「無能な事務員」と婚約破棄されましたが、前世が社畜だったので「定時退勤」できる魔法学院が天国にしか見えません
「エリーゼ、君との婚約は破棄させてもらう」
ディートリヒ・フォン・クラウゼの冷たい声が、豪華な応接室に響いた。
「理由を聞いてもよろしいでしょうか?」
私――エリーゼ・シュトラールは、できるだけ冷静な声でそう尋ねた。心臓は落ち着いている。むしろ、少しだけ期待に胸が高鳴っていた。
(やっと来た......)
「君は魔法の才能がない。戦闘も、治癒も、錬金術も何一つできない。できるのは事務仕事だけだ。そんな無能な女を、子爵家の跡取りである私の妻にすることはできない」
ディートリヒは、まるでゴミを見るような目で私を見下ろした。
(事務仕事『だけ』、ね......)
私は内心で苦笑した。
この世界の人々は、魔法こそが全てだと信じている。確かに、魔法は便利だ。火を起こし、水を出し、傷を癒す。だが、それだけでは組織は回らない。
前世の私は、大手IT企業のプロジェクトマネージャーだった。終電で帰れれば御の字、土日出勤は当たり前、有給なんて都市伝説。そんな地獄で働き続けて、三十二歳で過労死した。
そして、気がつけばこの異世界の伯爵令嬢に転生していた。
「......分かりました。婚約破棄、承諾いたします」
「え?」
ディートリヒが目を丸くした。どうやら、泣いて縋られると思っていたらしい。
(縋る? 冗談じゃない。やっと自由になれるのに)
「では、失礼いたします」
私はスカートの裾を軽く持ち上げて一礼し、さっさと応接室を出た。
廊下を歩きながら、私は深く息を吐いた。
(これで、あの息苦しい婚約から解放される)
ディートリヒとの婚約は、両家の政略結婚だった。彼は私を見下し、会うたびに「魔法の才能がない」と嘲笑った。
でも、私にとってはどうでもよかった。
なぜなら、この世界には「残業」がないから。
この世界には「パワハラ」もないから。
この世界には「理不尽な納期」もないから。
(前世に比べれば、全てが天国だ......)
私は、屋敷の外に出て、青い空を見上げた。
今日から、私の新しい人生が始まる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
実家に戻った私を待っていたのは、継母の冷たい視線だった。
「まあ、婚約破棄されて戻ってくるなんて。恥ずかしい」
継母――マルタ・シュトラールは、露骨に嫌そうな顔をした。
「申し訳ございません」
私は形だけ謝罪した。
母は私が十歳の時に病死し、父はすぐに後妻を迎えた。継母は実娘のクララを溺愛し、私を邪魔者扱いしてきた。
でも、それもどうでもよかった。
(前世の上司に比べれば、マシだ)
前世の上司は、終業時間の十分前に「明日までに仕様書を百ページ作れ」と平気で言う人間だった。それに比べれば、継母の嫌味なんて可愛いものだ。
「とにかく、あなたには部屋を用意してあるわ。でも、食事は自分で用意してちょうだい。使用人を使うなんて、もったいないから」
「承知しました」
私は与えられた小さな部屋に入り、ベッドに腰を下ろした。
(さて、どうしよう)
婚約破棄されたとはいえ、伯爵令嬢の身分は残っている。だが、このままでは継母に居場所を奪われるだけだ。
(仕事を探そう)
私は決意した。
この世界には、まだ「プロジェクト管理」という概念がない。魔法で何でも解決しようとして、結果的に非効率的な組織運営をしている。
(私のスキルが活かせる場所は、きっとある)
翌日、私は王都の求人掲示板を見に行った。
そこで、一つの求人が目に留まった。
『王立魔法学院 補佐官募集。業務は学院運営の補助。魔法の才能不問。ただし、事務処理能力と組織運営の知識を求む』
(これだ......)
私の心臓が高鳴った。
魔法の才能不問。事務処理能力。組織運営。
まるで、私のために用意された求人だ。
(面接に行こう)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
王立魔法学院は、王都の北に位置する巨大な施設だった。
石造りの立派な校舎、広大な訓練場、魔法研究のための塔。全てが荘厳で、歴史を感じさせる。
「エリーゼ・シュトラール様ですね。学院長がお待ちです」
受付の女性に案内され、私は学院長室に向かった。
扉をノックすると、中から低い声が響いた。
「どうぞ」
中に入ると、そこには一人の男性が座っていた。
年の頃は二十代後半。黒髪に鋭い灰色の瞳、整った顔立ち。しかし、その目には疲労の色が濃く浮かんでいた。
「初めまして。学院長のルーカス・フォン・アルトハイムです」
「エリーゼ・シュトラールです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
私は丁寧に一礼した。
「では、早速ですが面接を始めます。まず、あなたがこの職に応募した理由を教えてください」
「私は魔法の才能には恵まれませんでしたが、事務処理と組織運営には自信があります。学院の発展に貢献できると考え、応募いたしました」
ルーカスは、私の目をじっと見つめた。
「具体的に、どのような貢献ができると?」
「例えば、カリキュラムの可視化です。現在、各教授が独自にカリキュラムを組んでいるため、生徒の負担が偏っているのではないでしょうか? また、備品の管理や予算の配分も、データベース化すればより効率的になると思います」
ルーカスの目が、わずかに見開かれた。
「......どうして、それを?」
「求人票に『学院運営の補助』とありましたので、事前に学院の公開情報を調べました。年間予算の推移、生徒数の変動、教授陣の配置。それらを分析すると、いくつかの課題が見えてきました」
私は、懐から小さなノートを取り出した。そこには、私が昨夜まとめた分析結果が書かれている。
「まず、生徒一人当たりの教育コストが年々上昇しています。これは、備品の無駄遣いや、教授陣のスケジュール重複が原因と推測されます。次に、退学率が微増しています。これは、カリキュラムの過密さが原因かもしれません」
ルーカスは、ノートを受け取り、ページをめくった。
そして、深いため息をついた。
「......あなたは、一晩でこれをまとめたのですか?」
「はい。前世――いえ、以前から、このような分析が得意でしたので」
(危ない、前世って言いそうになった)
「あなたを採用します」
ルーカスは、即答した。
「え?」
「他の候補者も面接しましたが、誰もここまで学院のことを分析してきませんでした。あなたの能力は、まさに我々が求めていたものです」
ルーカスは立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「ようこそ、王立魔法学院へ。エリーゼ・シュトラール」
私は、その手を握り返した。
(やった......!)
心の中で、私は小さくガッツポーズをした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
学院の補佐官として働き始めて一週間。
私は、学院の「カオス」ぶりに驚愕していた。
「教授、来週の特別講義の教室はどこに予約されていますか?」
「さあ? 誰かが予約してくれてるんじゃないか?」
「......予約されていません。今から予約しますので、希望の教室を教えてください」
「うーん、どこでもいいよ」
(どこでもいい、じゃない!)
私は、前世の記憶が蘇って頭痛がしてきた。
この世界の人々は、魔法には長けているが、「管理」という概念が欠如している。
スケジュールはバラバラ。備品は使いっぱなし。予算は使途不明。
(これ、IT企業なら一週間で倒産するレベルだ......)
だが、私にとっては絶好のチャンスだった。
(ここを改善すれば、私の価値を証明できる)
私は、学院長室を訪ねた。
「ルーカス様、お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、エリーゼ。どうぞ」
ルーカスは、書類の山に埋もれながら私を招き入れた。
「学院の業務フローを改善する提案があります」
「聞かせてくれ」
私は、持参した資料を机に広げた。
「まず、カリキュラムの一元管理システムです。各教授のカリキュラムを一つの表にまとめ、重複や過密を防ぎます。次に、教室の予約システム。予約状況を可視化し、ダブルブッキングを防ぎます。そして、備品の在庫管理。使用状況を記録し、無駄な購入を減らします」
ルーカスは、資料を凝視した。
「......これは、素晴らしい」
「ありがとうございます」
「だが、これを実現するには、膨大な作業が必要だろう」
「いえ、私が作成したテンプレートを使えば、一週間で完成します」
ルーカスの目が、驚きに見開かれた。
「一週間で?」
「はい。前世――いえ、以前、同様のシステムを構築した経験がありますので」
(また前世って言いそうになった......)
「......エリーゼ、あなたはどこから来たのですか?」
ルーカスは、不思議そうに私を見つめた。
「伯爵家です」
「そうではなく......いや、いい。とにかく、この提案を採用します。すぐに始めてください」
「承知しました!」
私は、ルーカスに一礼して部屋を出た。
(よし、やるぞ!)
前世の記憶を頼りに、私は「業務改善」に取り掛かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一ヶ月後。
学院の雰囲気は、一変していた。
「エリーゼさん、来週の講義予定を確認したいんだが」
「はい、こちらです」
私は、壁に貼られた大きな予定表を指差した。
「おお、一目で分かるな!」
「また、変更がある場合は、この用紙に記入して提出してください。私が調整します」
「助かる!」
教授たちは、以前よりも笑顔が増えた。
なぜなら、無駄な会議が減り、スケジュールの衝突がなくなり、備品を探す時間が不要になったからだ。
(前世のスキルが、こんなに役立つなんて......)
私は、心の底から満足していた。
そして、何よりも嬉しかったのは――
「エリーゼ、今日も定時で上がれるぞ」
ルーカスが、笑顔でそう言ってくれることだ。
「ありがとうございます!」
(定時退勤......)
前世では夢のまた夢だったそれが、この世界では当たり前だ。
「エリーゼ、少しいいか?」
ルーカスが、私を呼び止めた。
「はい、なんでしょう?」
「君のおかげで、学院の運営は劇的に改善した。生徒の満足度も上がり、教授たちの負担も減った。君は、本当に素晴らしい補佐官だ」
「ありがとうございます」
「それで......君に、もう一つお願いがある」
ルーカスは、珍しく躊躇うような表情を見せた。
「なんでしょう?」
「私の......個人的な補佐もしてくれないか?」
「個人的な?」
「ああ。実は、私も事務作業が苦手でね。君の力を借りたい」
ルーカスは、少し照れくさそうに笑った。
(この人、意外と可愛いところがあるな......)
私は、心の中で微笑んだ。
「もちろんです。喜んでお手伝いします」
「ありがとう、エリーゼ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから、さらに二ヶ月が過ぎた。
ある日、学院の門前に馬車が止まった。
中から降りてきたのは、見覚えのある男だった。
「ディートリヒ......?」
私の元婚約者だ。
しかし、彼の姿は以前とは大きく異なっていた。
服は汚れ、顔色は悪く、目には疲労の色が浮かんでいた。
「エリーゼ......!」
ディートリヒは、私を見つけると駆け寄ってきた。
「話がある。頼む、聞いてくれ!」
「......何の用ですか?」
私は、冷静に尋ねた。
「俺の家が......クラウゼ家が、破産寸前なんだ!」
「それは、お気の毒ですね」
「頼む! 戻ってきてくれ! お前の事務能力が必要なんだ!」
ディートリヒは、土下座せんばかりの勢いで懇願した。
(ああ、やっぱり)
私は、内心で苦笑した。
クラウゼ家が破産寸前なのは、予想通りだった。
あの家は、魔法の才能ばかりを重視し、「管理」を軽視していた。収支の記録もなく、契約書の整理もせず、税務処理も適当。
そんな家が長続きするはずがない。
「お断りします」
「な、なぜだ!?」
「私は今、やりがいのある仕事に就いています。定時で帰れて、休日もしっかりあって、上司にも恵まれている。なぜ、そんな環境を捨てて、あなたのもとに戻らなければならないのですか?」
ディートリヒは、言葉を失った。
「それに、あなたは私を『無能な事務員』と呼びましたね。無能な私に、何ができるというのですか?」
「あれは......すまなかった! 俺が間違っていた!」
「遅いです」
私は、きっぱりと言い切った。
その時、背後から声がした。
「エリーゼ、この男は誰だ?」
振り返ると、ルーカスが立っていた。
「元婚約者です。私に戻ってこいと言っています」
「そうか」
ルーカスは、ディートリヒを一瞥し、そして私に向き直った。
「エリーゼ、君に話がある」
「はい?」
「私と結婚してくれないか?」
その場の空気が、凍りついた。
「え......?」
「君は、この学院にとって、いや、私にとって、かけがえのない存在だ。君の能力、君の人柄、君の全てを、私は尊敬している。だから......私の妻になってほしい」
ルーカスは、真剣な目で私を見つめた。
「ルーカス様......」
「もちろん、無理強いはしない。だが、君がもし私のそばにいてくれるなら、私はこれ以上嬉しいことはない」
私は、心臓が高鳴るのを感じた。
(この人は......私を、ちゃんと見てくれている)
私の能力を。私の価値を。私の全てを。
「......はい」
私は、微笑んで答えた。
「喜んで、あなたの妻になります」
ルーカスの顔が、パッと明るくなった。
「本当か!?」
「はい。これからも、あなたのそばで、学院の発展に貢献したいです」
「ありがとう、エリーゼ!」
ルーカスは、私の手を取った。
その手は、温かかった。
「ちょ、ちょっと待て!」
ディートリヒが叫んだ。
「エリーゼは俺の――」
「元婚約者だろう? 君が捨てた女性を、今更取り戻そうとするな」
ルーカスは、冷たい目でディートリヒを見下ろした。
「エリーゼは、もう君のものではない。私のものだ」
「く......!」
ディートリヒは、悔しそうに歯を食いしばり、そして逃げるように去っていった。
私は、その背中を見送った。
(さようなら、ディートリヒ)
そして、隣にいるルーカスを見上げた。
(こんにちは、私の新しい未来)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから半年後。
私とルーカスは、盛大な結婚式を挙げた。
学院の教授たち、生徒たち、そして王国の貴族たちが集まり、祝福してくれた。
「エリーゼ、君は本当に美しい」
ルーカスは、私の手を取って微笑んだ。
「ありがとうございます」
「これからも、ずっと一緒にいよう」
「はい」
私たちは、誓いのキスを交わした。
その後、学院はさらに発展した。
私の業務改善システムは、他の学院にも導入され、王国全体の教育水準が向上した。
そして、私は――
「エリーゼ、今日も定時で帰ろう」
「はい!」
毎日、定時で帰り、休日はルーカスと過ごし、有給休暇も取れる。
そんな、前世では夢のような生活を送っている。
「ねえ、ルーカス」
「なんだ?」
「この世界に来て、本当によかった」
「......私もだ」
ルーカスは、私を優しく抱きしめた。
「君がいてくれて、本当によかった」
私は、彼の腕の中で微笑んだ。
(ありがとう、神様)
(こんな幸せな人生を、私にくれて)
青い空の下、私たちの新しい物語が、始まったのだった。
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