転生ヒロインがログインする前に転生悪役令嬢が攻略を済ませている話
何かがおかしい。
胸の奥で細い糸が震えていた。期待と緊張が混ざり合った、あの入学初日の甘くほろ苦い感覚ではなく、もっとこう、じわりと広がる違和感のようなものだ。
前世で何周もプレイした乙女ゲーム『フェリシアの光輪』のヒロインに転生したと気づいたとき、私は正直、人生の勝利が確定したような気分だった。
孤児院で育てられ、ある日突然「あなたは行方不明だった子爵家の令嬢です」と告げられ、涙ながらに迎えられ、綺麗な馬車で貴族の屋敷へ──そう、全部ゲームの序盤と同じ。
出生の秘密が明かされ、ヒロインは平民から一気に貴族へ。そして舞台は貴族学院へ移り、攻略対象との劇的な出会いが始まる。
はず、だった。
……やっぱり何かがおかしい。
廊下を歩くだけで、周囲から温かい視線が向けられる。
「リアナ様ですよね? よろしくお願いします!」
「困ったことがあったら何でも聞いてくださいね」
気づけば友人とも呼ぶべき令嬢たちに囲まれ、笑顔で手を振られていた。
……いやいやいや。
おかしい。おかしすぎる。
ゲームの序盤、ヒロインは孤独だった。
捨て子として育ったために、自己肯定感は低く、他者からの好意を素直に受け取れない。さらに学院では孤児院育ちへの偏見を持つ生徒もいて、ヒロインは浮いていた。
だが、今の私はどうだ。
友人に囲まれている。
みんな優しい。
学院全体の空気すら柔らかい。
……攻略対象まで、柔らかい。
第一王子のアレクシスは、ゲームでは生来の責務の重さから無表情で近寄りがたく、心にも鎧を着たような人物だった。それなのに……今は、周囲の生徒たちに笑いかけている。笑っているのだ。
その笑顔を初めて見たのはルート後半、心を開いた場面だったはずなのに。
次期騎士団長候補クロードは、本来なら「誰とも関わりたくない」と距離を置く設定なのに、すでに友人グループの中心で囲まれている。
魔術科首席のジークハルトもそうだ。本来は弟を亡くした過去から他者を遠ざけ、冷たささえ感じさせる天才魔術師のはず。だが、今の彼は人混みの中にいて魔術談義に励んでいる。
貴族として高位である攻略対象たち。彼らが他人を寄せ付けず冷たい空気を纏っていた故か、学院の雰囲気も引き摺られるように殺伐としているのがゲームからは読み取れた。
だが、現在。
攻略対象たちの変化と共に、学院全体の空気も和らいでいる。
誰があの孤独な攻略対象たちをここまで変えたのか。
私が学院に入学する前から、この雰囲気が出来上がっているなんて、どういうことなのだろう。
ゲーム序盤の彼らは、トラウマや心の傷を抱えていた。
家族との確執、血筋への呪縛、孤立、責任、喪失。
笑うことを忘れた者もいたし、一切他者を寄せ付けず冷え切っていた者もいた。
なのに。
まるで……既に誰かに救われた後みたいに。
背筋がひやりとした。
──まさか。
これ、もしや……。
(悪役令嬢、転生者じゃない?)
乙女ゲーム転生ものの"あるある"が脳裏に浮かぶ。
ヒロインとして転生した私は、当然ヒロインルートに乗るつもりだったけれど、同時に一つの懸念もあった。
ヒロインだけでなく、悪役令嬢も転生者で、ヒロインが出会う前に攻略対象たちの心を癒し、好感度を勝ち取ってしまう……そんな半敵対ルート。
その場合、ヒロインは本来救うはずだった彼らに近づけず、イベントも発生しない。
悪役令嬢は性格を改善して善行を積み、結果として攻略対象たちの周囲の人間関係が最初から整った状態になる。
……今の学院、まさにそれでは?
気づいてしまった。
これ……私、出遅れてる。
ヒロインである私よりも先に、誰かが攻略対象たちと心を通わせている。
それだけじゃない。彼らが抱えていたはずの孤独すら薄まっている。
となれば理由は一つ。
転生悪役令嬢が先にフラグを回収している可能性が高い。
ゲームの悪役令嬢──レティシア・ヴァルモンド。
気位が高く、歪なプライドでヒロインを追い詰める典型的な敵役のキャラだ。
だが、もし彼女が転生者なら?
最初からヒロインの存在を知っていたら?
胸の奥がざわりと揺れた。
ただ一つ確実なのは。この学院で、物語はすでに変わっている。私の知っているゲームとは違う展開が始まっている。
その中心に、レティシアがいる。
彼女は今どこで、どんな顔で、誰の隣に立っているのだろう?
鼓動がわずかに速まる。
……ゲームでは絶対に味わえなかった、未知のルート。
これから始まるのは、私の知らない物語だ。
私は深く息を吸い込み、胸元で拳をぎゅっと握り締めて、学院の中央に聳え立つ煉瓦造りの時計塔を見上げた。
初対面イベントを、思い切って起こすことにした。
ゲームのヒロインなら自然に流れ着く展開だけれど、私自身にその知識がある故に、自分から動かなければイベントは発生しないだろう。
まして現状。このままでは私は介入する機会すらなく物語から外れる未来が見える。
だったら、せめて最初の接触だけでも、ゲーム通りに……。
そう思って校舎を早足で歩いた。渡り廊下に射し込む光。白亜の壁に反射する柔らかな光景。
ゲーム通りなら、この先の角で殿下と鉢合わせる。
ゲームでは最序盤の大事な出会い。ヒロインが渡り廊下でつまずき、偶然通りかかった第一王子アレクシス殿下が手を差し伸べてくれる、運命の出会い。
彼の心に、初めて小さな光が差し込む象徴的なシーン。
だが、今の学院では雰囲気が違いすぎる。
彼の孤独も、陰を宿した瞳も、どこにもない。
それどころか、渡り廊下の向こうからやってくる殿下の周囲には、友人らしき男子が数名ついて歩いている。王族の側近候補ですらない、ごく普通の貴族や騎士科の少年たち。
楽しそうに談笑しながら歩く殿下は……私の知っている彼ではなかった。
それでも、イベントは起こさなければ何も始まらない。
私は一度深呼吸し、渡り廊下の角を少し早歩きで曲がった──その瞬間。
「あっ、」
靴の先が絨毯の端に引っかかり、視界がぐらりと揺らぐ。
予定通り、私は盛大に転んだ。
痛みよりも、胸が早鐘を打つ。
──来る。ゲームなら、ここで殿下が来る。
案の定、殿下の靴音が近づくのが聞こえた。
顔を上げようとしたとき──殿下の周囲にいた友人の一人が、彼の手首をそっと抑えた。
「殿下、少々お待ちを」
その仕草は失礼でも横柄でもなく、ごく自然なものだった。
だが、近すぎる。平凡な顔立ち、平凡な体格。攻略対象でも側近でもない、ただの友人が、こんな距離にいるなんて。
そんな彼が、コソコソと殿下に耳打ちした。
「彼女、例の孤児院上がりの子爵令嬢ですよ」
その一言が、やけに明瞭に鼓膜に届く。殿下に聞こえるか聞こえないかの、絶妙な声量にも関わらず。
続けて別の友人が低く言った。
「平民は無闇に貴族に近寄って無礼を働き処罰されないようにと、大袈裟に怖がらせるよう教育を受けます。殿下がお声がけすると怯えさせちゃうかも」
「む……そうか……」
殿下が困ったように声を落とす。けれど私は床に手をついたまま、何も言えなかった。
孤児院時代はそういう教育をされていたけれど、今の私は貴族──以前に、前世の知識がある。確かに"王族"といわれると緊張してしまう部分はあるが、無闇に怖がったりはしないのに。
演技で転んだのに、本当に動けなくなったような気がした。
「じゃ、俺行ってきますよ。同じ子爵位だし、緊張させませんって」
そう言って、一人の少年が軽く殿下の肩を叩き、こちらへ歩いてきた。
「失礼、手を。大丈夫ですか?」
差し伸べられたのは、見た目も態度も至って普通の令息だった。地味な髪色。平均的な背丈。優しいけれど目立たない笑顔。平凡な容姿の、穏やかな目の男の子。
背伸びしたような礼儀正しさが、どこか微笑ましい。
攻略対象でも何でもない。ただの一般生徒。
差し出された手は温かかった。私は驚きながらも、その手を取ってゆっくりと立ち上がる。
ゲームでは王子様が助け起こしてくれたのに。
ここでは、殿下はまだ後方で様子を見ているだけで……その横で友人たちが何やら会話を続けていた。
「殿下の道を塞いでしまったら彼女の失点になります。俺らはあっちから行きましょ」
「そうだな」
その間に、殿下たちは「じゃあ行こうか」と何事もなかったように先へ去っていく。
私の"運命の出会い"は、あっさりと横から別の誰かに上書きされてしまった。
「す、すみません……。ありがとうございます……」
情けない声が漏れた。助けてくれた子爵令息に丁寧に礼を言い、私は深く頭を下げる。
「気にしなくていいですよ。同じ一年生ですし」
そして、私を助けてくれた少年が軽く笑った。彼は「またどこかで」と軽く手を振り、友人たちのもとへ戻っていく。
残された私は、ぎゅっと拳を握ってしばらく廊下に立ち尽くしていた。
──この世界、やっぱり変わってる。これはもう、ゲームのルートじゃない。
そして、私の物語も。
*****
「……アレクもジークもクロードもだめ……やっぱり悪役令嬢が転生して……」
そんな、不穏で突拍子もない言葉を口走りながら、最近子爵家に引き取られたという少女──リアナ嬢が、深刻そうに眉を寄せたまま、誰に聞かせるでもなく呟いて歩き去っていく。
その姿を視界の端で捉えながら、私は特に気に留めることなく歩を進め、そのまま中庭へ向かう。
「あっ、ティルナ! どこに行っていたの!」
よく通る、高く澄んだ声が磨き抜かれた大理石の廊下に響き渡り、私は足を止めた。学院の昼下がり特有の静けさを焼き破るような声だった。
振り返ると、光を跳ね返すような鮮やかな金の髪のお姫様が、つかつかとこちらへ歩み寄ってくるのが見える。
「レティシア様」
こちらに向かってくる少女──レティシア・ヴァルモンド公爵令嬢。気位が高く、学院でも名の知れた才女であり、私のご主人様とも言える存在だった。
レティシア様は腰に手を当て、こちらを見上げるようにして眉をきゅっと吊り上げている。その表情はまさに"ぷりぷり"という擬音が似合っていた。美しくて気品あふれる令嬢なのに、時折こうして感情がストレートに外へ出るところが愛らしい。
「もう! さっきから探していたのよ。授業終わりに姿が見えなくなったと思ったら……」
「申し訳ありません。図書館まで資料を返しに行っていましたので」
「まったく……。それで、今日は予定があるのよ! もちろん、貴女も付き合うわよね?」
レティシア様が得意げに胸を張る。
「放課後、例のカフェで期間限定のパフェを食べに行くの! この季節しか出ないんだから、逃すなんてありえないわ!」
「すみません、レティシア様。今日は文芸サークルの集まりがあって」
眉尻を下げながらなるべく優しく断ると、レティシア様は驚いた顔でぱくりと口を開き、そのまま閉じた。
「……あぁ、いつもの……」
レティシア様は頬をふくらませ、腕を組んで「むぅ」と声を漏らす。その姿がまた可愛く、私は自分が微笑んでしまっていることに気づく。
「はい。月末の朗読会の準備があるそうで。今日は全員集まるらしく……」
「……ああもう、仕方ないわね!」
くるりと華やかにスカートを揺らして背を向けたレティシア様は、怒っているのか拗ねているのか判断しがたい声で言った。
「なら明日の放課後は私のために使うのよ! いいわね?」
「もちろんです、レティシア様」
即答する私にようやくレティシア様は満足げに頷いた。こういう切り替えの早さも彼女らしい。
先を行くレティシア様に追いつき、並んで歩き始める。大理石の床に二人の足音が規則正しく響き、やがて重ね合うように揃った。
「それにしても、その文芸サークル……本当に大丈夫なの? 大衆向けの本だとか平民の流行だとか、貴族令嬢が進んで読む物ではないわよ。貴族が読むべきなのは、もっと格式の高い古典や詩集でしょう?」
ぽつりと落とされた声には、心配と少しの嫉妬が混じっていた。それを正しく読み取った私は小さく笑う。
「普段手にとらない本の情報も手に入るからいいんじゃないですか」
「それは……まあ、そうだけれど……」
レティシア様は頬を膨らませながらも、以前私から借りた大衆小説を思い出したようだ。読み終わった彼女は興奮冷めやらず、翌朝まで私の部屋で感想を語り続けていた。
「……その、本は意外と面白かったけれどっ。面白かったけれど、それとこれとは別よ!」
「はいはい。レティシア様は本当に素直じゃないですね」
言った瞬間、レティシアがぴしっと肩を震わせる。その反応すら可愛らしく、つい笑みを深めてしまった。
ふと視線を横に投げると、廊下の向こうにひとりそそくさと歩いていくフェリシア嬢の後ろ姿が見える。私は視線を前へと戻し、レティシア様のふくれた頬をそっと盗み見た。
「おつで〜す」
「ウィ〜おつ〜」
「おつおつ」
文芸サークルの活動場所。学院の片隅にあるサロンに入ると、ゆるい声が重なって迎えてくる。由緒ある王立学院のサロンで交わされるとは思えない軽さだが、ここではむしろこれが普通だ。
部屋の中央に置かれた丸テーブルには紅茶と焼き菓子の皿が並び、構成員たちが自由気儘に腰を下ろしている。
男女混合、十二名。
いずれも礼儀はわきまえつつも、どこか学生ノリの砕けた空気をまとっている。
私は空いている席に腰を下ろし、湯気の立つ紅茶を一口啜る。鼻に広がる香りが落ち着きを与え、周囲の雑談が心地よく耳を満たした。
ひとしきりお菓子をつまみ、全員がダラダラと寛ぎはじめた頃、ふと思い出して口を開く。
「そういえば、例のヒロイン。転生者で間違いないっぽいですよ。「悪役令嬢も転生者かぁ〜?」って呟いてました」
その瞬間、周囲から「あ〜ね、知ってた」「やっぱそう?」「まあ挙動からそうとは思ってたけど」と、気怠い返事が飛ぶ。
「やっぱり、"ネームド"みたいなシナリオ上の自我が確立しているキャラには転生しない説?」
「"ヒロインは性格の傾向こそあれど、プレイヤーが投影する前提の立場だから『中身』も融通が効く"論か」
意外性もなければ騒ぎ立てる者もいない。この場に集まる十二人は、すでにその可能性を共有していた。
「まさか周りのモブどもに転生者がわらわらしてるとはヒロインも思わんよなぁ」
「和食があったり文化水準が高めなのも最早"乙女ゲーム世界観だから"なのか"過去の転生者どもがやらかした"のか判別がつかないっていうね」
「ま、ヒロインの立場で転生したら、そういう思考に寄るのは妥当だな」
そんなことを話しながら紅茶を啜る。
そう。この文芸サークルのメンバーは、全員が転生者だ。
前世は揃って現代日本で生きていた普通の学生や社会人で、ゲーム『フェリシアの光輪』は知っていたり知らなかったり、既プレイであったり未プレイであったり様々だ。
合流してからは既プレイ民でざっと内容の説明はしてある。
転生したと思しきヒロイン、リネア嬢は"悪役令嬢も転生者で、彼女が先に攻略対象たちを攻略した"という線を疑っているようだった。
だが事実は違う。悪役令嬢、レティシア・ヴァルモンドもこの世界の人間だ。
転生しているのは、我々モブの方。
攻略対象たちはそれぞれトラウマや心の傷を抱えており、それに寄り添い傷を癒すヒロイン──乙女ゲームの常道だ。
そして、たとえばそれを知っている転生悪役令嬢が、「彼らがトラウマを抱えるのを未然に防ぎたい」「ヒロインの登場までそれを放置しておくのか」と事態の解決に乗り出すのを、誰が咎められようか。人として何ら間違っていない感覚だろう。"攻略"だとか、下心以前の感情だ。
そう、たとえばそれを知っているのが、悪役令嬢ではないモブ転生者たちだったとしても。
「攻略対象の親とかに転生する人がいれば話が早かったんだけど」
「一番ネームドに近くても親戚くらいだもんな」
攻略対象ら"ネームドキャラクター"は得てして位の高い者たちばかり。親族といえど、分家など、やはり彼らの生家・親よりも立場は一段下がる。本家の嫡男らの教育や生育環境に口を出せるような立場じゃない。下手をすると他家の人間よりも、だ。
もちろん、我々も転生者とはいえ木っ端モブ。かつ攻略対象たちと同年代のいたいけな少年少女。親世代の問題や生育環境に口を出すなどの根本的解決に乗り出すほどの力などない。
とはいえ、ちびっ子モブにもできることはあった。
たとえば、周囲の人間に立場や才覚を恐れられ、友達の一人もいなかった。
たとえば、仮面を被るのが当たり前で、心を許せる相手の一人もいなかった。
たとえば、他者との関わりを教えてくれる、近しい人間の一人もいなかった。
話は簡単だ。我々がその"一人"になっただけの話。
我々は転生者。この世界で初めて生まれ落ちたネームドたちよりも余程精神的に成熟していた。
彼ら彼女らの癇癪や高慢な態度、他者と関わりがないが故の距離感バグなど、「あらあらよちよち」と微笑んで受け流したこともある。無自覚に相手を威圧する態度を、さりげなく訂正してあげたこともある。孤独に沈む子の隣で、ただ黙って一緒に座ったこともある。
私もまた。
私は、ゲームでは悪役令嬢であり、殿下の婚約者候補だったレティシア様の生家──ヴァルモンド公爵領内の貴族の娘。つまり、彼女の取り巻き、あるいは子分である。
幼い頃から高慢ちきでわがままな彼女には友人がいなかった。他の寄子の子女たちは表面上は当たり障りなく、しかしあまり近寄らないように距離をとっていた。
他者から距離を置かれた孤独なお姫様──それが元々のレティシア・ヴァルモンド。
しかし、私は彼女がただ公爵令嬢として相応しくあろうと努力し、空回っているだけだと知っていた。
ゲームではアレクシス殿下の筆頭婚約者候補としてヒロインに敵意を向けていたのも、殿下へ対する執着よりも、公爵令嬢として相応しい立場である次期王妃の座を手に入れなければいけないと思っていた、というのが真だ。
そんな彼女と周囲が空けていた隙間を、ずかずか突っ込んでいったのが、私。
私の他にも、似たような転生者たちがいたらしい。
立場を気にして誰も近寄らなかった彼に声をかけた人。
強さゆえに敬遠された彼の横で剣を振り続けた人。
裏切りと喪失の哀しみに寄り添い続けた人。
トラウマを未然に防ぐほどの力など、我々にはない。
家庭環境や政治闘争に手を出すことは叶わない。
が、幼子の情操教育には他にも必要なものがある。
我々は非力でちっぽけなたった一人のおともだち。だがそれでも、少なくとも彼らは、親の駒として言いなりに生きることが正しいことだとは思わなくなったし、世界は広く楽しいことや美味しいものがたくさんあることを知ったし、この世にひとりぼっちだと孤独に凍える夜を過ごすことは無くなった。
ゲームのシナリオでは、彼らはヒロインによって初めて心を救われるはずだった。でも、私たちがほんの少し手を伸ばすことで、彼らはそれより少しだけ早く、少しだけ軽やかに笑えるようになった。
そんなこんなで、元・悪役令嬢のレティシア様は今や立派なツンデレお嬢様と進化を果たし、第一王子アレクシス殿下の筆頭婚約者候補という肩書きも早晩外れる予定だ。現在、兄君のご学友である侯爵子息と距離を縮めており、水面下で婚約の話が進んでいる。
殿下の方も、男子連中が聞き出した感じ、婚約者候補の一人である伯爵令嬢が気になっているらしい。少しばかり家格は低いが、王宮の審査を通った歴とした婚約者候補であるし、数代前に王女の降嫁もあった歴史の古い由緒正しい家柄だ。
少なくともヒロインのように、王妃を狙った暗殺者を返り討ちにしたり敵国のスパイを取っ捕まえたり暴走するドラゴンを沈めたり、艱難辛苦と共に必死になって功績を積み上げるような必要はない。
どちらの婚約も半年後くらいには公表されるだろう。
各々が手を伸ばしていた菓子皿の上で、最後のマドレーヌが寂しげに転がっていた。
サロンの空気が一段落したころ、誰からともなく切り出される。
「で、ヒロインちゃん。サークルに勧誘する? どうする?」
軽くクッキーを齧りながら、向かいの男子が気安く言う。
だが、その内側にはそれなりの慎重さがあった。ここは十二人の転生者の溜まり場である。外部の人間を招くとなれば、それなりに気を遣う。
ヒロイン。ゲームの中心人物。プレイヤーの投影先であり、この世界のシナリオが彼女を中心に回る可能性もある。
そんな人物を、よりにもよって転生モブの巣窟たるこの文芸サークルに入れるかどうか。
「ヒドインみたいなやばい奴じゃなければ良いんじゃない?」
「それな〜」
軽口が飛ぶが、判断は慎重だ。我々は皆、前世由来の経験や倫理観を持つ一方、この世界で問題を起こすつもりは毛頭ない。ヒロインが暴走するタイプなら関わりは避けたいし、逆にまともな子なら仲間になり得る。
「まぁ悪い子ではなさそうだったよな。気にかけてくれる一般生徒とも問題なく付き合ってるみたいだし」
「殿下との初対面イベント潰す形になったけど、普通にお礼言ってたしな〜」
「あれから無理矢理接触しようとする素振りもないし」
数人が彼女の様子を思い出しながら言う。ヒロインは何度か各攻略対象との初対面イベントにチャレンジしたようだが、周りにいた我々転生モブやそれ以外の一般生徒に軌道修正されたり、イベント自体が起きずに放置プレイを喰らったりしていたようだ。
ただ、それ以降、無理にイベントを実行しようとしたり、誰かに突撃したりするような行動は起こしていない。
「今の段階でレティシア様に突っ込んでくるほど浅慮でもないですしね」
私が付け加えると、一同が納得したように頷いた。
いわゆる"ヒドイン"のような人間であれば、転生疑惑のあるレティシア様に対して敵意を持ったり嫉妬したりして、「アンタが邪魔してるんでしょ!」とでも放言することも予想できた。
だが、彼女は迂闊にも転生関連の推測を口にしていたとはいえ、誰かを貶したり、執着したりするような危うさは見られなかった。それだけでこちらとしてはひとまず安心だ。
「じゃあもう暫く様子見て、素行に問題がないようなら声かけてみるってことで」
「異論なーし」
「問題なし」
「文句なし〜」
それぞれが軽い口調で賛意を示す。
このサークルは、転生者同士の秘密結社のような大層な集まりではない。ただ、この世界で穏やかに生き抜くための、安全な寄り合い所帯にすぎない。
とはいえ、このサークルに入れるかどうかは、転生者同士の安全保障に関わる問題である。同族を増やすか、慎重に距離を置くか。判断は常に冷静でなければならない。
私は紅茶を一口含み、その小さな波紋を見つめる。
ヒロインが転生者である可能性は高い。ならば、この世界で独りきりで戸惑わせるのは気の毒だし、情報共有の観点からも仲間に迎えられれば心強いだろう。
我々は救世主でも陰謀家でもない。ただ、転生した一般人として、少しだけ心の余裕を持った子どもたちだ。
だから結論はいつもシンプルになる。
良い子そうなら、友人の一人になればいい。
それだけの話だ。
転生モブがいっぱい出てくるタイプの二次創作、すき
ヒロイン(デフォルトネーム:リネア)は明るくて優しい誠実なキャラ造形で、乙女ゲームヒロインとしては平均的なクセのない性格をしており、プレイヤーには「ゴリラ」「破壊兵器」「繊細な人物描写と丁寧な心の交流に外見と内面は相応しい女」「おかしい……何度読んでも本編にも設定資料にも"敵国で実験されていた生物兵器の一人である"という記述が出てこない……なぜだ……」と親しまれていました。




