01 敵にしたくない
疲れているはずなのに、眠れない。
タイオスは寝台の上で、ごろりと寝返りを打った。
もう時刻は白の刻を半ば回ったくらいではなかろうか。だが、眠気はちっとも訪れてこない。
(ええい、くそ)
(寝ようと決めたらどんな状況でも寝ちまえる、俺はそれくらい、できるはずだろうが)
休むべきときに休む。それは戦士の重要な仕事のひとつだ。どんなに気分が高揚していてもそれを抑え、体力を温存する。寝不足で剣を振るったために足元をふらつかせて死ぬなど、馬鹿らしいからである。
だが、眠れない。
こんなのは、兄弟子アースダルにこてんぱんにやられて、眠気が痛みに勝てなかったとき以来だ。
『――タイオス』
『信じたいです』
ハルディール少年の言葉はつまり、信じることができないという意味でもあった。
(もちろん、ハルは悪くない)
(ルー=フィンも……いったいどうしてかあんな状況に陥っちまったのは、あいつが馬鹿をやらかしたせいだろうが、それでも悪くはない)
(フェルナーは、判らん。利用されているだけとも思うが)
(悪いのは断然、ライサイだ。あの魔物め)
連中の狙いは不明である。だが、タイオスに対する目的は明らかだ。
(俺をシリンドルにいさせたくないんだ)
ハルディールが彼を追い出すか、それとも彼自身が呆れ、或いは憤り、または諦めてシリンドルを出るか、何にせよそうした意図があっての貶めに違いない。戦士はそう考えた。
ならば、彼のやることはその逆だ。
石にかじりついてでも、この国にいてやるのである。
(ヴォース・タイオス様をなめるなよ、クソ野郎ども)
彼は品なくライサイと、そしてエククシアを罵った。
(それにしても、いったい)
いったい、何のために。
(奴らの狙いは、何だった)
彼は過日の出来事を思い起こした。
誘拐事件。これは、よく判らなかった。金目当てと取ることもできるが、エククシアの言動からはそうした感じは見て取れなかった。
その、エククシアの言動。
タイオスの得た称号〈白鷲〉を神秘だなどと言い立て、その力を見たがる風情だった。彼を「幻夜」だかに殺すと言って、それっきり。
(関わりそうなのは誘拐よりこっちだな)
「神秘」。〈白鷲〉に神秘を見たのなら、〈峠〉の神にもそれを見るやも。
(意味は判らんが)
ライサイ。あれは人間ではないらしい。実際、タイオスも目にした。青みがかった銀色の鱗で覆われた顔をした――おそらくは身体全体も――人外。
魔物。魔族と言ったりもするらしい。
エククシアはその息子で、半人外。半分だろうと、魔物だ。少なくともエククシアは人外側として振る舞っていた。思い出したくもない、青と黄色の両眼。
ヨアティアが死に、リダールを取り戻し、人外どもは去って、あの件は終わったと思っていた。いや、正直に言うならば何が何だったのか判らなくて、すっきり終わったという感じはしていなかった。
やはり、終わっていなかったのだ。
まず、ヨアティアは生きている。フェルナーが操るあの身体は、顔が違って見えたところで、ヨアティア・シリンドレンのものだ。あれが死体でないとも言えないが、ヨアティアを「消し炭にした」のはアトラフ。となれば、はなから殺してなどおらず、魔術で強制的な〈移動〉を行ったと思う方が自然だ。
話をしているのは完全にフェルナーで間違いない。ではヨアティアの意識の方は、例の「墨色の王国」――色のない不気味な世界にでもいるのか。
タイオスも二度、それとも一度連れられた場所。行かずに済むなら二度と行きたくないところだ。あの場所にフェルナーが六年間も囚われていたのかと思えば同情心も湧くが、ヨアティアには湧かない。ルー=フィンに言ったことは本音で、もしフェルナーがあの身体で満足するなら、それはそれでひとつの解決ではないかと思うくらいだ。
しかし、ライサイが親切心でフェルナーに身体を用意してやったはずもない。
奴らは、企みがあるから気の毒な少年を取り込んで、ここへ。
だがその企みとは何か。判らない。堂々巡りだった。
連中がシリンドルに神秘を求めたとして、何がしたいのか。「幻夜」というのが何であるのしても、まさか神様は殺せまい。あの「子供」ならともかく、神シリンディンに姿があるとも聞かない。
(向こうの出方を見るしかないか)
(とりあえず、フェルナーはともかくとして、ルー=フィンをどうにかせんといかんな)
フェルナーの方は、判っていて嘘をついている。タイオスを嘲笑して。腹の立つことだ。
一方でルー=フィンは、術をかけられている。演技でないことは明らかだ。意図的に嘘をついたときの判りやすさからして、一目瞭然というもの。
もとより、ミキーナの件。ルー=フィンが事実を事実として理解しているならば、タイオスに敵対する理由はないのだ。
(敵対)
(あれは敵にしたくないんだ、まじで)
共闘すれば、あれほど安心して背中を預けられる剣士を彼は知らない。逆に言えば、本気で背中を狙われたら最後だと思う。いや、背中ではなく正面でも。
(それにしても、思いもかけない流れになっちまったもんだ)
(記憶を乱される……か)
曖昧だったリダールの記憶。塗り替えられたミヴェルの記憶。
怖ろしい、と言ったのは当のルー=フィンだった。
『――記憶というのは』
『言い換えれば自分そのものだ』
ルー=フィン・シリンドラス青年は、そんなふうに言ったのだ。
『過去に何をし、何と出会い、何を思い、何を得て、何を失ったか、それらの記憶が自分を形作る』
『それを操作されるなど』
『怖ろしい』
そう言った若者が、記憶を乱されている。それも、ずいぶんと大きく。恋人の仇を取り違えるほどに。
(無茶苦茶だ)
タイオスは苦いものがこみ上げるのを感じた。
(いったい、あいつに何があったんだ)
タイオスと分かれたときは、ルー=フィンは至って普通だった。いや、いささか様子はおかしかったが、少なくともタイオスを仇と睨んできたりはしなかった。
あのあとだ。彼に護符を返す代わりにキルヴン邸の庭先に置いていったあと、ライサイの術中に陥ちた。
何があったのか。判るはずもない。
(どんなにとんでもない話でも、奴はルー=フィンに信じ込ませることができる。口先で騙す訳じゃないんだから、詳細に凝る必要なんかもない)
たとえばタイオスが前国王夫妻を殺した――などという大嘘でも、ライサイの術にかかったルー=フィンは信じるだろう。ただ、これはハルディールとエルレールという、勘違いや覚え違いをするはずのない目撃者がふたりいる。ハルディールがルー=フィンがどれだけ心から信じていたところで、ルー=フィンの発言がおかしいということになる。
(実際おかしいんだが、それを知ってるのは俺だけ)
(……いや、フェルナーも知ってるわな)
あの子供は何を吹き込まれているのか。生き返るための身体をやるとか、その類であることは考えるまでもない。そういうことではない。
(シリンドルでルー=フィンと)
(またはヨアティアの身体と、何をするように言われてるんだ)
一部は、判るようでもある。明らかすぎるとも言える。
だがやはり、何のためかは判らないのだ。
(ええい)
タイオスはごろりと寝返りを打った。
(判らない、判らない、判らない尽くしだ)
苛々する。これは、眠れないせいもあるだろう。
いっそ起きてしまおうか、とも戦士は少し考えた。夜のシリンドルでも散歩して、気分を入れ替えて――。
そんなことを考え出したときである。
部屋の戸が、遠慮がちに叩かれる音がした。




