11 いまの声は
こちらでお待ちを――とユーソアがフィレリアを案内することになったのは、たまたまだ。
フィレリアはよくエルレールと会い、茶飲み話をする。それはこのふた月近くで、すっかり習慣のようになっていた。
多くは約束をしてフィレリアが神殿を訪れたが、エルレールが「王陛下がお手すきならお話をしましょう」と言ったときには、王家の館が舞台になる。
ハルディールは決して暇ではないのだが、大国の王ほどには忙しくないというのも事実だ。時間の調整は容易に利いたし、いまのシリンドルで一分一秒を争う事態というのはまず存在しなかった。
よって、このときフィレリアは約束に基づいて王家の館を訪れ、入り口にいたユーソアに案内された。時刻には少し早く、彼女はハルディールのこともエルレールのことも待つことになった。
「あの……騎士様」
礼をして部屋を出ようとしたユーソアを呼び止めたのは、フィレリアだった。
「少し、お尋ねしたいことがあるのですけれど、よろしいかしら」
「もちろんです、姫」
ユーソアは振り返ると、大国の宮廷の礼を真似た。
「姫だなんて」
フィレリアは顔を赤くした。
「私の家柄は、そんなに立派なものではありません」
「姫、という呼称は主に、貴族の家系のお嬢様に使われますが、家柄や血筋にかかわらず、姫君とお呼びしたくなる方はいらっしゃるものです」
ユーソアはにっこりと笑った。
「どうか私に、あなたを姫とお呼びする栄誉をお与えくださいませんか」
「まあ」
少女は困惑したように目をしばたたく。冗談だと言うように、ユーソアはまた笑って手を振った。
「何についてお答えいたしましょう、フィレリア様?」
「姫」をやめ、ユーソアは敬称を用いて彼女を呼んだ。王と王姉の客人である以上、一般敬称である「セル」や、若い女性に使う「セリ」より格の高いものを使っても不自然ではない。
「兄の、ことなのですけれど」
問いかけられたフィレリアは、躊躇いがちに語り出した。
「仮面……もとい、フェルナー殿ですか」
ユーソアは「仮面の兄上」と言いかけたが、素早く名前に言い換えた。もっとも、こちらには「セラス」ではなく「セル」と言った。
「騎士様は」
「ユーソアです」
素早く、彼は名乗った。
「ユーソア・ジュゼと申します。どうか、ユーソアと」
「は、はい、ユーソア様」
フィレリアは目をぱちぱちさせて、言われるままに呼んだ。
「……ユーソア様は、兄のことをどのように思われますか」
それから少女は、うつむきがちになって尋ねた。
「どのように、とは」
今度はユーソアが少し困った。
「お目にかかっていませんので、何とも」
「評判はお聞きでしょう。……たったいまも『仮面』と」
「そのことは、確かにお聞きしています」
神妙な顔つきで騎士はうなずいた。
「お顔を隠されるのには事情があるのでしょう。願掛けとのことですし、不審になどは思っておりません」
「そう仰るのは、本心では不審にお思いだからでしょう」
フィレリアは指摘した。
「いえ、そのような」
「私は心配なのです」
ユーソアは言い訳をしようとしたが、それを遮る形でフィレリアは告げた。
「兄が、ああしたものを身につけているために、立派な騎士様に疑いの目で見られることが」
「私は、そのようなことは」
彼は繰り返した。
「もしや、誰かが不審だなどと言い立てましたか」
慎重に彼は問うた。
「誰か……〈シリンディンの騎士〉が」
「いえ、そうしたことは、ありません」
フィレリアは首を振った。
「本当のことを仰ってください」
ユーソアは食い下がった。
「もしやそれは、ルー=フィンではありませんか」
「まさか!」
少女はふるふると首を振る。
「とんでもありません。ルー=フィン様は、とてもよくしてくださっています。私にも兄にも」
「そう、ですか」
拍子抜けしたように、ユーソアは呟いた。
「騎士様のどなたも、兄を糾弾などはしていらっしゃいません。ただ、そうしたお考えを内に秘めておいでなのでは、とフィレリアは心配なのです」
「それは、特に誰と言うのではなく」
「ええ、特にどなたと言うのではございません」
フィレリアは繰り返した。
「ただ、もしユーソア様が兄を……私を胡乱にお考えではと思うと」
「決して」
ユーソアも繰り返した。
「姫君の憂いを晴らすも騎士の務め」
そう言うと彼は、フィレリアに近づき、彼女の前にひざまずいた。
「貴女に笑っていただけるよう、このユーソア、道化にもなりましょう」
「まあ……」
少女はやはり、何と言っていいのか判らぬようにまばたきをした。
「現実から目を逸らすのは逃避とも言われましょうが、不安に胸をざわつかせていても解決にはならない。何か、心の浮き立つ話をいたしましょう」
彼はにこやかに言った。
「そうだ。楡の木の伝説の話でも」
「王陛下から、お聞きいたしました」
フィレリアはそう言うと、どこかうっとりとした表情を見せた。
「シリンドルの西端に生える大きな楡の木の下で、愛を誓い合った若い恋人たちがいたのでしょう? 彼らは神の祝福を受け、ふたりが口づけを交わしたとき、楡の木は優しく光り輝いたのですとか」
「ええ、そうした伝説です」
ユーソアはうなずいた。
「かの楡の木の下で口づけを交わせば、その男女は結ばれ、永遠に幸せになると伝えられています」
「何て素敵」
フィレリアは、実に少女らしく、夢見る顔つきになった。
「本当だったら、どんなにいいかしら」
「試してみますか?」
騎士は微かに笑みを浮かべた。
「いつか、愛しい男と、楡の木の下で」
「シリンドルの神様は……余所者の私に恩寵を下さるでしょうか」
「もしも相手がシリンドルの男であれば、もちろん」
ユーソアは不意に少女の手を取ると、指先に口づけた。驚いたように、フィレリアは手を引っ込めた。
笑みを浮かべたまま、ユーソアは立ち上がった。
「生憎ここは楡の木の下ではありませんが、『いつか』のときのために稽古は如何です?」
「ユーソア、様?」
少女は目をしばたたいた。
「こうしたことは不慣れですか?」
優しく、騎士は囁いた。
「ですが、覚えていらした方がいい。貴女のように可愛らしい女性には、きっと近い内、求婚者が列をなします。それらを上手に捌けるように」
男は少女の肩に右手を置き、左手をそのあごにかけた。
「――覚えていらした方が」
優しく囁いて、ユーソアはフィレリアに顔を寄せて、そっと唇を合わせた。
少女は一瞬、何が起きたのか判らないという顔を見せて――。
「いやああああああ!」
身を引くと、悲鳴を上げた。
「うえっ」
ユーソアは妙な声と言うか音と言うかを発する。
「ちょ、姫、フィレリア嬢、落ち着い」
彼がうろたえる間に、すぐさま跳んできたのがクインダンであり、ルー=フィンであった。
「何ごとだ!……ユーソア?」
剣すら抜いて扉から飛び込んできた先輩騎士は、気の毒にも目を丸くした。
「いま、ここから、悲鳴が」
「フィレリア殿と聞こえた」
続いたルー=フィンが淡々と言う。
「賊が侵入したであるとか、ユーソアがそれを追い払ったであるとかいう気配は、見えぬようだ」
「お前……何を」
非常に嫌な予感を覚えながらも、問わざるを得なくてクインダンは問うた。
「いや、何も」
ユーソア・ジュゼは泡を食って両手を振った。
「な、何もしてないとは言わんが、少なくともここまでの悲鳴を上げられるようなことは」
「何ごとだ!」
続いてやってきたのは、彼らの王であった。
「フィレリアは! 無事か!」
「ハルディール様」
「陛下」
クインダンは既に剣を鞘に納めており、ルー=フィンともども、非常事態に逸っている様子はない。そう見て取ったハルディールはほっと息を吐いたが、だが、では何ごとだ、ということには、当然、なる。
「フィレリア殿、いまの声はいったい」
ハルディールが部屋に入れば、少女はぱっと彼に駆け寄った。
「ああ、ハルディール様! わ、わたし……」
「フィ、フィレリア」
急に抱きつかれて、少年は目を白黒させた。
「な、何があったのです、どうか私にお話しください」
「言えません……わたくし、言えません」
少女は小刻みに頭を振った。
「ユーソア? お前はいたのか? 何があった」
ハルディールは騎士に尋ねたが、ユーソアは顔をひきつらせるだけだった。
「――クインダン、ルー=フィン」
仕方なく王はほかの騎士たちに答えを求めたが、彼らも正確なところを知る訳ではない。ただ、ユーソア・ジュゼがフィレリア・オーディスに悲鳴を上げさせた、それだけは確かであるようだった。
「わ、わたし……」
フィレリアは涙声だった。
「は、はじめてだったのです。こんな……酷い……」
さめざめと少女は泣き出した。
「心から愛し合う殿方のために、身内にさえ許したことのない唇ですのに」
「な」
ハルディールは目をしばたたいた。
「ユーソア! お前は、まさか」
「ち、違います、陛下」
彼は慌てた。
「何が違う! フィレリアが嘘をついているとでも言うのか!」
「いえ、違いませんが、違うんです」
新米騎士は矛盾することを言った。
「ちょっとした挨拶と言いますか、ええと、その」
その台詞が終わるか終わらないかの内に、フィレリアはわっと泣き出した。ハルディールはそれを抱き留めながら、ユーソアを敵のように睨みつけた。
「出て行け、ユーソア。罰は、追って沙汰する。アンエスカからも処罰させる。覚悟を決めておけ」




