04 〈災い星〉
静かな夜だった。
月のないこんな日は、星が妙に明るく見える。東南の空には堂々たる〈獅子王座〉が輝き、その頭上には〈冠雲〉などの、快晴でなければ見えにくい星々が瞬いている。
だが彼は、何も夜空に〈燕座〉を見つけるために窓を開けたのではなかった。
手にした水差しをそっと傾け、彼はその中味を大地に飲み込ませる。空にしてしまうと、やはり静かに窓を閉ざした。
その寸前、ふと彼の目に留まったものがある。それはひときわ強く、赤く輝く星だった。
〈災い星〉と呼ばれるミールの光に彼は少しだけ顔をしかめて、声に出さずに祈りの言葉を唱えると、厄除けの仕草をした。
それから彼は、空の水差しを手に、部屋の反対側へ向かった。即ち、屋内へ続く扉のある方だ。
扉を開ける前に、部屋の中央を振り返る。
誰もいないはずの寝台の上は、まるで誰かが布団に潜り込んで眠っているかのように、こんもりと盛り上がっていた。
その様子を確認するとひとつうなずき、彼は外へと続く扉を開けた。すると、禿頭の若者の、驚いたような顔と出会う。
「どうなさいました」
「水が」
彼は瓶を振った。
「のどが渇いて目が覚めてしまったんだが、昨夜はカレンが帰ったあとにも水を飲んでいたものだから、空っぽになってしまって」
「では、拙僧がお持ちします」
忠誠を示す仕草をして、僧兵は言った。
「陛下は寝台にお戻りください」
「すまないね」
ハルディールは本当にすまなさそうに言った。僧兵は何でもないことですなどと言って彼の王から水差しを受け取り、階下へ向かった。それを見送って、少年は、部屋を出た。
星が――明るい。
夜番の僧兵が移動するのを見計らって館を抜け出し、ハルディールはひとり、星空の下を歩いていた。
降るような星空。
タイオスであればしみじみと、無駄に灯りの多い大都市じゃ臨めない光景だなと天を見上げるところだが、ハルディールには見慣れた空だ。今宵はいつもに増して冴え冴えと見えるものの、彼には天に浮かぶ神々のことよりも気にかかることがあった。
(――今夜、白の刻を回った頃)
(楡の木のある場所で)
署名のない手紙が書類の間に挟まれていたのは、夕刻のことだ。
彼はすぐに思い至った。フィレリアに話した、若い恋人の伝説のこと。シリンドルの西端にある、古い楡の木。
どうしようかと、躊躇った。彼は普通の少年のように、自分の部屋を抜け出すことはできない。
それは見張りがいるから難しい――もちろん見張りは、ほかでもない彼を守るために存在するのだが――ということもあれば、そのようなことはすべきでないという強い倫理観もあった。
だが、行けないとフィレリアに伝えることもできなかった。
手紙の主がフィレリアであるとも限らなかったし、彼女であればあったで、誰かに伝言を託すことも気が引けた。彼女の名誉に関わるからだ。
かと言って、ハルディール自身も時間が取れなかった。もとより、ひとりでこっそり出かけるのは困難だったろう。
結果として少年は、手紙の言葉を聞くことにした。それは何も、秘密の逢瀬を楽しもうと言うのではない。そうしたことを楽しむには彼はまだ年若く、そして厳しい教育を受けていた。
だから、彼が僧兵を謀ってまで夜の館を抜け出した理由は、こうだ。
(もしフィレリア殿であるなら、きちんと言わなくては)
(――貴女と語るのは喜ばしいが、だからこそ、こうした真似はできないと)
フィレリアでなければ。
そのことも考えた。だが、フィレリアとしか思えなかった。まさかいまのシリンドルに、彼を暗殺しようなどと企む人物もいないはず。
赤き星が、シリンドルの空に輝く。
それは不吉なる、災いの星。
(夜の……ひとり歩きなんて)
(初めてだ)
こんな深夜に出歩くことなんて、彼には、まずなかった。〈峠〉の神殿で夜明けを迎えるという決まりの儀式もあるけれど、ハルディールが王子の時代も王になってからも、ひとりで歩くことなど。
とても不思議な気持ちがした。まるで知らない国にきているかのよう。
ここは彼の、まさしくハルディール・イアス・シリンドルの国であるのに。
夜の風に吹かれた大きな古い楡の木は、その枝葉をはにかむように揺らしながら、少年王を出迎えた。
その太い幹は、大人の男でも完全に隠れられるだけの幅がある。
ましてや、少女であれば。
「――いらっしゃるのか?」
そっと彼は声を出した。
「フィレリア殿……?」
呼びかけに答えるように、幹の向こうから細い影が現れた。
「ハルディール、様……」
消え入りそうなそれは、間違いなくフィレリアのものだった。
「きてくださったんですね」
少女は、まるで樹木から離れると消えてしまう木霊であるかのように、木の傍で佇んでいた。
「わたし、きていただけないものと」
「フィレリア殿」
ハルディールは楡と少女に近づいた。
「あのような手紙、驚きました」
彼はまず、そんなことを言った。
「どうやって、書類の間に?」
「何度か言葉を交わした使用人に、託しました」
少女は答えた。
「シリンドルを去ることになる前に……ハルディール様に、お気持ちをお伝えしたいからと」
うつむいておどおどとフィレリアは言い、ハルディールはどきりとした。
「ご迷惑、でしたでしょうか」
不安そうな声。
「いえ」
彼は顔を赤らめた。両者の距離は手が届くほどに近しくなったが、幸いと言おうか、星明りの下では赤面も判りにくいだろう。
「正直に申し上げまして、心が弾みました」
素直に。実直に。年若く、幼く。ハルディールは真剣に、可愛らしいとさえ言える返答をした。
「ですが……」
少年はほとんど無意識の内に、少女の手を取っていた。
「フィレリア。僕は」
「ハルディール様」
不意に少女は、彼に抱きついた。
「お慕いして……おります」
「フィレリア」
頭がくらくらしそうだった。
こんなことも、もちろん、初めてだ。夜のひとり歩きは彼の心を静かにさせたが、フィレリアの暖かい身体と吐息は、少年の鼓動を否が応にも激しくさせた。
「判って、おります。ハルディール様は、シリンドル国の王陛下。私は、何の身分も持たない、他国の娘。ですが、夢を」
フィレリアの声がする。
「夢を抱いたのです。伝説の、楡の木。この下で……若い男女が」
少女の顔が上向いた。
「――ハルディール様……」
誘うように、わずかに開けられた唇。ハルディールはのろのろと、その両手を少女の頬に当てた。
「フィレリア、僕は」
何を言おうとしているのか、ハルディールは自分でもよく判らなかった。
ただその目は、フィレリアの、形のよい唇に釘付けとなっていた。
まるで夢のなかを歩いているように、少年はゆっくりと、顔を近づけた。
唇が触れ合うその寸前で、しかし彼ははっとしたように首を振った。
「いけません、フィレリア殿。僕は……」
だが彼は、どんな道徳的な台詞も、口にすることができなかった。
ゆらりと、影が動いた。
少年が、顔を上げる間も、なかった。
重く鈍い衝撃が、ハルディールに襲いかかった。
崩れ行く膝を意識したとき、彼の視界の端に、ミールの赤い光が映った。




