本当のことなんて、言えるわけない
また、告白された。
告白されたのは、これで何度目だっただろう。
今回の相手は、向かいのクラスの男の子だった。名前も顔も知っているけれど、ほとんど話したことはない。
放課後の廊下、クラスの前で彼に呼び止められたとき、なんとなく予感はしていた。
「これ……読んでください」
そう言って差し出された封筒は、きれいに折り目の揃った、薄いクリーム色だった。丁寧に書かれた名前、角のそろった直筆の文字──そのすべてに、気持ちがこもっていた。
わたしは、それをちゃんと受け取って、ちゃんと読んだ。
次の日、昇降口で待っていた彼に、わたしは言った。
「手紙、ありがとう。すごく丁寧で、うれしかった」
彼が少し期待に顔を上げたのを見て、少しだけ、胸が痛んだ。
「でも、ごめん。そういうふうには、思えなかったんだ」
わたしの言葉に、彼は一瞬だけ、静かにうなずいた。
そして「……わかりました」と、少し俯いて帰っていった。
彼の背中を見送りながら、わたしは小さく息をつく。
──悪い子じゃない。優しそうだったし、字もきれいだったし、
あんなふうにまっすぐ思いを伝えられるのは、すごいと思う。
でも、どうしても、応えられない。
好きになれたらよかったのに、って思ったことは何度もある。
自分の中で、何かのスイッチを切り替えるようにして、「この人と、つきあってみようかな」って思おうとしたことだって、ないわけじゃない。
でも、だめだった。
なにかが、決定的に違う気がして。
──その「なにか」が、なんなのかは、まだ自分でもよくわかっていない。
それでも、誰かの気持ちを受け取るには、自分のなかの“わからないもの”が、あまりにも大きすぎる。
だから今日も、わたしは誰かの気持ちに、
ちゃんと向き合って、ちゃんと断った。
──それが、誠実なことだと信じたかったから。
下駄箱の前、靴を履き替えながら、ふと横を見た。
「……七海、お疲れ〜」
思いっきり見覚えのある声だった。
振り向くと、智香がいた。制服のままのその子は、少し前かがみになって、こちらの顔を覗き込んでくる。
「え、なんで……」
「ごめんごめん、たまたま通りかかっただけ。あ、見てたっていうか、見えちゃったってだけだから、ほんとに!」
すでに弁解モードなのは、この子のずるいところだ。
でも、表情は全然悪びれてない。
「ていうかさぁ、また断ったんでしょ?」
「……見てたなら、聞く必要ないでしょ」
「うん、でも、気になるじゃん」
にやにやと悪戯っぽく笑う顔。そういう顔、わたしは昔からずっと知ってる。
「ねぇ七海って、もしかして──恋愛とか、興味ない感じ?」
その言葉に、動きかけた手が一瞬だけ止まった。
「……は?」
「いや、だってさ? 結構モテてるのに、全部スルーしてるし。誰かのこと好きになったこととか、ないの?」
そう言ってのぞき込んでくる彼女の瞳は、ほんとうにただの“親友の好奇心”だった。
でも、こっちは、ちょっとだけ呼吸が苦しくなっていた。
「……別に。好きとか嫌いとか、そういうの、いまは考えてないだけ」
「ふーん……じゃあ、好きな人、いないんだ?」
「うるさいな。ほっといてよ」
わざと少しだけ強く言った。
智香は「へぇ〜」と肩をすくめて、そのままわたしの隣に並んで歩き出す。
そうやって、何もなかったみたいにしてくれるのが、
やっぱりこの子らしいな、って思う。
──本当のことなんて、言えるわけない。
好きだよ。ずっと、好きでいる。
でも、わたしの“好き”は、きっと智香の“好き”とは、違う形をしてる。
だからこそ、言えない。
バレたくない。
でも、本当は──
わかってほしい。
次の日も、授業は変わらず退屈だった。
窓から入ってくる風の音ばかりが心地よくて、黒板のチョークの音は、だんだん背景に溶けていった。
先生の声が波の音みたいに遠くなって、ノートにはちゃんと書いているのに、頭の中は少しも働いていない。
──ま、働かせる必要もないけど。
わたしの成績は、学年でだいたいいつも十番以内。
特に努力してるわけでも、夜遅くまで勉強してるわけでもない。
ただ、授業をちゃんと聞くのが上手なだけ。
そうしているうちに、内容もなんとなく覚えてしまって、
気づけば、苦手科目も「それなり」に克服できていた。
──別に自慢じゃない。そういう子、他にもたくさんいる。
わたしは、物事を整頓するのが好きだった。
目の前のノートも、机の中も、頭の中も、できるだけ綺麗に、順序立てて並べておきたい。
それができていれば、大抵のことは平気だった。
感情も、思考も、相手の言葉の裏も。
まっすぐじゃないものほど、静かに見つめていたかった。
将来の夢は、弁護士。
いつからか、そう言うようになっていた。
別に、親がそうだったとか、テレビドラマに影響されたとかじゃない。
ただ、“正しいと思ったことを、正しいって言える人間でいたい”って思っただけ。
冷静に見えて、冷静じゃない人間がこの世界には多すぎて。
だったらせめて、自分だけは、言葉の重みをちゃんと知っていたいと思った。
──でも、それにしても。
今の授業が、ちっとも面白くないのはなんでだろう。
数学。
計算。
答えはひとつ。
だからこそ、つまらない。
感情や関係や空気みたいに、曖昧で、不確かで、だからこそ難しくて、
そういうもののほうが、ずっとずっと興味深いのに。
今日もまた、何も変わらないふりをして、
ひとつだけ変わりそうな何かを、黙って抱えたまま、
わたしはページをめくった。
昼休み。
わたしたちは、いつものように教室の隅っこに陣取って、お弁当の包みを広げた。
「ねぇこれ見て、玉子焼き、めっちゃハートの形になってんだけど。奇跡じゃない?」
智香はそう言って、自分の弁当箱をこちらに突き出してくる。
たしかに、断面がなんとなくハートっぽく見えなくもない。
「それ、ただの偶然でしょ」
「いやいやいや、これは運命的ハートでしょ。恋の予感……とか?」
「ないでしょ」
「即答〜!つれない〜」
そう言いながら笑うその顔が、なんだか、懐かしくもあり、ちょっと胸にひっかかる。
たぶん、昔から変わってないんだ、この子は。
──わたしと智香は、小さい頃からの付き合いだ。
近所に住んでいて、幼稚園も小学校もいっしょ。
友達として、クラスメイトとして、親同士も知っているような関係。
お昼を一緒に食べるようになったのも、自然な流れだった。
きっかけなんて、覚えてない。
お互いの席が近かったとか、たまたまその日ほかの子が休んでいたとか。
ほんの些細な理由で、ふたりきりになって、それがいつの間にか日常になった。
「ねぇ七海ってさ、食べるのいつもきれいだよね〜。なんか、箸づかいが育ちいいって感じ」
「……それ褒めてるの?」
「もちろん! 見てて落ち着くっていうか、七海って実は癒し系なんじゃないかって最近思ってる」
「いや、ないでしょそれは」
「え〜、じゃあ毒舌癒し系?」
「組み合わせが矛盾してるってば」
笑って、返して、くだらないことでちょっとだけ笑い声を重ねて。
気づけば、時間はすぐに過ぎていく。
こうして並んでいると、昔のままだなって思う。
たぶん、智香にとってわたしは“ただの幼馴染”で、“ただの友達”なんだろう。
だからこそ、居心地がよくて、だからこそ、たまに苦しくなる。
──だけど、いまはまだ、それでいい。
何気ない会話の中で、
この“ふたりで過ごす昼休み”が、ずっと続けばいいなって思っている自分に、
気づかないふりをした。
午後の授業は、いつもより退屈だった。
教壇の前で話す先生の声は、内容よりも声のトーンのほうが印象に残る。
板書のペースは遅くて、黒板のチョークが時折きしむ音が、やけに耳についた。
その音に混じって、誰かの欠伸が教室の後ろの方から聞こえてきて──わたしは、そっと視線を横に向けた。
隣の席で、智香がノートに落書きを描いている。
集中しているように見せかけて、実際にはまったく違う次元にいるらしい。
ペンをくるくる回しながら、ときどき口元だけで何かをつぶやいて、楽しそうに笑う。
……ほんとうに、昔から変わらない。
小さい頃から、彼女はよく笑う子だった。
転んでも笑うし、怒られても笑う。
泣くときも、どこか笑いながら泣くような、不思議な子だった。
それが強さなのか、無邪気なのか、ただの癖なのか。
わたしには、いまだによくわからない。
けれど、彼女の“笑い方”には、ひとつだけ確かなことがある。
──誰かを傷つけないように、できている。
誰に対しても分け隔てなくて、
誰とでもすぐに打ち解けられて、
けれど、ちゃんと人の境界線は守る。
よく「空気が読めない子」って思われがちだけど、ほんとうは逆だと思う。
空気が読めすぎるからこそ、わざと“気づかないふり”ができるのだ。
そういうふうに、人に優しくなれる子は、案外少ない。
思い返せば、小学生のときも、彼女はいつも“中心”にいた。
男子に混ざってドッジボールをしていたかと思えば、
図書室では静かに本を読んでいたり、
かと思えば、給食当番でみんなに味噌汁をこぼしたりしていた。
そのどれもが、彼女らしかった。
なんでもないことを、特別みたいに話せる。
くだらないことで、ちゃんと誰かを笑顔にできる。
そして、ときどき──
さりげなく、心の奥に踏み込んでくる。
こないだだってそうだった。
「好きな人、いないの?」なんて、悪気のない笑顔で聞いてきて、
わたしは、一瞬だけ呼吸を忘れそうになった。
それでも平気なふりをして、
なにげない返事をして、
何事もなかったみたいに授業を受けている。
でも、たぶん。
この退屈な時間の中で、わたしが考えているのは──
ノートの内容でも、先生の説明でもなくて。
ただひとり、窓際で笑っている、その子のことばかりだった。
チャイムが鳴る少し前から、窓の外に意識が向いていた。
夕方の光が、斜めに差し込む。
机に落ちる影が長くなっていて、それをぼんやりと指先でなぞっていたら、先生の声が遠くで終わりを告げた。
荷物をまとめながら、智香がこちらをのぞき込んでくる。
「七海、帰ろっか」
「うん」
それだけの会話で、立ち上がるタイミングはいつも同じ。
何も言わなくても、昇降口までの足取りも自然に揃う。
──この感じが、ずっと続けばいいのにって、思うことがある。
昇降口で靴を履き替えていると、視界の端に見覚えのある姿が現れた。
「よう。ふたりとも、帰り?」
声をかけてきたのは、渋谷純──一つ年上の、わたしたちの幼馴染だった。
黒いリュックを片方の肩に引っかけて、無造作に髪をかき上げる姿は、
昔よりずいぶん大人びて見えた。
だけど、口数の少なさと、少し照れたような表情だけは、あの頃と変わらない。
「純くんも、帰るところ?」
「ああ。偶然、前通っただけ。……一緒に帰っていいか?」
「もちろん!」
即答したのは、智香だった。
その笑顔が、ほんの少しだけ、わたしの胸に刺さる。
わたしは黙ってうなずいて、靴ひもを結び直した。
帰り道、話すのはほとんど智香と純だった。
中学のときの話とか、部活の話とか、共通の知り合いの近況とか。
智香が「この前ね、あの子が〜」と話し出すと、純はちゃんと相槌を打ってくれるし、
それに応える智香の声は、いつもより少しだけ楽しげに聞こえた。
わたしはといえば、ふたりの少し後ろを歩きながら、空を見ていた。
──知ってる。
智香が、純のことを“特別に思っている”ってこと。
それを知ってしまった日から、
わたしの中で、何かが少しずつ変わってしまった。
ふたりが楽しそうに話すたびに、
その距離の近さを、冷静なふりをして測ってしまう。
どこかで、“わたしが入る隙間”を探してしまう。
だけど、純は悪くない。
智香も悪くない。
悪いのは──
たぶん、言えないままでいる、わたしのほうだ。
「七海は、最近なにかあった?」
ふと、智香が振り返って聞いてきた。
不意に目が合って、わたしはほんの一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
「……別に。とくにないよ」
そう言って笑ったわたしに、ふたりは「そっか」とだけ言って、また前を向く。
──わたしの気持ちなんて、言えるわけがない。
この穏やかな時間が続くなら、それでいい。
でも、願ってしまう。
できるなら、ふたりが笑っているその横に、
ほんの少しでいいから、わたしの場所も残っていてほしいと。
家に帰って、制服のままベッドに倒れ込んだ。
何かを考えるでもなく、ただぼんやりと天井を見つめている。
今日は、なにもなかった。
いつも通りに起きて、学校へ行って、授業を受けて、昼を食べて、帰ってきた。
ほんとうに、それだけ。
──なのに、どうしてこんなに、疲れているんだろう。
制服の袖が、わずかに日差しの残り香を含んでいて、
目を閉じると、夕暮れの空の色がうっすら浮かぶ。
そしてふと、記憶が波のように押し寄せてきた。
──中学2年の冬。
帰り道、忘れ物を取りに教室へ戻ったあと、
たまたま校舎の裏を通りかかったときだった。
ふたりの姿が見えた。
純と、智香。
ふたりは、すぐ近くにいた。
肩が触れるか触れないかの距離で、まるで誰にも見つからない場所にいるような、静けさの中で立っていた。
そのときの空気は、いまでも覚えている。
話している声は聞こえなかった。
ただ、風に揺れる校舎の影の中で、
ふたりが向き合っていたことだけが、はっきりと目に焼きついている。
智香の横顔は、少しだけ照れているようで。
純のまなざしは、まっすぐで。
──なんだろう。
あのときふたりの周りにあった空気は、
わたしの知らない“何か”でできていた。
あれから何度も思い出そうとして、
そのたびに自分に言い聞かせてきた。
「きっと、たいしたことじゃなかったんだ」って。
「たまたまふたりで話していただけ」って。
──でも、それが“たまたま”じゃないことくらい、
本当は、わかっていた。
それ以来、わたしの中で、ふたりの関係性に小さな棘が生まれた。
それは決して痛いわけじゃなくて、
でも、触れるとどこかうまく呼吸ができなくなるような、微細な異物感だった。
いまさら、それをどうこうするつもりはない。
変わらないこともあるし、変えられないこともある。
だけど──
今日、並んで歩くふたりの姿を見て、
あのときの校舎裏が、鮮やかによみがえった。
どうして、忘れたつもりでいたのに。
ほんとうは、ずっと忘れていなかった。
わたしは目を閉じて、
その光景を、もう一度だけ、心の奥で再生した。
スマホが震えたのは、夜十時を過ぎたころだった。
通知の音に驚いて手に取ると、画面にはひとつだけ、新着のメッセージ。
差出人は──一ノ瀬智香。
なにも考えずに開いて、そして、言葉を失った。
「今日の帰り、七海ちょっと元気なかった気がしたんだけど……大丈夫?」
たったそれだけの文だった。
顔文字もないし、余計な飾りもない。
ただ、真っ直ぐに送られてきた文字が、胸にまっすぐ届いてしまった。
──見ていたんだ。
笑って、うなずいて、強がって、何事もないみたいにふるまって。
それでも、彼女には伝わっていた。
わたしが少しだけ、立ち止まっていたこと。
誰にも言えない気持ちを抱えて、
笑顔の裏で言葉を飲み込んでいたこと。
涙が出そうになるのは、たぶん、そういう瞬間なんだと思う。
なにか特別なことをされたわけじゃない。
大きな言葉をかけられたわけでもない。
でも、たった一言だけで、心の奥のほうに灯りがともる。
──ああ、この子は変わらないんだな。
昔と同じように、
転んだら手を伸ばしてくれるし、
黙っていたらそっと声をかけてくれる。
そういうところは、ずっと、変わらない。
ベッドの中、毛布をぎゅっと握りしめたまま、
わたしはスマホの画面を見つめながら、少しだけまばたきを我慢した。
返事は、まだ打てなかった。
だけど、心のどこかで、もう少しだけ頑張れる気がした。
この気持ちを、もう少しだけ、大事にしまっておける気がした。
スマホの画面は、まだ光っていた。
智香からのメッセージは、さっきと変わらず、そこにあった。
文字は短くて、あたたかくて、
なぜだか、読むたびに胸が詰まった。
きっと、いまのわたしには、返せる言葉が山ほどある。
「ちょっと疲れてたんだ」とか。
「眠かっただけだよ」とか。
「今日、いろいろ考えちゃってさ」とか。
あるいは、ほんとうのこと──
「ちょっとだけ、苦しかったんだ」なんて。
けれど、わたしの指は、それらを打ち込むことをしなかった。
画面に打たれた文字は、
思っていることの十分の一にもならなかった。
「なんでもないよ。」
それだけだった。
そう打ち込んで、しばらく送信ボタンを見つめて、
深く息をひとつついてから、そっと指先で触れた。
小さな“送信”のマークが画面の隅でくるくると回って、
やがて、既読のマークに変わる。
智香は、すぐには返信をよこさなかった。
でも、それでよかった。
──伝えたいことは、たくさんあった。
でも、言いたくなかったわけじゃない。
ただ、いまはまだ、言える強さがなかっただけ。
わかってほしいと思っているのに、
わかってほしくないと願ってしまう、
そんな矛盾を抱えたまま、
わたしは毛布の中で、静かに目を閉じた。
スマホの光はやがて消えて、
部屋の中には、自分の息の音だけが残った。




