08 行ってらっしゃい
お疲れ様、と言った男を女はまじまじと見た。
「……何だい?」
「……一瞬、誰だか判らなくて」
ティエは目をぱちくりとさせながらラサードを眺めた。化粧を落とした道化師は笑った。
「酷いことを言うねえ。〈紅鈴館〉では、素顔での再会だったじゃないか」
「確かにそうだったけれど、名乗られなければとても判らなかったわ」
彼女は正直なところを言った。ティエが「ラサード」として認識しているのは、九割以上、化粧をした顔なのだ。
「まあ、そんなものかもねえ。道化師ラサードは指を差して笑われるのに慣れてるが、素顔のあたしがそんなふうにされたら、困惑してしまう。これとあれは、どちらもあたしでありながら別人みたいなもんだ」
「役者も同じね。舞台の上では王子であり、勇者である彼らも普段は、これがあの堂々とした英雄かと驚くくらい、ぼうっとしていたりするものね」
「芸の最中は、何かに取り憑かれてるみたいなもんだよ。あんたも踊ってる間はそうじゃなかったかい」
「どうかしら。ただ楽しくて全てを忘れられる、そんな気持ちにはなるわね」
「嫌な現実を全て……か」
「そんなところね。嫌なことばかりでもないけれど」
ティエは笑って答えた。
「本当は、踊りたい?」
「え?」
「〈紅鈴館〉では、たまに踊ってもいたんだろう。だがうちじゃ、教師としての契約しかしていない」
「こんなおばさんの踊り、誰も見たがらないでしょう」
「あたしは、見たいけれど?」
ラサードは言った。
「あんたは、〈バスド一座〉の踊り娘たちのなかで、いちばんの踊り手だった。あのあと……どこかほかの一座に入っていれば」
「そのことは、もう言わないでちょうだい」
ティエは肩をすくめた。
「一座が解散したとき、私はもう、何もしたくなかったの。働くことはもとより、ものを食べたり眠ったりすることすら」
遠い目をして、女は過去を思い出した。
「〈紅鈴館〉の主人に出会わなければ、踊りを忘れてただの春女になっていたでしょう。身体を売ることもしたけれど、同時に踊りがあったから、どうにか自分を取り戻せたんだわ」
それに、とティエは呟いた。
「あの出来事を知る、ヴォースがいてくれたから」
「そう、か」
ラサードも呟いた。
「ああ、でもやっぱり、悔やまれるね」
「私は悔やんでいないわよ。あのときの私には、あれしかなかったと」
「そうじゃないさ。あんたの選んだことをどうとか言っているんじゃないよ。あたしはね」
男は片目をつむった。
「あんな、ぽっと出の護衛戦士なんかにあんたを奪われる前に、あたしがさらっちゃえばよかったなと言ってるのさ」
「あら」
ティエは目をしばたたいた。
「光栄ね」
「本音だよ。あたしゃ、あんたに惚れてたもの」
さらりとラサードは告げた。
「もっとも、あのときは自分が可愛くて逃げちゃったからねえ。どうこう言える立場じゃない」
「さっさと逃げて正解よ。途方に暮れて残ってた人たちは、町憲兵隊に相当、絞られたらしいから」
「責めないのかい」
「どうして?」
彼女は肩をすくめた。
「助け合わなかったのは、お互い様じゃないの」
「そうか」
ラサードは苦笑した。
「お互い様か」
「ええ、お互い様だわ」
ティエは笑って繰り返した。
「さあ、それじゃ過去の話はおしまいだ。これからの話をしよう」
「今後の予定か何かしら」
「とりあえず、今夜の予定だ」
道化師は指を一本立てた。
「どたばたしきりだったからね、座長とまだよく話をしていないだろう。食事でもどうかと伝言だ」
「いいわね、是非」
にっこりとティエは了承した。
それは彼女が〈ホルッセ劇団〉に入ってから一旬近く経った頃のことだった。
第一王子トーカリオンの観芸という大事と、それから首尾よくアル・フェイドへの招待を受けることができた一座は飛ぶ鳥を落とす勢いとなり、大評判の内にワイディスの町での公演を終えた。
ティエの指導は好評で、座長は彼女に好条件を示して雇い入れた。
そのときまでは、タイオスがいた。
戦士が町を――彼女を離れたのは、劇団にたどり着いて数日経った頃だった。
『もう少し、いようと思っていたんだが』
言いづらそうにしていた様子が、彼女の印象に残っていた。
「どうにも、気にかかることができたんでな。……シリンドルへ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
簡単に、ティエは返した。タイオスは拍子抜けしたようだった。
「『行ってらっしゃい』?」
「ええ、そう言ったわよ?」
「……コミンじゃないんだぞ。俺はここに戻らないし、お前も公演が終わったらどこかへ行く」
「そうね。再会の見えないお分かれということね」
ティエはうなずいた。
「でも私は行くし、あなたも行く。これは決まっていることでしょう?」
「ああ、まあな」
「だから『行ってらっしゃい』」
彼女は繰り返した。戦士はうなった。
「何を怖い顔してるのよ」
「そんなつもりはないが」
「じゃあ寂しいのね?」
「まあな」
少し悪戯っぽくティエが言えば、タイオスは認めた。
「長いつき合いだ」
「そうね。長いわ。……ねえ、ヴォース」
「うん?」
「コミン? シリンドルかしら?」
「……何がだ」
突然の二者択一に、戦士は目をしばたたいた。
「手紙を書くとしたら、どっちに出せばいい?」
「シリンドルに腰を落ち着ける気は、ないんだが」
少し困惑したようにタイオスは答えた。
「じゃあコミンね。手紙、書くわ」
「……ああ」
「仕事の途中でも、劇団の消息と行き合うようだったら、顔を見せてね」
「必ず」
「お酒の飲み過ぎには気をつけるのよ。それから、悪い女に引っかからないようにね」
「おいおい」
戦士は苦笑した。
「初めて旅に出る息子を送り出すおっかさんでもあるまいし……」
そう言ったタイオスの口を彼女は唇でふさいだ。若い恋人たちのように激しくはないが、優しく、長い口づけをした。
「――元気で」
「ああ」
繰り返し、タイオスはうなずいた。
「成功を祈ってる。もうこの劇団は成功してるようだが、もっと、もっと、お前の力も得て、もっと活躍するように」
「有難う。あなたも」
笑みを浮かべて、ティエは囁いた。
「〈白鷲〉の名に相応しい、行いを」
「おう」
〈シリンディンの白鷲〉は少し照れたように笑った。
「ヴォース」
「ん」
「さよなら」
「ああ」
そうしてヴォース・タイオスは、アル・フェイル国を南方へと下って行った。ティエはその背中が見えなくなるまでずっと見送って、果たして彼に再び会うことはあるのだろうかと思いを巡らせた。




