07 逃げたのです
「惜しい」
と、エククシアは言った。アンエスカは目線を上げた。
「一代限りのラゲンドで、長年の伝統が失われてしまうのは惜しいと感じるようだ」
「は……」
アンエスカは戸惑った顔を見せた。そうした表情を作った。
(きたな)
「と、仰いますと」
判らぬ、と首をかしげて彼は尋ねた。
「シリンドレンの息子が生きていれば、それは父親の汚名を拭って、再び国に平和を取り戻したのではないか」
(有り得ない)
内心で一蹴して、アンエスカはやはり困ったような顔を作った。
「エククシア殿がどうお思いなのか判りませんが、ヨアティア・シリンドレンは、父親の行状とは関わりなく、決して評判のよい人物ではありませんでした」
彼は事実を語った。控えめに言ったくらいだ。
「――陛下も、そうお思いに?」
「いや」
エククシアは「王」に水を向け、フェルナーは口の端を上げて否定した。
「彼は彼なりに、よくやっていたように思う」
「何を」
「処刑というのは、行き過ぎだったかもしれない。もし彼が生きていて父親の行状を詫び、僕に忠誠を誓うなら、僕は彼を神殿長にしてもいいと思っている」
「何を……馬鹿なことを」
そうしたことを言い出すのではないかと思っていた。だがアンエスカの立場としては自然な台詞である上、「馬鹿なこと」であるのは間違いない。
「血迷ったことを仰っては困ります、陛下」
「何だと」
フェルナーは明らかにむっとした顔をした。
「僕に異論があるのか」
(あるに決まっている)
(お前の存在そのものに異論がある)
というような内心は隠し、アンエスカは真面目な顔をした。
「民が許しません」
「愚民など、僕の言うことを聞いていればいいんだ」
「――陛下!」
これにはさすがに、恭順の意など示せなかった。怒気のこもった声に、フェルナーは一瞬びくりとする。
「そのような仰いよう、ハルディール陛下とは、思えませんな」
声と、そして殴り飛ばしてやりたい気持ちを抑えて――身体は、ハルディールなのだ――、アンエスカはようよう言った。
「陛下は、民あっての王冠だということをよくご存知のはず」
「僕は……!」
「婚約が進まないので、気が立っていらっしゃるのだろう」
エククシアが口を挟んだ。
「だが陛下はもちろん、この国の風習を大事にお思いのはずだ。無理に押し通すような真似はなさるまい」
(は)
アンエスカは鼻で笑いそうになった。
(何なんだこいつは? 何を考えている?)
フィレリアと「ハルディール」の婚約は、この男――たち――の企みだろうに、アンエスカが口にした時間稼ぎを気に留めてもいないような。
エククシア。〈青竜の騎士〉。半人外にして――。
(ジュトン殿を死に追いやった男)
タイオスの話が事実であれば、そういうことになる。
魔術のような技を使ったという、そのことを「卑怯だ」などと責める気はない。正式な手続きに則った決闘でもあればいざ知らず、生死を賭した戦い手たちのやり取りは、文字通り、「生き残った方が勝ち」以外の何ものでもない。
アンエスカは騎士として名誉を重んじるが、卑怯な手段を取ることで彼の王や国を守れるのであれば、躊躇わない。少なくともそのつもりでいる。
ただ、あの――いまでも記憶に鮮やかな、素晴らしい剣士だったサナース・ジュトン。彼がそのような手法で殺されたということには、憤りを捨てきれないものがあった。
「そんなことより、タイオスだ」
主張したのはフェルナーだった。
「医師を呼ばせて、どうしたんだ?」
「それは」
アンエスカが困ったような表情を浮かべたのは、このときばかりは演技ではなかった。
「医師を人質にでも?」
エククシアは口の端を上げた。
「素手で? 武器を持っていたとすれば」
左右色の違う両眼が、アンエスカの鳶色の瞳を捉えた。
「いや、それが」
幸いにしてと言うのか――彼がこのとき、武器の有無についてごまかしたり、嘘をついたりする理由は、なかったのである。
「非常に危険な病で、放っておけば死に至ると」
「何?」
「しかも、死ねば身体は一カイとかからずに腐り出し、近くにいる者は感染を」
「待て」
フェルナーは片手を上げた。
「何の話だ」
「ですから、病です」
タイオスの、と騎士団長は言う。
「本当に病だったとでも言う気か!」
「医師が、言ったのです」
少なくともアンエスカはそう報告を受けた。
「一刻も早くきちんと治療をしなければ、大変なことになると」
見張りの僧兵は泡を食い、診療所に連れるという医師の言葉に従って牢を開け、そして、両者に逃げられた。
「その医師とやらは、何者だ」
エククシアが当然の問いを発した。
「私も訊きたいくらいです」
これもまた、アンエスカの本心だった。
(何者だ?)
(医師を手配したレヴシーは、リュッケ殿を呼んだと言っていたが、彼は診療所から出ていない)
リュッケは王家の者や騎士たちの病や怪我を診る優秀な医師だ。レヴシーは使用人に診療所まで行かせ、使用人も確かに医師の助手に伝えたと言うのだが、リュッケに伝言は伝わっていなかった。
(では誰がやってきて、誰がタイオスを逃がした?)
タイオスの逃亡に関しては彼らの計画通りであるのだし、実際、多くの人間に目撃されているのだから、シリンドルの外まで逃げ延びたことも確かだ。
その「医師」は彼らの、少なくともタイオスの味方のようだが――判らない。
「ですが、何者であれ、彼とともに逃げた。あらかじめ、組んでいたことは間違いない」
そう口にしたが、そうは思えない。誰かしら連れがいたならば、タイオスはアンエスカに告げたはずだ。
誰であれ、〈白鷲〉の苦境を知った者が、彼を手助けようとしたのか。
しかしその話はまだ外部に知られていないはずだし、館内の使用人で姿を消した者もない。診療所に行ったと言う使用人が嘘をついている様子もなかった。
「ただ、逃げたのです。追うほどの罪でもない。戻ってこないのであれば、それでかまわないでしょう」
何でもないことのように言った。或いは、責任を逃れたいとでも思っているかのように言った。
エククシアはじっと彼を見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「逃げたのであれば、放っておいてよいだろう」
〈青竜の騎士〉は口の端を上げた。
「――幻夜は、もう近い。星辰は〈白鷲〉の戻ることを定めている故、な」
「何ですと?」
アンエスカは聞き返した。だがエククシアは黙り、かすかに笑うばかりだった。
(とりあえず、逃亡には成功した訳だ)
(エククシアがあまり追及してこなかったのは意外でもあるが)
しつこく何か言われるよりはましだと、そう思った。
(気になるのは、「医師」のこと)
(だが、よい方に転んでいるのだし、あとで尋ねれば済むことだろう)
(そう、あとで)
このとき彼は、まるでハルディールやクインダンのように、〈白鷲〉が戻ってくることを疑わなかった。
(何にせよ、「考え」とやらをさっさと形にしてきてもらわんことには)
アンエスカはそっと拳を握り締めた。
(私とて、いつまでもおとなしくはしていられない)




