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幻夜の影―シリンディンの白鷲・3―  作者: 一枝 唯
第1話 灰色の影 第2章
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08 どうか、神様

 そっと欠伸をかみ殺せば、相手は見咎めた。

「どういう態度なのです、それは」

 青白い顔をした神経質そうな学者が頬をぴくぴくとさせた。

「是非にと請われて、出向いたのですぞ。私の講義が退屈で眠くなると仰るのであれば、帰らせていただきましょう」

「ち、違います、先生」

 彼は慌てた。

「これは、その、昨夜ちょっと遅かったもので」

「夜遊びでもしていたのですか」

「ち、違います」

 彼はまた言ってぶんぶんと手を振った。

「『ヤーズの神学』を読んでいたら、すっかり遅くなってしまって……」

「……ほう」

 学者は表情を緩めた。

「本当であるならば、立派なことです」

「嘘じゃありません。五章の、神の系譜までは読み切りました。六章にも入りたかったんですが、もう頭に入らないかと思って」

「ふむ。それならば、許しましょう」

 すっかり機嫌を直して、教師はうなずいた。

「私を呼んだのはちょっとした思いつきではなく、本気で勉学に励みたいということのようですね」

「そ、そうです」

 少し顔を赤らめて、彼は答えた。

「僕は、知らなければならないことが、たくさんあります」

「あまり、領主のご子息に必要な知識とも思えませんが」

 学者は正直に言った。

「自ら進んで学びたいと思う者に手を貸すことはメジーディスの教えにも適います。続けましょう、リダール殿」

「はい、先生」

 リダール・キルヴンは真剣な表情でうなずいた。

 キルヴン伯爵のひとり息子リダールが、父の土地、いずれは彼の町となるキルヴンに帰ってきたのは半月ばかり前のことだった。

 彼はもともとキルヴンで暮らし、首都カル・ディアにはたまに父に呼ばれて出向く程度だった。

 年代や立場――跡取り息子――からすれば、リダールはもっと頻繁に首都へ行くか、或いはさっさと帰らないで長く滞在し、様々な交流関係を密にすべきだ。地位身分ある大人たちとも、やがて彼と同じように爵位を継ぐであろう世代とも、つき合っておいて損はない。

 だがリダールは年齢の割に幼いところがあり、なおかつ消極的な性格をしていたため、同年代の快活な少年たちの輪に入ることができず、舞踏会の類に出席してもまるで「壁の花」であった。

 そんな彼にできた唯一の友人は、しかし十二歳の誕生日を迎える前に事故で死んでしまった。

 リダールは、死んだ友人を置いて自分だけが成長していくことに抵抗を覚えたかのように、内面にも外見にも、十八とは思えぬ子供っぽさを残していた。

 だが――。

 「死んだ友人が戻ってくるかもしれない」、そんな希望、それとも夢想に連れられてリダールが足を踏み入れた事件があった。

 〈青竜の騎士〉エククシアが少年を(いざな)い、彼はあの満月の夜、自身の肉体を死んだはずの友に貸し与えた。リダール自身はそのようなことになるとは思っていなかったが、とにかくリダール・キルヴンの身体には、彼の友フェルナー・ロスムの魂が宿った。

 戦士タイオスはリダールを救うために奔走し、ついにはリダールの身体はリダールだけのものに戻ったが、それは即ちフェルナーを「墨色の王国」と呼ぶ色のない世界に置き去りにしてくることをも意味した。

 リダールの身体を使って誤った復讐を企むフェルナーを救う手だてはそのとき見つからず、リダールは友人を見捨てた形になった。

 もっとも、フェルナーは六年も前に死んだのだ。その肉体はとうに存在せず、心だけがさまよう幽霊(ベットル)と変わりないと言える。

 ただ違うのは、ライサイと呼ばれる魔物が彼の魂を六年間保ち続け、リダールの身体に入れ込もうとしたこと。

 その辺りの詳細はリダールの知らないことだった。タイオスは大まかに彼に話したが、タイオス自身もよく判っているとは言い難かった。そうしたことに知識の深そうな魔術師たちでさえ、人外の技についてはほとんど判らないと言う。

 結果としてリダールは、死んだ友人の魂が冥界に行けずにこの世をさまよっているという点だけを持って各種神殿を訪れ、どうにか彼を救えないかと神官たちに相談をした。

 救いたかったのだ。彼は、友を。

 彼の身体を乗っ取ろうとし、拒絶した彼を裏切り者と罵ったフェルナーを。

 それでもフェルナーはリダールにとって、大事な友だちだったから。

 神官たちの反応はほぼ似たようなものであった。無理ではないが難しい、という辺りだ。

 死んだ魂は、冥界の精霊〈導きのラファラン〉によって大河ラ・ムールまで案内される。導きを受けないのは、あまりにも極悪非道な罪を犯した者などだ。ラファランが導かないのか導けないのかは諸説あるところだが、ともあれ、冥界へ行けなかった魂は語るも怖ろしき獄界の名なき精霊、〈闇のラファラン〉とも言われる存在に永劫の闇へと連れ去られる。

 だが稀に、どちらにも連れられずに残る魂もある。

 それはたとえば生への執着が強すぎて、たとえば恨みが深すぎて、ラファランの導きを拒絶して――拒絶できて――しまう者。

 そうした魂は、生者の前に気配を表すこともある。いわゆる、幽霊だ。

 神殿はその全てに救済が必要だと考えているが、なかなかどうして、難しい。幽霊は、生前のしがらみと無関係である神官の前には滅多に現れないからだ。

 なかには生者に乗り移り、身体を操る魂もある。そうしたものは神官が祓うことができる。しかし、祓われた魂が改めてラファランに迎え入れられるのかと言えば、必ずしもそうではないと言う。

 地表をさまよう内、魂は「薄く」なる。次の生へと向かうだけの力が足りなくなってしまうのだと。

 リダールは神官たちからそんな話をたくさん聞いた。

 どこにも希望の姿は見えなかった。

 しかし、彼らの知識はフェルナーのことに当てはまらないかもしれない。

 フェルナーは「さまよ」っていた訳ではないのだ。

 彼はずっと、いた。ほかに誰もいない、色のない、酷く寂しい、あの「墨色の王国」に。

「坊ちゃま」

 声をかけられてリダールは顔を上げた。

「……ああ、僕、うたた寝をしちゃった」

 学者が帰ったあと、書物の続きを読んでいたはずが、いつの間にか卓に突っ伏していたようだった。

「何だい、ハシン。もう夕飯?」

 リダールは、ずっと彼の世話をしてくれている初老の使用人に向かって問いかけた。

「いえ、お茶をお持ちしたのですが」

「有難う。濃いめに淹れてくれた?」

「はい、そのようにいたしましたが……」

 ハシンは渋面を作った。

「眠気を覚ますための茶をお飲みになるより、もう少し、しっかりお休みになった方がよろしいかと存じます」

「有難う」

 リダールはまた言った。

「でも、僕はもっとたくさん、知らなくちゃ」

 フェルナーを救う方法が見つからないのは、フェルナーの置かれている状況をきちんと把握できていないせいだ。彼はそう考えた。そうであればいいと考えた、と言うのかもしれない。

 冥界のこと、神のこと、死んだ人間の魂のこと、そうしたことが書かれている本をたくさん読み、詳しい学者に教わって、必ず何か方法を。

 それがリダールの考えていることだった。

 もう一度、友と笑い合える日がくるとは、思わない。そうであればいいとどこかでは夢見ているものの、たとえリダールが手を差し出しても、フェルナーがそれを取ることはないだろうと判っている。

 だが、救いたい。損も得もない。ただ、友を。

 それだけだ。

 彼の両親は、いささか畑違いとは言え、息子が勉学に精を出していることに喜んでいた。

 と言っても、リダールがこれまで怠けていたと言うのではない。ただ彼は、一生懸命やっても覚えが悪く、教師たちを落胆させてきた。

 それは「よい領主になるための勉強」をリダールが心のどこかで拒否していたせいかもしれなかった。死んだフェルナーを差し置いて自分だけが大人になり、爵位を継ぐことへの抵抗。

 しかしいまや、彼の内にその抵抗は存在しない。物覚えの悪さが生来のものであったとしても、リダールはそれを覆すようによく学んでいた。

(……どうか)

(どうか神様、力を貸してください)

 朝な夕なに彼は祈った。

(僕がフェルナーを救えるように……いいえ、そうじゃない)

(たとえ、僕のやってることがみんな無駄に終わったっていいんです)

(どうか、神様)

(フェルナーの救われる日が、あるように)


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