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幻夜の影―シリンディンの白鷲・3―  作者: 一枝 唯
第2話 策謀の影 第3章

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07 逃げたのです

「惜しい」

 と、エククシアは言った。アンエスカは目線を上げた。

「一代限りのラゲンドで、長年の伝統が失われてしまうのは惜しいと感じるようだ」

「は……」

 アンエスカは戸惑った顔を見せた。そうした表情を作った。

(きたな)

「と、仰いますと」

 判らぬ、と首をかしげて彼は尋ねた。

「シリンドレンの息子が生きていれば、それは父親の汚名を拭って、再び国に平和を取り戻したのではないか」

(有り得ない)

 内心で一蹴して、アンエスカはやはり困ったような顔を作った。

「エククシア殿がどうお思いなのか判りませんが、ヨアティア・シリンドレンは、父親の行状とは関わりなく、決して評判のよい人物ではありませんでした」

 彼は事実を語った。控えめに言ったくらいだ。

「――陛下も、そうお思いに?」

「いや」

 エククシアは「王」に水を向け、フェルナーは口の端を上げて否定した。

「彼は彼なりに、よくやっていたように思う」

「何を」

「処刑というのは、行き過ぎだったかもしれない。もし彼が生きていて父親の行状を詫び、僕に忠誠を誓うなら、僕は彼を神殿長にしてもいいと思っている」

「何を……馬鹿なことを」

 そうしたことを言い出すのではないかと思っていた。だがアンエスカの立場としては自然な台詞である上、「馬鹿なこと」であるのは間違いない。

「血迷ったことを仰っては困ります、陛下」

「何だと」

 フェルナーは明らかにむっとした顔をした。

「僕に異論があるのか」

(あるに決まっている)

お前(・・)の存在そのものに異論がある)

 というような内心は隠し、アンエスカは真面目な顔をした。

「民が許しません」

「愚民など、僕の言うことを聞いていればいいんだ」

「――陛下!」

 これにはさすがに、恭順の意など示せなかった。怒気のこもった声に、フェルナーは一(リア)びくりとする。

「そのような仰いよう、ハルディール陛下とは、思えませんな」

 声と、そして殴り飛ばしてやりたい気持ちを抑えて――身体は、ハルディールなのだ――、アンエスカはようよう言った。

「陛下は、民あっての王冠だということをよくご存知のはず」

「僕は……!」

「婚約が進まないので、気が立っていらっしゃるのだろう」

 エククシアが口を挟んだ。

「だが陛下はもちろん、この国の風習を大事にお思いのはずだ。無理に押し通すような真似はなさるまい」

(は)

 アンエスカは鼻で笑いそうになった。

(何なんだこいつは? 何を考えている?)

 フィレリアと「ハルディール」の婚約は、この男――たち――の企みだろうに、アンエスカが口にした時間稼ぎを気に留めてもいないような。

 エククシア。〈青竜の騎士〉。半人外にして――。

(ジュトン殿を死に追いやった男)

 タイオスの話が事実であれば、そういうことになる。

 魔術のような技を使ったという、そのことを「卑怯だ」などと責める気はない。正式な手続きに則った決闘でもあればいざ知らず、生死を賭した戦い手(キエス)たちのやり取りは、文字通り、「生き残った方が勝ち」以外の何ものでもない。

 アンエスカは騎士として名誉を重んじるが、卑怯な手段を取ることで彼の王や国を守れるのであれば、躊躇わない。少なくともそのつもりでいる。

 ただ、あの――いまでも記憶に鮮やかな、素晴らしい剣士だったサナース・ジュトン。彼がそのような手法で殺されたということには、憤りを捨てきれないものがあった。

「そんなことより、タイオスだ」

 主張したのはフェルナーだった。

「医師を呼ばせて、どうしたんだ?」

「それは」

 アンエスカが困ったような表情を浮かべたのは、このときばかりは演技ではなかった。

「医師を人質にでも?」

 エククシアは口の端を上げた。

「素手で? 武器を持っていたとすれば」

 左右色の違う両眼が、アンエスカの鳶色の瞳を捉えた。

「いや、それが」

 幸いにしてと言うのか――彼がこのとき、武器の有無についてごまかしたり、嘘をついたりする理由は、なかったのである。

「非常に危険な病で、放っておけば死に至ると」

「何?」

「しかも、死ねば身体は一カイとかからずに腐り出し、近くにいる者は感染を」

「待て」

 フェルナーは片手を上げた。

「何の話だ」

「ですから、病です」

 タイオスの、と騎士団長は言う。

「本当に病だったとでも言う気か!」

「医師が、言ったのです」

 少なくともアンエスカはそう報告を受けた。

「一刻も早くきちんと治療をしなければ、大変なことになると」

 見張りの僧兵は泡を食い、診療所に連れるという医師の言葉に従って牢を開け、そして、両者に(・・・)逃げられた。

「その医師とやらは、何者だ」

 エククシアが当然の問いを発した。

「私も訊きたいくらいです」

 これもまた、アンエスカの本心だった。

(何者だ?)

(医師を手配したレヴシーは、リュッケ殿を呼んだと言っていたが、彼は診療所から出ていない)

 リュッケは王家の者や騎士たちの病や怪我を診る優秀な医師だ。レヴシーは使用人に診療所まで行かせ、使用人も確かに医師の助手に伝えたと言うのだが、リュッケに伝言は伝わっていなかった。

(では誰がやってきて、誰がタイオスを逃がした?)

 タイオスの逃亡に関しては彼らの計画通りであるのだし、実際、多くの人間に目撃されているのだから、シリンドルの外まで逃げ延びたことも確かだ。

 その「医師」は彼らの、少なくともタイオスの味方のようだが――判らない。

「ですが、何者であれ、彼とともに逃げた。あらかじめ、組んでいたことは間違いない」

 そう口にしたが、そうは思えない。誰かしら連れがいたならば、タイオスはアンエスカに告げたはずだ。

 誰であれ、〈白鷲〉の苦境を知った者が、彼を手助けようとしたのか。

 しかしその話はまだ外部に知られていないはずだし、館内の使用人で姿を消した者もない。診療所に行ったと言う使用人が嘘をついている様子もなかった。

「ただ、逃げたのです。追うほどの罪でもない。戻ってこないのであれば、それでかまわないでしょう」

 何でもないことのように言った。或いは、責任を逃れたいとでも思っているかのように言った。

 エククシアはじっと彼を見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「逃げたのであれば、放っておいてよいだろう」

 〈青竜の騎士〉は口の端を上げた。

「――幻夜は、もう近い。星辰は〈白鷲〉の戻ることを定めている故、な」

「何ですと?」

 アンエスカは聞き返した。だがエククシアは黙り、かすかに笑うばかりだった。

(とりあえず、逃亡には成功した訳だ)

(エククシアがあまり追及してこなかったのは意外でもあるが)

 しつこく何か言われるよりはましだと、そう思った。

(気になるのは、「医師」のこと)

(だが、よい方に転んでいるのだし、あとで尋ねれば済むことだろう)

(そう、あとで)

 このとき彼は、まるでハルディールやクインダンのように、〈白鷲〉が戻ってくることを疑わなかった。

(何にせよ、「考え」とやらをさっさと形にしてきてもらわんことには)

 アンエスカはそっと拳を握り締めた。

(私とて、いつまでもおとなしくはしていられない)


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