02 判ったよ
不意に冷たい夜風が吹き込んできて、彼ははっと目を覚ました。
また本を読みながら眠ってしまったのだと気づいたリダールは、目をしばたたかせながら、風の吹いてくる方を見た。
二階の窓が、大きく開けられている。成程、風はそこから入ってきたに違いなかった。
だが開いた窓よりも彼の目を奪ったのは、見覚えのある顔だった。
「シ、シィナ?」
彼は目を見開いた。
「どうやって……ここ、二階だよ?」
「排水管を登ってきた」
こともなげに、シィナは答えた。
「首都から戻ってきて以来、お前、ちっとも遊びにこないじゃん。誰か様子見てこいってことになってさ。オレが代表」
「え……」
「何? ベンキョウしてたのか? 別にそんなこと、しなくてもいいだろ。お前は頑張らなくても、偉くなれんだから」
ふん、とシィナは鼻を鳴らした。リダールは顔を赤くした。
「勉強は……ちゃんと、やらないと駄目だよ。特に僕は、僕だからこそ」
「それって、ホーサイ先生の受け売りだろ」
またシィナは笑い、またリダールは赤くなった。
「なあリダール、本なんか閉じてさ、ちょっとこいよ。今日はランザックの誕辰だから、あいつをびっくりさせようってんで計画立ててんだ。お前も参加、参加」
「え、でも、僕……」
「何だよ。また、ランに怒られるとか思ってんのか? 町のガキどもとつき合うのも経験だって、先生やサナースのおっちゃんが説得してくれたじゃん」
こいよ、とシィナは繰り返した。リダールは躊躇った。
「僕……勉強しなくちゃ、いけないんだ」
「それは、ランザックの誕辰なんか祝ってらんないってことか?」
「そ、そうは言ってないよ。ただ……僕」
「はっきりしねぇな」
苛ついたようにシィナは頭をかいた。
「別に、嫌ならいいんだ。人数が足りないからよ、お前にも声かけたってだけで。お前が駄目なら、ほかを当たる」
「……あ……うん……」
リダールはうつむいた。
シィナやランザックらは、キルヴンの町での友だちだ。フェルナーは立場の近しい貴族の友人としてただひとりだったけれど、町の子供たちとの交流はある。
彼らとリダールは、ホーサイという名の老学者のもとで知り合った。キルヴンの町の歴史に詳しい老師はリダールの教師にと請われたが、町の子供たちにも教える役割を担っているからと領主の館に出向くことを断り、リダールが館を出て彼らの小屋までやってくるのであれば引き受けると答えた。
はじめはそれに難色を示したキルヴン伯爵だったが、他者の意見に納得し、ホーサイに息子を任せることにした。それは、町の子たちとの交流は決して悪くない、リダールの視野を広げさせることになる、というような意見であり、意見したのは伯爵が誰より信頼する友人であった。
そうしてリダールはただ「小屋」と呼ばれるホーサイのあばら屋に出向き、ほかの子たちと一緒に町の歴史を学んだ。ホーサイは、貧乏人の子にも領主の子にも変わらず接し、子供たち同士にもそうした態度を求めた。
もしも分け隔てをするようなら――いじめたり仲間外れにしたりすることだけではなく、ちやほやしたり媚びを売ったりすることも含まれた――教鞭で尻を叩く、という脅しが通じたのか、それとも子供たちなりに特別視はよくないと思ったのか、単に全く気にしなかったのか、何にせよリダールは小屋の子供たちと一緒に学び、時に遊んだ。
だが、フェルナーとのつき合いがほぼ一対一であったのに対し、キルヴンの子供たちは小集団だった。リダールは彼らの勢いについていくのが精一杯であり、子供たちはたいてい、あまり喋らないリダールがいてもいなくても気にしなかった。
だから彼は、シィナが彼の様子を見にわざわざやってきたということに驚いたのだが、何のことはない、人数を増やすために誰でもよかったのだ。
リダール少年はそのことで拗ねたり、落ち込んだりはしなかったが、ただ「そうか」とだけ思った。
「何だよ」
シィナは唇を歪めた。
「久しぶりに顔見ても相変わらずだな、お前は。きたいならきたいって言えよ」
こんなふうに言うシィナは、リダールよりふたつ三つ年下だ。だがはきはきした性格と、ホーサイの「分け隔てなく」を遵守していることが、年上の、領主の息子にも遠慮のない物言いをさせる。
リダールがそれに反感を覚えるようであれば、彼らはやはり、領主の館と町とで別々に過ごしただろう。だが彼には立派な領主となる自信がなかった上、年齢の割に幼いこともあって、シィナに仕切られることに抵抗は覚えていなかった。
「行きたい気持ちは、あるんだけど。でも」
リダールはちらりと本を見た。シィナはうなった。
「勉強なんか、数刻くらいやらなくても死なないだろ! もう、こいよお前は!」
シィナはがっと少年の腕を掴んだ。リダールは目を白黒させて、それから遠慮がちにその手を振り払った。
「ごめん、シィナ。誘ってくれて、すごく嬉しいんだけど、でも」
「何だよ」
「僕……僕だけが、友だちと楽しくやる訳にいかないんだ」
「はあ?」
「その、だから……」
どう言ったらいいのだろう。
怖ろしい場所にいる友人を救うまで、何かを楽しむ気持ちになどなれないのだと。
「オレらみんなが楽しいんだぜ?」
もちろん、何も知らないシィナは、リダールの言うことがさっぱり判らなかった。
「――ごめん」
リダールは謝罪の仕草をした。シィナは頬をふくらませた。
「判ったよ。お前はもう、オレらと遊びたくなんかないってことだな」
「違う、そうじゃないよ、シィナ」
「頭がおかしくなるまで勉強してろ! もう、顔見せんな!」
下町のどぎつい罵り文句を吐いて、シィナはリダールに背を向けた。
「あ……シィナ!」
彼は呼び止めようとしたが、友人は止まらなかった。もとより、振り返られても、何を言えばいいか判らなかった。
シィナは入ってきたときと同じように窓から出て行き、リダールはじっとその場に立ち尽くした。
すると、かちゃり、と扉の開く音がした。
「坊ちゃま」
初老の使用人が姿を見せる。
「いまのは、町の」
「聞こえた?」
「ええ、何ごとかと……また妙な輩が現れて坊ちゃまに狼藉を働こうとしているのかと、護衛を呼ぼうかとも思ったのですが」
「違うよ」
リダールは手を振った。
「僕を……遊びに誘いにきてくれたんだ」
「お出かけになるのですか」
「ううん」
彼は首を振った。
「これを読み切ってしまわなくちゃ」
「……坊ちゃま」
ハシンは心配そうな顔を見せた。




