05 あなたはいつまでも
リダールがラシャに刺されて瀕死であったなどという予想だにしない話にタイオスはますます口を開けた。思わず「出鱈目言ってんじゃねえ」とアンエスカを罵りかけたが、誰も訂正を入れる様子はなかったし、そもそも、そんな嘘は無意味だ。
いくらアンエスカと彼が互いに嫌い合っていたところで嘘でも脚色でもあるはずがないとの判断と、言いづらい話をアンエスカが引き受けたのだと気づいたことが、タイオスに抗議を控えさせた。
「まあ、もう大丈夫だと言うならそれでいいさ」
そうとでも言うしかない。
「で? リダールはどこに」
「是が非でもお帰りになると仰るので、先ほどささっとキルヴンへ」
イズランは印を切るような動作をした。
「あぁ?」
「怖い顔しないでくださいよ。私だって、タイオス殿に会わなくていいんですかと確認したんですよ。でも一秒でも早く戻りたいと」
「別に俺は、俺に会わせずに帰すなんざ許せんとは言ってない。死ぬほどの大怪我をしたってのに、平気なのかと言ってるんだ」
「私を誰だと思っているんです」
アル・フェイド宮廷魔術師は鼻を鳴らした。
「初等魔術師じゃあるまいし。極薄の硝子で作られた、怖ろしいほど繊細な細工ものだって、ひびひとつ入れずに届けられますよ」
「判りにくい自慢をするなよ。無事なら、それでいいさ」
タイオスは口の端を上げ、左肩をすくめた。
「なあ、ハル」
それから彼は少年王を見ると、言いづらそうに口を開いた。
「俺は謝罪をしなけりゃならん。フィレン……フィレリアのことで」
「――ああ」
ハルディールは表情を曇らせ、哀悼の仕草をした。エルレールも同じだった。
フィレンの死については、既に伝えてあった。ライサイに殺され、黒い柱に食われるように消えてしまったことも。
タイオスは子の父の話はしなかったが、エルレールが知っている以上、折を見て伝えられるかもしれなかった。
いったい何故エククシアの子をハルディールの子に仕立て上げようとしたのか、いまとなっては判らなかったが、推測はできた。彼らは、ライサイがカヌハに、エククシアがシリンドルにという形を作るつもりだったのではないかということだ。
宗主と〈青竜の騎士〉を失って、カヌハはどうなるのだろうというようなこともタイオスの内には浮かんだ。だが彼の関知するところではない。はじめの内は混乱するだろうが何とかやっていくだろう、とでも考えるだけだった。
「彼女のことは……」
ハルディールは躊躇いがちに話し出した。
「正直に言うのならば、とても哀しいです。酷く胸の痛みを覚えます。僕は、たぶん、彼女に……恋をしていましたから」
フィレンが生きていたならば、彼の立場上、それはなかなか口にできないことだった。
「ですがもちろん、タイオスを責めるつもりなんてありません。彼女は気の毒な……犠牲者だったと」
「そう、か」
ハルディールは初恋のような淡い思いを「フィレリア」に抱いた。だが「フィレリア」などという少女は最初からいなかった。いたのはフィレンであり、彼女はエククシアに命じられてハルディールに恋をしているようなふりをしていただけ。
それは苦い初恋の記憶となるだろう。
もしもフィレンが生き延び、ミヴェルのように呪縛から逃れることができたなら、未来は違ったかもしれない。
しかし少女は、カヌハの〈しるしある者〉のまま、逝った。
彼女はもしかしたら、愛するエククシアのために死ぬことを誇りにさえ思ったかもしれない。
だがハルディールと、そしてエルレールにとっては胸が痛くなる思いだった。
もしも生きていたなら。
考えても仕方のないこととは言え、哀しい思い出だ。
「彼女のことは、気の毒だったとしか言えない。だが、その、何だ。こういう言い方もあれだが、お前にはきっといい子が」
言いかけてタイオスはうなった。これでは失恋した少年を慰めているかのようだ。そういう問題だけでもないのに。
しかしハルディールはかすかに笑みを浮かべ、彼に礼など言った。タイオスはむしろ、謝った。
「あの……ところで、タイオス」
ハルディールはそっと声を出した。
「僕は考えたんですが」
真剣な顔つきで、彼はタイオスを見た。
「うん?」
「あなたの、ことです」
少年王は言った。
「〈白鷲〉がシリンドルに在住する際についての決まりは、何もありません。そこで、何か新しく特別な……〈シリンディンの騎士〉に似た地位を用意して……」
「まあ、待て」
タイオスは左手を上げた。ハルディールの言わんとすることは判った。
「俺ぁ何も、今後一生シリンドルで俺の面倒見ろなんてこたあ言っとらんぞ」
「あなたがそのようなことを言う人ではないと判っています。ですが」
「確かに、戦士業はもう無理だ」
きっぱりと彼は言った。
「頑張れば、いくらかは左手でも剣を使えるようになるだろう。だが戦士としてやっていくのは」
無理だと彼は繰り返した。
「そんな顔すんな。いい機会だったかもしれん。――ティエがな」
いない女の名を口にした。
「前に、言ったことがあるんだ。俺は引退する引退すると言っても引き際を見極められず、どっかで野垂れ死ぬだろうってな。十二分に有り得そうだと俺自身思ってたんだが」
彼は腕のない右肩を上げた。
「これじゃ引退時期を見誤りようもない」
言い訳や慰め――自分自身のみならず、ハルディールや若い騎士たちへの――ではなく、彼は本心からそう思っていた。
「俺が戦士をやめたら何ができるかっていうと、正直、何も思い浮かばん。だがまずはやってみるさ」
北の方を見てタイオスは言った。
「この年で、もう剣を振れない元戦士。腕もなけりゃできる仕事は相当限られるだろう。だがやってみようと思う。無理だったら泣きつきにくる。そのときには同じ提案をしてくれ」
笑ってタイオスは言った。
「でも……」
ハルディールは簡単にはうなずけなかった。
「気にすんな」
彼は繰り返した。
「生き残るためにやったことだ」
「僕たちを守るためでも、ありました」
「結果的にそうなって、よかったなって辺りだ」
やはり笑って、タイオスは言った。
「さっき言ったことは、まじで思ってるんだ。つまり、きりよく引退できるってこと。あのガキは俺に代償だなんて抜かしたが、その実、報酬でもあるんじゃないかと思ってる」
もう危険なことはしなくていいと、剣に倒れることなく天寿を全うせよと、そうした意味合いを読み取るのは強引すぎたかもしれないが、少なくともタイオス自身には納得のいく考えだった。
殺伐としたところのない世界。
それは戦士として生きてきた彼には幻のような――幻夜のような不可思議な世界に思われたが、ずっと言ってきたことでもある。
引退したら、どこか小さな村で、平和な暮らしを。
「獣から境界を守る」程度の仕事すら、もはやできないかもしれない。だがそれなら、想像しづらいものの、農作業でも何でもいい。それだって片腕ではきついだろうが、言ってしまえば何だってきつい。
何でもいいからできることをして、傍らには、妻が。
(できれば若い娘で、美人ならなおいい、なんて思ったっけな)
能天気な「夢」を語ったのはずいぶん昔のことのような気がする。
ひと山当てての引退ならまだしも、落ちぶれた戦士には過ぎた夢かもしれなかった。
しかし、それでも。
戦いの最中、ぬかるみに足を取られて山賊に斬り殺される、なんて最期よりはましなものが迎えられるはずだ。
おそらくは、だが。
「この先の人生は違う生き方をしてみるさ。この年になっていまさら、『新しいこと』に挑戦するなんて思ってもみなかったが、それもいいだろう」
タイオスは、シリンドルに留まる気はなかった。ここでなら若くて美人の妻も見つけられる、そうしたことは以前にも考えたが、こうも思っていた。
「英雄」の座にしがみついて余生を送るなど、そんなことは。
(――〈白鷲〉に相応しく、ないだろう)
タイオスの決意は明らかであった。ハルディールも引き、いつでも訪れてくださいと言うしかなかった。
「あなたはいつまでも変わらず、僕たちの……僕の英雄です」
少年は言い、男は照れ臭そうに口の端を上げた。
「有難うよ」
簡潔に、ただ礼を言った。
「出る前に挨拶ができてよかった」
そうして何気なく発せられた台詞に、ハルディールは目をぱちくりとさせた。
「何を……まさか」
王ははっとした。
「ああ。騒ぎは済んだようだし、支度をして、出発しようと思ってる」
まるでちょっとそこの酒場に飲みに行ってくるとでも言うように、タイオスはさらりと言った。