05 どこの誰が、このような
館内が騒然となったのは、夜が明けてからのことだった。
ハルディール王はたいてい、起こされなくてもひとりで目を覚ます。だがたまには、寝過ごしてしまうこともある。
だから使用人はただ、王がよく眠っているのだろうとしか思わなかった。ぎりぎりの時間まで寝かせて差し上げようと思った彼を罰することはできない。
ただ顔面蒼白となったのは、寝台に王が眠っていないと気づいたときの使用人だけではなかった。昨夜、ハルディールの要望を聞いて水差しを満たして戻ってきた僧兵は、結局ハルディールがすぐまた眠ってしまったのだと信じて、寝台の確認を怠ったのだ。
そしてもちろん、アンエスカをはじめとする騎士たちもまた、血の気をなくした。
ハルディールがいない。僧兵の話からすれば、自ら出ていったということになりそうだが、彼がそのような真似をするとは誰ひとり思いもよらなかった。
「草の根分けても、陛下を探し出せ」
騎士団長は騎士たち――この事態には謹慎も何もないと、ユーソアも引っ張り出された――に命じた。
「いいか、恥も外聞もない。陛下の安全を最優先に。無事、ここにお帰りいただくようにせよ」
それから彼は、少しだけ間を置いて、こう続けた。
「たとえ、館の寝台を使えぬ個人的なご事情があったのだとしても。陛下が戻りたくないと仰ったとしても。必ずや、お戻りいただくこと」
その意味をユーソアとルー=フィンは瞬時に理解し、クインダンとレヴシーは少しだけ遅れて理解した。
「クインダン、ユーソアと一緒に行動するように。レヴシーはルー=フィンと。いいな」
続いた指示にクインダンは一瞬だけ、それもかすかに、ぴくりとした。レヴシーはちらりとルー=フィンを見て、仕方なさそうにうなずいた。
「くれぐれも繰り返すが、重要なのは陛下の――」
「何の騒ぎだ?」
そのときであった。当のハルディール・イアス・シリンドルが、不思議そうな顔で、騎士たちの会合をのぞき込んだのは。
「陛下!」
「ハルディール様!」
彼らはこぞって、王を呼んだ。
「どうしたと言うんだ。雁首並べて」
「陛下、ご無事で」
「いったい、何が――」
「何の、真似ですか!」
怒鳴ったのは、アンエスカだった。
「ハルディール様らしくもない! 軽率な行動を」
「僕が何をしたと言うんだ?」
少年は肩をすくめた。
「ただちょっと、ひと晩ほど、我が領土を散歩してきただけじゃないか」
「散歩、ですって」
「警邏、とでも言えばいいか?」
「それは我らの務めです」
アンエスカは渋面を作ったが、はっとしたような顔で少年の手元を見やる。
「陛下。その、袖口は」
「――ああ」
彼は左手を軽く上げ、ちらりと眺めた。
「少し、枝か何かに引っかけたようだ。だが大事ない」
その袖口には赤茶色い斑点ができていた。乾いた血と、見えた。
「引っかけた?」
アンエスカは片眉を上げた。
「失礼」
「何を」
騎士団長は素早くその左手を掴むと、袖を引いて彼の腕をあらわにした。
「これは……」
「放せ」
少年はアンエスカを振り払った。
「大した傷ではない」
「そうは仰いますが」
アンエスカは真剣な顔をした。
「浅いながら、刀傷と見えますな」
「違う」
引っかけただけだと彼は繰り返した。
「尖った固い枝で意図的に切るようにすれば、このような傷にもなりましょうが。いや、なりませんな。きれいすぎる」
「どうでもいいだろう」
苛々と少年は手を振った。
「何でできたものであれ、ただの浅い切り傷だ」
「どうでもいいですと? そうは思えません」
騎士団長はきっぱりと言った。
「腕の内側に、そのような傷など。向かい合った者がこうして」
と、彼は再び少年の手を取ると、架空の短剣を握り、傷の近くに当てるふりをした。
「刃を滑らせたとしか見えません。そして陛下は、黙ってそうさせていたとしか」
彼は顔をしかめた。
「いったいどこの誰が、このような真似を」
「うるさい!」
彼は怒鳴って、再び手を振り払った。目を見開いたのは、クインダンやレヴシーだった。
「……陛下」
アンエスカはじっと少年を見た。
「失礼ながら私は、陛下をとてもよくできた人物か、或いは子供と思っておりました」
「何だと?」
褒められたのかけなされたのかよく判らない言いように、少年は目をぱちくりとさせた。
「ですが、撤回いたします。王家の血で誓いごっこをする程度には、あなたは子供かもしれない。ですが、異なる寝台で夜を送り、そのことを悪びれぬ程度には、普通の若者ということだ」
「何を」
彼はにやりとした。それはハルディールがこれまで見せたことのない雰囲気の笑顔だった。
「言っているのか判らないな、騎士団長」
「では、単刀直入に」
「不要」
アンエスカの言葉を素早く遮り、少年は手を振る。
「憶測も揶揄も不要だ、騎士団長。いいか、お前たち、僕の決定を伝える」
突然の宣言に彼らは目を見交わしたが、アンエスカがすぐさま恭順を表す仕草をしたのを見て、若者たちも倣った。
だが彼らは、続いた言葉に呆然とする羽目に陥る。
「僕は、フィレリア・オーディスを我が妃とする」




