08 お気に召さないのかね
「古書に記述がある。『夜ならぬ夜に神が降りる』とされる、伝説の一種だ。神話の時代、太陽神や月の女神をはじめとする天空の神々は、いまと違って自由気ままに空を飛び回っていたと言う。どんな星神も空に存在しないときもあった、と。それを幻夜と言うのではないかという解釈が一般的だ」
「どんな星神も? お日様が沈んでも、空に星がないってか? そりゃ不気味な」
タイオスは「墨色の王国」をとっさに思い出したが、違うなと否定した。
(あそこには、月があった)
(灰色の、だがな)
「解釈のひとつだ。逆に、地上に降りていた神が去る夜とも言われている。事実は判らない」
「ほかにはどんな解釈があるんだ」
星の見えない夜など、曇り空か雨の日くらいしか考えられない。だが悪天の日ならあれから何度もあったし、だいたい、いちいち「幻夜」などと呼ぶ必要もないはずだ。
「表が裏に、光が闇に、真が嘘になる夜だと言う。大きな変遷を示唆する言い方故、〈変異〉の年のとある一日である、という考えもある。主には〈時〉の月の、最終夜」
六十年に一度、〈変異〉と呼ばれる年がある。通常は一年を十二の月――白、蒼、桃、碧、明、紫、紺、紅、茶、黄、暗、深と名付けられている――で数えるが、その年だけは十三番目の月〈時〉の月が存在する。
災いが起きるなどと言われ、人々は大きな厄除けの祭りを催す。その裏では魔術師たちが、六十年に一度の稀少な機会を使って様々な術を試すのだというような話も、タイオスはサングから聞いたことがあった。
「だが〈変異〉とかってのは、まだだいぶ先だろ?」
「十七年後だ」
「うーん、少なくとも奴らの言ってる『幻夜』はそれじゃなさそうだな。奴らもそこまで気が長くはないだろうし、だいたい俺だって、普通に死んでるかも判らん」
ほかは、とタイオスはまた尋ねた。ほかは、とヴィロンは肩をすくめた。
「『現実に即するなど無意味だ』または『神の成す神秘に解釈など不要だ』」
「は」
戦士は笑った。
「思考放棄の言い訳か」
彼は言ったが、皮肉や嫌味のつもりはなかった。むしろ「それっぽい言葉でごまかそうって辺り、神官もやっぱり人間だな」などと親近感を抱いたくらいだ。
「ん? 待てよ」
だが少し、引っかかった。
「神秘……か」
嫌な言葉だった。エククシアが言い立てた言葉。〈白鷲〉の「神秘」をもっと見せろと、あの半魔はそうした台詞を繰り返した。
「神秘の夜に、神秘の命」
サングが呟いた。
「『幻夜』の特定は必要そうです、タイオス殿。あなたが死にたくないのであれば、ですが」
「そりゃもちろん、死にたかない」
「〈時〉の月の話が出ましたが、特殊な時間帯に特殊な技を試みるというのは、稀少性のみを意味しない。六十年に一度の機会に、珍しい術だからと言って、たとえば水に色を付けるような役立たずの術を創り出そうとする魔術師もいません。特殊で、稀少で、強大な術を試そうとするのが常です」
「判らなか、ない」
戦士はうなずいた。
「一生に一度の博打みたいなもんだろ。しくじっても、まあ、準備が無駄だったとがっかりすることにはなるかもしれんが、ここは博打と違って財産を失う訳じゃないんだし、でかいことやってみようって気になって当然」
「術の種類によっては、手足や、命を失うかもしれませんが」
「……それなら、やっぱり、博打だな」
全財産や、命を賭けても何かが欲しい。そうした熱烈な欲望はタイオスにはあまりない。だが博打打ちの間では珍しくないし、魔術師にも魔術師なりの「野心」があるということだ。
「『幻夜』。そうした名称は、魔術師協会では聞きません」
サングは素直に、自分が知らないことを認めた。
「しかし、『神の降りる夜』或いは『神の去る夜』。これは非常に興味深い。そこから調べを進めることも可能そうです」
「判ったら知らせてくれ。向こうさんが狙ってくる日が判れば、警戒のしようもあるからな」
「ですが、その日まで閉じ込めておく、という選択肢もあるでしょう。先ほどまであなたは、その罠に陥っていたようですが」
「ああ?……ああ、そういうことか」
指摘されてタイオスはその可能性に思い至った。自分を牢に入れてどうするのかと思ったが、以前「墨色の王国」に閉じ込めようとしたのが巧くいかなかったものだから、今回は鉄格子の内側に入れておこうとしたのか、と。
「なめた真似してくれるぜ、全く」
処刑の日が決まった囚人扱い。タイオスは今更ながら腹が立った。
「彼らは『幻夜』にタイオス殿を殺害することを決めている。となれば、あなたの登場は誤算だったやもしれません。だからこそ捕らえておこうとしたり、黙って逃したり」
「黙って逃した? お前は、何か。奴らがお目こぼししてくれたとでも言うのか」
「実際のところは判りません。しかし少なくとも、本気で逃すまいと思っていたら、あのようなざる警備は有り得ない」
「ざるとか言うなよ」
可哀相だろ、とついタイオス。
「お前が騙したんだからな」
「あなたもです」
「そりゃそうだが」
タイオスはうなった。
「連中は『幻夜』をシリンドルで迎えようと考えてるのかねえ」
彼が呟いたときだった。思わぬ方向から、反応があった。
「シリンドル! うわあ、行ったんですか。いいなあ」
これは言わずと知れたリダール。
「〈峠〉の神の国とやらか」
ヴィロンも言う。
「そうか。ではお前が〈白鷲〉か」
「ああ?」
タイオスは片眉を上げた。
「何で知っ……ああ、そうか」
リダールがにこにこと彼を見ているので、少年が話したということは推測できた。
「八大神殿の神官殿にはお気に召さないのかね? ああした、独特の信仰は」
戦士は言ったが、否定の言葉が返ってくるだろうと予測していた。たとえ建前でも、慈愛と許しを与えるのが神官の仕事である。
「そうだな」
よって、肯定されたことに、タイオスは目をしばたたいた。
「『そうだな』?」
「気に入らぬ。国境の向こうで収まっていればいいものを。貴族の息子を手懐け、余所に出てこようという考えが」
「おい。おいおい」
タイオスは顔をしかめた。
「俺が、布教して回ってるとでも思ってんのか?」
「似たようなものだろう」
「んなこと、した覚えは」
「伝説が具現したような、美しい神の国。神に選ばれし英雄。いったい、何人に吹聴した?」
「そんなには、してねぇぞ」
片手で足りるくらいだ、と〈白鷲〉は答えた。
「事実であるなら、謙虚なことだ」
「ご大層な称号はいただいたがな、立派なのは称号であって俺じゃない。そこを勘違いしたら、ただの恥ずかしい奴だろう」
「シリンドルか」
タイオスの台詞を聞いていたのかいないのか、ヴィロンは呟くように繰り返した。
「いま、その地で何かが起きているのか。フェルナーの件で話をしにきたのだったな。フェルナー・ロスムはそこにいるのか」
「えっ」
「あのクソガキがどこにいるのかより」
タイオスは手を振った。
「『救う』方法を話してもらいたいね」
ほら、と彼は思っていた。
(やっぱり、俺が口を挟んだせいで横道に行っちまった)
(もっとも……有用な寄り道ではあったがね)
「幻夜」の件。明らかにはならないままだが、手がかりはある。
それから、「シリンドル」に、何故かヴィロンが食いついてきたこと。
「まずはその魂の所在を確定することだ」
ヴィロンは答えた。
「たとえ除霊であっても、そこにいない霊は祓えない」
「もっともなようではある」
タイオスはあごを撫でた。
「それで? 目の前にいたとすりゃ、どうなんだ」
「『いる』と言っても、目に見えるものではない。それが判るということは、意識的無意識的にかかわらず波動を同調させているか、或いは他者の身体を使っているかということになる」
「それで」
「波動を同調」の意味は判らなかったものの、そこを問うとまた時間を食いそうに思って、タイオスはただ促した。
「憑依の場合、身体の持ち主の魂は、変わらず身体のなかにある。眠っているかのように覚えていないか、動きだけを制限されて記憶はあるか、それは状況次第だが」
フェルナーの場合は違うようだ、と神官は続けた。
「本来そこにあるべき魂は、狭間の世界に追いやられるという話。ここに打開点がある」
「打開点?」
「だが、いまだにそれは机上の話に過ぎない。詳細は述べまい」
「おいおい」
タイオスはがくっとした。
「そこが、重要だろうがよ」
「私を警戒しているのですか」
サングが尋ねた。
「迂闊に話せば、私が『手柄』を奪ってしまうとでも」
「魔術師にできることではない」
神官は言い切った。
「ただ私は、確かではないことを確かなことのように言い立てるのを好まないだけだ」
「じゃあ、確かじゃないってことでいいさ」
話せよとタイオスは促したが、ヴィロンは首を振った。
「確信できるまで、言うことはできない」
「け」
タイオスは舌を出した。
「ほんとに何か、推測が立ってんのか? 出鱈目言ってんじゃないだろうな」
これは疑念と言うより、挑発だ。ヴィロンのようなタイプは、自分が無能だと言われると腹を立て、有能さを主張する傾向がある。
と、彼は思ったのだが、生憎と的を外した。
「そう思うのであれば、そう思っていればよい」
若き神官長はあっさりと返した。
「シリンドルか」
三度、彼は呟いた。かと思うと、すっと立ち上がる。
「おい?」
「今日はもう日が暮れる。報告の必要もある故、明日の朝に」
「は?」
何の話だ、とタイオスは尋ねた。ヴィロンはじっと彼を見て、こう言った。
「シリンドルへ戻るのであろう? なれば、私も行こう」




