれ、と自分で思った。

 ものすごく不器用な自己紹介だった気がする。

 でも、みやびは、小さくうなずいた。

「……はい。ありがとう」

 やわらかくて、ほんのり温度のある返事だった。

 それだけで、

 この教室の空気が少しだけ変わった気がした。

 昼休み。

 3人で学食に行くことになったのは、ほんの自然な流れだった。

「せっかくだし、みやびちゃんにも学食デビューしてもらおうよ!」と、

 智香が声を弾ませて言って、

 みやびが少し戸惑いながら「……はい」と答えて。

 わたしも、黙ってうなずいた。

 学食の窓際の席は、いつもより少しだけ混んでいた。

 並びながら、智香はずっと喋っている。

「この唐揚げ丼さー、ボリュームあるけど意外とあっさりしてるんだよ?」

「え、あたし? 今日はミートソースかな〜。なんとなく洋食な気分!」

「七海は絶対ヘルシー系でしょ。今日もどうせパンとサラダとかじゃない?」

「……言っとくけど、これけっこう栄養バランスいいんだけど」

「出た〜七海の理屈っぽい健康理論!」

 そんな軽口のやりとりの横で、みやびはおとなしく笑っていた。

 でも、笑い方はさっきよりずっと自然で、

 話のテンポに少しずつついてきているのがわかった。

 トレーを持って席に着いたあとも、智香は相変わらずのハイテンションだった。

「これ、めっちゃおいしいから今度食べてみて! っていうか一口いる?」

「……大丈夫、です」

「七海、これ食べる?」

「いらない」

「冷たい!」

 そんなにぎやかな空気の中で、

 ふと、みやびがわたしの方を見た。

「あの……内田さんは、いつも、学食?」

 声はまだ小さいけれど、ちゃんとわたしに向けられた言葉だった。

「ん、いや。日によるかな。たまにお弁当の日もあるし。コンビニのときもあるし」

「……そっか。なんか、落ち着いてます、よね」

「え、何が」

「……なんとなく、雰囲気が」

 みやびはそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。

 その笑顔は、さっきよりずっと近い場所にあった。

 わたしは、それにどう返せばいいかわからなくて、

 とりあえず、水をひとくち飲んだ。

 ──たぶん、これが「なじむ」ということなんだと思った。

 会話のテンポはまだちょっとぎこちない。

 気を遣いながら話している感じもある。

 でも、今日の昼休みは、確実にひとつだけ違っていた。

 “伊藤みやび”という名前が、

 少しだけ、ちゃんと自分の中に入ってきていた。

 午後の授業は、やっぱり退屈だった。

 先生の声は、まるでゆっくりとした波のようで、

 話の内容も、ノートに書き写す内容も、何ひとつ心に引っかからない。

 時計の針だけが、ほんのわずかずつ、教室の空気を削っていく。

 ──どうしてこんなに、退屈なんだろう。

 そう思った瞬間、わたしの頭の中は、「退屈」という言葉でいっぱいになった。

 退屈。

 つまらないこと。

 変化がないこと。

 感情が波打たない時間のこと。

 でも──それって、

 もしかしたら“何も問題が起きていない証拠”なんじゃないか。

 何も起こらない日。

 何も変わらない教室。

 話す相手がいて、昼休みがあって、帰り道も想像できる日常。

 それを“退屈”と呼ぶなら、

 きっと、わたしはすごく“幸せ”な場所にいるんだと思った。

 誰かと笑いながらごはんを食べて、

 誰かの気配を感じながら教室で過ごして、

 何事もなく一日が終わっていく。

 それって、たぶんすごく、尊いことなのに。

 どうしてわたしたちは、すぐに“退屈だ”なんて口にしてしまうんだろう。

 ──退屈って、もしかしたら、幸せの裏返しなのかもしれない。

 そんなふうに考えていたら、先生にあてられた。

 「内田、ここ読んでくれるか?」

 「……あ、はい」

 立ち上がって教科書を読む声が、少しだけ震えていたのは、

 考えごとから戻ってきた拍子だったせいだ。

 みやびが、前の席からこちらをちらりと振り返った。

 その視線は、なぜかほんの少しだけ、やわらかかった。

 ──退屈な午後。

 でも、こんなふうに誰かと同じ時間を過ごしていることが、

 本当は、いちばん贅沢なことなのかもしれないと、

 わたしは思った。

 そんなふうに、退屈な日々が、いくつも過ぎていった。

 陽射しはまだ柔らかく、昼休みには窓辺に光の筋ができる。

 教室の空気も、少しずつ穏やかになって、

 気づけば、わたしたちは、自然と3人でいることが増えていた。

 智香と、みやびと、わたし。

 最初は“転校生と親切なクラスメイトたち”みたいな距離感だったのに、

 気がつくと、みやびはすっかりその中心に馴染んでいた。

 智香の明るさに引っ張られて、

 わたしの隣で、静かに呼吸を合わせて、

 みやびはどんどん変わっていった。

 ──いや、変わったというより、

 本来の彼女が、少しずつ見えるようになってきたのかもしれない。

 最初は声も小さくて、笑顔もぎこちなくて、

 まるで“ここにいてはいけない”とでも思っているような表情だったのに。

 今では、昼休みに「今日のパン、美味しかったです」とか、

 「これ、帰りに寄ったスーパーで見つけたんです」とか、

 みやびのほうから話しかけてくることも増えた。

 ちょっとしたことに目を輝かせて、

 おいしいものには素直に「おいしい」と笑って、

 ときどき、突拍子もないことを言って、

 そして恥ずかしそうに「……あ、すみません」って笑う。

 第一印象の「静かで消え入りそうな子」とは、

 ずいぶん違って見えた。

 彼女は、明るくて、はつらつとしていて、

 まっすぐなところのある子だった。

 そんなふうに、教室のなかの一角に、

 わたしたちだけの小さな輪ができあがっていった。

 そして、その時間が、

 わたしは嫌いじゃなかった。

 ──むしろ、少しだけ、

 その静かなぬくもりに、甘えていたのかもしれない。

 教室には、もう誰もいなかった。

 黒板のチョークの粉を拭き取りながら、

 乾いた布の摩擦音と、外から聞こえる部活の掛け声が、ぼんやりと重なっていた。

 今日の掃除当番はわたしだけ。

 智香は「ごめん! 今日は用事あるから、また明日ね!」と笑って、

 いつも通り、気持ちのいい勢いで下校していった。

 久しぶりにひとりの放課後。

 それも悪くないな、と思った。

 雑巾を洗い終えて、ロッカーに荷物を取りに戻ったとき。

 教室の入り口に、小さな人影が見えた。

 伊藤みやびだった。

「あ……あの……」

 声は小さかったけれど、はっきりと届いた。

 みやびは、制服の袖を少しだけ握りながら、こちらを見ていた。

「え、どうしたの?」

 わたしがそう言うと、みやびは一拍だけ間を置いてから、

 そっと、でもちゃんとした声で言った。

「……内田さんを、待ってました」

 その言葉に、思わずまばたきをした。

「わたし、今日は……なんか、誰とも話さずに帰るの、ちょっと、さみしくて。

 それで……その……」

 言葉を選ぶように話すその様子は、最初に会った頃とどこか似ていて、

 でも、そこにあったのは“気まずさ”じゃなくて、“信頼”だった。

「迷惑……でした、よね?」

「……ううん、そんなことないよ」

 思っていたよりも、ずっと自然に言葉が出た。

 ほんとうは、少し驚いていた。

 でも、驚きより先に、うれしいと思ってしまった。

 それに気づいて、ちょっとだけ胸が熱くなる。

「じゃあ……一緒に帰ろっか」

 そう言ったわたしに、みやびは、はにかんだように笑った。

 それは、いままで見た中でいちばん自然な笑顔だった。

 空が、すこしずつ淡い朱に染まり始めていた。

 帰り道の住宅街は、車も人通りも少なくて、

 ときおり聞こえる自転車のベルや犬の鳴き声だけが、風にまぎれていた。

 わたしたちは、歩幅を合わせるようにして、ゆっくりと並んで歩いていた。

 話すことも、無理に探そうとはしなかった。

 沈黙もまた、心地よく感じられる静けさだった。

 そんなときだった。

「あの……」

 みやびが、ぽつりと口を開いた。

「わたし……この学校に来て、最初の日、すごく緊張してたんです。

 誰とも喋れないと思ってて……ずっと、それを覚悟してたんですけど」

 そこで、すこしだけ間が空く。

「でも、おふたりが話しかけてくれて。

 ……ほんとうに、嬉しかったんです」

 その言葉は、まっすぐで、飾り気がなかった。

 夕焼けの光の中で、みやびの声が、まるで空気に染み込んでいくみたいだった。

 わたしは、少しだけ笑った。

「話しかけようって言ったのは、智香だよ。

 あの子、そういうとこだけは本当にすごいから」

「……でも、内田さんも、ちゃんと話してくれたじゃないですか」

「うん、まぁ……押し切られて喋っただけなんだけどね」

 そう言いながら、わたしは少し顔をそらした。

 みやびが見ていたかどうかは、わからない。

「でも……あのとき、内田さんが“聞くのは得意”って言ってくれたの、

 なんか、すごく安心したんです」

「じゃあ……これからも、話したいことがあったら、聞くだけ係でいてあげる」

「ふふ、頼りにしてます」

 ほんの短いやりとり。

 でも、その一言一言の中に、

 わたしは“ちゃんと繋がっている”手応えのようなものを感じていた。

 そんなふうにして、

 今日の帰り道は、いつもよりちょっとだけあたたかかった。

 夕焼けは、もうすっかり濃くなっていて、

 歩道に伸びる影は、わたしたちの背中を追いかけるように長くなっていた。

 しばらくのあいだ、ふたりのあいだには言葉はなかった。

 でも、それは沈黙というより、静けさだった。

 言葉がなくても、ちゃんと隣にいることが伝わるような、そんな時間だった。

 やがて──

「あの……」

 みやびが、ふと立ち止まるようにして言った。

 声は、さっきより少しだけ控えめで、それでもまっすぐだった。

「お願いが……あります」

「うん?」

 わたしが少しだけ首をかしげると、

 みやびは、恥ずかしそうに視線を下げたまま、小さく息を吸った。

「わたし……内田さんのこと、下の名前で呼んでも、いいですか?」

 その言葉に、少しだけ胸が跳ねた。

「えっと……“七海ちゃん”って」

 そう言って、みやびはこっそりこちらの表情をうかがうように顔を上げた。

 その目は、ちょっと不安げで、でもほんのすこしだけ期待も混ざっていた。

「……別に、いいけど」

 わたしはできるだけそっけなく言ったけれど、

 たぶん、少しだけ声が弾んでしまっていた。

 すると、みやびはほっとしたように笑って、

 ほんの一歩、足を近づけて言った。

「じゃあ……七海ちゃん」

 それは、わたしの名前を呼んだはずなのに、

 どこかくすぐったくて、

 自分が誰かにちゃんと“見つけられた”ような気がした。

「じゃあ、わたしのことも……“みやび”って呼んでください」

「え?」

「“伊藤さん”じゃ、ちょっと、距離がある気がして……」

 そう言って笑う彼女を見て、

 わたしはそっと目を伏せる。

 ──みやび。

 口の中で一度だけ転がしてみたその名前は、

 意外としっくりきた。

「……わかった。じゃあ、みやび」

 そう呼ぶと、みやびは本当に嬉しそうに、

 でも少し照れたように「はい」と返事をした。

 あたたかい夕暮れの帰り道。

 世界は何も変わっていないのに、

 ふたりの間にだけ、確かにひとつ、小さな変化が灯った気がした。

 翌朝、教室に入ると、みやびはすでに自分の席に座っていた。

 窓際の光が髪にやさしくかかっていて、ノートの端を指でなぞるように触っていた。

「……おはよう、みやび」

 声に出したその名前は、昨日よりずっと自然だった。

 むしろ、そう呼ばないほうがぎこちないような気がして。

 みやびもすぐに顔を上げて、ふわりと笑った。

「おはよう、七海ちゃん」

 その笑顔があまりにも自然で、

 わたしはちょっとだけ、胸の奥があたたかくなるのを感じた。

 “ちゃん”付けは、正直少しくすぐったい。

 でも、“七海ちゃん”と呼ぶその声には、敬語でも遠慮でもない、

 ほんの少しの勇気と、まっすぐな親しみが混ざっていて。

 ──悪くない、と思った。

 席について鞄を下ろしたところで、

 斜め後ろから声が飛んできた。

「……おっ?」

 その声の主は、もちろん智香だった。

「いま“みやび”って呼んだ?」

「……呼んだけど、それがなに?」

「いやいやいや〜〜、これはもう、仲良し認定案件じゃないの?」

 わざとらしくひとりで騒ぎながら、智香はわたしたちの間にひょいと割り込む。

 みやびはちょっと照れたように笑って、

 わたしはため息をつくふりをした。

「なにが“仲良し認定”よ……別に、みやびがそう呼んでって言ってきたから、そうしてるだけ」

「はいはい、理由はどうでもよくて〜、実際に呼んでるってことが重要なんですよ〜〜」

 そう言いながら、智香はわたしたちを交互に見て、

 「うんうん、いいねぇ」と満足げにうなずいている。

「てかさ、じゃああたしも七海ちゃんって呼ぼうかな!」

「やめて。即却下」

「え〜〜〜っ!? みやびちゃんはよくて、あたしはだめ!?」

「だめなものはだめ」

 そう言いながら、つい笑ってしまった。

 みやびも笑ってた。

 智香はむしろ嬉しそうだった。

 教室のざわめきの中、

 ほんの少しだけ、わたしたちの場所だけがやわらかく揺れていた。

 名前を呼ぶということが、

 こんなにも特別で、

 こんなにも自然なものだったなんて、

 昨日までのわたしは知らなかった。

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