01 いい国だって
その日の夕刻はいつもと変わらぬようであったが、同時に、とても特別なものだった。どうしても人々は、心の内にあの幻夜を思い出したからだ。
明けず暮れない、幽玄のとき。
幻想と恐怖。目覚めても身体が震える、忘れ難い夢のような。
しかしもはや、幻夜と呼ばれた時間は終わった。
夕暮れはいつもと同じ夕暮れで、たとえ美しい夕映えをとどめたいと思ったところで叶わない。世界はゆっくりと夜になっていき、そして時間が過ぎれば、必ず、その夜は明ける。
人々はいつもと同じようにやってくる夜をいつになく喜んだ。祭りのように派手に騒ぐことこそなかったが、いつも通りの時間が流れることを神に――どの神であろうと――感謝した。
もっとも、なかには、それほど感じ入っていない者もいた。
「ただ、通るだけのつもりだった」
盗賊団の長などは、そのひとりだ。
〈峠〉にさしかかる辺りで幻夜を迎えた〈テレシエール一味〉は、あの現象を街町の者たちとは違うように感じ取っていた。幾人かが洩らしたように、「すごい神様の聖地を通ろうとして咎められているのではないか」と考えた者も多く、いささかおののきはしたが恐怖に打ち震えるほどではなかったのだ。
「ラスカルトからマールギアヌに抜けられる細道があるということはジョードから聞いた。何でも偉い神様の国だから、粗相はするなとな」
テレシエール――タイオスと同年代か少し年下で、長めの茶色の髪をした男だった――は瓏草をくわえながらにやりとした。
「もとより、俺は不正に稼いでのうのうと暮らしてる連中をびびらせるために盗賊やってんだ。心配せんでも、平和にやってるところに手は出さん」
盗みの予告をして富豪や町憲兵隊を翻弄するという〈テレシエール一味〉の長は「たとえシリンドル王家にお宝が隠されていようと狙わない」と誓うと、気軽に手を振った。
「あと半刻も休んだら、俺たちはもう行くつもりだ。若い王様によろしくな、騎士サン」
そう言われたのは、タイオスだった。騎士呼ばわりに苦笑いを浮かべ、判ったと応じる。引き止めたい相手でもない。
「腕のことだったらアル・フェイルにいい医者がいるから紹介しようかとも思ったが、そういうのは必要なさそうだな」
「幸い、要らなさそうだ。気持ちだけ受け取るさ」
盗賊の意外な親切にやはり苦笑しながら、タイオスは左手を振った。
「俺の子分にも片手をなくした奴がいるんで、他人事じゃなく感じるのさ。もっとも、あんたは治療の段階をすっ飛ばしてるから、必要なのは医者より先達の助言かもしれんがね」
「そう言えばいたな、片手で巧いこと刀子を操ってたのが」
タイオスは思い出した。
「少し話でも聞かせてもらうかね。まあ、聞いてどうなるもんでもないだろうが」
結局は自分自身で身を以て覚えていくしかないのだ。ひと通り苦労をしたあとなら助言の意味も判るだろうが、いまの時点で聞いてもぴんとこないことが多いだろう。
「まあ、何なら紹介しておこう」
「頼む」
それでも聞いておいて損もない。タイオスはうなずいた。
――まずテレシエールたちと話をすると言ったのは、タイオス自身だった。
と言うのも、ハルディールや騎士たちは、まるで自分が腕を失ったかのような悲痛な表情を浮かべ、タイオスにかける言葉を見つけられずにいたからだ。
その反応は当然と言える。タイオスだって、もし彼自身ではなく、ハルディールやルー=フィンなどが同じことをやったとしたら、何を言ったものかと相当考え込むだろう。
だが当人としては、何と言うか、居心地が悪い。あんな顔を見せられたら、自分の葬儀にでも出ているかのようだ。
もちろん彼らは何も悪くないのだが、少し時間を置きたかった。それが互いのためになるだろうとも思った。
ただ、騎士たちのなかでも、アンエスカの様子は変わらなかった。珍しくも彼をねぎらいはしたが、それだけだ。あれにまで悲壮な顔をされたら、タイオスはとてつもなく困惑しただろう。その辺り、あれは伊達に年を食ってないな、などと戦士は感想を抱いた。
一方で、彼が話し相手に選んだ盗賊たちは実に気楽なものだった。事情を知らずタイオスを狂人のように言う者もいれば、話を聞いて納得し、すげえなあと単純に感心する者もいた。
ジョードはタイオスを心配したが、どうにかなるさと気軽に彼が言うのを信じることにしたと見えて、あまり気にする様子を見せなかった。
この大雑把さが、このときのタイオスには気楽だったのである。
「ところでジョード」
テレシエールとの話が一段落してから、タイオスは知人の盗賊――元、のはずだが――を振り返った。
「何があったか聞かせてもらえるか?」
「あー、まあ、いろいろと」
ジョードは頭をかいた。
「簡潔に言うなら」
隣にいたミヴェルが声を出した。彼女も最初はタイオスを気遣ったが、彼があまりにもいつも通りなので拍子抜けしたかのようであった。
「ジョードがしくじったので、逃げる必要があった」
「それはさっきも、ちらっと聞いたな」
ほかには、とタイオスは促した。
「俺が悪徳商人に騙されたんだよ」
仕方なさそうにジョードは語った。
「真面目に働いて貯めてた金を全部そいつにやっちまったんだ。儲け話を聞かされてな。美味い話にゃ裏があるってことくらい、俺は判ってたはずなのになあ」
自嘲するように彼は笑った。
「その商人はちょうど、俺たちの標的でな」
テレシエールが口を挟んだ。
「ジョードがどんくさいのは前に拾ったときに判ってたが」
「悪かったっすね」
「足を洗ったと言っても、かつての仲間だ。事情を知って損害分くらいは取り返してやろうと思ったのさ。ところがこいつが繰り返しヘマをして、俺と組んでるのがばれてだな」
「俺は、組んでるつもりはなかったんすけど!」
「逃げ出さざるを得なかったんだ」
間に挟まれた言葉を無視して、テレシエールが補足した。
「まあ、何となくは判った」
タイオスはうなずいた。
「真面目にやってたんだな」
「おうよ。……でもおっさんへの借金は、まだ返せそうにない」
「んなことは、気にすんな」
金はやったようなものだと思っているのだし、返せというのは半ば以上冗談と、あとはそう言っておけば消息が判ることもあろうかという程度の考えだ。
もとより、こんなところでこんな再会をするなどとは思ってもみなかったが。
「子供までできたそうじゃないか?」
ミヴェルに声をかけ、祝福の仕草をする。彼女はタイオスが見たことのない優しい笑みを浮かべ、礼を言った。
「そのこともあって、こっちにきたんだ」
ジョードはミヴェルを見た。
「おっさんの話によると、シリンドルってのはいい国だって」
「俺はちょっと滞在しただけだからな。妊婦や子育てにいいかどうかは知らんぞ。まあ、誰も彼も親切にはしそうだが。……ん?」
彼は目をしばたたいた。
「それじゃお前らは、シリンドルに住もうってのか?」
「長いこと放浪できる状態じゃないし、カル・ディアルかアル・フェイルに出る案もあるんだけど」
「正直、ここは豊かじゃないからなあ。楽には暮らせんだろう。仕事もそう選べるほどないだろうし……だが、陳腐なことを言うのであれば」
タイオスは口の端を上げた。
「たとえ貧しくとも心は豊か、ってやつだ」
「どっちも貧しいと、きっついからなあ」
ジョードは苦笑いを浮かべた。
「ま、ハルに話しておくさ。どっか空いてる家でもあれば、使わせてもらえるだろうよ」
「ちょ、ちょっと待てよ」
元盗賊は焦った。
「ハルって、王陛下だろ!? まさか、そこまでしてもらう訳には」
「何もそんなにびびることじゃない」
タイオスは気にするなと言ったが、ジョードは首を振った。
「またおっさんの世話になるのはちょっと」
顔をしかめてジョードは言った。
「妙なことを気にする奴だ。まあ、嫌なら余計なことは言わないさ。下手に世話になると、お前の方で出て行きにくくなるかもしれんしな。――ああ」
ふとタイオスは思い出した。
「ん?」
ジョードが促す。
「そう言や、赤ん坊抱えたおっかさんがいるはずだ。いや、そりゃどこにでもいるだろうが」
メリエーレのことを思い出した彼は、彼女を紹介するくらいなら悪くないだろうと思った。母ひとり子ひとりでは苦労もしているだろうから他人の面倒などは見ていられないだろうが、ジョードらに「世話」は要らない。助言でもあればそれで――。
(助言か)
自らの考えに、ふっと引っかかる。
(そうだな。助言や先達は、あるに越したことはない)
「おっさん?」
「ああ、いや」
何でもないと彼は手を振った。
「まあ、生活については言ったように判らんが、この国がいい国であることは確かだ。留まるも通り過ぎるも、お前らの好きにしたらいいさ」
彼は再び祝福の仕草をし、ふたりは礼を言って同じものを返した。