07 お前がいない間は
いったい――この騒ぎは何ごとだったのか。
それを知る者は少なかった。説明できる者も同様であり、説明しようとする者になればもっと少数となった。
つまり人々の大半はさっぱり状況が飲み込めないまま「よく判らないが終わったようだ」とでも考えるしかなかった。
しばらくすれば神殿が見解をまとめて人々に話したり、領主に報告したりするだろう。だがそれまでは、少し妄想の度合いが過ぎる自称賢者による的外れな物語――神の怒りであるとか、世界の滅亡を自分が防いだであるとか――を胡散臭そうに感じながら聞くだけだった。
そうしたなか、キルヴンの人々は事実に近いことをある程度の信頼を持って聞くことができたと言うべきだろう。
魔物の侵略などという話はどうにも珍妙だったが、あれらの目的がどうであれ、町と人々の安全が脅かされ、伯爵の兵だけではなく王の兵をも王子が率いて魔物たちを追い返した、というのは紛う方なき真実であった。
王子と兵士は早々に姿を消したが、実際に目にした者も多く、嘘だとは言われることはなかった。
シィナも同様だ。
彼女も決して〈嘘つき妖怪〉呼ばわりをされなかったどころか、むしろ人々は彼女の話をこそ聞きたがった。
と言うのも――。
「シィナ!」
待ち望んだ声に、少女はぱっと顔を上げた。
「リダール!」
大きく手を振って友人に答えようとしたシィナだが、そこで目をあらん限りに見開く。
「お、お前、どうしたんだよ!?」
少年は片側に杖を突き、もう片側をハシンに支えられてようやく歩いていた。彼女の名を呼んだ場所からほとんど移動できていない。慌ててシィナは彼女から駆け寄った。
「ど、どうしたんだ。怪我、したのか」
おろおろと彼女が問えば、リダールはちょっとねと答えた。
彼は死ぬところだった。自分でもそれは判っていたが、言えばシィナを心配させるだけであったし、当然「誰がそんなことを」という話になることは目に見えていた。
リダールは、ラシャを糾弾するつもりはなかった。
話は全て、包み隠されずに彼に伝えられたが、「それが最良」とラシャが信じたのであればそれはラシャなりの正義であると、彼はお人好しにも考えていた。
「ちょっとどころじゃないだろ! そんな――」
「僕より、シィナは? 僕、シィナが混乱のなかで突き飛ばされるのを見て」
「見て? 見てたのか? お前、いなかったんじゃ」
「あ、夢で」
彼は補足し、シィナはがくっとなった。
「じゃああれは、本当だったんだね。怪我をしなかった?」
「怪我人に訊かれたくねえよ」
シィナはまずそう返した。
「オレは、かすり傷程度のもんさ。明日には治っちまう」
豪胆に言って、少女は少年を見た。
「お前は、そうはいかなさそうじゃん?」
「まあね。でも大丈夫、ゆっくり休めばいいって」
「何があったんだよ」
繰り返し、シィナは問うた。リダールは困った顔をした。
「僕自身、判らない。いいや、判っているんだけど、まだ混乱してる。もう少し考えがまとまったら」
リダールはじっとシィナを見た。
「シィナに最初に聞いてもらいたい」
「あ……うん、そうだな、聞いてやるぜ!」
一瞬だけ戸惑った顔を見せ、それから彼女は威勢よく言った。
「シィナの話を聞かせて。何でも、ラヴェイン殿下がいらっしゃったという話は耳にしたんだけど」
「お前、王子様に貸しがあるんだって?」
シィナがそこから言えば、リダールは目をぱちくりとさせた。
「え?」
「殿下が言ってたんだ。お前に借りがあるから優先的にここへきたんだって」
「ぼ、僕が殿下に貸し? とんでもない、何かの間違いじゃ」
「自分のせいでお前が危なかったとか言ってたぜ」
一段落したあとで、シィナはラヴェインからそんな話を聞いていた。
「――ああ」
そこでリダールは思い当たった。
「拐かしの犯人を捕まえるために僕が囮になったっていう話のことかなあ。確かに殿下のお考えだったけど、僕を指名したのは殿下じゃないし、僕だって引き受けたし、何よりタイオスが守ってくれたんだから」
戦士が聞けば苦笑いを浮かべただろうが――タイオスの警護はあまり役に立たず、さらわれたリダールの奪還であるとか逃げ出したリダールの追跡であるとかに奔走していたからだ――リダールはその辺も全てまとめて言った。
「ふうん? でも殿下はそう思ってるぜ。それで借りを返しにきたってのにお前がいなくて何だよと思ってたみたい」
「えっ」
リダールは目をしばたたいた。
「僕、たいへんな失礼を」
「向こうが勝手にきたんじゃん。まあ、助かったけどよ。お前が焦ることないだろ」
実に公正に、少女は判定した。
「お前にはお前にしかできないことがあって、それでいなかったんだから」
彼女は言って、様子をうかがった。
「やってきたんだよな? やるべきことは」
「――うん」
リダールは寂しげな笑みを浮かべてうなずいた。
「もう、済んだんだ」
「そ、か」
どういうふうに「済んだ」のか、シィナにも判るようだった。彼女としては拍手喝采したいところだが、リダールの気持ちを思えばそれもできない。曖昧に相槌だけを打った。
「ロスム閣下……フェルナーの父上にはサング術師が上手に話してくれるって。今回の騒動でロスム閣下も、僕の父上が何か企みごとをしているという気持ちを減らしてくれたらしくって、エククシアたちに騙されていたんだってことを納得してくれそうなんだ」
キルヴン伯爵はまだ首都カル・ディアから戻っていなかったが、王子が伯爵の執務官に大筋を伝えていった。リダールはそれを聞いて、少しだけ安堵した。
「まあ、それならいいんだ!」
正直に言ってシィナはその辺りのことをほとんど判らなかったが、悪い話でないことだけは判った。元気よく、彼女は大声を出す。
「お前がいない間は、オレがきっちりやったからな!」
そして自慢するように胸を張った。
「殿下がオレのこと何て言ったか、お前もう、聞いたか?」
「え? 何?」
知らないよとリダールは正直に言った。
「殿下はな、オレが、キルヴンを守る……」
威張るように両手を腰に当て、シィナは続けて宣言した。
「騎士だって」
「えっ」
「まじだぜ。殿下が、オレはそう名乗っていいってさ」
「シ、シィナ、それってすごいことだよ!」
今度はリダールが目をまん丸にした。それを見て、シィナはぷっと吹き出した。
「馬鹿、何を本気にしてんだよ。殿下がそう言ったのはほんとだけど、冗談の一種に決まってんだろ」
気軽な調子でシィナは笑った。
「オレが、殿下から騎士にしてもらったんだぞって言ったら、みんなけっこう乗ってくれてさ。オレの話をいろいろ聞きたがったんだ」
場合によっては大それた嘘をつく子供と見えたかもしれないが、シィナが実際に王子の近くにいたのを見ていた者が本当だと支持したおかげで、あのあと彼女はちょっとした――酒場の――英雄だった。
「でも」
リダールは反応に迷うように目をぱちぱちとさせる。そのとき彼は、シィナの腰帯に見慣れないものを見つけた。
「それは?」
「あ、殿下がくれた。オレが勇敢だったからって」
いいだろ、とシィナは見せびらかすように、それを外してリダールに渡した。
「シィナ」
リダールは手の上の載せられた硬貨のようなものを見つめて、まばたきを繰り返す。
「この記章……」
「ん?」
「これ、本当に、騎士の証だよ。つまり、君は本当に、殿下から騎士位を拝命したんだ」
「……は?」
シィナは口を開けた。
「お前、何言ってんの」
「もっとも、与えられるのは名誉であってただの一騎士に特権はほとんどないんだけど、少なくとも王宮に上がることはできるし」
「えっ、オレが!?」
冗談だろと笑うよりも驚いてしまって、シィナは目と口を開いたままだった。
「うん。僕もあんまり詳しくないんだけど」
リダールの周囲に「騎士」と呼ばれる人物はおらず、エククシアが王宮に出入りしていた頃に聞きかじったくらいだった。
「陛下や殿下か、各土地の閣下と契約をして雇われることになれば俸禄をいただけて、活躍如何によっては何々の騎士というような称号をもらって」
彼の脳裏にはもちろん〈シリンディンの白鷲〉のことと、〈白鷲〉には顔をしかめられるだろうが〈青竜の騎士〉のことが思い浮かんだ。
「そうなるともっと権利が与えられて、『地位身分がある』ってことになる。話に聞いたところだと、貴族の姫君を花嫁にするようなことも――」
言ってリダールは、あ、と言った。シィナは、え、と言った。
「シィナにお嫁さんは要らないかあ」
「……貴族の息子を婿にできるってことか」
ん?――と彼らは互いに聞き取れなかった台詞を聞き返した。リダールは苦笑して「大したことじゃないよ」と言い、シィナは慌てて「何でもねえよ」と手を振った。
「そ、そうだ、ランザックがさ!」
ごまかすようにシィナは大きな声を出した。
「やっぱり、スエロを洗ってやりたいんだってさ。なあ、いいだろ、ハシン爺ちゃん」
急に言われて使用人は驚いたが、犬のことだよと主人の息子に教えられて、お任せをと答えた。
「よし、じゃあ決まりだな。すぐ行くから」
シィナは片手を上げた。
「待ってろよ」
釣られて上げられたリダールの手にぱちんと自らのそれを合わせると、シィナはけらけらと笑った。やはり釣られてリダールも笑い、手を振って走り去るシィナを見送った。