14 〈白鷲〉と呼んだ戦士
時間は――過ぎていった。
一日一日はやがてひと月となり、春がきて夏を迎え、秋を見送り、また冬が。
もう、過去の出来事は過去の出来事だった。
幻夜と呼ばれた奇妙で怖ろしい、いや、恐怖さえなければ美しくすらあったかもしれない昼のことも、ほとんどの者は日常の向こうに忘れてしまった。
忘れることができなかった者も、それでも日々を送らない訳にはいかなくて、哀しい記憶は次第に薄れていった。
よくも悪くも。
「川岸の柵の修繕は、済んだのだったな」
「ええ、メノカン親方の指示で、自警団が完成させました」
「ひと安心だな」
少年王はうなずいた。
「そう言えば親方の細君の病は癒えたのか?」
「快癒したと聞いております」
「何よりだ」
「懸念されている、バーリト邸、通称『幽霊屋敷』の老朽化による崩壊ですが、取り壊しの方向で話が進みそうです」
「もっと早くやっていてもよかったな」
ハルディールは両腕を組んだ。
「そうすればケルナンが怪我をすることもなかったろうに」
「大事に至らなかったのは幸いでした」
「もっとも、ああした『秘密めいた遊び場』というのは僕には憧れだけれど」
彼は少し笑った。
「大人の無粋な注意が入らない場所での危険な遊びも、時にはよいものですが」
騎士団長も少し笑った。
「事故のことを思うと放ってもおけない。難しいところです」
「そうだな」
ハルディールは真剣な表情を取り戻した。
「みなの意見に任せよう」
「危険な箇所だけをを直してはどうかとの案もあります。もっとも、それをするとほとんど建て替えることになりそうですが」
もう一度相談をさせましょう、と騎士団長は言った。
「あとは?」
「大方はおしまいです。あとは個人の話でして」
「聞こう」
ハルディールは促した。アンエスカは目礼をした。
「ミヴェルとジョードの間に生まれた赤子のことです」
「ああ」
彼は判ったと言うようにうなずいた。
「どの医師も『大きくなれば消える』という見立てだったのだろう?」
「ええ。病の兆候ではないと説明し、ジョードは納得していましたが、ミヴェルは不安に思っていたようでして」
「それで、カル・ディアルの魔術師協会は何と?」
「やはり、我が国の医師と同じ結論でした。彼女が案じるような〈しるし〉ではないと」
秋口に無事に生まれた彼らの赤子は可愛らしい男の子で、新たなるシリンドルの家族の誕生を人々は純粋に祝った。彼らを余所者とする向きもなかったとは言えないが、メリエーレが積極的にミヴェルに助言したりだとか、ジョードが妻子のために懸命に働くだとかしている内にそうした気風は減っていき、子供が生まれたことでほぼ完全に彼らはシリンドルの人間と認められたようだった。
だが数々の幸せを運んでくれるはずの赤子は、ミヴェルに不安の影を落とした。彼女の持つ、銀色の鱗のような〈しるし〉――長くカヌハに暮らしていた民たちが受け取った異界の影響の現れ――とは違ったものの、赤子の肌には奇怪に目立つところがあったのだ。
それはまるで、腹から胸を刺された傷跡のようだった。
「神殿は、こう言ったそうです。ラ・ムール河に浸かる時間が短すぎて、前身の特徴を洗い流せず生まれてくる赤子も稀にいる、おそらくその子供も同様だろうと」
そう説明した彼の脳裏には、蘇ることもあった。
「肉体的特徴が残ってもそれ以外に影響はないとのことです。魂が清められなければラ・ムール河から戻ることはなく、たいていはその間に身体の傷も充分癒えるらしいのですが、これまた稀に、異例の早さで次の生に送られる魂があるのだとか」
よく判りませんが、とアンエスカは正直に言った。
「魔術師も神官も、必ず消えると確約したそうです。そうした傷跡は残り香に似て、時間が経てば必ず薄れると」
アンエスカはジョードが「専門家」たちから聞いたという話をそのままハルディールにも伝えた。
「そのこと以外は問題なく健康な男児ということだったな。また新たな〈シリンディンの騎士〉候補という訳だ」
少年王は笑んだ。
「そうですね」
騎士団長も笑みを浮かべた。
「さて、今日はこれで」
だいたい済んだろうか、などということをハルディールが口にしようとしたときだった。
規則正しく扉を叩く音が聞こえた。
「陛下、団長」
入室をして彼らに敬礼をしたのは、ルー=フィン・シリンドラスだった。
「ルー=フィンか」
ハルディールは従兄の顔に笑みを見せた。銀髪の騎士もまた、かすかに穏やかな笑みを浮かべた。
「団長、チェルディンとローレスの訓練が終了いたしました」
それから彼はアンエスカに向かって報告をした。
「そうか、ご苦労」
アンエスカはうなずいた。
この一年で、〈シリンディンの騎士〉は二名増えた。ふたりとも二十代の半ばから後半、前年の審査に落ちてもめげることなく訓練を積み、その成果を見せた者たちだった。
「彼らが仕事をあらかた覚えれば、お前はもっと神殿にいる時間を増やせるな」
「は」
ルー=フィンは少し困った顔を見せた。
「どうだ、最近は」
ハルディールが尋ねた。
「何とか、やっている」
ルー=フィンは肩をすくめた。
例の術が解けて以来、ルー=フィンの雰囲気は変わっていた。と言うより、本来のものに戻ったと言うべきなのだが、当時存在した冷たい壁のようなものがなくなり、彼なりに自然なものになっていた。
そうと気づいた少年王は、ふたりでいるときは「王と騎士」ではなく「従兄弟同士」でありたいと告げた。ルー=フィンは戸惑ったが、ハルディールの希望を受け入れ、従弟とふたりかアンエスカだけがいるときは、友人のように語った。
もっとも、アンエスカに対しては団長への態度となるので、何も知らぬ者が見聞きすれば誰が上位にいるのか判らなくなったであろうが、実際にほかの誰かがその場に存在することはなかった。
「『何とか』か」
ハルディールは返した。
「無理を強いているのでなければよいが」
「いや」
ルー=フィンは首を振った。
「幼いカズロが相応しい年齢になるまで、間が空くことは確かだ。誰かがやらねばならず、それが私だと殿下や神殿長が仰るのであれば致し方ない」
ボウリスが神殿長の座に就いたのは、血筋と知性、そして人間性からだった。シリンドレンの血が薄いという声は確かにあるのだが、それを補ってあまりある人徳が彼にはあった。
ただ問題は、後継だった。
本来は単純に世襲制であるのだが、ヨアフォード、ヨアティアの死によって直系は絶たれ、ボウリスが選ばれた。代替わりのたびに神殿長を選ぶというのは長年の伝統に合わず、息子がいるならそれが後継というのは自然なことだった。
ただ、遅くに生まれたボウリスの幼子カズロが神殿長の座に就けるまでは、あと三十年ほどかかるだろう。その頃ボウリスは存命であっても老齢だ。将来を考えると、その間に誰かひとり欲しかった。
現神殿長とその息子をつなぐ数年間だけと約束して、ルー=フィンはその座に就くことを了承した。決して「神殿長」ではなく、カズロの後見という形であったが、それですら彼に引き受けさせるまでエルレールとボウリスはたいそう苦労をした。
ルー=フィンが最も気にかけたのは人々の反発だったが、一年前の夜のような昼に起きたあの出来事の際、彼が英雄と称えられてもおかしくないだけの活躍をしたという話はいつの間にか広がり、彼をいつまでも「反逆者の犬」と罵る者はいなくなっていた。
そうあれば、もともと神殿や神官に馴染み深いルー=フィンである。学ぶことは多かったものの困難ではなく、神殿長の補佐が務まるようになるまで時間はかからなかった。人々も自然と、ボウリスの近くにルー=フィンがいて時には代行をすることにも慣れていった。
と言っても、彼が〈シリンディンの騎士〉であることに変わりはない。つまりアンエスカがルー=フィンに対し、神殿でボウリスやエルレールの指示に従うよう命じている、ということになる。
その形は、次代カズロが継ぐまで続けられる予定だった。ルー=フィンは〈シリンディンの騎士〉にして、〈峠〉の神の、言うなれば副神殿長のようなことをするが、それはあくまでも「神殿の業務に詳しい騎士としての特殊な任」ということにした。そうでなければ、彼が肯んじなかったのだ。
ただ、もしもヨアフォードの反逆がなければ、これは実際に起こり得たことだったかもしれない、ということは幾人かの胸に浮かんだ。神殿長の座はヨアティアに譲られたとしても、それを陰に日向に支える神官としてのルー=フィン、という形。
ルー=フィン自身、思うこともあった。
ヨアフォードから神殿長を継ぐようなことはなかったろうが、ヨアティアさえ許容したなら、彼は確かにヨアフォードの息子を支え続けただろう。それに近いことが実現すると思えば、少し不思議な気持ちもあった。
この現状を可能にしたのはほかの騎士たちの支えと、それから新人の加入でもある。彼らは――ユーソアも――ルー=フィンを悪く言ったり妬んだりすることは無論なく、彼が憂いなく学べるようにした。ルー=フィンも残された時間で可能な限り、通常の騎士任務をこなした。
それはこの状態のシリンドルにおいてできる、最上の方法であったと言えた。
「報告は訓練のことだけか?」
アンエスカが確認した。
「はい」
ルー=フィンはうなずいた。
「ではちょうどよかった。ルー=フィンにも伝えたいと思っていたんだ」
そう言うとハルディールは、アンエスカとルー=フィンを交互に見た。
「ふたりとも、時間はいいだろうか?」
「無論です」
「問題ない」
騎士たちは答え、ハルディールはうなずくと、引き出しを開けてそれらを取り出した。
「昨日の夜のことだ。魔術師協会の使者を名乗る者から、これらが届けられた」
ハルディールは片手に書状を持ち、それを彼らに示すように卓上に置いた。
「陛下」
「それは」
ふたりは少なからず驚いた。それは、ここにないはずのものだったからだ。
菱形をした大理石にはめ込まれた瑪瑙。繊細な装飾は、羽根の一枚一枚、葉の一枚一枚まで見事に表現されている。
ひとつが砕け、唯一残ったその護符は、〈シリンディンの白鷲〉と呼ぶ人物にその資格がなくなったときか、或いはその人物が死んだときに、このシリンドルへと帰ってくる。
「陛下」
アンエスカはいささか顔色を悪くして、じっとハルディールを見た。
「どういう、ことなのでしょうか」
「説明を」
ルー=フィンも真剣な表情で続けた。ハルディールは無言で、書状を差し出した。
「お前たちが思っている通りだ」
彼は言った。
「僕たちが〈白鷲〉と呼んだ戦士ヴォース・タイオスは、もはや〈白鷲〉ではない」
アンエスカは書状を開き、ざっと目を通すとルー=フィンに手渡した。
「成程」
騎士団長は言った。
「けっこうなことですな」
「……何と」
ルー=フィンは呟いた。
「驚きだ」
「もはや〈シリンディンの白鷲〉はいない、ということになる。それはシリンドルにとって、喜ばしいことと言うべきだろう」
ハルディールはすっと遠くを見た。
「彼はもう、シリンドルを守ることはできないんだな」
そう呟いたハルディールの顔は寂しげでもあったが、穏やかでもあった。
「レウラーサ・ルトレイン。――祝福を」
少年は祈り、男たちも倣った。