13 代償
戦士には確信できなかった。こんなものを見たのは初めてだ。人が死んだら魂がラファランに導かれるというのは、神を罵倒する彼にもごく自然に考えられる当たり前のことだったが、それでも目にしたことはない。
(ヴィロンの力か)
(それとも、ガキの)
どちらにせよ、それは彼のみならず、その場にいた誰もの目に映っていた。
もちろん、ヴィロンもだ。
「――まずい」
黒髪の神官は呟いた。
「引っ張られる」
その瞬間だった。ふうわりと宙に浮いた魂――だろうか――は、まるで突風に煽られたかのように吸い込まれた。
〈杭〉に。
「食った」
タイオスは呟き、ぞくりとした。
「黒い光を浴びながら命を落とした者は、みな、その柱に囚われる」
微動だにせず、子供は〈杭〉を指していた。
「例外はない」
「ふん」
タイオスは鼻を鳴らした。
「もっと簡単に言えよ」
「この黒く白い炎の内に、作り手の一部が逃げ込んだ」
「だからな」
戦士はきゅっと一本の剣の柄を握った。
「『ライサイはここだ』とでも言えってんだよ」
子供の示唆した、「お前はここだ」。それがいま、理解できた。
作り手。魔物の剣。そして神の加護を受けた戦い手。いまここに、それらが揃ったのだ。
しくじったら馬鹿みたいだなという気持ちも頭をかすめたが、確信もあった。
子供がほのめかしているのはこのことだ。
「空振ったら、間抜けだよなあ?」
口の端を上げ、少しだけ苦情を言うと、タイオスは右手に持った細剣に意識を集中し、思い切り体重をかけて、触れられなかったはずの〈杭〉を刺し貫いた。
響き渡った破裂音はあまりにも大きく、僧兵はもとより神官も騎士たちも王も、いや、屋内で何が起きているか判らぬまま祈っている者も、みな耳をふさいだ。
シリンドルだけではない。それはリゼンでもコミンでも、黒き太陽と黒き〈杭〉に恐怖と不安を押しつけられたどの町でも起こった。
割れた。
〈杭〉が。
そして、黒い太陽が。
「見ろ!」
指差したのは、誰だったか。
「太陽が」
彼らは見た。ハルディールも〈シリンディンの騎士〉たちも。イリエードもミュレンも。トーカリオンもサングも。シィナもラヴェインも。
そのとき薄暗い空を見上げた、ありとあらゆる人々が。騒ぎに気づいて、おそるおそる窓の外を眺めた者も。
みな。
「光が――」
「戻って、くる」
そのわずかな時間を宝玉のついた指輪のようだと記した文献があると言う。イズランはのちに、そんなことを話した。
だがそのような言い方をした詩人は少なくともその瞬間にはおらず、彼らはただ、急速に明るくなってきた空を見て歓喜を覚え、目が眩むのもかまわずに強い日射しを見つめた。刺すような痛みにいつまでもは耐えられなかったが、ぎゅっとまぶたを閉ざしながらも顔を上に向け、光と熱を吸収する草花であるかのように、両手を広げて空にかざした。
砕けた〈杭〉に気を取られた者のなかには、そこからたくさんの、或いは幾筋かの薄明かりが浮かび上がり、空に向かって飛び立っていくのを見たと言う者もいた。
シリンドルのような形で魔物を駆逐せんとしていたところもあれば、劣勢であったり、はなから戦わず、怯えているだけの町もあったが、この瞬間、残っていたソディエたちも全て終わったことを知り、前触れもなく姿を消した。
全ては、片づこうとしているかに見えた。
そのなかで――。
ひとりだけ、天を見上げないどころか、下を向いている者がいた。
光を取り戻すべく振るった剣を地上に落とし、これまでになく強い腕の痺れを覚え、左手で右腕を掴んで。
「タイオス!」
はっと気づいたハルディールが叫んだ。
「くそ……」
彼は歯を食いしばった。
エククシアの頭部をエククシアの剣で突き刺したとき、違和感を覚えたのだ。あれはよく似ていた。一度殺されかけた、ソディエの術に。
じわじわと強い痺れが上る。あのときよりもゆっくりと。しかし確実に。
まるで毒素が彼の身体を蝕もうとしているようだった。
触れられぬ〈杭〉を半魔にだけ扱うことのできる剣で破壊した。それは「人間」には強すぎる力。
たとえ神の加護を受けていても。
(冷たい)
(いや、もうそれも判らない)
(回ってくる)
(指先が、動かない)
(もう、肘も)
このまま――どうなるか。
目にした数々の氷像が、彼の脳裏に浮かんだ。
目にしていない、ひとつのものも。
『ヴォース』
ティエが呼ぶ。死んだ女が、笑っている。
(ああ、ティエ)
タイオスは瞳を閉じた。
(俺も、お前とおんなじように、そっちに行くのか)
そんなことを思った。
『馬鹿ね』
笑うような声が、感じられた。
『どうせなら諦め悪く、あがいてみたら』
彼女がそんなことを言ったのは、シリンドルの若者たちに触発されたタイオスが、まだ引退はしたくないなと呟いたときだ。
(そうだ)
(諦めるな)
彼は歯を食いしばった。
次に思い出したのは、くだらない話。酒の席での、与太話だ。
(体長五ラクトの毒蛇と戦った、とよくほらを吹いたな)
(話を大げさにするために、よく言ったもんだ)
(もしあのとき、蛇に噛まれていたら)
(毒を全身に回さないようにするために)
答えが、見えた。
「くれて、やるよ」
意志の力で腕から放した左手は、大地に落とした「神の剣」に伸びた。
「これで、いいんだろ?」
素早く――動きに気づいた天才剣士が走り寄ってとめる間もなく、まさに神速で振るわれた刃は、繰り返し見せてきた暴虐なる奇跡を繰り返した。
一刀両断。
戦士の右腕は、戦士の左手によって切り落とされた。
「タイオス! 何を」
誰より早く駆け寄ったルー=フィンは、ぼとりと落ちた戦士の腕を拾い上げようとして、目を見開いた。
「何」
それは瞬時に、砕け散ったのだ。
黒く染まりかけていた腕はその一瞬、太陽の光に反射するかのように光って、そして、溶けるように消えた。
まるで神が、その犠牲を受け取ったとでも、言うように。
「手でも足でも、切り落とすしか、なかったってな」
声にならぬ声で、戦士は与太話の続きを語った。
「――術師、神官殿! 治療を」
次にアンエスカが、負傷者が存在するというただ一点だけを考えに入れ、魔術師と神官の助力を要請した。
「私は治療師ではなく」
イズランは首を振った。
「驚くべきことに、治療師の必要はないです」
「何だと。だが」
「イズランの、言う通りだ」
そう言いたくはないが、と顔をしかめたのは当のヴォース・タイオスだった。
「神様のお慈悲ってところかね。痛みは一瞬だった。血も出てない」
彼は半ば反射的に剣を落とし、肩口を押さえていたが、その必要はなかった。ゆっくりとそこから手を放せば、その切り口からは、血の一滴すら出ていなかった。ヴィロンの業でもないことは、神官もまた目を見開いていることから明らかだ。
「妙な気分だな」
戦士は他人事のような目つきで、右手の消えた肩を見た。
「つまらん悪夢を見てるみたいだ」
「どう……どうして、そんな」
蒼白となってハルディールが尋ねた。
「なあに。いろいろ考え合わせてみたところ、神様が言ってたことが判ったのさ。『青竜野郎の剣を使えば、ライサイの残りと〈杭〉を打ち砕ける』とね」
燦々と降り注ぐ陽射しが眩しい。タイオスはそこで、空を見上げた。
「でも、ですが……う、腕は」
「凍るところだった。毒みたいなもんだ。全身に回らせないためには、これしかなかった。まあ、普通は」
彼は肩をすくめた。均衡が悪いな、と思った。
「自分で自分の腕を斬ろうったってこんなに巧くはいかん。と言うか、もちろんとんでもない痛みがあるし血も出るし、こんなふうに……何年も前の傷痕みたいにきれいになっちまうはずもないわな」
右側が軽い。実に、妙な気分だった。
「神様のご加護ってやつだ。なあ?」
そう言って彼は笑った。
笑ってみせた。
動じる彼らのためにも、自分自身のためにも。
(身体でも魂でも、くれてやると言ったさ)
(だが、これの方がきついかもな。利き腕のない戦士なんざ)
(――死んだ方がましかもしれん)
かと言って、死を選ぼうという気もなかった。
自分で決めておきながら衝撃を受けて死にたくなるなんて、ティエにもモウルにも叱られるに決まっている。
だがそれだけではない。
(代償だと、ガキは言った)
この状態で生きることこそが代償だ。
魔物の剣を使えば〈杭〉を砕けるということは、彼の思いつきでしかなかった。それだと確信が持てたのは、後押しがあったからのような。
誰かの。それとも、何かの。
(「俺」という人間を使わなければ〈峠〉の神はシリンドルを守れなかったが)
(〈白鷲〉という名の駒じゃない、俺自身の望みが)
(奇跡には、この事態を打破するために必要ならば何でも支払うと言った俺自身の決意が必要で)
(神はそれを望んでいたが、代償は必要で……)
(……判らん)
タイオスは考えることを放棄した。
「さあ、どうやら幻の夜とやらは終わった」
彼は手を叩こうとして、できないことに苦笑いした。
「いつまでもこんなところに突っ立ってたって仕方ない。もう戻ろうじゃないか」
空は青く、太陽は眩しい。
これでいいじゃないかと、片腕の戦士は踵を返した。