09 不気味な感じが
「――ティエ?」
呼びかけられて、彼女ははっと顔を上げた。
「ここの食事は、口に合わなかったかな?」
「いいえ、とても美味しいわ」
笑みを浮かべてティエは答えた。
招待を受けて訪れた〈白花宴〉亭は、ティエにも馴染み深い大衆食堂に近かった。「近い」と言うのは、そうした店にありがちな雑多な雰囲気が控えめだったせいだ。卓は整然と並べられ、掛け布にはしみひとつなく、給仕たちのお仕着せもきちんとお揃いで、清潔感を出している。だが料理の内容は洒落た店で見受けられる飾り立てたようなものではなく、揚げ物、焼き物、煮物に米飯がつく、下町の定食といった感じだ。
あまり上品すぎるところでなくてよかった、とティエはこっそり考えた。彼女はそうした場所での作法など知らないからだ。
「ティエには、感謝でいっぱいだ」
と言ったのは、年の頃五十前後の、茶色い髪をして口の周りに髭をたくわえた男だった。
「おかげで、殿下の目にもとまった」
「まさか。踊りだけが決め手だったとは思えないわよ、カードリー座長」
彼女は笑って返した。
〈ホルッセ劇団〉の長カードリーは、劇団長ではなく座長と呼ばれていた。かつてホルッセという人物が仕切っていたときは〈ホルッセ一座〉であったらしく、その頃の名残であるとか。
そのホルッセはカードリーに一座を譲り、いまはどこだかに落ち着いて暮らしているというような話であった。かつてティエとラサードが雇われていた〈バスド一座〉は座長の交替によって破綻を引き起こしたが、ここではそうしたことはなかったらしい。痛い思い出を刺激されず、ティエは安堵した。
「確かに、うちには売りとなる要素が満載だ。だが、だからこそ、どれかひとつでも見劣りがすれば全体への悪評に繋がる。若い娘たちというのは自己主張が強くてね、私が何か言っても聞かなかったんだ」
カードリーは肩をすくめた。
「あなたはどんな魔法を使ったのか?」
「魔法だなんて」
ティエは苦笑した。
「彼女たちはたいてい、褒められたいのよ。きれいだ、上手だ、いちばんだと言われたい。だから、頭ごなしに『それは駄目だ』と言うのは禁じ手ね。『ここが揃ったらみんなとてもきれいよ』、そんな言い方ひとつで、だいぶ違うものだわ」
あまり持ち上げすぎても不審に思われたり、なめられたりするが、幸いにして〈ホルッセ〉の踊り娘たちは、〈紅鈴館〉の春女たちより素直だった。もとより、前者の方が後者より踊りに対する意欲を高く持っているのだから、ティエの助言が自分をよりよく見せると理解すれば無駄に反発しなかったのだ。
「ふむ、女心は扱いかねる」
カードリーはしかめ面で言い、ティエとラサードは笑った。
「ところで、あの戦士殿はあなたの旦那ではなかったのか? はじめは雇い護衛かとも思ったが、ずいぶんと仲がよさそうだった」
「つき合いは長いけれど、結婚というような話には、雰囲気すら、ならなかったわね。私は商売女同然だったし、向こうは戦士稼業だし」
ティエは、タイオスは友人としてここまで送ってくれたのだという話をした。
「正直、ホルッセに行くかどうかいちばん迷ったのは、彼と離れることになるためだった。でも、私が何度も彼を送り出したように、彼も私を送り出そうとしてくれた。無償で護衛をしてやるなんて言ってくれて、楽しい旅ができたわ」
簡単に説明をしてティエは、こっそりと心のなかでつけ加えた。
(――最後に)
「意外とあっさり、いなくなっちまったね」
ラサードが言った。
「せめてここでの公演の終わりにくらい、つき合えばいいのに」
「彼には仕事があるの」
ティエは言った。
「とても、大事な仕事がね」
「ふうん?」
ラサードは納得し難いようだったが、それ以上文句は言わなかった。
「ともあれ、もう一度、首都公演決定に乾杯だ。おい、ライファム酒を三杯――」
座長は追加注文をしようと給仕を探した。ティエたちも、何となく彼と同じようにした。
そして、見た。
給仕たちが一箇所に固まって、何やら相談をしているところ。
その視線の先にあるひとつの卓に座る、四人の客を。
「……何だい、あれは」
ラサードが胡乱そうに言った。
「店のなかで、あんなフードをかぶって。魔術師にしちゃ、ローブが黒くない」
「近頃では珍しいが、巡礼じゃないか」
「確かに、あまり見ないわね。ちょっとだけ……」
ティエはそっと、厄除けの印を切った。
「不気味な感じが、するわ」
灰色のローブをかぶった男――だろうか――たちのいる場所は、さながら、そこだけ影が差しているように見えた。
「おい! 酒だ!」
カードリーが再び言うと、給仕のひとりが気づき、慌てて飛んでくる。
「……あれは何だ?」
座長が尋ねれば、やってきた給仕は首を振った。
「判りません。近頃、何日かおきにああしたお客さんを見るので、何だろうかと話していたところです」
「それは新しい常連、と言うんじゃないのかい」
少し茶化して、ラサードが問うた。給仕はわずかに眉根をひそめた。
「お客さんはお客さんですし、酔って暴れられたりするよりはましですけれどね。一言も……ああして何人かできても一言も口を利かず、注文も菜譜を黙って指すだけ、ここだけの話ですが、あまり歓迎したい感じじゃないです」
「口を利かない」
彼らは目をしばたたいた。ひとり客ならば、何も言わずに料理の絵だけを指し示すようなこともあるだろう。だが、あの卓には四人もいるのに。
それはますます、薄気味悪い感覚を呼び起こした。
「まあ、どうでもいい」
それを振り払うかのように、カードリーは明るく声を出した。
「とにかく、乾杯だ。ライファム酒を三杯」
座長は繰り返し、給仕は日常の仕事にほっとした様子でうなずくと、踵を返した。
ティエはもう一度そっとフードの集団を見ると、タイオスが傍らにいないことを少しだけ心細く思った。




