02 まだ、やることが
「お前、あの子が好きだろ?」
「はい」
あっさりとリダールは言った。異性として云々ではなく、友人としての「好き」なのは明らかだった。
「じゃあ行ってやれ」
彼は繰り返した。
「あの子はお前に『格好よく』なってほしいんだよ。まあ、お前はお前なんだし、無理する必要はないが、ちょっとは女心を推察してやった方がいいぞ」
「どういう意味ですか?」
リダールはきょとんとしていた。
「だからな。あの子がこうしてここに走ってきたのは、お前の『いますぐどうにかしなきゃ』を尊重してだし、その目的を忘れたみたいに逃げ出したのは、お前に悪いことを言っちまった気持ちが大きいからさ」
「はあ」
「ま、素直に謝りたくもあったが、お前が無反応なもんだから謝る機会を逸して、八つ当たりってとこかねえ」
面倒臭いな、と彼はまた苦笑いを浮かべた。
「ほら、早く――」
とリダールを押し出そうとしたとき、タイオスは目をしばたたいた。
「ん?」
逃げるように走り去っていったシィナが、また戻ってきたのである。
「何だ」
やっぱり謝りにでもきたのかと、彼は呑気なことを言いかけたが、そんな事情ではなかった。
「リダール! 逃げろ!」
「え」
「奴らが」
彼女が息せき切って言う間に、同じ角から、曲がってきた。
灰色のローブをかぶった、三体の影が。
タイオスは反射的に右手を剣の柄にやろうとして、はっとした。
(しまった。剣が)
(――ない)
愛用の剣はシリンドルで取り上げられたきりだ。途上で購入するつもりでいたのだが、サングによって一瞬でここまできてしまった結果として、刀剣屋になど寄っていなかった。
(あるのはアンエスカの野郎から借りた短剣だけだ)
(クソ、これで)
(どうにかするしか)
落ち着け、と彼は自分に言い聞かせた。
何も戦いになるとは限らない。リダールとシィナを逃がしてやるだけの時間を作り、それから自分も逃げればいい。
「お前ら、早く逃げろ」
彼は明確に指示したが、少年たちはとどまっている。
「おい、何をしてる。とっとと向こうへ」
タイオスは背後を振り返って指した。と、その手がとまる。
「――クソ」
反対側にも、ローブ姿が三体。
(こりゃ、たまたまシィナの行く先にいたって訳じゃねえ)
(シィナが、奴らは人外だと言いかけたのをきっちり聞いて)
それで彼女を狙ってきたのでは、とタイオスは推測した。噂に聞く「若旦那」も、もしかしたら何か気づいてやられたのかもしれない。
「ふたりとも、店に入れ」
裏口のすぐ傍で幸いした、とタイオスはそっと言った。もし店を囲むほど人数がくれば厄介だが、そうなる前に。
「表からでも、窓からでも、様子を見て逃げろ。魔術師協会に走れ。人通りのあるところを使ってな。急げ」
「で、でもタイオスは」
「時間を稼ぐ」
いいから急げ、と戦士は促した。リダールは躊躇っていたが、シィナがその手を掴んだ。
「行こう、リダール」
「ま、待ってよ……」
「おっさんは専門家だってんだろ。任せろよ」
「でも――」
「お前、タイオスを信じないのか?」
言い合う間にローブたちはのろのろと近づいてくる。
「タイオス」
リダールは泣きそうな顔を見せた。
「〈峠〉の神の加護を」
「おう」
苦笑してタイオスは答えた。シィナに引っ張られるようにしながら、リダールもまた店内へと隠れた。
(さてさて、神さんはシリンドルと関係ないことでも手伝ってくれるもんか)
(いや、関係なくはないんだな。サングの言によれば、だが)
彼は短剣を取り出し、扉のすぐ近くに立った。
「お前ら、何の用だ?」
まともな返事がやってくるとは思わなかったが、彼は六体のソディエを眺め渡しながら声を出した。
「陰気臭いフードで顔隠しやがって」
(――もっとも)
(こいつらがライサイと同じ種族だってんなら、顔なんざ見たくない)
青みがかった銀色の鱗で覆われた、化け物の顔。タイオスは思い出して、背筋が寒くなるのを感じた。
「おい、何とか言ったらどうだ」
時間稼ぎのつもりで、彼は繰り返し声をかけた。こうして言葉を投げ続けられれば、特に喋るつもりがなくともつい返事をしてしまったり、少なくとも戸惑ってどうしようかと迷うのは、人間の性のようなものだ。無視し続けることもあろうが、それにも胆力、労力が要る。
だが目の前の連中は、人間ではない。
もっとも人間だとしても、訓練を受けた暗殺者などであれば、余計な口を利かない。
どちらにせよ、心楽しい考えではなかった。じわじわと寄ってくる左右のローブに冷や汗の出る気持ちを味わいながら、タイオスは耐えた。
(こいつらは、俺のことなんか気にかけちゃいないみたいだ)
短剣を手にした男がそこにいると言うのに、先ほどからと少しも変わらぬ速度で近づいてくる。
(ひとりだけならぶっ刺してやれるが、あとが続かん)
(やっぱり俺も逃げた方がいいな)
(それにしても、何も稼げてないときた)
タイオスがいようといまいと、ローブたちは同じようにやってきただろう。ここで身を挺して扉を守れば少しは時間が稼げるが、危険すぎる。
(まだ……まだだ)
それでもちょっとくらいは歩調を緩めないだろうか、とタイオスはぎりぎりまで粘った。その期待に応じてと言おうか、数ラクト以内に入り込もうかというところまでくると、さすがにローブたちも歩みをとめた。
左右の三人組の内、それぞれひとりが代表するかのようにほんの少し前に出た。そして、その手がゆっくりと上がる。
(まずい)
と、戦士は感じた。
(こりゃ、逃げるしかない)
素早くタイオスは後ろ手で取っ手を探り、背後を見せないままで店内に逃げ込む。すぐさま扉を閉じたが、鍵などかける暇もなくそれは開かれた。
「な、何だあんた、さっきから。何をしてる」
「ち」
料理人の泡を食った声に、タイオスは舌打ちした。
「逃げろ」
「は?」
「いいから逃げろっての!」
やるしかない。
タイオスは扉からゆっくりと入ってきた灰色ローブに、勢いよく短剣を振るった。しかし、踏み込みが浅かった。完全に刺し込んでしまうことを避けるためと、半ばは脅しのための一撃ではあったが、それはローブを裂き、フードを弾くにとどまり――。
「うひゃあああ!?」
料理人の悲鳴を誘発した。
銀色の、鱗で覆われた頭部。
まぶたのない、金色の瞳。
それは確かに、彼がかつて見たライサイと同じ種族の生き物だった。
「は、よかったよかった」
戦士は口の端を上げた。
「あの話が出鱈目で、もしお前らが人間だったら、俺ぁ町んなかで刃物を振るった狂人扱いだ」
助かった、と彼は嘯いた。
「ななな何だこいつら!?」
「お察しの通り、化けもんだよ。判ったらとっとと逃げろ」
タイオスは言い放ってちらりと一瞬だけ料理人の方を向いた。すると、腰でも抜かしたのか、その場にへたり込んでしまっている男が見えた。
「おいおい、勘弁してくれ」
まさかこいつも守らなきゃならんのか、とタイオスは悲鳴のような声を上げた。
見捨てることは簡単だ。名前も知らない男なんかを守ってやるほど、彼は志の高い戦士ではない。彼はこの町に義務もない。何の契約もしていない。むしろ、この男を餌食にしておいた方がちょっとは時間が稼げると、そうした思考も浮かんだ。
「戦士」としてはごく普通の考えだ。非道も冷酷もない。
だが――。
(リダールが、哀しむか)
キルヴンの町の者がこれ以上被害に遭ったら。
タイオスが期待に応えなかったら。
「ええい、仕方ない」
彼は下方に剣をかまえた。
(俺はまだ死なん。まだやることがある)
それと同時に、ソディエも腕を振り上げた。
(しまった)
短剣の扱いには、慣れていない。先ほどよりも踏み込んだつもりではいたが、振り上げた切っ先はソディエに届かなかった。
いや、タイオスが二度に渡って踏み込み損なったのでは、ない。
下から蹴り上げられたかのような衝撃が、彼の右手首を襲った。思わぬ打撃に、彼の手は武器を離してしまった。短剣がくるくると宙を舞う。
「クソ」
得物を失った。ぱっと距離を取って、タイオスは考える。あとは肉弾戦か、とにかく手の届くところにあるものでも投げつけるか。
(厨房なんだから、包丁くらい――)
とっさにそんなことを思った戦士だったが、そこまでだった。
彼は、屋内に続けて入ってきたソディエたちが、揃って彼を指差しているのを――見た。
「な」
中途半端に延ばしたままの右手の先に、違和感を覚えた。
「なん、だ」
痺れ。痛み。
まるで――雪原に指先を突っ込みでもしたかのように。
「う」
動かない。指が。腕が。
痺れがそこから入り込んでくる。
肩へ。胸へ。首へ。腰へ。
「う……あああああああ!」
彼は叫び声を上げた。それは全身が麻痺していくような感覚をどうにか振り払おうとするためでもあれば、悲鳴でもあった。
(俺は)
(俺には)
(――まだ、やることが!)
「タイオス!」
誰かが呼んだ。彼を呼んだ。
パァン、と、何かが砕けるような音がした。




