10 もし、そんな日が
「オーディス兄妹」の「迎え」は、しかしなかなかやってこなかった。
王とその姉はフィレリアと語らったが、フェルナーはやはり、彼らの前に姿を見せなかった。アンエスカは訝しんでいたもののルー=フィンから話を聞くにとどめ、仮面の兄を無理矢理引っ張り出すようなことはしなかった。
神官ラシャはエルレールと相向かうことのないままでシリンドルを離れ、巫女姫はほっとしていた。少年王は少しだけ姉に苦言を呈したが、彼らは互いに気持ちや立場をよく判っていたから、険悪なことにはならなかった。
その代わりと言おうか、微妙なことになっていたのが、エルレールとクインダンだった。
騎士クインダンは、たとえば〈峠〉の神殿に参拝するときなどの巫女姫の護衛をほぼ一手に引き受けていたが、彼が町の見回りをしていた間に、ユーソアがその役割を果たしたことがあった。
それは何も、問題ではない。クインダンの手が放せなければアンエスカやレヴシーが代わることはこれまでにだってあったからだ。
ただ、それが続いたことは、これまでにないことだった。
エルレールが望んだのか、ユーソアが言い出したのか、それはクインダンには判らなかった。彼は特に、尋ねなかった。〈峠〉にはユーソアを伴ったと巫女姫が言うのを聞いて、ただ「そうでしたか」と答えた。
クインダンはユーソアに変わらず接し、ユーソアの方でも同じだった。だがレヴシーは気にして、そっとクインダンに尋ねた。
「なあ」
少年騎士は小声で言った。
「どうなってんだ?……ユーソアと、エルレール様と」
「どう、とは?」
クインダンは、判らないと言う風情で返した。
「『どう、とは?』じゃないだろう! 何でエルレール様は最近、ユーソア贔屓なんだよ」
「エルレール様は贔屓などなさらない」
彼はまず、そう言った。
「ただ……意見の反する者より、合う者と話をしたいとお考えになるのは、自然なことだろう」
「意見? 何だよ、それ。クインがエルレール様に何か意見したって言うのか?」
「そういう訳ではないが……」
「って言うか、それを贔屓って言うんじゃないか、普通は」
「それを贔屓と言うのであれば、そういうことになるのかもしれないな」
「どっちだよ」
「エルレール様は、たとえば、損得で贔屓などはなさらない。私が言うのはそういうことだ」
「……じゃあ、損得抜きで、ユーソアって訳か?」
レヴシーは言ってから、自分の発言の意味に顔をしかめた。
「おいクイン。いいのかよ」
「いいも悪いもないだろう」
「だって、クインは前から」
「前から?」
クインダンは片眉を上げた。
「前から、何だって言うんだ?」
「それは……」
レヴシーは詰まった。
前から、騎士の座にある。そんなことは関係ない。前から――エルレールを見ている。そんなことも、関係ない。
「そりゃユーソアは、悪い奴じゃないよ。俺としては、ルー=フィンよりずっと話しやすいし」
少年騎士は呟いた。
「でもさ、クイン以外の男がエルレール様の隣にいるのを見るは、何だか、気に入らないんだよ」
「お前だって、アンエスカだって、いることはあるじゃないか。もちろん、ハルディール陛下だって」
「そういうことを言ってるんじゃないよ! 判ってるくせに、何でそんなふうに言うんだよ」
彼は怒ったように言ったが、クインダンはあくまでも判らないというふりをした。レヴシーは憤然とした顔を見せたものの、先輩騎士はいつもこうだ。彼が何を言っても無駄に終わるだろうとやがて諦めた。
「――クインダン」
ある夕刻、彼に声をかけた者がいた。クインダンは振り返った。
「ルー=フィン」
そこに立っていたのは、銀髪の青年騎士だった。
「どうかしたか」
「少し、いいか」
「もちろんだ」
クインダンはうなずいた。
「私も、お前と話したいと思っていた」
「……私と?」
「ああ。だが、それはあとでいい」
どうした、と彼はまた尋ねた。
「ユーソア・ジュゼのことだ」
ルー=フィンからもその名が出てきたことに、クインダンは何だろうと首をひねった。
「彼が、何か?」
「当然のことでもあるが」
彼は前置いた。
「ユーソアは私を嫌っている」
「……そうか」
そんなことはない、とも言えない。クインダンは曖昧な相槌を打った。
「彼はニーヴィス・ハントと親しかったらしい」
「そうらしいな」
「ハントを殺した私を憎むのは、仕方のないことだ」
「――そうは言えない。お前も彼も、いまは共に〈シリンディンの騎士〉なのだから」
たとえ個人的にわだかまりがあっても、それを抑えるべき。クインダンはそう言った。
「きれいごとだ」
ルー=フィンは首を振った。
「憎むな、などと言えるはずがない」
「……お前は」
少し迷ったが、クインダンは続けることにした。
「憎しみのために、ヨアティアを殺そうと思ったのか?」
恋人ミキーナを殺された恨み。いくらかは、そうした感情もあったかもしれない。だが復讐心だけで討伐に向かったのではないと、クインダンはそう信じた。
「それは」
若者は、少し黙った。
「それは、違う。むしろ、そうした気持ちを抑えようとした」
「抑えられた。そうだな?」
「……どうだろうか」
ルー=フィンは呟いた。
「判らない」
「そう、か」
方向を誤ったな、とクインダンは感じた。恨みがないなどとは、言えないのだろう。クインダンの言うことを理解すると、そんなふうに言わせようとした自分に腹が立った。
そのような痛み、苦しみ、彼は知らない。
ニーヴィスが死んだと聞いたとき、仇を討とうという気持ちが浮かばなかったと言えば嘘になる。だがやがて、ルー=フィンの立場は変わり、クインダンは恨みを捨てた。捨てられた。
わだかまりは皆無ではないが、彼らは個人的に憎しみ合って殺し合った訳ではない。一種の戦という独特の状況下で、敵味方であっただけだ。そしていま、ルー=フィンは味方である。理性で、そう考えられた。
だがもし。
想像するだに怖ろしいことだが、もしもルー=フィンが、彼の肉親や――エルレールを手にかけていたら。
王女を殺害したとなれば、いくらヨアフォードの命令であったのだとしても、彼が許されて騎士になるはずはなかった。つまり、いまのような状況になるはずもないのだが、仮に、なったとして。
クインダンは、彼と話したいとは思わなかっただろう。憎しみを覚え、きっとそれを捨てられないだろう。
ただの想像ですら、そう思うのだ。ルー=フィンにはそれが現実だと言うのに。
「すまなかった」
クインダンは謝罪した。
「何を謝るのか、判らない」
ルー=フィンは手を振った。
「とにかく、ユーソアだ。私を嫌い、憎むのはかまわない。だが、町びとの前でそれをあらわにされては」
「何があった?」
眉をひそめて、クインダンは問うた。
「そのままだ。私を指差し、お前が〈シリンディンの騎士〉であるなど片腹痛いと」
「……それは、よくないな」
「私は、私の評判などは気にしない。片腹痛いと、そう思う町びとがいても当然だと思っている。しかし、騎士同士がそれでは」
「もっともだ」
クインダンはうなずいた。
「ユーソアと話そう。アンエスカにも、言った方がいい」
〈シリンディンの騎士〉同士がいがみ合っているなど、不名誉この上ない。いや、名誉だけの問題でもない。民たちの間に、不安が生じる。加えて、ユーソアの声が大きくなれば、ルー=フィンを認めていた者でさえそちらにつき、ルー=フィンから騎士の地位を剥奪すべきだなどという論調になるかもしれない。
そうなれば、ハルディールやアンエスカも無視できない。しかし、一度騎士になったものがその座を追われるなど前代未聞だ。辞任はあるが、剥奪というようなことは過去に一度もなかったはずだった。
それは〈シリンディン騎士団〉の亀裂を意味する。ユーソアとルー=フィンの間の亀裂ということのみならず、名誉の消失、敬意の失墜――騎士団の崩壊。
クインダンはすっと寒気がするのを感じた。
シリンドルから〈シリンディン騎士団〉が消える日。もし、そんな日がやってきたら。
そのときのシリンドルは、彼の親しみ、愛する祖国と、甚だ違ってしまっているのではないだろうか。
「私に、話と言うのは?」
次いで、ルー=フィンが尋ねた。
「ああ……いや、大したことではないんだが」
クインダンは手を振った。
「今宵は、空いているか」
「何?」
「今日じゃなくてもいい。近い内に、酒でも飲まないか」
「……かまわないが」
何を言い出されたものかと、ルー=フィンは目をしばたたいていた。
「そうか。よかっ――」
よかったと、クインダンがあまり意味のない返答をしようとしたときである。
館内に、悲鳴が響き渡った。




